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第1章 かなしい蝶と煌炎の獅子

煌炎3

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「…………きれい……」

 とろけるような声で呟かれた言葉の意味を、男は最初理解できなかった。
 綺麗。それが美しいという意味合いの言葉であると認識し、同時に何に対して抱いたものなのかと内心で首を傾げる。
 魔物が溢れる戦火にあって美しいものとは何だ。ここにはそんなものは存在しない。少なくとも、一般的に美しいと認識されるだろうものは、何ひとつない。ならば、この少年の言う美しいものとは。
 そこまで考えたところで、男は少年の色違いの瞳に己が映っていることに気づいた。美しいといった彼は、恍惚とした表情で、真っすぐに男を見つめている。
 では、美しいのは私か。
 その可能性に至り、それが紛れもない事実だと受け止めた瞬間、男は身体の奥底からこれまでに経験のない何かが湧き上がるのを感じた。確かな熱を孕んで全身を駆け巡るそれに、彼は心の底から驚き、目を見開く。
 こんなものは知らない。何故なら男の感情は、そのことごとくが欠落しているからだ。いや、欠落という表現は正しくない。男の感情は欠落しているのではなく、生まれる前から生まれるべきではないとされ、不要な廃棄物として処分されていた。
 産声を上げることすら許されないそれは、しかし他者にそうあれと強制されたものではない。男自らが、他でもない己が生きるために、全ての感情の誕生を拒み続けていたのだった。代わりに男は、一般の感性であれば喜びを感じるであろう時には喜びの表情を、悲しみを感じるであろう時には悲しみの表情を浮かべるようにしている。幼い頃は、意識してその時々に応じた表情をしようと努めなければいけなくて随分疲弊したものだったが、今はもうすっかり慣れてしまった。それを証拠に、最早男が意識をせずとも冷静な脳がその場に適した感情を機械的に判断し、必要なときに必要な表情を用意し伝達してくれている。
 故に、男が本心から何かを感じたことは一度もない。何故なら彼は、魂が抱く真の感情が己の命を脅かすものだと本能的に悟っていた。感情の欠片でも発露してしまえば、この魂は自らの器を焼き尽くしてしまうと、生存本能が知っていた。男自身がそれを認識することはないが、本能は確かに知っていたのだ。
 だがどうだ。今男の全身を駆け、満たしているそれは、確かに心の底から生まれた本当の感情だった。己が生きるために何を捨ててでも誕生を拒むべきだった感情が、生まれ落ちてしまったのだ。
 これは男も少年も知らない事実。少年の異形の瞳が男の本質、魂そのものを見透かして溢れた純粋すぎるまでの賛美の言葉が、男の魂に届いてしまったが故に生じてしまった、想定し得なかった事態。
 己自身にすら隠し続けていた本当を、こんなにも簡単に見透かして。男すらも知らない自分の本質を、こんなにも美しいと讃えて。
 それは、男がこれまで浴びて来た薄っぺらな上辺だけの言葉とも違うし、多くの人々から向けられる信仰にも似た崇拝の言葉とも違う。こんなにも純粋な、たったひとつの生命に対する言祝ぎなど、男はただの一度も受けたことがない。
 そして男は気づいてしまう。己の全身を駆ける、いっそ熱いほどの温度を孕んだこれが、歓喜であると。
 美しいと言われた。この身が、この魂が、もしかするとこの生き方すらも、世界中の何よりも尊く美しいものだと。
 その瞬間、男の身を巡る熱が弾けた。赤銅の髪がみるみる内に毛先から色を変え、夜闇に煌めく炎のような不思議な色を伴って輝き出す。太陽を滲ませたような金の双眸はよりいっそう光を強め、揺らぐ橙色は燐光を放って少年を見つめ返した。
 男の明らかな変質に、異形の瞳は何を見たのだろうか。一際大きく目を見開いた少年は、突然力を失ったようにかくりと傾いた。そのまま地面にぶつかりそうになった小さな身体を、男がそっと支えるように抱き寄せる。
 少年の顔を見れば、その瞼は閉ざされており、意識を失っているようだった。
「……私は、そんなにも美しいだろうか?」
 男の大きな手がするりと少年の頬を滑る。
「そうか。美しいか」
 男の髪から、足元から、ふわりふわりと炎が生じ、衣のように揺らぎ始める。それに呼応するように、周囲の火霊たちがぱちぱちと火を弾けさせた。それはまるで何かの誕生を祝う神聖な儀式のように、風に舞う火の粉たちが踊っている。
「お前、名はなんと言ったか」
 すぐ近くで魔物の声が聞こえたような気もしたが、男にはそんなくだらないことに意識をやる余裕などなかった。それよりも、今腕に抱いている子の名前を記憶から洗い出すことの方が優先されるべきなのだ。
 男が命令どころか意識もしていないのに、身に纏う炎が意思を持ったかのように動いても。それが男を殺そうと向かってきた魔物を焼き払っても。そんなことは些末な出来事にしかすぎなかった。自分をこの魂ごと愛してくれた少年の名に比べれば、そんなもの。
 時間にして瞬き数度程度の間だったのだろう。だが、その時間が途方もなく長いもののように感じた。そして、とうとう男は、その機械じみて精巧な記憶から答えを割り出す。そうだ、この幼い店主の名前は、
「……鏡哉」
 甘く蕩けきった声で、名が紡がれた。確かな音で発されたそれは、少年と男に何をもたらしただろうか。それは、少年はおろか、男すらも知らないことだった。
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