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第2章 魔導帝国の陰謀
天ヶ谷鏡哉
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冷えきった目でこちらを見る少年が、片眉を上げて首を傾げた。
「聞こえなかったのか? なんでテメェがちようを知っているんだと訊いているんだ」
少年の問いに、グレイはいまだ困惑する頭を叱咤して働かせる。どうやら彼は“ちよう”の名に強く反応しているようだが、現状ではそれ以上のことは判らない。天ヶ谷鏡哉、いや、『彼』にとって、ちようとは何なのだろうか。
とにかく、『彼』の意図が判らない以上、うかつに問いに答える訳にはいかない。
(そもそも何なんだコイツは。……帝国の手の者が、何らかの魔導でキョウヤに憑依した? いや、それならオレにかまけていないでさっさと逃げる方が良いだろう。そもそも、わざわざオレに正体をバラすような真似はしねェ筈だ)
ならば、これは帝国の一件とは全く関係のないことだとでもいうのだろうか。そんなことを言い出したら、考えられる可能性などそれこそ何百通りもある。実質的に手詰まりと言って良いだろう。
『彼』に対する警戒を強めつつ思考していたグレイだったが、そんなグレイに『彼』が僅かに目を細めた。
「なるほどな。飽くまでも答えねェつもりか」
グレイの沈黙を拒絶として受け取ったらしい『彼』が、足元に転がっていた硝子のコップを拾い上げる。
「それならそれで構わない。力づくで吐かせてやるよ」
そう言って『彼』は、持っていたコップを地面に叩きつけた。その行動の意味を察したグレイが魔術を展開するよりも早く、割れて飛び散った破片を右手で器用に掬い上げた『彼』は、グレイに向かって跳躍した。そのまま一瞬でグレイとの距離を詰めた『彼』が、右から左へと硝子を奔らせる。
(――ッ、速い!)
とっさに後方へ回避行動を取ったグレイの左腕を、硝子の切っ先が掠める。初手をなんとか躱したグレイだったが、今度はその右腹目掛けて蹴りが飛んできた。魔術式を組み上げる暇すらないそれに、グレイはすぐさま右人差し指の指輪を親指で叩いてから『彼』の蹴りを掌で受け止めた。瞬間、小さな風の盾のようなものがグレイの掌に現れ、『彼』の蹴りを弾き返す。
(クソッ、またえらく重い蹴りを出しやがる!)
指輪に転写した術式だけで発動した簡易的なものだったとはいえ、風の盾を発動してもなお腕を痺れさせた蹴りに、グレイが内心で悪態をつく。だが、そんなことをしたところで『彼』の攻撃が止むわけではない。
休む間どころか魔術を発動させる暇すらなかなか与えない『彼』に、グレイは舌打ちを漏らした。なるほど、座学にてグレイが教育したことをよく学んでいたらしい。魔術の弱点のひとつは、魔法や魔導と比べると発動までにかかる時間が長いことだ。故に、今のような猛攻にはめっぽう弱い。グレイほどの腕前ともなれば、魔術具のみで発動できるような簡易的な魔術であればほとんど予備動作なしで発動できるが、現在身に着けている魔術具で戦闘に使えそうなものはほとんどない。
そもそも相手が天ヶ谷鏡哉の身体である以上、中身がどうあれ極力傷つけないようにすべきなのだ。仮に何者かが憑依しているのだとしたら、天ヶ谷鏡哉自体には何の罪もない。無論、本当にどうしようもなくなったならば多少の怪我をさせてでも止めるつもりだが、今のグレイの力量と相手の力量とを鑑みるに、手心を加えた反撃でどうこうできるような相手であるとは思えなかった。
(これでもそれなりに鍛えてるつもりだったんだが、体術はこいつの方が上か。……このままじゃジリ貧だな)
僅かに避けきれなかった切っ先が、グレイの頬を掠める。それに構わず一気に身を沈めたグレイが、先ほどと同じ人差し指の指輪、風の魔術具を擦り上げると、今度はその右手を小さな風の渦が覆った。それをそのまま『彼』の腹に叩き込もうとしたグレイだったが、寸でのところで横跳びに躱されてしまい、その拳は空を切った。
しかし、それくらいは計算の内である。すぐさま風の魔術具を三度叩いたグレイが右手を『彼』に向かって翳すと、グレイの右掌を起点に生じた小さな風の刃が『彼』目掛けて飛んでいく。恐らくはこれも躱されてしまうだろうが、その間少しだが時間が稼げる。その時間を使って捕縛のための魔術式を組み上げることができれば。
そう考えてすぐさま術式を宙に描き始めたグレイだったが、『彼』がいる方からグレイが放ったものと似た風の刃が向かってきたのを見咎め、ほとんど反射的に術式の展開を止めた。そのまま指輪を叩いて発動させた小さな風の盾を使い、襲ってきた刃を全て受け流す。咄嗟にここまでできたのは、日頃の鍛錬の賜物だろう。
「……お前、」
グレイが思わず呆然と呟いたのも、無理はない。たった今グレイを襲った風の刃は、確かに魔術によって生み出されたものだ。実用的な基礎魔術のひとつであり、魔術具ひとつで瞬時に発動できる程度のものではあるが、しかし、
「……オレの攻撃を避けながら、描いたってのか」
確かに難易度の高い魔術ではないが、だからといって短い術式でもない。あの風の刃を避けつつ式の全てを描き切るなど、それこそグレイにだって不可能だろう。だからこそグレイは魔術具を使用しているのだ。だが、どうやら『彼』はそれをやってのけたらしい。
「何をそんなに驚くことがある。懇切丁寧に教えてくれた上、魔術鉱石とやらまで貸してくれたのはアンタだろう?」
『彼』はそう言ったが、実際は少し違う。グレイが教えたのは本当に基礎の基礎にあたる魔術で、今回『彼』が発動させた魔術に関しては、座学のときに一度見せたことがあるだけだ。にわかには信じがたいが、恐らくはその一度で術式を覚えたのだろう。あのときは魔術具を使わずすべての式を描いて見せたから、理屈の上ではあり得る話である。だが、だからといって覚えたての魔術を実戦で使用できるかと言うと、そう甘いものではないのだ。戦闘の最中で魔術を組み上げられるほどの集中力を保つのは、想像するよりもずっと難しいことだ。事実、天ヶ谷鏡哉は平常時ですらかなり苦戦していた。だが、『彼』にとってはそうではなかったのだろう。
(厄介だな。……だが、オレが見せたことのある魔術は基礎的なものだけ。それならどうとでも対応のしようはあるが)
再び向かってきた『彼』に対し、次の一手をどうすべきかと考えながら構えたところで、突然部屋のドアが開いた。
驚いたグレイがドアの方に視線をやるのと、『彼』が握った硝子を開いたドアの向こうへと投げるのがほぼ同時だった。
ドアの向こうにいる人物と『彼』が投げた硝子片とを認識した瞬間、何かを考える前にグレイは驚異的な速度で魔術式を描き上げていた。それこそ、ほとんど脊髄反射のようなものだったのだろう。
硝子片を越える速度で奔った一筋の風が、硝子片を撃ち抜いて砕く。
「……喧嘩、ですか?」
砕かれて散っていく硝子の粒に少しだけ驚いた顔をして呟いたのは、レクシリア・グラ・ロンター宰相だった。
「なに呑気なこと言ってるんですか! これのどこが喧嘩に見えます!? テメェもテメェでこの人のことろくに知りもしねェで手ェ出してんじゃねェよ! 死にてェのか!」
レクシリアに向かって怒鳴ったあと『彼』に向かっても怒りを吐き散らしたグレイを見て、レクシリアも何か察するところがあったのだろう。すぐさま『彼』に視線を移してから口を開いた。
「風霊、キョウヤを捕らえろ」
レクシリアの言葉に『彼』がはっとしたときにはもう遅い。『彼』が回避行動を取ろうとしたときには既に、命を受けて吹いた風が『彼』の身体にしゅるりと巻き付いてその四肢を拘束していた。
「なにぶんたった今来たところなので事情が判りませんが、これで良いのですよね?」
「ええ、助かりました。どうにもこうにも、めちゃくちゃに暴れられて会話もできない状態だったので」
礼を述べたグレイだったが、なんだか面白くなさそうな顔をしている。その理由は単純で、自分が苦戦していた件をレクシリアが魔法で簡単に片づけてしまったことが気に食わないのだ。レクシリアはそれを察しつつも、いつものことなので取りあえず放っておくことにする。それよりも、今はあの少年に一体何があったのかを知る方が先だ。
「さて、何があったのか、話して頂けますね?」
それはグレイに向かって言った言葉だったが、グレイが何かを言う前に拘束されている『彼』が口を開いた。
「か弱い少年に二人がかりとは、少々卑怯が過ぎやぁしませんかね? 武術に秀でたグランデル王国が聞いて呆れる。ああいえ、レクシリア・グラ・ロンター宰相閣下におかれましては武術とは縁遠い生活を送られていらっしゃるでしょうから、そもそもが秀でてなどいないのかもしれませんけれど」
馬鹿にした様子を隠そうともせずに言ってくる『彼』にグレイは眉根を寄せて口を開きかけたが、レクシリアがそれを手で制した。
「今は私のことよりも貴方のことです。私が知っているキョウヤ様とは随分と様子が違うようにお見受け致しますが、一体どういうことでしょうか」
「これはこれは、オレの質問には答えないくせにそちらの質問には答えろと仰る。いやはや、権力者というものは良いですねェ」
『彼』の言葉に、レクシリアがグレイを見る。
「何の話ですか?」
「さあ、オレにも詳しいことは判りませんが、オレがちようの名前を出した途端に豹変したんですよ。それで、なんでお前がちようを知っているんだって襲ってきて」
「その問いには答えて差し上げなかったのですか?」
「相手が何を考えているのか判らないってのに、そうやすやすと答えられるわけないでしょう」
グレイの返答に、それもそうだな、と思ったレクシリアが、再び『彼』に向き直る。
「それでは、貴方にとってちようという方がどういう人物なのかを教えて頂けましたら、こちらもお答え致しましょう」
「ハッ、か弱い子供を力づくで抑え込んでいる輩が約束を守ってくれるとは、到底思えませんねェ」
やはり、『彼』の方から答える気はないようだ。さてどうしたものかとレクシリアが思案したところで、不意に背後から声がかかった。
「ちようというのは、グレイの兄だ。この世界にはいないがな」
相変わらずの温和な表情を浮かべて現れたのは、赤の王であった。
のんびりとした王の発言に一瞬呆気に取られていたグレイが、見る見る内にその顔を怒りに染め上げる。一方のレクシリアは、額を押さえて深いため息を吐き出していた。
「ッ、おい! なに勝手にバラしてくれてんだポンコツ!」
「バラすも何も、別に秘密でもなんでもないだろうに。ちようというのはお前の兄の名だろう?」
「あいつが何考えてるか判んねェのにほいほい喋んなっつってんだよバカ王!」
尚も怒鳴るグレイの肩を、レクシリアが叩く。
「グレイ、落ち着きなさい。陛下がお話しなさったということは、話しても問題がないということです」
レクシリアに諫められ、グレイが押し黙る。レクシリアの言うことは正しいが、しかし気持ち的に納得はいかなかったようで、彼は王を睨み上げた。
「そう怒るな。……アレにとってちようというのが重要な何かであることは事実だろうが、恐らく道具や手段に対する執着ではない。どちらかというと、……そうだな、肉親に対するそれに似た感情、なのではないだろうか。とにかく、ちようがお前の兄であるという事実を隠す必要はないから安心しろ」
『彼』を見てそう言った王に、『彼』は盛大に顔を顰めた。
「国王陛下におかれましては、相変わらず心の底から気持ち悪い人間でいらっしゃる。……つーか、アンタ本当に人間か? 人間とは思えない気持ち悪さで反吐が出そうなんですが」
「はっはっはっ、気持ちが悪いというのはグレイにもよく言われる」
そう笑った王が、『彼』に向かって微笑んでみせた。
「自己紹介が遅れたな。こうして面と向かって会うのは初めてだろうか。知っているとは思うが、私はロステアール・クレウ・グランダ。グランデル王国の国王だ。して、お前は誰だ?」
にこりと笑みを浮かべたままの王に、『彼』が盛大な舌打ちを漏らす。
「チッ、そういやそいつ、“天ヶ谷グレイ”だったな。……そういうことかよ」
そう呟いてから、『彼』は酷く気怠そうに溜息を吐き出した。
「……面倒臭ェ。あと任せた」
『彼』がそう言って目を閉じた瞬間、また少年の纏う空気が変化する。先ほどまでのものが鋭く冷たい刃のようなものだとするならば、今度はよく磨かれた紅玉のような、硬質だが冷たさを感じさせないそれだ。
「……面倒になったからと言って、私に押し付けるのか」
そう呟いて小さく息を吐いた少年が、ゆるりと瞼を押し上げてその場にいる王たちを見る。そんな少年の様子に、王が小さく首を傾げた。
「おや、お前は初めて見るな」
王の言葉に、レクシリアとグレイが何のことだというような顔をしたが、少年だけは奇妙なものを見る目で王を見た。
「ひと目見ただけでそう判るあたり、やはり貴方は特殊な人間だな」
そう言って顔を顰めた少年が、拘束されている四肢を軽く動かそうとするような素振りを見せてから、レクシリアの方を見た。
「取りあえず、この拘束を解いて貰えないか? 私に暴れる意思はない」
言われたレクシリアが問うような視線を王に向ければ、王はひとつ頷きを返した。それを確認したレクシリアが、風霊に命じて風の戒めを外してやる。
「有難う。それから、図々しいお願いをして申し訳ないんだが、この手を治せはしないか? 鏡哉にとって手は大切な部位だから、このままでは可哀相だ」
そう言った少年が差し出した手を見れば、深くはないがいたるところが切れて血が出ていた。きっと、硝子の破片を握ったときに切ってしまったのだろう。
少年の言う通り、彼にとって手は大切な商売道具のはずだ。レクシリアがすぐさま回復魔法で治してやると、少年は少しだけ微笑んで礼の言葉を述べた。普段の少年とは違う自然な微笑みに、改めて彼が天ヶ谷鏡哉ではない何かなのだと実感させられる。
「さて、落ち着いたところで、そろそろお前が、……いや、お前たちが何者なのかを教えて貰おうか」
王の声に少しだけ視線を落とした少年は、数度瞬きをしてから王を見上げた。
「その前に、貴方は私たちについて、どこまで察しがついているんだ? もしかして、全て知っているんじゃないのか?」
少年の言葉に、しかし王は首を傾げた。
「さてな。お前がどう思っているかは知らぬが、私は万能でもなんでもない。何度かキョウヤの身体を使ったキョウヤではない何かを見かけているから、お前もその一種かと考えてはいるが、それが真実かどうかなど判りはせんよ」
「……いや、それだけのことが考えられるなら十分だろう。つくづく厄介な男だな、貴方は」
そう言ってから一度息を吐きだした少年が、観念したように口を開く。
「私の名前は天ヶ谷アレクサンドラ。先ほど貴方たちと接していた天ヶ谷グレイや貴方たちの見知っている天ヶ谷鏡哉と同じ、天ヶ谷ちようが生み出した人格のひとつだ」
「聞こえなかったのか? なんでテメェがちようを知っているんだと訊いているんだ」
少年の問いに、グレイはいまだ困惑する頭を叱咤して働かせる。どうやら彼は“ちよう”の名に強く反応しているようだが、現状ではそれ以上のことは判らない。天ヶ谷鏡哉、いや、『彼』にとって、ちようとは何なのだろうか。
とにかく、『彼』の意図が判らない以上、うかつに問いに答える訳にはいかない。
(そもそも何なんだコイツは。……帝国の手の者が、何らかの魔導でキョウヤに憑依した? いや、それならオレにかまけていないでさっさと逃げる方が良いだろう。そもそも、わざわざオレに正体をバラすような真似はしねェ筈だ)
ならば、これは帝国の一件とは全く関係のないことだとでもいうのだろうか。そんなことを言い出したら、考えられる可能性などそれこそ何百通りもある。実質的に手詰まりと言って良いだろう。
『彼』に対する警戒を強めつつ思考していたグレイだったが、そんなグレイに『彼』が僅かに目を細めた。
「なるほどな。飽くまでも答えねェつもりか」
グレイの沈黙を拒絶として受け取ったらしい『彼』が、足元に転がっていた硝子のコップを拾い上げる。
「それならそれで構わない。力づくで吐かせてやるよ」
そう言って『彼』は、持っていたコップを地面に叩きつけた。その行動の意味を察したグレイが魔術を展開するよりも早く、割れて飛び散った破片を右手で器用に掬い上げた『彼』は、グレイに向かって跳躍した。そのまま一瞬でグレイとの距離を詰めた『彼』が、右から左へと硝子を奔らせる。
(――ッ、速い!)
とっさに後方へ回避行動を取ったグレイの左腕を、硝子の切っ先が掠める。初手をなんとか躱したグレイだったが、今度はその右腹目掛けて蹴りが飛んできた。魔術式を組み上げる暇すらないそれに、グレイはすぐさま右人差し指の指輪を親指で叩いてから『彼』の蹴りを掌で受け止めた。瞬間、小さな風の盾のようなものがグレイの掌に現れ、『彼』の蹴りを弾き返す。
(クソッ、またえらく重い蹴りを出しやがる!)
指輪に転写した術式だけで発動した簡易的なものだったとはいえ、風の盾を発動してもなお腕を痺れさせた蹴りに、グレイが内心で悪態をつく。だが、そんなことをしたところで『彼』の攻撃が止むわけではない。
休む間どころか魔術を発動させる暇すらなかなか与えない『彼』に、グレイは舌打ちを漏らした。なるほど、座学にてグレイが教育したことをよく学んでいたらしい。魔術の弱点のひとつは、魔法や魔導と比べると発動までにかかる時間が長いことだ。故に、今のような猛攻にはめっぽう弱い。グレイほどの腕前ともなれば、魔術具のみで発動できるような簡易的な魔術であればほとんど予備動作なしで発動できるが、現在身に着けている魔術具で戦闘に使えそうなものはほとんどない。
そもそも相手が天ヶ谷鏡哉の身体である以上、中身がどうあれ極力傷つけないようにすべきなのだ。仮に何者かが憑依しているのだとしたら、天ヶ谷鏡哉自体には何の罪もない。無論、本当にどうしようもなくなったならば多少の怪我をさせてでも止めるつもりだが、今のグレイの力量と相手の力量とを鑑みるに、手心を加えた反撃でどうこうできるような相手であるとは思えなかった。
(これでもそれなりに鍛えてるつもりだったんだが、体術はこいつの方が上か。……このままじゃジリ貧だな)
僅かに避けきれなかった切っ先が、グレイの頬を掠める。それに構わず一気に身を沈めたグレイが、先ほどと同じ人差し指の指輪、風の魔術具を擦り上げると、今度はその右手を小さな風の渦が覆った。それをそのまま『彼』の腹に叩き込もうとしたグレイだったが、寸でのところで横跳びに躱されてしまい、その拳は空を切った。
しかし、それくらいは計算の内である。すぐさま風の魔術具を三度叩いたグレイが右手を『彼』に向かって翳すと、グレイの右掌を起点に生じた小さな風の刃が『彼』目掛けて飛んでいく。恐らくはこれも躱されてしまうだろうが、その間少しだが時間が稼げる。その時間を使って捕縛のための魔術式を組み上げることができれば。
そう考えてすぐさま術式を宙に描き始めたグレイだったが、『彼』がいる方からグレイが放ったものと似た風の刃が向かってきたのを見咎め、ほとんど反射的に術式の展開を止めた。そのまま指輪を叩いて発動させた小さな風の盾を使い、襲ってきた刃を全て受け流す。咄嗟にここまでできたのは、日頃の鍛錬の賜物だろう。
「……お前、」
グレイが思わず呆然と呟いたのも、無理はない。たった今グレイを襲った風の刃は、確かに魔術によって生み出されたものだ。実用的な基礎魔術のひとつであり、魔術具ひとつで瞬時に発動できる程度のものではあるが、しかし、
「……オレの攻撃を避けながら、描いたってのか」
確かに難易度の高い魔術ではないが、だからといって短い術式でもない。あの風の刃を避けつつ式の全てを描き切るなど、それこそグレイにだって不可能だろう。だからこそグレイは魔術具を使用しているのだ。だが、どうやら『彼』はそれをやってのけたらしい。
「何をそんなに驚くことがある。懇切丁寧に教えてくれた上、魔術鉱石とやらまで貸してくれたのはアンタだろう?」
『彼』はそう言ったが、実際は少し違う。グレイが教えたのは本当に基礎の基礎にあたる魔術で、今回『彼』が発動させた魔術に関しては、座学のときに一度見せたことがあるだけだ。にわかには信じがたいが、恐らくはその一度で術式を覚えたのだろう。あのときは魔術具を使わずすべての式を描いて見せたから、理屈の上ではあり得る話である。だが、だからといって覚えたての魔術を実戦で使用できるかと言うと、そう甘いものではないのだ。戦闘の最中で魔術を組み上げられるほどの集中力を保つのは、想像するよりもずっと難しいことだ。事実、天ヶ谷鏡哉は平常時ですらかなり苦戦していた。だが、『彼』にとってはそうではなかったのだろう。
(厄介だな。……だが、オレが見せたことのある魔術は基礎的なものだけ。それならどうとでも対応のしようはあるが)
再び向かってきた『彼』に対し、次の一手をどうすべきかと考えながら構えたところで、突然部屋のドアが開いた。
驚いたグレイがドアの方に視線をやるのと、『彼』が握った硝子を開いたドアの向こうへと投げるのがほぼ同時だった。
ドアの向こうにいる人物と『彼』が投げた硝子片とを認識した瞬間、何かを考える前にグレイは驚異的な速度で魔術式を描き上げていた。それこそ、ほとんど脊髄反射のようなものだったのだろう。
硝子片を越える速度で奔った一筋の風が、硝子片を撃ち抜いて砕く。
「……喧嘩、ですか?」
砕かれて散っていく硝子の粒に少しだけ驚いた顔をして呟いたのは、レクシリア・グラ・ロンター宰相だった。
「なに呑気なこと言ってるんですか! これのどこが喧嘩に見えます!? テメェもテメェでこの人のことろくに知りもしねェで手ェ出してんじゃねェよ! 死にてェのか!」
レクシリアに向かって怒鳴ったあと『彼』に向かっても怒りを吐き散らしたグレイを見て、レクシリアも何か察するところがあったのだろう。すぐさま『彼』に視線を移してから口を開いた。
「風霊、キョウヤを捕らえろ」
レクシリアの言葉に『彼』がはっとしたときにはもう遅い。『彼』が回避行動を取ろうとしたときには既に、命を受けて吹いた風が『彼』の身体にしゅるりと巻き付いてその四肢を拘束していた。
「なにぶんたった今来たところなので事情が判りませんが、これで良いのですよね?」
「ええ、助かりました。どうにもこうにも、めちゃくちゃに暴れられて会話もできない状態だったので」
礼を述べたグレイだったが、なんだか面白くなさそうな顔をしている。その理由は単純で、自分が苦戦していた件をレクシリアが魔法で簡単に片づけてしまったことが気に食わないのだ。レクシリアはそれを察しつつも、いつものことなので取りあえず放っておくことにする。それよりも、今はあの少年に一体何があったのかを知る方が先だ。
「さて、何があったのか、話して頂けますね?」
それはグレイに向かって言った言葉だったが、グレイが何かを言う前に拘束されている『彼』が口を開いた。
「か弱い少年に二人がかりとは、少々卑怯が過ぎやぁしませんかね? 武術に秀でたグランデル王国が聞いて呆れる。ああいえ、レクシリア・グラ・ロンター宰相閣下におかれましては武術とは縁遠い生活を送られていらっしゃるでしょうから、そもそもが秀でてなどいないのかもしれませんけれど」
馬鹿にした様子を隠そうともせずに言ってくる『彼』にグレイは眉根を寄せて口を開きかけたが、レクシリアがそれを手で制した。
「今は私のことよりも貴方のことです。私が知っているキョウヤ様とは随分と様子が違うようにお見受け致しますが、一体どういうことでしょうか」
「これはこれは、オレの質問には答えないくせにそちらの質問には答えろと仰る。いやはや、権力者というものは良いですねェ」
『彼』の言葉に、レクシリアがグレイを見る。
「何の話ですか?」
「さあ、オレにも詳しいことは判りませんが、オレがちようの名前を出した途端に豹変したんですよ。それで、なんでお前がちようを知っているんだって襲ってきて」
「その問いには答えて差し上げなかったのですか?」
「相手が何を考えているのか判らないってのに、そうやすやすと答えられるわけないでしょう」
グレイの返答に、それもそうだな、と思ったレクシリアが、再び『彼』に向き直る。
「それでは、貴方にとってちようという方がどういう人物なのかを教えて頂けましたら、こちらもお答え致しましょう」
「ハッ、か弱い子供を力づくで抑え込んでいる輩が約束を守ってくれるとは、到底思えませんねェ」
やはり、『彼』の方から答える気はないようだ。さてどうしたものかとレクシリアが思案したところで、不意に背後から声がかかった。
「ちようというのは、グレイの兄だ。この世界にはいないがな」
相変わらずの温和な表情を浮かべて現れたのは、赤の王であった。
のんびりとした王の発言に一瞬呆気に取られていたグレイが、見る見る内にその顔を怒りに染め上げる。一方のレクシリアは、額を押さえて深いため息を吐き出していた。
「ッ、おい! なに勝手にバラしてくれてんだポンコツ!」
「バラすも何も、別に秘密でもなんでもないだろうに。ちようというのはお前の兄の名だろう?」
「あいつが何考えてるか判んねェのにほいほい喋んなっつってんだよバカ王!」
尚も怒鳴るグレイの肩を、レクシリアが叩く。
「グレイ、落ち着きなさい。陛下がお話しなさったということは、話しても問題がないということです」
レクシリアに諫められ、グレイが押し黙る。レクシリアの言うことは正しいが、しかし気持ち的に納得はいかなかったようで、彼は王を睨み上げた。
「そう怒るな。……アレにとってちようというのが重要な何かであることは事実だろうが、恐らく道具や手段に対する執着ではない。どちらかというと、……そうだな、肉親に対するそれに似た感情、なのではないだろうか。とにかく、ちようがお前の兄であるという事実を隠す必要はないから安心しろ」
『彼』を見てそう言った王に、『彼』は盛大に顔を顰めた。
「国王陛下におかれましては、相変わらず心の底から気持ち悪い人間でいらっしゃる。……つーか、アンタ本当に人間か? 人間とは思えない気持ち悪さで反吐が出そうなんですが」
「はっはっはっ、気持ちが悪いというのはグレイにもよく言われる」
そう笑った王が、『彼』に向かって微笑んでみせた。
「自己紹介が遅れたな。こうして面と向かって会うのは初めてだろうか。知っているとは思うが、私はロステアール・クレウ・グランダ。グランデル王国の国王だ。して、お前は誰だ?」
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「チッ、そういやそいつ、“天ヶ谷グレイ”だったな。……そういうことかよ」
そう呟いてから、『彼』は酷く気怠そうに溜息を吐き出した。
「……面倒臭ェ。あと任せた」
『彼』がそう言って目を閉じた瞬間、また少年の纏う空気が変化する。先ほどまでのものが鋭く冷たい刃のようなものだとするならば、今度はよく磨かれた紅玉のような、硬質だが冷たさを感じさせないそれだ。
「……面倒になったからと言って、私に押し付けるのか」
そう呟いて小さく息を吐いた少年が、ゆるりと瞼を押し上げてその場にいる王たちを見る。そんな少年の様子に、王が小さく首を傾げた。
「おや、お前は初めて見るな」
王の言葉に、レクシリアとグレイが何のことだというような顔をしたが、少年だけは奇妙なものを見る目で王を見た。
「ひと目見ただけでそう判るあたり、やはり貴方は特殊な人間だな」
そう言って顔を顰めた少年が、拘束されている四肢を軽く動かそうとするような素振りを見せてから、レクシリアの方を見た。
「取りあえず、この拘束を解いて貰えないか? 私に暴れる意思はない」
言われたレクシリアが問うような視線を王に向ければ、王はひとつ頷きを返した。それを確認したレクシリアが、風霊に命じて風の戒めを外してやる。
「有難う。それから、図々しいお願いをして申し訳ないんだが、この手を治せはしないか? 鏡哉にとって手は大切な部位だから、このままでは可哀相だ」
そう言った少年が差し出した手を見れば、深くはないがいたるところが切れて血が出ていた。きっと、硝子の破片を握ったときに切ってしまったのだろう。
少年の言う通り、彼にとって手は大切な商売道具のはずだ。レクシリアがすぐさま回復魔法で治してやると、少年は少しだけ微笑んで礼の言葉を述べた。普段の少年とは違う自然な微笑みに、改めて彼が天ヶ谷鏡哉ではない何かなのだと実感させられる。
「さて、落ち着いたところで、そろそろお前が、……いや、お前たちが何者なのかを教えて貰おうか」
王の声に少しだけ視線を落とした少年は、数度瞬きをしてから王を見上げた。
「その前に、貴方は私たちについて、どこまで察しがついているんだ? もしかして、全て知っているんじゃないのか?」
少年の言葉に、しかし王は首を傾げた。
「さてな。お前がどう思っているかは知らぬが、私は万能でもなんでもない。何度かキョウヤの身体を使ったキョウヤではない何かを見かけているから、お前もその一種かと考えてはいるが、それが真実かどうかなど判りはせんよ」
「……いや、それだけのことが考えられるなら十分だろう。つくづく厄介な男だな、貴方は」
そう言ってから一度息を吐きだした少年が、観念したように口を開く。
「私の名前は天ヶ谷アレクサンドラ。先ほど貴方たちと接していた天ヶ谷グレイや貴方たちの見知っている天ヶ谷鏡哉と同じ、天ヶ谷ちようが生み出した人格のひとつだ」
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アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

うるせぇ!僕はスライム牧場を作るんで邪魔すんな!!
かかし
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強い召喚士であることが求められる国、ディスコミニア。
その国のとある侯爵の次男として生まれたミルコは他に類を見ない優れた素質は持っていたものの、どうしようもない事情により落ちこぼれや恥だと思われる存在に。
両親や兄弟の愛情を三歳の頃に失い、やがて十歳になって三ヶ月経ったある日。
自分の誕生日はスルーして兄弟の誕生を幸せそうに祝う姿に、心の中にあった僅かな期待がぽっきりと折れてしまう。
自分の価値を再認識したミルコは、悲しい決意を胸に抱く。
相棒のスライムと共に、名も存在も家族も捨てて生きていこうと…
のんびり新連載。
気まぐれ更新です。
BがLするまでかなり時間が掛かる予定ですので注意!
人外CPにはなりません
ストックなくなるまでは07:10に公開
3/10 コピペミスで1話飛ばしていたことが判明しました!申し訳ございません!!
虐げられている魔術師少年、悪魔召喚に成功したところ国家転覆にも成功する
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主人公のグレン・クランストンは天才魔術師だ。ある日、失われた魔術の復活に成功し、悪魔を召喚する。その悪魔は愛と性の悪魔「ドーヴィ」と名乗り、グレンに契約の代償としてまさかの「口づけ」を提示してきた。
領民を守るため、王家に囚われた姉を救うため、グレンは致し方なく自分の唇(もちろん未使用)を差し出すことになる。
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王家に虐げられて不遇な立場のトラウマ持ち不幸属性主人公がスパダリ系悪魔に溺愛されて幸せになるコメディの皮を被ったそこそこシリアスなお話です。
・ハピエン
・CP左右固定(リバありません)
・三角関係及び当て馬キャラなし(相手違いありません)
です。
べろちゅーすらないキスだけの健全ピュアピュアなお付き合いをお楽しみください。
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2024.10.18 第二章開幕にあたり、第一章の2話~3話の間に加筆を行いました。小数点付きの話が追加分ですが、別に読まなくても問題はありません。

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