落ちこぼれの半龍娘

乃南羽緒

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第十四章

74話 禍津陽は翳る

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 天沢。
 と、ふたたび聞こえてきたのは水緒の手元からだった。
 月子に伏せていた顔をゆるりとあげて水緒が首をもたげる。手中にあるのは、さきほど石窟で拾ったちいさなカケラ。
 ──天沢!
 また、聞こえた。
「……だいち」
『天沢、おれだ。大地だよ。聞こえるか?』
 すこしこもったような声だが、たしかに聞こえる。片倉大地の声。
 水緒は、ちいさなカケラのなかに映し出された彼の顔を見た。途端、じんわりと視界が濁る。
 あ、なみだ。
 と思った瞬間から、水緒の瞳からはとめどなく雫がこぼれた。何度、何度ぬぐってもそれはとどまることを知らずに、乾いた頬を濡らしだす。
 いまさ、と彼は声をはずませた。
『水守さんにお願いして、いっしょに湖を渡ってるんだ。白月丸もいるぜ』
「…………」
『みんなで天沢を迎えに行こうって。最初はすげえ反対されてたんだけど、美波さんも後押ししてくれてさ』
「…………ち」
『もうすぐつくから。だから』
「だいち」
『……────、え?』
 細く掠れた声だった。
 それでも大地は聞き取って、カケラに耳を寄せる。
 あたし、と水緒はからだをふるわせた。
「…………できるかな」
『天沢?』
「──こんな、よわい。……あたしでも」
 龍になれるかなぁ。
『…………』
 カケラの向こうで大地は口をつぐむ。
 水緒のうしろで見守る阿吽龍も、苦しそうに顔を伏せた。龍の使命が彼女にとって枷であるかぎり、龍にはなれない。なったところで、水守のように野良へと変わってしまうかもしれない。
 しかし大地は破顔わらった。
 なに言ってんだ、とカケラの奥で身を乗り出している。
『なれるに決まってんだろ』
「…………」
『龍のなかでいちばん優しい龍になれるよ。おまえ』
「……で、も」
『それになんたって、俺がついてる』
「…………」
『大丈夫だから。はやく試練に合格して帰ってこいよ』

 笑顔で言いきった彼を前に、水緒のなかでなにかが切れた。これまで胸のうちでくすぶっていたモノが、その瞬間から身体中を駆け巡る。
 これまでに感じたことのない気力が水緒を支配した。身体がむずむずして、水緒はゆっくりと上体を起こす。
 ──からだが、熱い。
 阿龍と吽龍は目を見開いた。
「み、水緒さま」
「おからだが」
 全身が熱い。
 顔、手足、からだすべてが焼けつくようだ。
 ざわざわざわ。ざわざわざわ。
 周囲の木々がざわめく。花も、草も、空気までもが歓声をあげている。水緒は顔を手のひらで抑えると、たまらず池に飛び込んだ。
 次の瞬間。
 轟、と池から龍が一匹たち昇った。激しい水しぶきが阿吽龍を襲う。しかしその水を受けるふたりの表情は、これまでにないほどに輝いた。
「水緒さまが──」
「龍に!」
 綺麗だ。
 月白色の毛並み、群青色の大きな瞳がうっとりするほどうつくしい。
 つつじヶ池の周囲を二周ほどできそうな長い身体をくゆらせて、その龍は池の中央にとぐろを巻いた。
 その雄大な姿に、阿吽龍はよろこびのあまりにうち震え、池のほとりに腰を抜かす。
「嗚呼──」
 嗚呼。嗚呼!
 龍は涙を流さぬという。が、阿吽龍の双眸は泉を湛えた。また、月白色の龍の左目からもぽろりと一滴、涙がこぼれる。
 滴は池の真中に落ちた。
 波紋が広がる。池の縁に届いた波紋はやがて渦を巻き、すべてを呑み込みだした。
 池の水、地面、草や花。
「吽龍、景色が──」
「ああ……」
 ほとりに横たわる姉弟の死体、そのすべてが轟々と音をたてる渦の中へと引き込まれ、やがて世界は闇に包まれる。
 唯一の灯りは、暗闇にぽっかりと浮かぶ、不気味なほど煌々と輝く赤黒い太陽であろうか。
「これが、禍津陽──」
 阿龍はつぶやいた。

 渦に呑まれた世界に残ったのは、月白色の龍と阿吽龍。そして──池の跡、暗闇のなかにぽつんと立つひとの祠であった。
 屋根は朽ちて見る影もなく、祠の扉は、すでに開いていた。中から覗く宝珠の欠片から、息苦しいほどの穢れを感じる。
「見つけた、……」
「水守さまの、最後の──カケラ」
 ぜえ、と阿吽龍は息を切らした。
 月白色の龍──水緒を見る。
 龍は首を下げた。
 カケラに頬を寄せて、群青色の瞳をまぶたで隠す。途端、穢れが龍を包み込んだ。
「水緒さま!」
「穢れが──」
 阿吽龍はさけんだ。
 しかし月白色の龍は、まるで会話をするようにカケラに寄り添ったままうごかない。
 時の感覚は失われ、いったいどれほどの時間が経過したのか分からぬまま、阿吽龍は静かに見守ることしかできなかった。

 不思議なことが起きた。
 徐々に、水緒を取り巻いたはずの穢れが消えてゆくのである。カケラから湧きだす邪気が、水緒に触れるや、まるで水が気化するように霧散してゆく。
 その光景に、阿龍は見とれた。
「これはいったい」
「……浄化しているんだ」
 吽龍はつぶやいた。
 ぱた、と。
 水緒の瞳から、また、ひと雫の涙がこぼれた。落ちゆくはカケラの上へ。
 水が、染み込んだ。
 これがきっかけだった。
 これまで幾百年と抱えてきたすべての穢れを吐き出すように、カケラからとめどなく邪気が噴出しはじめたのである。
「うわっ」
 阿吽龍は咄嗟にうずくまる。
 対して水緒は、轟、と空へ吠えた。同時に勢いよく空へと飛びたち禍津陽に牙を剥く。水緒の声に呼応して、赤黒い光をはなつそれを覆いかくすように、たちまち黒雲が立ち込めた。
 陽が、翳る。

「…………あ」
 阿龍が頬に手を当てた。
 雨?
 ふたりは、闇深い空を見上げた。
 いつの間にか禍津陽のすがたは消えて、一面の黒雲からぱたぱたと水滴が降り落ちてくる。
 するとどうしたことだろう。
 カケラから噴き出た邪気が、たちまち水によってかき消えてゆくではないか。
「あ──阿龍」
 吽龍は、ふるえる手で阿龍の肩を引き寄せた。
「浄化の雨だ」
「…………あ、嗚呼」
「水緒さまが、浄化の雨を降らされた──!」
「嗚呼!」
 阿龍の身体がうち震える。
 ふたりは、互いに抱き合った。

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