金色プライド

乃南羽緒

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第一章 桜爛テニス部始動

12話 記者 天城創一

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 ──ねえ、試合しよ。
 ──伊織のプレー大好き。
 ──早よ起きんと。
 ──ほら、伊織。……

「ハッ」

 飛び起きた。
 目覚める間際に見た夢がフラッシュバックする。夢というよりいつかの記憶である。ため息をひとつこぼして、おそろしいほど寝心地のよい布団から抜け出しカーテンを開ける。オフィスビルの谷間に飛び交う鳥を見て、伊織はむんとひとつ伸びをした。
 
 リビングダイニングから音はない。
 どうやら家主は、となりのマスターベッドルームにていまだ就寝中らしい。むしろそうあってもらわねば困る。現在時刻は朝の五時。世話役を仰せつかった以上、家主よりあとに起きるのはまずいと考えた伊織の努力なのだから。
「…………」
 ここ数年の朝食は、基本和食だった。
 尾道向島にある民宿の離れにて元婚約者と同棲していた伊織は、それこそ毎朝早起きして義母(になるはずだった人)と朝食づくりに励んだ。これも一種の花嫁修業と考えて、眠い目をこすりながら四年間──。その修行がすべて無駄に、なったと思ったらおもわぬところで発揮されることになろうとは。皮肉なものだ、と伊織は嘲笑した。
 大神の好きなものはなんだっけ、と考える。
 おもえば、彼とは昔からテニスと部活の話ばかりだった。互いの好きなもの、苦手なものなどを語らう時間はあまりなかったようにおもう。
 冷蔵庫を開けた。驚愕。酒と水しか入っていない。
(あ、いや。そりゃそうか)
 一度家を出れば十ヵ月は戻らない住処に、食材を溜めておく方がどうかしている。しかしこれからしばらくは彼も日本から出ることはないのだ。今日さっそく買い物に行かねばなるまい。
「うーん。この時間から空いてるお店なんかないやろうし……ちょっと受付に聞いてみよか」
 と思い立って伊織は家を出た。
 朝の五時、マンション内には早朝特有の静けさがただよう。一階に降りてレセプションカウンターへ行くと、早朝五時だというのにパリッとスーツを着こなしたコンシェルジュが待機している。周辺の店を尋ねたついでにオススメの散歩コースも教えてもらう。礼を言ってマンションを出た。
 静かだ。
 都心だというのに、早朝の東京赤坂にはランニングや犬の散歩をする壮齢の人間がちらほらといるくらいで、ビジネススーツに身を包む人びとのすがたはほとんど見ない。
 あまりに静かなので伊織はふと今朝の夢を思い出す。
 向けられたやわらかな笑みと、じぶんをやさしく起こす心地よい声色。ずっとむかしに手放したあたたかな光──。
「…………」
 伊織はバチッ、とおのれの顔を両手で叩く。
 コンビニでパンと卵、野菜、ベーコンなどの加工食品を購入して帰路につく。街路樹のあいだから射し込む木漏れ日を見て、今日からの放課後練に想いを馳せた。

「ただいまー」
 小声で家に上がる。
 エントランスから玄関ホールをあがったところで、濡れ髪でパウダールームから出てきた大神とばったり鉢合わせた。頭にタオルをかけ、腰にバスタオルを一枚巻いただけのすがたに、伊織はおもわず荷物片手にがっくりと膝をつく。
(居候二日目にしてラッキースケベ(?)──いやそんなフラグいらんがな)
 おそろしいことにまだ午前六時十分前である。どれだけ早起きなんだこの男、とふたたび顔をあげると、先ほどより至近距離に大神が立っていた。無論、腰巻バスタオル一枚で。
「なっんやねん!」伊織は飛びずさった。
「おかえり──買い物か。荷物貸せ、キッチン持っていく」大神はかまわず買い物袋へ手を伸ばす。
「いやいやいやいいからいいから、その前にはよ服着てや。ていうかフツーあれちゃうの? 金持ちの風呂上りって白いバスローブとか着るんちゃうの? ていうか」
 ていうか。
「あン?」
「…………なんでもない」
 伊織は耳を赤らめてうつむいた。
 世界ランカーの鍛え上げられた筋肉美に、不覚にも欲情しかけたことはぜったいに言うまい。大神はフン、と鼻をならして、けっきょくそのままの恰好で荷物をキッチンへ持っていった。
(動揺するな。あれは壁。あれは壁)
 内心で、意味のわからない呪文を唱えながらリビングダイニングへゆくと、大神はすでにスウェットを履いていた。上半身はいまだに裸だが、下さえ着ていればとりあえずは安心である。
 おはよう、と大神はタオルで頭を拭きながら言った。
「え? あ……おはよ」
「冷蔵庫なにもなかったろ」
「せや、せやからすぐそこのコンビニ行ってきてん。いまのコンビニって野菜でもなんでも売ってんのね。便利な世の中やわ」
「ふうん。──よお」
 と、大神がつぶやいた。
 そのままキッチンで料理をはじめる伊織の背後に近づき、ぐっと口を彼女の右耳に寄せた。

「さっきの『ただいま』ってのは、ぐっときた」

「っ」
 つぎの瞬間、伊織がふたたびその場に頽れる。
 耳元にささやかれた声色のあまりの甘さにおどろいて腰が抜けたのだ。なんだ。どこからどういう感情で出したんだその声。伊織はサニーレタスを片手に肩をふるわせた。
「だいじょうぶか?」
「うううるさいなあッ。あんま不用意に近づかんといてくれます? 包丁使うとったらあぶないんで! これがサニーレタスやのうて包丁やったらいまごろ刺しとるわ」
「……クク。わるかったよ」
 大神は小気味よくわらってリビングダイニングのソファへと戻ってゆく。
 猛烈に沸いた羞恥心と殺意がせめぎ合う心中をなんとか抑えて、伊織は手早く朝食づくりにとりかかった。

 ────。
 大神の一日はいそがしい。
 怪我をしたとはいえ基本的なトレーニングは欠かさないし、テニス界トップスターが帰国したことでテレビや雑誌のインタビュー取材の依頼が殺到しているのである。とはいえ、彼もそれらすべてを受け付けるつもりはないらしい。いまはなにより怪我の快復につとめるのがプロの務めと考えているからであろう。
 一個くらい受けたらええのに、と伊織が茶化すと、大神は一冊の雑誌を指さした。
「そいつのは受けるつもりだ」
「? 月刊テニスプロ──って、インターハイ優勝のときインタビュー来た雑誌やん。なつかしい、まだ続いてんねや」
「雑誌のコンセプトが俺好みだし、なによりその記者。いい記事を書く」
 と言われて気がついた。
 雑誌に一枚の名刺がついている。
「記者、天城創一。……あまぎそういち?」
 名刺に落とした視線をゆっくりと大神へ。彼はまるで好好爺のような目で伊織を見つめ、紅茶をすする。伊織はもう一度さけんだ。
「天城創一⁉」
「ああ。な、信頼できるだろ」
 どうやら今日の午前中に、近くのカフェで打ち合わせがあるという。
「おまえも来るか」
「い、行く!」

 と。
 伊織が興奮する理由が、彼──天城創一にある。
 十年前、王者に君臨する桜爛大附高校を下した大神率いる才徳学園は、当時黄金世代と呼ばれ、例年にないほど選手が育っていた。それはひとえに大神の指導あってこそだが、そもそもひとりひとりに素質が備わっていたことも大きい。
 大神の同級にはジュニア大会で好成績を収めた者もいたし、倉持だって、大神に次ぐナンバー2の実力保持者であった。
 その黄金世代レギュラーメンバーのなか、ひときわ大神を尊敬し追いかけた選手がいた。
 大神世代の一学年下。
 大会の選手登録では八番手として補欠にいたものの、大神引退後の才徳テニス部部長を引き受け、二年生では実力を伸ばして二番手までのぼりつめた努力家──それが、天城創一その人なのである。
 引退、卒業してからおよそ十年。
 大神はオフのたびに毎年一度は会っていたそうだが、伊織はもちろんそれ以来の再会となる。ともにテニスをした期間はおよそ一年間と短かったものの、伊織にとってその一年はこれまでの十年よりよほど濃かった。
 それは、彼もおなじだったようで。

「えっ。ええ~ッ」

 待ち合わせ場所のカフェにて。
 大神とともにあらわれた伊織を見るなり、天城は顔を真っ赤にしてヨロヨロと席にへたり込んだ。
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