金色プライド

乃南羽緒

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第二章 遺した意思

30話 なんであのとき

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「あークソ」
 酒なんか二度と呑まねえ──と。
 朝風呂から出た家主は、濡れた髪もそのままにソファへころがった。深酒の翌日にかならず見られるこの光景に、初めのうちはレアショットだと写真を撮った世話役も、いまとなっては景観のひとつとしてスルーするようになった。
 しかし放置も過ぎるとこんどは機嫌を損ねるので、そこそこのタイミングで声をかけてやる必要がある。洗濯や朝食の片付けを終えてひと息ついた伊織は、水の入ったグラスを手に、ようやくソファでうなる大神のもとへ寄った。
「うちがここ来てから五回は聞いたで、それ」
「水……」
「はいどうぞ。ほら起きて、濡れ髪のままやとソファが痛むやんか。それに今日は朝から来客が」
「ドライヤーの音がうるせえんだ」
「アンタの短髪ならターボで五分かからんやろ。我慢しい!」
 もうッ、と言いながら伊織が自室から自身のドライヤーを持ってくる。
 のそりと身を起こす大神は「おおきな声やめろ頭にひびく」とうなだれた。まったく、先日このソファにすわって取材をうけていたクールな大神プロはいずこへ。このようすを動画にして天城と忽那に送りつけてやろうか──と伊織はちいさく舌打ちした。
 手のかかる幼稚園児をソファの下に座らせる。
「リハビリ休みでよかったね。ホンマにもう、ええ歳なんやからじぶんの許容量くらい把握しとかなあかんやろ」
「じぶんに限界をつくるのはよくないんだぜ」
「頭しばいたろかな、コイツほんま……」
 伊織は、ソファに腰かけた。彼の頭に荒々しく熱風をあてる。静音機能のついたドライヤーでたすかった。ふつうのモノならばきっとまた文句が出たことだろう。
「…………」
「…………」
 しばらくドライヤーの音だけがひびく。
 熱風にあおられ流れる栗色の髪は、スポーツマンらしく短く切られているが、さわるとやわらかな猫ッ毛が気持ちいい。伊織はこの感触を知っている。高校時代にもこうして彼の髪を乾かしてやったことがあったからだ。

 ──あれはたしか、愛織の葬式がおわった日の夕刻のこと。
 母親が亡くなってから伊織の特技は『空元気』になった。どれほどかなしくても、自分が泣いたら母や愛織がかなしむから、涙をながすのはやめようと決めていた。だから愛織のからだが骨になっても伊織は泣かなかった。の、だが。
 あの日、
「テニスをしよう」
 と大神がいった。
 葬式終わりにテニスなんてふざけてるのか、と伊織は怒った。しかし彼は引かなかった。河川敷沿いにある寂れたクレーコートに無理やり連れられて、問答無用にラリーをはじめたのである。
 それが彼のやさしさだと気づいたのは、ラリー中に伊織の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちたとき。
 いつしか夕空まで泣きだして、泣き声を隠すほどの大雨が降るなか、伊織はわんわんと泣いた。ネットを飛び越えて駆けてきた大神の腕のなかで、ただただ、泣きつづけた。
 一月の寒空の下、雨に濡れそぼったふたりはあわてて伊織の家へ帰り、風呂でからだをあたためた(もちろん入浴は別々だ)。それから、彼の髪を乾かしながら、伊織は亡き姉を想ってまた泣いたのだった。──

(あのころはもう少し長かったけど、頭のかたちは変わってへん)
 と。
 おもいでにひたる伊織の胸奥がむずがゆくなる。その感情をかきむしるように、乱雑にめのまえの髪を掻きまわす。ドライヤーのスイッチを切ってくしで梳かしてやると、彼はされるがままの状態で「なあ」とつぶやいた。
「ん?」
「おまえ、もうだいじょうぶなのかよ」
「なにが」
「……広島でのいろいろ」
 大神の声が低くなる。
 『いろいろ』とはいうがひとつしかあるまい。あー、と伊織は苦笑した。
「おかげさまで帰ってきてからもいろいろありすぎて、考えるひまもないくらいには充実させてもろてますよ」
「こっち来てから連絡はとってねえのか」
「なにを話すことがあんねん、いまさら」
「まだ好きか?」
「…………」
 くしを持った手が止まる。
 これまでされるがまま、うつむいていた大神がゆっくりと顔を上に向けた。互いの視線がからみ合う。彼の視線はむかしから逸らすことをしらない。この意志のこもった熱い視線が、たのもしく感じるときもあれば、いまのように気圧されるときもある。伊織はおもわず顔ごと逸らした。
「なんでそんなこと聞くん」
「気になったから」
「なんで」
「なんでって」
「どうでもええやん、そんなこと。大神に関係ないやろ」
 伊織は逃げようと立ちあがった。
 その腕をとられた。
「泣いたのか」
「え?」
「四年もいっしょにいた男に捨てられて、ちゃんと泣いたのかって聞いてんだよ」
「……な、」
 もしかすると彼もまた、ドライヤーの音で思い出したのかもしれない。あのときの伊織を。
 泣きたくないやん、と伊織はわらってうつむいた。
「イヤやんか。裏切られて、泣くなんて、みじめすぎるやろ。知ってるやろうけど昔から泣かんようにするのは慣れとんねん。空元気もつづけとるとホンマの元気になってくねんで、泣いとる暇があったら──笑とるほうが生産性あがるもん」
「でもあのときは泣いたじゃねーか」
 腕をつかむ手に力がこもる。
 伊織の胸がどきんと鳴った。彼のいう『あのとき』が、いつのことかを図りかねている。愛織のとき? 空港のとき?
 おもい返せば、伊織の涙の記憶にはいつだって大神がいた。
「『あのとき』なんて知らんよッ」
 伊織は、泣きそうな顔で大神をにらんだ。
「うちが泣くときは、いつもアンタに泣かされたんやんか。『あのとき』がいつどれのことかなんてわかれへん……」
「…………」
 大神は、腕をつかむ手はそのままに、逆側の手を彼女の頬に添えた。
 ふしぎなもので。
 彼に触れられると涙があふれてくるのである。いまもまた。
「そりゃわるかった」
 大神は、目だけで笑む。
 なんで、と伊織はくちびるをふるわせた。

「なんであのとき、キスしたん……?」

 問うと同時に涙がぽろりとこぼれた。
 十年間、ずっと引っかかった疑問。聞きたくなかった、聞かなくてもよかったはずのそのワケを、なぜだかどうして知りたくなった。
 一瞬、大神の顔が泣きそうにゆがむ。
 そして伊織からこぼれたなみだにくちびるを当てた。
「…………」
 見つめ合う。
 頬に添えた手を彼女の頭にまわす。引き寄せて、大神はやさしくキスをした。

 ちゅ、ちゅ、と啄むようなキスをくり返し、大神は筋のとおった鼻頭を伊織の鼻頭へすりあわせる。
 いよいよ伊織の目からなみだがあふれて、大神の鼻を濡らしてゆく。彼はかまわず、頬、耳、首筋へとキスを落とし、伊織の首もとに顔を埋めた。

「…………」
「…………」

 世界に。
 ふたりだけしかいないと錯覚する。
 十年前にぽっかり空いたいびつな穴が、じんわりと埋められゆく感覚と、首筋にあたる彼の吐息でからだが溶かされる感覚。
 伊織はいま、ただそれだけに身をゆだねた。
 やがて大神の手が伊織の腰にまわると、ゆっくり寝ころがされる。彼はズリズリとからだをずらし、甘えるように抱きついて、こんどは伊織のささやかな胸元へ顔を埋めた。
 トク、トク、トク。
 鼓動がきこえる。自分の。
 大神にもきっと聞こえているだろう。だって、こんなにも大きい──。

 ──。
 ────。
 時が経つにつれ、
(なんやこの状況)
 伊織はだんだん冷静になってきた。
 女という生き物はこういうときこそ、妙に冷静になるものである。
 それになにか、忘れていることがある気がした。なんだっけ。なにか──。
 
 ピンポーン。

 チャイムの音で伊織が飛び起きた。
 拍子に大神の頭が、にぶい音を立てて床にぶつかった。

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