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第五章 小此木と彰
最悪の事態
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ロイは冷や汗をぬぐう。
目の前に立つ男、どこかで見た顔だった。そう、倉田家で写真の整理をしていたとき、エマが怯えた写真の男──艦上機パイロットである。
なぜこんなところに、とか、宮沢の怯える理由は、とか。聞きたいことはたくさんあるが、となりでふらつく倉田の方が心配だった。
背後にある旧棟入口の扉がはげしく揺れる。
先ほど、倉田が昏倒させたはずの感染者が暴れる音らしい。そう簡単に破られるとはおもえないが、この状況はさながら前門の虎、後門の狼といったところか。
とにかく倉田を守らねばならぬ。
庇うように前に立ち「やっと会えたな」と虚勢を張った。
「アンタが例のパイロットだろ。写真で見たよ」
ガァン、と外からの殴打音が響く。
パイロットの男は微笑みすら湛えて、こちらを見下ろしている。よく日に焼けているためわかりづらいが、なるほどたしかに顔立ちがハーフだ。
「初めましてですね、倉田真司さん」
「当然のごとく俺のこと知ってんなァ。……」
「おい、さっきこの人を吹っ飛ばしたのはなんだよ。アンタの仕業か?」
「気付かなかったのか。貴方たちのお仲間でしょ」
といって、彼はわずかに身を避ける。
彼のうしろに控えていたふたりの影が見えた。
「お、小此木と彰!」
「気付かなかったのかってなぁどういうことだッ」
「どうもこうも──あのボンクラな研究者がようやく成功させたってことですよ。母体移管研究をね」
「母体移管、って」
言いかけた倉田を手で制し、男は小此木を見つめてわずかに口角をあげた。瞬間、小此木はガッと叫び、倉田に飛びかかった。
とっさにロイが前に出る。
が、すぐさま男は小此木の頭を掴み、引き倒した。床に転がった哀れな下僕はふたたび立ち上がると、男と視線を交わしたのち、何事もなかったかのように彰のとなりに落ち着いた。
「な、…………」
「操ったのか、アンタが?」
「旧母体は意思が貧弱でした。あれでは到底、軍隊を率いることなど出来やしない」
「軍隊を率いるって──この国に軍隊なんかねえ。あったところでそんな必要もないだろう!」
「話にならないな。俺が言う軍とは、腐敗兵で構成された不死の兵隊のことです。他国に攻められようものなら、いまの日本じゃ一日も持つまい。とはいえ仮説は実証を得てこそ成り立つもの──この島は実験場にはちょうどよいのです」
実験だと、とロイの声がふるえる。
「なにする気だよ!」
「まだふたつ実証すべきことが残っている。ひとつは、二次感染の際に腐敗せずに持ちこたえられる感染力を有しているか。もうひとつは、母体指示のもとしっかりと敵を見定めることができるか──」
パイロットは、筋肉質の見た目にそぐわぬ理知的な物言いでそこまで述べると、やがて倉田とロイを見てわらった。
「今日は帰省ラッシュのようですね」
「え、?」
「うん、兵隊候補には申し分ない」
「兵隊候補…………ま、まさか」
倉田の顔がサッと蒼くなる。
おなじくロイも気がついた。先ほどボートでの航海道中で倉田が懸念していた『休暇縮小』ということば。そのことか、とロイが背後に立つ彼に視線を向けようとした矢先、あることに気付いた。
入口扉が妙に静かなのである。
「…………」
胸がざわつく。
とっさに扉を開けて、外を見た。先ほど伸したはずの感染者のすがたはない。微かに建物裏手から音がする。張り巡らされた有刺鉄線を揺らすような、ひきつるような音──。
ロイは建物から飛び出して裏手にまわる。
まもなく、その姿を見つけた。有刺鉄線に身体中を刺されようが意にも介さず、男はたくましく登りきる。
ぐるりと顔だけをこちらに向けてにたりとわらうや、男は柵の向こう側へと飛び降りた。
「おい、嘘だろ──」
おもわず漏れた絶望の声。
感染者が野に放たれた。
これから大量の島民が帰ってくる向こう側には、彼らの住居や一般棟がある。そこにはいま、エマもいるというのに。
背後で倉田がクソッ、と頭を抱える気配がする。
「あのクソヤロウやりやがった。帰省してくる島民全員、感染させる気だッ」
これまでになく、最悪の事態である。
※
臨時の定期便が到着したのは、ぼたんが連絡をしてからきっかり十五分後のことであった。
船はめずらしく満員運航だったようで、朝便とは嘘のように賑わいを見せている。
「どうもお疲れさま」
「かえってきたぁ!」
「夕飯、簡単なものでいいよね?」
上陸する家族連れから沸き立つ声。
微笑ましくすらあるその光景を横目に、エマは乗船するべく待機する警察の面々に視線を移す。
「あの、今日はどうもご苦労さまでした」
「こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました。さっきの話を踏まえて捜査を進めますから。もしまた男が現れたら、ひとりでなんとかしようとせずすぐに連絡ください」
と、立花は携帯番号の書かれた紙を渡してきた。気疲れしたが、なんだかんだ警察が味方になるとホッとするもので、エマは頬を綻ばせる。
「おねがいします」
「それじゃあ沢井さん、行きましょう」
「──立花と寺田は先に戻れ」
「え?」
と、聞き返したのはエマだった。
やっと警察の目がなくなって落ち着けるとおもったのに、という気持ちが顔に出る。対する立花と寺田はあっさりうなずき、二度ほどエマへ会釈してから船に乗り込んだ。
本気で残るつもりらしい。
まだなにかあるんですか、とエマは本音のこもった声色で聞き返す。
「倉田さんにもう少し話を聞こうとおもってな。なに、さっきの男の件は立花たちが戻り次第すぐに手配するよ」
「そ、…………」
そんなことを聞いているんじゃないのに。
とは言えない。エマは明らかに落胆した顔で「どうぞごゆっくり」と肩をすくめた。
ふたりで、波止場から十五分ほど先にある一般棟への道をゆく。道中、さぞやお通夜のような雰囲気になるだろうとうんざりしたエマだったが、意外にも彼は強面の面からは想像できぬほど軽妙に話を振ってくれた。
とくに楽しかったのは、これまで逮捕した犯人のなかで一番の笑い者の話であろうか。嘘がつけぬ性格が仇となり、当日のアリバイを聞く段階でうっかり自白した大たわけだった、と沢井は小芝居を交えながら話した。
単純なもので、すっかりなついたエマである。一般棟につくころには日々の大学生活を話すほどになっていたのだが──。
「エマちゃんッ」
と。
一般棟から飛び出してきたぼたんによって、その時間は終わりを告げた。エマの腕にすがり付くその身体を受け止めきれず、足がよろめく。
それを沢井がしっかりと抱き留めた。
「あ、ありがとう沢井さん。どうしたのぼたんさん、そんなにあわてて」
「いけない──いけないわ。島民を島にあげてはだめだった。ダメだったのよ」
「まって。落ち着いてよぼたんさん、いったいなにがあったの?」
と、尋ねてみる。
しかしぼたんの顔はみるみるうちに青くなり、やがてその場に倒れてしまった。
「ぼたんさん!」
「貧血かもしれねえな。足をあげて、顔を横に向かせよう」
「は、はい」
言われたとおり、沢井とともにぼたんの身体を動かした矢先、ぼたんが凄まじい力でエマの腕を掴んだ。
ギリ、と指が皮膚に食い込む。
「ぼたんさ」
「エマちゃん」彼女はエマの言葉をさえぎった。
「おねがい──」
「え?」
「鍵を、……鍵をさがして」
その言葉を最後に、ぼたんは気を失った。
いまの意味わかるか、と沢井が顔をあげる。しかしエマに心当たりなどない。
分かるとすればあの人か、とエマはぼたんを沢井に託し、一般棟に向かって駆け出した。
目の前に立つ男、どこかで見た顔だった。そう、倉田家で写真の整理をしていたとき、エマが怯えた写真の男──艦上機パイロットである。
なぜこんなところに、とか、宮沢の怯える理由は、とか。聞きたいことはたくさんあるが、となりでふらつく倉田の方が心配だった。
背後にある旧棟入口の扉がはげしく揺れる。
先ほど、倉田が昏倒させたはずの感染者が暴れる音らしい。そう簡単に破られるとはおもえないが、この状況はさながら前門の虎、後門の狼といったところか。
とにかく倉田を守らねばならぬ。
庇うように前に立ち「やっと会えたな」と虚勢を張った。
「アンタが例のパイロットだろ。写真で見たよ」
ガァン、と外からの殴打音が響く。
パイロットの男は微笑みすら湛えて、こちらを見下ろしている。よく日に焼けているためわかりづらいが、なるほどたしかに顔立ちがハーフだ。
「初めましてですね、倉田真司さん」
「当然のごとく俺のこと知ってんなァ。……」
「おい、さっきこの人を吹っ飛ばしたのはなんだよ。アンタの仕業か?」
「気付かなかったのか。貴方たちのお仲間でしょ」
といって、彼はわずかに身を避ける。
彼のうしろに控えていたふたりの影が見えた。
「お、小此木と彰!」
「気付かなかったのかってなぁどういうことだッ」
「どうもこうも──あのボンクラな研究者がようやく成功させたってことですよ。母体移管研究をね」
「母体移管、って」
言いかけた倉田を手で制し、男は小此木を見つめてわずかに口角をあげた。瞬間、小此木はガッと叫び、倉田に飛びかかった。
とっさにロイが前に出る。
が、すぐさま男は小此木の頭を掴み、引き倒した。床に転がった哀れな下僕はふたたび立ち上がると、男と視線を交わしたのち、何事もなかったかのように彰のとなりに落ち着いた。
「な、…………」
「操ったのか、アンタが?」
「旧母体は意思が貧弱でした。あれでは到底、軍隊を率いることなど出来やしない」
「軍隊を率いるって──この国に軍隊なんかねえ。あったところでそんな必要もないだろう!」
「話にならないな。俺が言う軍とは、腐敗兵で構成された不死の兵隊のことです。他国に攻められようものなら、いまの日本じゃ一日も持つまい。とはいえ仮説は実証を得てこそ成り立つもの──この島は実験場にはちょうどよいのです」
実験だと、とロイの声がふるえる。
「なにする気だよ!」
「まだふたつ実証すべきことが残っている。ひとつは、二次感染の際に腐敗せずに持ちこたえられる感染力を有しているか。もうひとつは、母体指示のもとしっかりと敵を見定めることができるか──」
パイロットは、筋肉質の見た目にそぐわぬ理知的な物言いでそこまで述べると、やがて倉田とロイを見てわらった。
「今日は帰省ラッシュのようですね」
「え、?」
「うん、兵隊候補には申し分ない」
「兵隊候補…………ま、まさか」
倉田の顔がサッと蒼くなる。
おなじくロイも気がついた。先ほどボートでの航海道中で倉田が懸念していた『休暇縮小』ということば。そのことか、とロイが背後に立つ彼に視線を向けようとした矢先、あることに気付いた。
入口扉が妙に静かなのである。
「…………」
胸がざわつく。
とっさに扉を開けて、外を見た。先ほど伸したはずの感染者のすがたはない。微かに建物裏手から音がする。張り巡らされた有刺鉄線を揺らすような、ひきつるような音──。
ロイは建物から飛び出して裏手にまわる。
まもなく、その姿を見つけた。有刺鉄線に身体中を刺されようが意にも介さず、男はたくましく登りきる。
ぐるりと顔だけをこちらに向けてにたりとわらうや、男は柵の向こう側へと飛び降りた。
「おい、嘘だろ──」
おもわず漏れた絶望の声。
感染者が野に放たれた。
これから大量の島民が帰ってくる向こう側には、彼らの住居や一般棟がある。そこにはいま、エマもいるというのに。
背後で倉田がクソッ、と頭を抱える気配がする。
「あのクソヤロウやりやがった。帰省してくる島民全員、感染させる気だッ」
これまでになく、最悪の事態である。
※
臨時の定期便が到着したのは、ぼたんが連絡をしてからきっかり十五分後のことであった。
船はめずらしく満員運航だったようで、朝便とは嘘のように賑わいを見せている。
「どうもお疲れさま」
「かえってきたぁ!」
「夕飯、簡単なものでいいよね?」
上陸する家族連れから沸き立つ声。
微笑ましくすらあるその光景を横目に、エマは乗船するべく待機する警察の面々に視線を移す。
「あの、今日はどうもご苦労さまでした」
「こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました。さっきの話を踏まえて捜査を進めますから。もしまた男が現れたら、ひとりでなんとかしようとせずすぐに連絡ください」
と、立花は携帯番号の書かれた紙を渡してきた。気疲れしたが、なんだかんだ警察が味方になるとホッとするもので、エマは頬を綻ばせる。
「おねがいします」
「それじゃあ沢井さん、行きましょう」
「──立花と寺田は先に戻れ」
「え?」
と、聞き返したのはエマだった。
やっと警察の目がなくなって落ち着けるとおもったのに、という気持ちが顔に出る。対する立花と寺田はあっさりうなずき、二度ほどエマへ会釈してから船に乗り込んだ。
本気で残るつもりらしい。
まだなにかあるんですか、とエマは本音のこもった声色で聞き返す。
「倉田さんにもう少し話を聞こうとおもってな。なに、さっきの男の件は立花たちが戻り次第すぐに手配するよ」
「そ、…………」
そんなことを聞いているんじゃないのに。
とは言えない。エマは明らかに落胆した顔で「どうぞごゆっくり」と肩をすくめた。
ふたりで、波止場から十五分ほど先にある一般棟への道をゆく。道中、さぞやお通夜のような雰囲気になるだろうとうんざりしたエマだったが、意外にも彼は強面の面からは想像できぬほど軽妙に話を振ってくれた。
とくに楽しかったのは、これまで逮捕した犯人のなかで一番の笑い者の話であろうか。嘘がつけぬ性格が仇となり、当日のアリバイを聞く段階でうっかり自白した大たわけだった、と沢井は小芝居を交えながら話した。
単純なもので、すっかりなついたエマである。一般棟につくころには日々の大学生活を話すほどになっていたのだが──。
「エマちゃんッ」
と。
一般棟から飛び出してきたぼたんによって、その時間は終わりを告げた。エマの腕にすがり付くその身体を受け止めきれず、足がよろめく。
それを沢井がしっかりと抱き留めた。
「あ、ありがとう沢井さん。どうしたのぼたんさん、そんなにあわてて」
「いけない──いけないわ。島民を島にあげてはだめだった。ダメだったのよ」
「まって。落ち着いてよぼたんさん、いったいなにがあったの?」
と、尋ねてみる。
しかしぼたんの顔はみるみるうちに青くなり、やがてその場に倒れてしまった。
「ぼたんさん!」
「貧血かもしれねえな。足をあげて、顔を横に向かせよう」
「は、はい」
言われたとおり、沢井とともにぼたんの身体を動かした矢先、ぼたんが凄まじい力でエマの腕を掴んだ。
ギリ、と指が皮膚に食い込む。
「ぼたんさ」
「エマちゃん」彼女はエマの言葉をさえぎった。
「おねがい──」
「え?」
「鍵を、……鍵をさがして」
その言葉を最後に、ぼたんは気を失った。
いまの意味わかるか、と沢井が顔をあげる。しかしエマに心当たりなどない。
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