レベル596の鍛冶見習い

寺尾友希(田崎幻望)

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番外編

鍛冶見習い番外編 バルパ・タイレリアという梟雄1

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(※バルパ・タイレリアは、ジェルおじさんの妻、ヨーネ妃&ヌール妃の父親で、前話に出てきたヤイチの祖父です)




 カーラとバルパ・タイレリアが出会ったのは、カーラが25、バルパが38の時だった。
 カーラ・フリントコーンとの出会いは、最悪と言って良かった。
 確かに、美しい女だとは思った。バルパは今まで数多くの美女を見てきたが、その中にあっても頭一つ抜けている。
 けれど、その身に纏うのはドレスでも打ち掛けでもなく、泥に汚れた作業着、緩やかなウエーブを描く黄金の髪は、無造作に纏められて。化粧っ気のひとつもなく、日に焼けるのを気にした風もない。周りを、同じように汚れた老人達に囲まれて。
 かといって労働階級の村娘か、というとそうでもなく。明らかな知性と品格。富裕層の娘か――おそらく、貴族。
 バルパは不快に顔を歪めた。
 バルパは、貴族というものが好きではない。
 増して、高貴なる義務ノブリスオブリージュとかいうものを掲げた、偽善に満ちた貴族は。
 カーラは、バルパが買い上げ、遊戯施設を建設しようとしていた土地の開発反対派の旗頭だった。


 バルパ・タイレリアは、デントコーン王国の隠れ里に産まれた。
 お庭番、というわれる国お抱えの隠密組織。その甲家副頭目がバルパの父だった。副頭目とはいっても、頭目は表の爵位を賜り貴族として王城に出仕しているため、里の長はほとんどバルパの父と言って良かった。
 その次男に産まれながら、バルパにはほとんど魔力がなかった。スキル構成にも隠密として有用なものはなく、それは本人がいくら努力したところで如何ともしがたいものだった。
 父も兄も、バルパを恥だと言った。
 甲家も乙家も、お庭番は国のために存在する。国のために働けないのなら、存在価値はない。家族に疎まれ、里の者に見下されて。
 結果として、隠密となったバルパに回されたのは、捨て駒同様の任務ばかりだった。
 一度目は生き残った。二度目も、三度目も。
 けれど、次は? 次の次は?
 自分の生は、捨て駒となるためにあるのか?
 それでも、自分だけのことならば諦めもついた。
 バルパの父には多くの妻がいて、さらに多くの子どもがいた。バルパと母を同じくする五つ年下の妹もまた、魔力とスキルに恵まれなかった。
 このままでは、妹もまた、バルパと同じ道を辿る。
 バルパは、妹と共に里を抜ける覚悟を決めた。
 しかし、隠密は秘されているからこその隠密。赤子ならまだしも、一度でも任務に携わった者が、里から抜けることは許されない。強行すれば、家族同様だった里の者に殺されるまで狙われ続ける死の追いかけっこだ。
 自分一人ならば、里を抜ける目もなくはない。
 バルパの任務は、命の危険があるものが多い。死体すら残らぬ死に様を偽装出来れば、追われることもないだろう。
 けれど――幼い妹を連れて逃げるのは至難だった。未だ任務に就いていない妹と、バルパが共に死んで死体も残らないような状況を作り出せないまま、月日は経った。例え逃げられても、生きているとバレていれば子連れは目立つ。あっという間に狩られてしまうだろう。
手をこまねいている内に――妹の姿が、見えなくなった。
 どこへ行ったのか、探さなければ。そう慌てるバルパに、表情の抜け落ちた顔で、母親が告げた。

「あの子は、任務に就いたのよ」

 唖然とした。妹は、まだ十にもならない。任務に就くには早すぎる。
 父に逆らえない母では、話にならない。
 普段は話すこともない長兄の元へ行き、父と妹がどこへ行ったのか必死に尋ねた。煩わしそうにする兄に、取りすがって返答を請うた。

「ロッタにしか出来ない任務が来たんだ。光栄に思え」

 光栄。
 それはつまり、国王陛下直々の指示が来たということ。
 現国王エクシード一世は、王位継承順位のさほど高くない公爵家から本人の能力を買われて成り上がった立身伝の人として、国民や貴族に高い人気がある。
 しかしその本性は、手段を選ばない野心家だというのが、バルパの見立てだ。
 何しろ、バルパの父親は、公爵家の頃よりのエクシード一世の子飼いだ。エクシード一世が昔から重宝していた忠実な手下てかを、お庭番甲家を飼い慣らすための楔として、副頭領の一人娘の婿へと権力尽くでねじ込んだわけだ。バルパの父がいかに横暴でも、母に手を上げる人でなしでも、背後にそびえる国王の陰におもねり、逆らえる者は誰もいない。
 バルバの父は、父として夫としては失格者だったが、国王の臣下としては非の打ち所のない忠義者だった。国王の命ならば、好きでもない女と婚姻し、敵愾心を向ける隠密達を手懐け、己の首さえ差し出すような。
 その父に、まだ幼い妹が連れて行かれた……厭な予感しかない。けれど、バルパには、父の行方も妹の行方も追う術はなかった。

「ロッタは、見事にお役目を果たしたぞ」

 半月ほどして、父は一人で帰ってきた。
 無造作に母に渡されたのは、ロッタがいつも髪を括っていた紐。
 ――形見。
 遺骨どころか、遺髪ですらない。
 声もなく崩れ落ちる母からは、父を糾弾する言葉一つなかった。
 父はぐい飲みに酒を注ぎながら、上機嫌でしゃべり始めた。

「ロッタは見上げた忠義者だ。種族特性もない無能に産まれたが、命を懸けて大御所様の憂いを晴らして差し上げた。隣国に、大御所様に逆らう不届き者がいてな……」

 父の説明を、バルパは聞いていられなかった。
 六十を過ぎた老人の野心のために、十にもならない子どもが死ぬ。それが忠義かと食ってかかった。

「この不忠者が! 気でも狂ったか!」

 杖で何度も打ち据えられ、バルパは血を吐いて土間に這いつくばった。

「ロッタはな、大御所様に逆らう不届き者を単身成敗し、全てに口をつぐんで処刑されたのだ。大御所様の指示だなどとは一言も漏らさずにな。我が娘ながらなんと天晴れな散り様か。お庭番たるもの、かくあるべきという全き誉れよ。その死を嘆くことは、ロッタの誉れに泥を塗る行為だと何故分からん! 兄ならば喜べ、讃えろ!」

 普段どんなに用心深い要人でも、式典などで無防備に子どもを近づけることはままある。
 十にもならない子どもに、人を殺させたのか。
 ロッタは、人を殺して処刑されたのか。
 あまつさえ、尋問までされたのか。
 それを、喜べと。
 狂っているのは、どちらなのか。
 
 バルパは、死ぬことにした。
 父にも、兄にも、父に逆らえぬ母にも絶望していた。
前々から計画していたことだ。死体すら残らぬ死に様を偽装した。
 里の外には、種族も魔法も、スキルも関係ない、そんな世界があるかもしれない――そんな夢物語を楽しそうに話していたのは、今は亡い妹だった。
 そんな妹が大切にしていた、古びた本一冊だけを手に、決死の思いで抜け出した里。
 妹の代わりに、妹の語っていた理想郷を探しに行こう……

 けれど、里の外もまた、多かれ少なかれ、魔力とスキルが物を言う世界だった。まして、人別帳に名もない無宿者バルパに付ける職は多くなかった。洗濯のスキルや、生活魔法が使えたらまた違ったのかもしれないが、身寄りも保証人もないバルパがなれたのは、冒険者だけだった。
 冒険者こそ、魔力とスキルが物を言う。
 上を目指そうとすればするほど、魔力のないことがネックとなる。
 流れ着いた王都。有用なスキルもないバルパは、他人がやりたがらない泥臭い仕事を何個もこなし、それでどうやら日銭を得て糊口を凌いだ。
 その日も、僅かばかりの金を得て、バルパは木賃宿に戻る前に二八蕎麦でもたぐろうと、川沿いの担ぎ屋台を覗いた。
 川風の冷たい夜だった。
 柳の枝がさわさわと風に流れ、丸まった落ち葉が足下を転がっていく。
 何のために里を抜けたのか。こんなことのためだったのか――考えるでもなしにとりとめのないことを考え出したバルパの顔を見て、担ぎ屋台の親父が顔を引きつらせた。

「お、おめぇはっ」

 顔を上げたバルパもまた、顔を引きつらせた。
 それは昔の知り合いだった。
 昔の――つまりは、隠れ里の。
 殺される。
 生きているのがバレた。
 逃げなければ――いや、殺さなければ。
 思わず剣に手をやったが、何故か親父は屋台をなぎ倒し、一目散に逃げ出した。
 呆気にとられてから……ふと思い出す。
 あの親父、セブは、五年ほど前に、死んだはずだ。
 任務に失敗し、谷底に落ちて、死体も上がらなかった。
 そうだ。ということは、あの親父は、バルパと同じ。里を、抜けた人間だ。
 
 その後改めてセブを追ったが、走り出すのが遅れた数秒のためか結局見失ってしまった。
 バルパはその後も、家業の隙をぬってはセブを探し続けた。
 セブを見つけたのは、それから三ヶ月後。
 『赤羽屋』という小間物屋の土蔵に隠れ棲んでいた。
 底辺冒険者の仕事として駆り出された商家の畳替え。まさか、身寄りも保証人もないはずの元隠密が、小さいとはいえ歴とした商家にいるとは思わず、見つけられたのは全くの偶然と言って良かった。
 何食わぬ顔で畳替えを終え、改めて夜に忍び込む。
 高々商家の戸締まりなどというものは、本職の隠密にとってはないも同然だった。

「ひぃっ」

 暗がりから腕を掴んだバルパを見て、セブは化け物でも見たかのように顔を引きつらせた。無理もない。セブにとって昔の知り合いとは、死神に等しいのだから。
 昔ならばいざ知らず、三ヶ月もの間土蔵に引きこもっていたセブと、曲がりなりにも冒険者として過ごしていたバルパとではとても勝負にならなかった。
 暴れるセブを縛り上げると、バルパは説明した。
 自分も里を抜けたこと。
 自分も、昔のセブ同様、隠密に必須の魔法もスキルも発現せず、捨て駒にされていたこと。
 任務のためと、まだ幼い妹が死んだこと。
 それを誉れと喜ぶ父親に絶望したこと。
 だから、自分を恐れる必要はないと。
 それを伝えるために、セブを見失ってからずっと探していたこと。
 そう、バルパは、ただそれを伝えたかっただけなのだ。バルパと顔を合わせてしまったがために、それまでの生業を投げ出し、喰うにも困っているだろう、同じ境遇の知人の憂いを晴らしてやりたかった。
 思いがけず出会った同じ境遇の相手。
 唯一、共感できる相手。
 里にいた頃、別にバルパはセブと特別に親しいわけではなかった。けれど、里を抜けたものの、ままならぬ現状に鬱々としていたバルパにとって、それは思わず追いかけ探してしまうほどの、自分でも良く分らぬ感傷だった。

「ほ、本当に、俺を狩りに来たんじゃねぇのか?」

 バルパは苦笑する。
 里を抜けた隠密を始末するのは、上級の隠密の仕事だ。例えば、バルパの兄などの。バルパもセブも、里では魔力なしスキルなしの足手まといだった。そんな重要な任務を単独で任されるはずもない。
 自嘲するバルパに、セブもまた、確かに、と言って笑った。

「そうかぁ。おめぇも抜けたか」

 縄を解いたバルパに、セブは手首をさすりながら眉尻を下げた。
 それから、元の生業に戻ったセブの担ぎ屋台に、バルパは毎日のように顔を出すようになった。もちろん、セブが屋台を投げ捨てて逃げるようなこともない。
 バルパにとって、セブの担ぎ屋台は唯一の心やすい場所となった。
 そこでだけは、自分を偽らずにいられる。
 セブだけは、バルパと一緒に、ロッタの死を怒り、嘆いてくれた。
 セブとだけは、ロッタとバルパが夢見た理想郷を語り合えた。いつか、どこか。魔力もスキルも、種族すら関係のない場所。ロッタもバルパもセブも、怯えず、誰に遠慮することもなく、自分らしく生きられる居場所――……

「ああ、そんなとこがあったらいいなぁ。ホントによぉ」

 そう言って、セブもまた夢見るように目を細めた。
 セブの担ぎ屋台で、隠密や里をぼかしてその話をしていると、居合わせた客が話に入ってくることがあった。魔力なしスキルなしは里では珍しかったが、王都の庶民にはそうでもないらしく、初対面で意気投合し盛り上がることも少なからずあった。早くに亡くなった魔力なしの妹がいて、その妹の夢だったのだと話すと、大抵の客は早すぎる妹の死を悼んでくれた。
 ロッタの死を喜んだ父と兄かぞく
 見ず知らずの女の子の死を、悲しんでくれる酔っ払いたにん
 二度と会うことのないはずの人たちだからこそ、その交流はバルパのささくれだった心を穏やかに均してくれるようだった。

 ところが半年ほどして、バルパは眉間に深いシワを刻んだセブにこう切り出される。

「俺ぁよ、近々この国を離れようと思ってる」

 国を出るには、関所を通るための手形が必要だ。人別帳に名のないバルパたちに、手形は手に入れようがない。冒険者であるバルパならば、冒険者カードである程度の移動が可能だが、それでも国外までは厳しい。
 それが、バルパもセブも、追っ手を警戒しつつも王都に留まっている最大の理由だった。木を隠すなら森の中、人を隠すなら……というやつだ。
 だが、バルパもセブも、冒険者や担ぎ屋台が決して安全な商売では無いと知っていた。なぜなら、隠密が市井で化けるのは大抵が似たような商売であり、『死んでいない』と発覚したが最後、真っ先に探される居所であるからだ。

「実はな、俺ぁカカァがいるんだ。結婚してるんだよ。
 おめぇに見つかった小間物屋があっただろ? あそこの妹で、アカゲラの獣人だ。
 そのカカァが、子を産んだんだ。人別にゃあ、アカゲラと届けたが――ありゃあ、俺と同じ、フクロウの獣人だ」

 バルパは思わず、傾けていた濁酒を零した。紺木綿の股引に酒の染みが広がったが、そんなことは気にもならなかった。
 フクロウの獣人。
 バルパの妹、ロッタもまたフクロウの獣人だった。
 バルパのイタチとは比べるべくもない。
 一般市民にも数多くいるイタチとは異なり、フクロウやコウモリはその種族特性スキルの発現率の高さと危険性から、その全員が国の管理下に入っている。種族特性スキルは、そのままズバリ『隠密』。隠れ里の外にいるはずのない種だ。セブの子が、セブ同様、『隠密』持ちでなければまだいい。しかし、フクロウの『隠密』発現率はかなり高い。
 隠れ里で育ち、隠密として修練を積み、既に大人のセブが身を隠すのとは訳が違う。王都の長屋で育ったごく普通の幼児が、自らの種族の危険性を理解し、完璧に隠しきれるかといったら……不可能だろう。

「アカゲラとアカゲラの夫婦から、フクロウは産まれねぇ。倅がフクロウだとバレたら、芋づる式に、俺が死んだはずの元お庭番だと分かっちまうだろう。俺が殺されるのは自業自得だ。仕方ねぇよ。けど、俺を匿ってくれた、カカアや義兄貴に累が及ぶなぁ、耐えきれねぇ」

 しかし、セブやバルパ、元隠密の二人が、我が身一つでさえ国境越えは危険と判断して王都に留まっているのである。産後間もない妻と、首も据わらない乳飲み子を抱えて、何事もなく他国へ落ち延びられるとは思えない。まして、王都には人質ともいえる貴族子女が居住していることから、王都から出る女子どもへのチェックは執拗で厳しい。
女冒険者もいることはいるが、明確に冒険者であるCランク以上のギルドカードが必要だ。さらにCランク以上でも、子連れは認められていない。セブの妻は、ごく普通の商家の娘であるという。冒険者カードを偽装出来たとしても、冒険者に扮するのは無理がある。
 そもそも、セブの妻は、セブの前身を知っているのか?

「ああ。カカアにゃ全部話してある。義兄貴にも。全部分かっていて、俺を受け入れてくれたんだ」

 その言葉に、バルパは腹をくくった。
 死んだロッタと、まだ見たこともないセブの息子を重ねている自分を分かってはいた。けれど、己の全てをかけて、その赤子を救いたい――バルパはそう思ったのだ。
 里を抜けてから、ずっと考えていたことがあった。
 バルパ一人では、どうにもならなかった考えだ。
 けれど、身元の確かな協力者がいるのなら、何とかなるかもしれない。

「商会?」

 何を言い出すのか、とセブが眉を寄せる。
 そのセブに、バルパは、噛んで含めるように説明した。
 冒険者や担ぎ屋台、棒手振、行商人。そのあたりは、お庭番が情報収集のためによく扮する商売でもあるし、古巣の連中に見つかる可能性は高い。しかし、大店勤め、それも番頭や手代なら? 身元の確かな者しか雇われないはずの仕事。例え顔を突き合わすようなことがあったとしても、他人のそら似と言って切り抜けられる可能性は上がるし、そもそも大店の勤め人はその大店によって庇護され、怪しいからといってそう簡単に捕まえることは叶わない。お店の勤め人から罪人を出したとなれば、連座で店も潰れかねないから、店も全力で勤め人を守るのだ。
 さらに、大店に潜り込むのではなく、大店そのものが協力者だったら。住み込みの番頭の子がフクロウだなどと、誰に知られることもない。
 子どものうちは店中で大切に守って、その間に、種族を隠し身を守る術を子に学ばせる。隠れ里で育つほどには及ばないだろうが、大人になる頃には、きっと誰に守られなくても生きていけるくらいの技術は身につくだろう。

「そんな、それこそ夢みてぇな話だ」

 元々、バルパは商売に興味があった。
 けれど、人別帳に名もなく、身元引受人もいないバルパは、どこの商家にも雇ってもらえなかった。
 セブのような担ぎ屋台や、棒手振ぼてふり、行商人も考えなかったわけではない。しかし、己で商売をするには、少なくとも拠点となる住まいが必要だ。知り合いも身内もいないバルパは、裏長屋の一部屋たりとて借りられなかった。
 仕方なくバルパは冒険者となり、冒険者への依頼とは名ばかりの雑用仕事をして生計を立てていたわけだが……
 様々な商家に出入りするうち、とあることに気付いた。
 どんな大店の旦那衆や番頭であっても、対人の掌握術、交渉術というものを明確には学んでいないだろう、ということだ。もちろんカリスマを持つ商人もいるが、あくまで天性のものか独学だ。

「はぁ? そんな馬鹿な」

 大店に出入りしたことのないセブは、全く気付いていなかったようだ。
 バルパにとっても、それは、とても意外な発見だった。
 隠れ里において、相手の表情を読むことと、自身の印象を操作することは、子どもの頃に教わる基礎訓練の一つだったからだ。
人は、仕草の一つ一つ、目線の一つ一つに意図が現れる。そして、話し方一つ、声のトーン一つで受ける印象が変わる。
 魔法やスキルに長けた上級の隠密には軽視されがちだが、潜入や密偵が主な任務となる下級の隠密には必須の技術だった。
 それなのに、里の外には、そんな発想自体がない。
 セブやバルパは、隠れ里の中にあって、魔力もスキルもなかった。
 故にこそ、同じ下級の隠密の中でも、魔力もスキルも必要ではない分野を、誰よりも死に物狂いで学んだ。情報収集や情報操作、交渉、会話術。
 人たらしという言葉があるが、セブやバルパは、意図的にそうなることが出来る。
 商売も、所詮は人間相手。
 嫌いな人間よりも、好ましい人間に便宜を図ってやろうと思うし、いかに上手い話でも、嫌いな人間の持ってきた話には乗ろうとはしない。
 勝算はあった。
 折しも、国は『商会』というものの設立に舵を取ろうとしていた。
 今までの商家は、薬種問屋、太物問屋、海苔問屋など、一種の商いに特化したものが多かった。
 何故なら、この国で店を開くには、都市ごとの『株』と呼ばれる規定数しかない権利書が必要になる。セブのような担ぎ屋台や棒手振、行商人などなら見逃されるが、店舗を構えた商売であれば、例え髪結い(床屋)ですら『株』は必要で、どんなに腕が良く、金があり、店舗を用意出来たとしても、店を開くことは許されない。その場合、『株』持ちの親方の元で雇われるか、廻り髪結いなどをするしかないのだと、バルパ馴染みの湯屋で髪結いをしている親父は嘆いていた。
 この『株』というもの、商売ごとに数が決まっているので、滅多なことでは売りに出されない。欲しいから、金を積んだからといって手に入るものではないのである。
 そんなわけで、新規参入も難しければ、他業種に手を広げるのも難しい。
 しかし、そんな現状が国の経済発展の足を引っ張っているとして、国王陛下肝いりの事業として始まったのが『商会』制度だ。
 何らかの『株』を保持している商家ならば、『商会』の届け出をし審査に合格すると、他業種への参入が比較的容易に認められる。国からの援助も受けられる。
 それによって、停滞していた国の経済を動かし、己が店を脅かすものなど無いと安寧の上にあぐらを掻いていた大店連中に切磋琢磨させ、本当の意味で強い、他国に負けない商人を育てる――……
 大御所様の傀儡、暗愚と名高いアンクレイグ陛下にしては思い切った政策だ。
 勝算はある。
 様々な業種に手を広げられれば広げられるほど、枷が少なくなればなるほど、バルパの能力は生かせるだろう。
 だが。
 最初の一歩で、バルパは大きくつまずいた。
 『商会』は何らかの『株』を保持している商家に限る。
 確かに、無制限にしたならば、有象無象が一斉に申請に訪れ、王城の機能はパンクしかねない。実績も担保もない人間に、国税を用いた援助など到底出来ないだろう。
 けれど、それでは、バルパはただの一歩も踏み出せない。
 ゼロに幾つ掛けてもゼロなように、始まりの『一』がなければ、何をどうしたところで、机上の空論、絵に描いた餅だ。
 そう、自身の無力を噛みしめていたところに――カモがネギ背負って向こうからやって来たわけである。
 後のバルパならば、何もセブの身内を巻き込まずとも、『株』持ちの商家の後家をたらし込んで転がり込むくらいのことをやってのけたに違いない。
 しかし、この頃のバルパは、まだ若かった。スレていなかった。
 バルパの説得に、セブは感極まったように何度も頷いた。

「そうだ、おめぇの言うとおりだ。隠れ里に産まれ育ちながら、隠密に向かなかった俺やおめぇにだって、俺の子にだって――生きる場所があったって良いはずだよな。この先、里を抜けてくるかもしれねぇ同胞にも、魔法もスキルも関係なく、身を寄せられて働ける居場所があってもいい、か。
ああ、ああ、俺ぁ隠れよう隠れようとそればっかりで、てめぇの倅の将来なんざこれっぽちも考えてなかったんだなぁ。俺ぁやってやるぜ、バルパ。カカァのため、倅のため、俺のため、おめぇのために。一度死んだ身だ。こえぇことなんざ何もあるけぇよぉ」

そう、バルパは若かったのだ。
セブに、本気でそんな夢を語り、全力で説得する程度には。『商会』の中にならば、妹が夢見た理想郷を作れるかもしれない……。バルパはまだ、青臭い若造だった。

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