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30 もう笑える過去の話

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 痛む手のひらには、爽快感すら感じた。
 元婚約者と妹の驚いた顔が目に映る。

 驚くのも無理はない。
 彼らの中にいる侯爵令嬢のラウレナは、こんなことは絶対にしないだろうから。
 でも、ラウレナはもう知っているのだ。

『俺を利用しようという思惑が透けてる奴らの話なんて聞くだけ無駄だ』
 ――ええ、そうねゲオルク。その通りだわ。

『自分のことしか考えていない奴らのために、どうしておのれを曲げねばならない』
 ――まったくもってその通りだわ!

『楽しくないではないか』
 ――そうよ、そんなのちっとも楽しくないわね!


「馬鹿にするのもいい加減にしてちょうだい!」

 腹の底から声を張り上げたら、ついでにフンッ! と大きく鼻息まで抜けた。

「ラ、ラウレナ……?」

 腕を組んでの仁王立ちで見上げたら、アイオスが信じられないような目で見てくる。さすがにラウレナの平手打ちで騎士である彼を張っ倒すことはできなかったが、真っ赤に腫れあがる頬の手形を見ればいくばくか溜飲が下がるというものだろう。

「愛していると言えば、私が喜んで尻尾振って帰ると思っているのよね!? でもそう思わせた私にも責任はあるから、そこは謝るわ、ええ。ごめんなさいね!?」
「……それは謝ってねぇなぁ」
「ゲオルクは黙っていて!?」

 律義にも下から聞こえた指摘には目をくれることなく一喝し、目の前のアイオスを真っすぐ見据えた。
 そうすれば彼はたじろいだようにわずかに下がる。それも当然だ。このようにラウレナが面と向かって物申すことなど今まで皆無だったのだから。

「そ、それは誤解だ……私はただ、また君に傍で見守っていてほしくて……」
「あなたの言う見守るって、以前のようにアイオスのためだけに聖力を使いまくってくれってこと? それは見守るのではなく、ただ奴隷のように尽くせということよ!?」
「ア、アイオス!?」

 もはや敬称すら付けてやる必要もない。
 呼び捨てたラウレナを前に本人はひどく驚愕しているが、当然のことだ。

「そんなこと言わないでくれよ……!」

 思うように絆されないラウレナの強い意志をようやく理解したのか、焦った様子でアイオスが手を伸ばしてくる。
 腕を掴まれる、と思ったそのときだった。

 パァンッ!

 ラウレナの身体は突然障壁のような光に包まれて、アイオスの手をはじいたのだ。

「――っ!?」

 強く拒絶するような音に違わず、光はラウレナに触れようとした手を痛めつけたらしい。アイオスの顔は明らかな苦痛に歪み、手の先からは赤い血が滴っていた。

「今の、なに……?」
「はははっ! カーバンクルの加護か!」
「え、もしかしてあのときの!?」

 下でゲオルクが至極愉快そうに笑っている。
 森で番のカーバンクルを助けた際に加護をもらったななどと言われたが、本人はすっかり忘れていた。

「伝承も案外眉唾ではないかもしれないな。元婚約者は見事にラウレナに害なす者として判断されたらしいぞ!」

 額の宝石が『身を守ってくれる』とも言い伝えられているカーバンクルから授かった加護が発動したということは、つまりそうなのだろう。

「そう、害……ふ、ふふっ」

 なんだかラウレナまで可笑しくなってきてしまった。

 アイオスの存在だけが心の支えであった瞬間は、確かにあった。
 家族との不仲に居場所を失っていたラウレナにとっては、彼との未来だけが希望であったのだ。

 だからこそ、言われるがままに聖力を使った。怪我をしようものなら大小問わずすぐに治してあげたし、ラウレナに実感はなかったが、浴びるように聖力を受けていたアイオスにはきっとゲオルクのいう祝福とやらもあったのだろう。
 現にラウレナが婚約者であった頃、彼は間違いなく誰しもが認める次期騎士団長候補として輝いていた。

 そんな婚約者が自慢であったし、彼との結婚に夢をみていた。
 だがそれは、彼と結婚さえすれば幸せになれると盲目的だったともいえる。

 ときめくような台詞は何度も言われたが、アイオスから「愛してる」なんて言葉は一度として出なかったのだから、それがすべてなのだろう。

 フィーネにはあれほど簡単に囁いていたというのに。
 ラウレナは彼にとって出世の道具だったに過ぎないのだ。必要なのは聖力だけ。

 目を背けずに現実を見れば、答えはなんとも明瞭である。
 しかも、今やカーバンクルのお墨付きとなった。
 
「私はもう、あなたの顔なんて見たくもないわ」

 彼にそんな価値はないのだ。
 だって彼の顔を見ていても、ラウレナはもはや、ちっとも楽しくないのだから。

 清々しい気持ちで言い切るラウレナとは対照的に、これまで従順だった相手の思わぬ態度に、最初こそアイオスは怯んでいた。だがその感情は苛立ちへと転じたらしい。
 
 憎らしそうに口元を歪めて視線を険しくしたかと思うと、あろうことか彼は帯剣していた剣の柄に手をかけたのだ。
 仄暗い瞳に嫌な予感がする。

「そんな言い方はらしくないよ、ラウレナ」

 聞こえた声も、ひどく冷たいものであった。

 あ、と思った次の瞬間には銀色の光が目の前で煌めき、同時にゲオルクに腕を引かれた。 
 下がった勢いで尻餅を着いてしまい、口からは情けない呻き声が出たのだが――その声は金属同士がぶつかり合う耳障りな音に掻き消される。

 視線を上げれば大剣を構えるゲオルクと、その正面で剣を合わせるアイオスがいた。

「相手が言うことをきかなければ、剣を抜くのか。次期騎士団長と噂の令息はとんだ男だなぁ」
「うるさい! 黙れ、お前になにがわかる!」

 飄々としたゲオルクとは反対に、美形が台無しになるほどの怒りに顔を醜く変えたアイオスが叫ぶ。
 
「この俺が下手に出てやってるんだぞ!? こいつは今まで通り黙って言うことを聞いていればいいのに……! 俺が傍にいてやると言うんだから素直に喜べばいいだろう!」
「ふはははは! そうか、それが本音か! 面白いが胸糞も悪い男だな!」
「貴様――っ!」

 いつものように豪快に笑い声をあげるゲオルクに煽られたとでも思ったのか、頭に血がのぼった様子でアイオスが何度も剣を振って斬りかかる。
 だがそのたびに易々と弾かれ、激しい火花だけが飛び散った。

 必死の形相となっていくアイオスと、何度斬りかかられても大したことない顔で……なんなら片手でも防げそうなゲオルクとの力量の差はラウレナが見ても明らかであった。

(アイオスの剣は、こんなものだったかしら……?)

 過去に憧れたアイオスは、次期団長候補として騎士の中でも抜きん出た実力を持っていたはずだ。その姿は見るものを圧倒し、ラウレナ自身何度となく胸をときめかせていたのだから間違いない。

 ゲオルクがかなりの実力者ということを差し引いても、以前と比べて今のアイオスは、なんというかどうにもこうにも霞んで見える。

(もしかしたらこれが、聖力による加護を失ったということなの?)

 昔は毎日のように聖力による治癒を求められ、求められるだけ尽くしてきた。浴びるように聖力を受け続けたことにより成り立っていたのが、あの自信に満ちた眩いアイオスだったのだろうか。
 今の姿が本来の彼だというのであれば、確かにカーバンクルの逸話に縋ってしまう気持ちも多少はわかる。……だとしても決して容認などできないが。

 必死で剣を振るアイオスには以前のような自信も、人を惹きつける圧倒的な剣技もまるで見当たらない。
 ラウレナが戸惑っている間に、彼は目の前でゲオルクに弾き飛ばされてしまった。

「ひどい剣だ」

 それも、明らかに相手をすることに飽きたという顔をしたゲオルクに。

「――っ、……っ!」

 みっともなく伏せるアイオスは、何事かを叫ぶように何度か口を開いたが、ついぞ言葉は出てこなかった。

「さて、そろそろ船が出てしまうな。行くか!」
「え!?」

 こんな最低な空気の中、ゲオルクはいつもの調子でラウレナを担ぎ上げる。
 そうして、すっかりアイオスに放っておかれている妹のフィーネを振り返った。

 彼女は腰を抜かしたように地べたに座りながら、まるで信じられないと言わんばかりの顔でゲオルクとその肩の上のラウレナを見上げていた。

「そういえば返事だがな、悪いが最初からお断りだ」
「……え?」

 ポカンとした姉妹の声は見事に重なった。
 返事とは? と問う前になおもゲオルクが言い募る。

「俺のご主人様はラウレナだからな。それに……さすがにあれを咥えた口はちょっと……」

 チラリと地面に這いつくばるように伏せるアイオスを見て、そしてフィーネの顔をまじまじと不躾に見ながら口にした彼の言葉が意味することを考えて――ラウレナは思わず口元を押さえた。

「……ぶふっ」

 でないと今にも大きく噴き出してしまいそうだったから。

「まがりなりにも人の婚約者を悪く言うのもなんだが、あれは本当に騎士としてもしょうもない男だと思うぞ。うん」
「待って、ゲオルクはっきりと言いすぎ……っ」
「いや、そういえばちゃんと断りの返事をしていなかったなと思ってな」
「そっちじゃなくってぇ!」

 変に律義なゲオルクとその言い様に我慢ならず、ラウレナはついに肩を震わせた。

「ま、そういうことだ。だが安心しろ、しょうもない同士お似合いではある。じゃあな!」
「ふふっ、なんのフォローにもなってないわね! あははっ!」

 言うなり駆けだしたゲオルクと、ラウレナの笑い声が響いた。
 まとわりついてくる過去をバッサバッサと斬り捨ててくれるゲオルクの、なんと清々しく楽しいことだろう。

 後ろから「俺はどうすればいいんだ!」などという情けない声が聞こえてきたが、返事は決まっている。

「そんなの知らないわ!」

 生まれて初めて腹の底から笑いが止まらなかった。
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