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第五章 島民たち
だれかの英雄
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なにが起きたかなど聞くまでもない。
うなだれた男の腕に抱かれたエマの顔は、死人と見紛うほどに蒼白い。沢井のとなりでロビー入口を見張る響の表情が、初めて焦燥に変わった。
「エマ!」
「響さん──すみません。おれがついていながらエマを守れず、感染を」
「薬は」
「…………」
そうか、と響がつぶやく。
屋上で起こったことをかいつまんで説明したのは、佐々木と名乗る男だった。沢井は初対面だが存在には聞き覚えがある。一文字玉枝殺害事件の聞き込みで、倉田真司について証言した人事課長の男だ。
うなだれる男──菅野という──は、響とおなじ七十年前の人間ということだが、その憔悴っぷりを見るかぎり、エマに特別な感情を抱いていたらしい。
響は意外にも明るい声で「落ち着け」とわらった。
「新母体が一枚上手だったということです。母体をころす方法なら、きっとまだなにかあるはずだ。エマの感染についても、──」
「だって薬がないんですよ。母体をころせばエマも死ぬ、もうどうしようもない!」
「落ち着けと言ったはずだ、菅野。真司さんや杉崎たちがなにか掴んだことがあるかもしれない。佐々木さん、真司さんかもしくは和真と連絡とれますかな」
「あ──真司さんならとれます。和真くんも、エマさんの携帯が使えるならいけるかも!」
「とにかく現状を報告して、なにか打開策を相談しましょう。悲観に暮れるはそれからでもいい」
という響に、菅野は涙を隠すためかロビーをうろつき、佐々木ははりきって倉田とコンタクトを試みる。その横で、沢井は気を失っているエマの顔を見た。
「エマが──アンタのことを自分の英雄だと言ってた。分かる気がするよ」
「エマが? ……それは」
逆だな、といった響の顔は、おどろくほど情けないものだった。
「おれにとっちゃ英雄なのは彼女の方だ。彼女が何度も、おれに諦めないことを教えたんです。だからいま、おれがもっとも諦めちゃいけねえ場面なんですよ。まあ、若干心は折れそうですが」
と苦笑する響。
その袖を、クンとひっぱる影がある。なんだとふたりで視線を落とすと、見知らぬ子どもがそばに寄ってきていた。先ほど、響に助けられた少年である。
アキラと名乗った少年は、泣きそうな顔でエマを覗き込む。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「あ。ああ、ちょっと頑張りすぎたんで休んでるだけだ。すぐによくなる」
「がんばれェ、お姉ちゃん」
「…………」
響が顔を伏せる。
大丈夫だ、と沢井はよく通ると自慢の声を張った。
「この姉ちゃんはそう簡単に負けやしねえ。坊主、おまえさんは二階にいる避難者たちに、なんも心配いらねえと声かけてきな。ぜったいにこのおじさんたちが守ってやるからってよ」
「おじさん何者?」
「なにを隠そう俺は警察だ。なっ。だから、大丈夫だから」
「警察なの? スッゲエ! じゃあぜったい大丈夫じゃん!」
みんなに言ってくる、と少年が階段を駆け上がる。
沢井の声におどろいて戻ってきた菅野が、その背中を目で追った。その表情に先ほどの落胆はもうない。
「──ぜったい大丈夫、だってサ」
「うれしいもんだな。信頼されてら」
「彼にとっちゃ貴方が英雄ですね」
響はククッとわらう。
菅野もにやりと笑んだ。
大丈夫──これは自分たちに向けたことばである。そうだ、まだ負けてはいない。倉田文彦が継いできたように、自分の意思が未来でも途切れぬかぎりは勝負はつかぬものである。
「連絡つきました!」
佐々木がさけんだ。
どうやら、連絡がついたのは倉田真司の方らしい。響が代わる。電話の奥から聞こえた彼の声は、確固たる決意を秘めたものであった。
※
すこし時はさかのぼる。
ロイと倉田で開けた、開かずの扉。
地下空間にしてはひんやりと冷たい空気に身ぶるいしながら、ゆっくりと足を踏み入れる。この冷気は、四軍人が寝ていた部屋を思い出す。
七十年の空気だろうか。
カビ臭さと埃っぽさに顔をしかめて周囲を見回す。しかしこうも暗くては観察のしようもないな──と頭を掻いたときである。
ロイくん、と倉田の声が張りつめた。
彼の視線の先をたどる。
だんだんと暗がりに慣れてきた視界に飛び込んだのは、椅子に座るひとりの男。
「!」
身構えた。
ボサボサの長い髪の毛に隠れてその顔は見えにくいが、どうやら男はうたた寝をしているようで胸元がわずかに上下する。
倉田が毛をかき分けて顔を見ると、死人のごとき青白い顔色に厚ぼったいまぶたと精悍な眉。男の軍服から陸軍人のようだが、どこを見ても名札はない。
「この部屋、七十年間空いてないって言ってたよな──真司さん」
「そうだ、鍵がなかったからな。でも……じゃあこいつは七十年ずっとこの部屋にいたってことになる。しかも中からは開けられないようになってた。いったいなんのためにここに閉じ込められてたんだ?」
「起こしちゃマズイかな」
と、ロイが男に手を伸ばす。
その温度に反応するように、男の眉がぴくりと動く。それからゆっくりと目が開いた。
「お、起きた──」
「気を付けろよロイくん。こんなところに七十年、飲み食いも年も取らずに、低い室温で眠ってたってことは感染者にちがいねえ。俺たちが入ったことで室温が変動したから起きたんだ」
という倉田の心配をよそに、男はぼうっとこちらの顔を見つめたまま動かない。七十年眠ったままだったのか、とはいえ四軍人が寝かされていた部屋ほど冷えてはいないところを見ると、動きは鈍くとも生きてきたのか──。
ロイは「あの」と声をかける。
だんだんと意識がはっきりしてきたようで、男の瞳に光が戻った。
「あ。……」
「わかりますか。自分の名前」
どこかで聞いたセリフだ、とロイは唇を噛む。
男は一瞬きょとんとしてから、こちらを交互に見て「あ」とまたつぶやく。低く掠れた声だった。
「──井塚。井塚憲広」
「いっ」
「井塚憲広?!」
名前はよく聞いた。
しかし彼はすでにこの世からいなくなったものと思っていた。まさか、七十年ずっと封印されていた部屋にいたとは。倉田はハッと背筋を伸ばした。
「じ、自分は……貴方の部下である倉田文彦の息子、倉田真司と申します。父のこと、覚えておいでですか」
「倉田──」
井塚は無表情のまま何度もうなずいた。
やはり、寝起きの状態も四軍人とは異なる。意識ははっきりとして、紙や髭の伸び方も身体の動きも七十年眠りつづけていたとは思えないものだった。目が慣れきったか周囲のようすも見えるようになった。研究室のような部屋で、木でできた机と椅子、周囲には膨大な紙が積まれている。
内容は地雷や爆弾についての記載が多い。仕入れ記録や火薬の配合量など──およそ製薬会社の積荷、研究記録ではない。
七十年経ちました、という倉田の声で、ロイの視界はふたりにもどる。
「文彦も先年鬼籍に入りまして、自分ももう、五十を過ぎてます」
「…………」
「なにがあったのか、これからどうすればいいのかを、お聞かせ願えませんか。いま一刻を争っています。島の人間が、俺のなかまたちがどんどん感染しているんです。おねがいします助けてくださいッ」
「……感染」
井塚が反応した。
どうやらこの男、もともと無口なタチらしい。それでも九十度に頭を下げる倉田を見て、井塚はそばにある資料を手当たり次第拾い上げた。
そのうちの一枚を、ずいと倉田に差し出す。
「これは」
「成増の手記」
「あ」
視線を落とす。
ロイも彼の肩越しに覗き込んだ。暗くてぼんやりとしか見えないが、成増の字は楷書体のように綺麗だったので読むに不足はない。
ずいぶんと長い手紙であった。
『井塚
全ての幕引きを整へた。協力に感謝ス
今後は先日伝へた通りに動くつもりだが、
これが実行されなんだ場合は俺が死んだと思へ
以下万一の為、何時かの英雄達へ告ぐ
母体及び感染者という脅威から母国を護る為には、弱点である火焔を利用し細菌を宿主もろとも焼き付くしてしまうことである。パイロットの如き母体感染者については、経験則に基づく推測に於て、母体の意思あらずば活動停止も可能であると考える。
先の戦にて余った砲弾や大量火薬を仕入れ、即席爆弾を研究室地下に仕掛けた。火力は心許ないが焼却室のガス燃料を巻き込めば多大な爆発も見込めるはずである。
研究棟に母体及び感染者を隔離、地下爆弾の爆破に巻き込み、周囲十キロほどを火炎で焼き尽くす。これが母国侵略を防ぐための、現時点における最善の方法であると考える。────』
「……こ、これが成増さんの考えた幕引き」
倉田は戸惑った声で井塚を見る。
当初はそうだった、と彼はうなずいた。
うなだれた男の腕に抱かれたエマの顔は、死人と見紛うほどに蒼白い。沢井のとなりでロビー入口を見張る響の表情が、初めて焦燥に変わった。
「エマ!」
「響さん──すみません。おれがついていながらエマを守れず、感染を」
「薬は」
「…………」
そうか、と響がつぶやく。
屋上で起こったことをかいつまんで説明したのは、佐々木と名乗る男だった。沢井は初対面だが存在には聞き覚えがある。一文字玉枝殺害事件の聞き込みで、倉田真司について証言した人事課長の男だ。
うなだれる男──菅野という──は、響とおなじ七十年前の人間ということだが、その憔悴っぷりを見るかぎり、エマに特別な感情を抱いていたらしい。
響は意外にも明るい声で「落ち着け」とわらった。
「新母体が一枚上手だったということです。母体をころす方法なら、きっとまだなにかあるはずだ。エマの感染についても、──」
「だって薬がないんですよ。母体をころせばエマも死ぬ、もうどうしようもない!」
「落ち着けと言ったはずだ、菅野。真司さんや杉崎たちがなにか掴んだことがあるかもしれない。佐々木さん、真司さんかもしくは和真と連絡とれますかな」
「あ──真司さんならとれます。和真くんも、エマさんの携帯が使えるならいけるかも!」
「とにかく現状を報告して、なにか打開策を相談しましょう。悲観に暮れるはそれからでもいい」
という響に、菅野は涙を隠すためかロビーをうろつき、佐々木ははりきって倉田とコンタクトを試みる。その横で、沢井は気を失っているエマの顔を見た。
「エマが──アンタのことを自分の英雄だと言ってた。分かる気がするよ」
「エマが? ……それは」
逆だな、といった響の顔は、おどろくほど情けないものだった。
「おれにとっちゃ英雄なのは彼女の方だ。彼女が何度も、おれに諦めないことを教えたんです。だからいま、おれがもっとも諦めちゃいけねえ場面なんですよ。まあ、若干心は折れそうですが」
と苦笑する響。
その袖を、クンとひっぱる影がある。なんだとふたりで視線を落とすと、見知らぬ子どもがそばに寄ってきていた。先ほど、響に助けられた少年である。
アキラと名乗った少年は、泣きそうな顔でエマを覗き込む。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「あ。ああ、ちょっと頑張りすぎたんで休んでるだけだ。すぐによくなる」
「がんばれェ、お姉ちゃん」
「…………」
響が顔を伏せる。
大丈夫だ、と沢井はよく通ると自慢の声を張った。
「この姉ちゃんはそう簡単に負けやしねえ。坊主、おまえさんは二階にいる避難者たちに、なんも心配いらねえと声かけてきな。ぜったいにこのおじさんたちが守ってやるからってよ」
「おじさん何者?」
「なにを隠そう俺は警察だ。なっ。だから、大丈夫だから」
「警察なの? スッゲエ! じゃあぜったい大丈夫じゃん!」
みんなに言ってくる、と少年が階段を駆け上がる。
沢井の声におどろいて戻ってきた菅野が、その背中を目で追った。その表情に先ほどの落胆はもうない。
「──ぜったい大丈夫、だってサ」
「うれしいもんだな。信頼されてら」
「彼にとっちゃ貴方が英雄ですね」
響はククッとわらう。
菅野もにやりと笑んだ。
大丈夫──これは自分たちに向けたことばである。そうだ、まだ負けてはいない。倉田文彦が継いできたように、自分の意思が未来でも途切れぬかぎりは勝負はつかぬものである。
「連絡つきました!」
佐々木がさけんだ。
どうやら、連絡がついたのは倉田真司の方らしい。響が代わる。電話の奥から聞こえた彼の声は、確固たる決意を秘めたものであった。
※
すこし時はさかのぼる。
ロイと倉田で開けた、開かずの扉。
地下空間にしてはひんやりと冷たい空気に身ぶるいしながら、ゆっくりと足を踏み入れる。この冷気は、四軍人が寝ていた部屋を思い出す。
七十年の空気だろうか。
カビ臭さと埃っぽさに顔をしかめて周囲を見回す。しかしこうも暗くては観察のしようもないな──と頭を掻いたときである。
ロイくん、と倉田の声が張りつめた。
彼の視線の先をたどる。
だんだんと暗がりに慣れてきた視界に飛び込んだのは、椅子に座るひとりの男。
「!」
身構えた。
ボサボサの長い髪の毛に隠れてその顔は見えにくいが、どうやら男はうたた寝をしているようで胸元がわずかに上下する。
倉田が毛をかき分けて顔を見ると、死人のごとき青白い顔色に厚ぼったいまぶたと精悍な眉。男の軍服から陸軍人のようだが、どこを見ても名札はない。
「この部屋、七十年間空いてないって言ってたよな──真司さん」
「そうだ、鍵がなかったからな。でも……じゃあこいつは七十年ずっとこの部屋にいたってことになる。しかも中からは開けられないようになってた。いったいなんのためにここに閉じ込められてたんだ?」
「起こしちゃマズイかな」
と、ロイが男に手を伸ばす。
その温度に反応するように、男の眉がぴくりと動く。それからゆっくりと目が開いた。
「お、起きた──」
「気を付けろよロイくん。こんなところに七十年、飲み食いも年も取らずに、低い室温で眠ってたってことは感染者にちがいねえ。俺たちが入ったことで室温が変動したから起きたんだ」
という倉田の心配をよそに、男はぼうっとこちらの顔を見つめたまま動かない。七十年眠ったままだったのか、とはいえ四軍人が寝かされていた部屋ほど冷えてはいないところを見ると、動きは鈍くとも生きてきたのか──。
ロイは「あの」と声をかける。
だんだんと意識がはっきりしてきたようで、男の瞳に光が戻った。
「あ。……」
「わかりますか。自分の名前」
どこかで聞いたセリフだ、とロイは唇を噛む。
男は一瞬きょとんとしてから、こちらを交互に見て「あ」とまたつぶやく。低く掠れた声だった。
「──井塚。井塚憲広」
「いっ」
「井塚憲広?!」
名前はよく聞いた。
しかし彼はすでにこの世からいなくなったものと思っていた。まさか、七十年ずっと封印されていた部屋にいたとは。倉田はハッと背筋を伸ばした。
「じ、自分は……貴方の部下である倉田文彦の息子、倉田真司と申します。父のこと、覚えておいでですか」
「倉田──」
井塚は無表情のまま何度もうなずいた。
やはり、寝起きの状態も四軍人とは異なる。意識ははっきりとして、紙や髭の伸び方も身体の動きも七十年眠りつづけていたとは思えないものだった。目が慣れきったか周囲のようすも見えるようになった。研究室のような部屋で、木でできた机と椅子、周囲には膨大な紙が積まれている。
内容は地雷や爆弾についての記載が多い。仕入れ記録や火薬の配合量など──およそ製薬会社の積荷、研究記録ではない。
七十年経ちました、という倉田の声で、ロイの視界はふたりにもどる。
「文彦も先年鬼籍に入りまして、自分ももう、五十を過ぎてます」
「…………」
「なにがあったのか、これからどうすればいいのかを、お聞かせ願えませんか。いま一刻を争っています。島の人間が、俺のなかまたちがどんどん感染しているんです。おねがいします助けてくださいッ」
「……感染」
井塚が反応した。
どうやらこの男、もともと無口なタチらしい。それでも九十度に頭を下げる倉田を見て、井塚はそばにある資料を手当たり次第拾い上げた。
そのうちの一枚を、ずいと倉田に差し出す。
「これは」
「成増の手記」
「あ」
視線を落とす。
ロイも彼の肩越しに覗き込んだ。暗くてぼんやりとしか見えないが、成増の字は楷書体のように綺麗だったので読むに不足はない。
ずいぶんと長い手紙であった。
『井塚
全ての幕引きを整へた。協力に感謝ス
今後は先日伝へた通りに動くつもりだが、
これが実行されなんだ場合は俺が死んだと思へ
以下万一の為、何時かの英雄達へ告ぐ
母体及び感染者という脅威から母国を護る為には、弱点である火焔を利用し細菌を宿主もろとも焼き付くしてしまうことである。パイロットの如き母体感染者については、経験則に基づく推測に於て、母体の意思あらずば活動停止も可能であると考える。
先の戦にて余った砲弾や大量火薬を仕入れ、即席爆弾を研究室地下に仕掛けた。火力は心許ないが焼却室のガス燃料を巻き込めば多大な爆発も見込めるはずである。
研究棟に母体及び感染者を隔離、地下爆弾の爆破に巻き込み、周囲十キロほどを火炎で焼き尽くす。これが母国侵略を防ぐための、現時点における最善の方法であると考える。────』
「……こ、これが成増さんの考えた幕引き」
倉田は戸惑った声で井塚を見る。
当初はそうだった、と彼はうなずいた。
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