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第1章 かなしい蝶と煌炎の獅子

煌炎

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 耳に障る高い声と全身に無数に走る鈍い痛み。そのどれもを、少年は幕を一枚隔てたところで見ていた。より近い感覚で言うならば、少年はその舞台をすぐそこの客席から見ているのだ。
 けれど少年は知っている。投げられる言葉の怨嗟が、ぶつけられる呪詛が。振り上げられた手がもたらす恐怖が。押し付けられる熱の苦痛が。どれほどまでに、その身体と心を傷つけ、凍てつかせていくのかを。
 そして、それでもなお、想うのを、こいねがい続けるのを、やめられなどしないのだ。
 少年は知っている。何故なら、少年は観客であると同時に、舞台上で悲鳴を上げる『彼』でもあるからだ。
 世界とは苦痛である。物心ついたときから、世界というものは、ただ自身を脅かすものに過ぎず、『彼』はただ虫のように縮こまって、暴風が過ぎていくのを待つことしかできなかった。
 伸ばした手が取られることはないと、知っていた。発する悲鳴は余計に嵐を呼ぶと悟り、喉を潰さんばかりに押さえつけていた。涙は零すだけ、貴重な水分と体力を失うだけで、いつの間にか瞳は常に乾いていた。
 死んでしまえたなら、どれだけ楽だっただろうか。狭い世界で、恐らくはただそれだけが真の救いで、それでも『彼』は救いを選ばず、矮小な命にしがみつき続けた。
 信じているのだ。いや、信じないではいられないのだ。少年には判る。疑いようもなく舞台の上の『彼』と同じ少年には、ただ真実として、それが理解できる。そして同時に、自分と同じだけれど違う声が、頭の奥の方で囁く。
――ああ、なんて無駄なことだろう。
 何も変わらない。何も変えられない。それは事実だ。これは事実だ。
 彼女の憎悪の籠る嘆きは、不思議と悲鳴じみて聞こえた。大人の膂力で思い切り頬を殴られたのは舞台の『彼』であるというのに、悲壮な声はいつもよりも胸と耳につんざいて響く。
 ああ、この人も苦しいのだ。
 判っていることだった。『彼』が存在することそのものが、ただただ苦痛で仕方ないのだ。呪わなければ気が済まない。排除しなければ立ちいかない。そうでなくては、この美しい人はいきてはゆかれない。
 衝撃にぐらぐらと揺れる頭。脳と身体の動きを鈍くする痛み。手足を凍らせようとする恐怖。それらを引き摺りながら逃げて、けれど『彼』は逃げきれない。
 色んなものを巻き込んで床に叩き伏せられた『彼』の首に、大きなふたつの手が伸びる。
 ごめんなさい。謝ったところで、何ひとつとして通じることはない。長い黒髪を振り乱す女の世界は『彼』を含まずに完結しているはずで、故に異物である『彼』の言葉など、ただの忌々しい騒音に過ぎないのだ。
 少年の眺める先、『彼』の目の前、見上げた美しい顔はいっとう醜く歪んでいる。青白い炎が見えそうな口と吊り上がった目尻は、きっと話に聞く鬼はこんな顔をしているのだろうと、少年に、『彼』に、思わせた。
――ああ、僕が悪いから。
 それは、どちらの言葉だっただろうか。



 ぱちり、と目を開けて、視界に飛び込んできた白い天井に、少年は混乱した。記憶にある限り、幼い頃から見ていた天井は、暗く薄汚れた茶色であったはずであり、周囲が薄暗い中では黒といっても差し支えないはずである。瞬きもせず天井を凝視して、己の鼓動を十数回聞いたあたりで、ああそうだ、と思い至った。
 ここはリアンジュナイル大陸。金の国と呼ばれるギルガルドの、自宅兼店舗の自室であり、あの場所ではない。
 小さく息を吐き出し、止めていた呼吸を少しずつ再開して、少年は額を拭った。手汗も酷いが額にも、もっと言うなら全身汗みずくで、布団の中は嫌な湿り気がある。服の張りつく感覚が不快で、少年は少し眉根を寄せた。
 カーテンを開けていないのを差し引いても薄暗い室内は、今の時刻が、明らかに少年が普段起床する時間よりも早いと告げている。とは言え、もう一度寝直すという考えは浮かぶ前から却下され、彼は身体を起こしてひとつ溜息をついた。
 幼き頃を綴る悪夢は、昨夜のように不定期に少年の眠りを妨げた。起きたときにはもうほとんどが曖昧になっているけれど、夢の中の母の顔が醜く歪み、呪いの言葉と暴力が降り注いだことだけは覚えている。それはとうの昔に終わりを告げた過去だ。今はもう失われてしまったものだ。けれど、まるで忘れることを許さないかのように繰り返されるその夢は、きっと母の遺した呪いで、今も、そして永遠に、解かれないままなのだろう。
 ベッドサイドの眼帯を手に取り、手に持ったまま服と下着をタンスから取り出して風呂場へ向かう。傷や火傷やらで醜く引き攣った身体を晒していると、どうしようもなく不安になってくるので、基本的にいつもカラスの行水だ。シャワーを頭から浴びて簡単に汗を流し、すぐに上がる。身に着けるのはいつもの服装。汚い身体を晒すことを厭う少年にとって、風呂上がりというのは薄着をする理由にはならない。
 どうしてだか、風呂の間も右眼を終始前髪で隠していた少年は、やはり右眼だけを瞑ったまま、ざっくり髪を拭いて眼帯を着ける。そこまでして、ようやく少年はひとここちついた。
(……どうしようかな)
 ひとここちついたは良いが、暗澹たる気分が回復するわけでもない。
 少年がいつも活動を開始し始めるのは早くてももう少し日が昇った頃合いからで、逆を言えばイレギュラーなことがない限り、もっと遅くでも事足りるのだ。娯楽らしい娯楽に明るいわけではないし、そもそも気分が沈んでいて、普段以上に積極性を持てない少年は、当然のように時間を持て余した。
 洗面所を出た廊下で棒立ちすること暫く。のろのろと動き出した彼の足は、店舗として使っている方へ動き出した。玄関がそのまま店舗の出入り口であるため、外に出るには店の中を通らないとならないのだ。
 取り敢えず外の空気を吸って、もう少し落ち着いてから何をするか考えよう。そう思った少年が玄関の鍵を開け、ドアを内側へ引いた所で、
「おはよう、店主殿」
 先を塞ぐかのように、いつもの男が立っていた。
「…………おはようございます。何の用でしょう」
 ここ数日顔を見せなかったら、てっきりもうこの店にちょっかいを掛けるのに飽いてくれたのかと思ったが、そうではなかったようだ。常のように表情に微笑みを作りつつも、少年は内心落胆した。
「いや、今日はいつもより早く目が覚めてしまったから、朝の散歩をしていたのだ。この時間は良いな。まだ人も少なく、夜でも賑わっているこの首都が、最も静かになる時間なのだろう。この季節だと少々暗くて寒いのがつらいところだが、それでも、散歩をするにはもってこいだとは思わんか?」
「はあ」
 曖昧な返事をした少年だったが、男の言葉が半分ほど嘘であることは判っていた。本当に朝の散歩をしているだけなら、こうやって店の前に突っ立っているはずがない。大方また仕事の邪魔をしに来たのだろう。それにしたって、こんな時間に来られても普通は開いていないのだが。
 そう言えば、ここ最近この男は例の裏カジノに入り浸っているらしい、と常連客の誰かが言っていたような気がする。そんなことをいちいち報告されても困るのだが、何故か少年と男が親しい仲になっているという勘違いが広まっているらしく、男が店に来ていないときでも男の話を聞くことが少なからずあった。
「……何かあったのか?」
「はい?」
「少し顔色が悪い。何か気にかかるようなことでも?」
 ああ嫌だ。どうしてこの男は、踏み込まれたくない内心にずかずかと土足で立ち入ってくるのだろう。
「いえ、別にそんなことは」
「夢見が悪いときは、ぐっすり眠るのが一番だ。今度安眠できる香でも紹介しようか?」
「……お気遣いありがとうございます。ですが、お気持ちだけで結構です」
 相変わらず、この男の言葉は少年の神経をざわつかせる。なんだって顔色の悪さが夢に直結するのだろうか。まさか少年の夢の中まで覗いているなどということはないと思うが、断言しきれないあたり、やはり気持ちが悪い。
「ああ、ところで、ここいらとは違い、もう少し中心部では既に何やら賑わしかったが、今日は月に一度の貿易祭がある日なのだったな。そのせいだろうか」
 言われ、はたと少年は思い出した。悪夢のせいですっかり頭から飛んでいたが、そうだ。今日は貿易祭の日である。
 貿易と錬金術の国ギルガルドで行われる、月に一度の貿易祭。リアンジュナイル一の輸出入量を誇るギルガルド王国では常日頃から盛んに貿易が行われているが、その中でも特に大きいのが、月例開催されている貿易祭なのだ。貿易祭は、滅多に手に入ることのない稀少な品々がやり取りされることで有名である。例えば、以前男がバーで飲んだエル・アウレアなどもそうだ。あの酒が流通するのは、銀の国のごく限られた場所だけで、国外で手に入れられる可能性があるのは、金の国における貿易祭だけである。故に、貿易祭の日は国内外から多くの人が訪れ、賑やかな首都ギルドレッドが一層賑わいを見せるのだった。
「店主殿が行くとしたら、夜の市かな?」
 貿易祭は、陽が昇ってから夕刻まで行われる昼の市と、陽が沈んでから日が替わる時間まで行われる夜の市とで構成されており、昼の市では主に一般向けの最終生産物が、夜の市では職人や技術者向けの中間生産物がやり取りされている。
 そして、男の言った通り、少年はこの貿易祭に毎月欠かさず顔を出している職人の一人だった。
 夜の市では、普段はお目にかかれないような稀少で美しい染料が手に入るのだ。少年は人混みがとても苦手だったが、夜の市で購入できる染料は、それを押してでも手に入れたいと思えるものが多い。だから、今夜も当然、市場に出向くつもりであった。
「はい。なので、今日は少し早めに店を閉める予定です」
 頷けば、男は何故か嬉しそうに笑う。
「そうか。それはちょうど良かった。私も是非名高い貿易祭を覗こうと思っているのだが、夜の市は職人や商人の証書を持っている者とその同行人しか入れないと聞く」
 そこまで聞いたところで、次の言葉を察してしまった少年はいっそ耳を塞いでしまいたい思いに駆られたが、恐らくはそれに気づいているだろう男は気にした素振りもなく、胡散臭いほどに純粋な笑みを湛えてみせた。
「ここはひとつ、店主殿の同行人として連れて行っては貰えないだろうか。勿論、荷物持ちでもなんでもしよう」
 予想通りの言葉に、しかし咄嗟に上手い断り文句が思い浮かばなかった少年は、渋々頷くことしかできないのであった。



 夜の市に連れて行って貰う約束を(半ば無理矢理)取り付けた男は、満足して宿の床に入った。勿論、夜の市を見て回れることもそうだが、それよりも昨夜の功績が大きい。ようやく、カジノ客の口から『失せ物』についての情報を得ることができたのだ。
 聞いたところによると、男の探し物はよりにもよって、あのカジノの更に奥にあるらしいオークション会場で競りに出されるらしい。明確に『失せ物』である旨が聞き出せた訳ではないが、この世にふたつとない珍品中の珍品、という謳い文句に該当するものなど、他には浮かばなかった。
 しかし、さすがの男もこれには驚いてしまった。まさか相手がそこまでの暴挙に出るとは思っていなかったのだ。もしもオークションが開催されてしまったならば、いよいよ国家戦争ものだ。なんとしても、オークションという衆目に晒される前に、取り戻さなければならない。
 だが、オークションなどと言うそれなりに思い切った手段を選んでくれたおかげで、逆に発覚も早かったのだろう。どうやら一週間後に開かれるらしいそれを見据え、男は本格的に動き出していた。
 とは言え、一日中気を張っているのも馬鹿らしい。物事には動くべき時というものがあるのだ。そうではない時にいくらがむしゃらになったところで、状況が好転することなどない。
 という訳で、宿のベッドで十分な睡眠を取ってから、昼の市を覗きにふらりと外に出たのは、本当にただの物見遊山だった。店主と約束した時間まではそれなりにあるし、折角だから久々に貿易祭に顔を出すのも悪くないと思ったのだ。



 男が再び店を訪ねて来たのは、日が沈む少し前だった。扉を叩く音にひとつ溜息を吐き出して外に出れば、男が笑顔を見せる。
「それでは、よろしくお願いする」
「……はい。でも、僕はそんなに長居はできないと思うのですが」
「何故だ? 折角の貿易祭だと言うのに」
「人混みは苦手で……」
 相も変わらずの人工めいた笑顔を浮かべてそう答えた少年に、男はそうかと頷いて歩き出した。
 恐らくは、少年の歩幅に合わせて普段よりゆっくりと歩いてくれているのだろう。隣を進む大柄な男をそっと見上げれば、男はずっとこちらを見ていたのか、ばちりと目が合った。慌てて視線を下げた少年は、やはり居心地の悪さを感じずにはいられない。
 そもそも誰かと買い物に行くなど、何年ぶりだろう。だいぶ昔のそれだって、自分に刺青の刺し方を教えてくれた師匠とだった気がする。もしかすると、赤の他人と買い物に行ったことなどなかったかもしれない。
 そんなことを考えながら歩く少年だったが、夜の市に着くと、僅かだが顔を綻ばせた。人混みは苦手だが、夜の市で出会える染料には決まって極上のものがあるのだ。それだけでなく、昔から美しいものに並々ならぬ執着を持ちやすい少年にとって、リアンジュナイル大陸中からかき集められた稀少な材料たちは、とても魅力的だった。
 貿易祭が行われる会場はとても広い。一応屋外ではあるが、貿易祭を行うために建造された大きな屋根があり、雨を凌げる造りになっている。また、屋根にはギルガルド国の錬金術を駆使した装置が設置されていて、それにより、屋根の下の空間は一定の温度に保たれ、外からの風を遮るようになっていた。
 会場はいくつかのフロアに分かれていて、出品者たちはそれぞれに与えられたスペースに簡易的なブースを設けていた。客は皆己の求める品物があるフロアに行き、思い思いの買い物を楽しむのだ。とにかく出品側も購入側も人が多いため、人気の品を扱っているブースなどでは、長蛇の列ができあがることも珍しくはない。
 少年の目的は飽くまでも染料だから、取り敢えずは真っ先に染料のフロアに向かうが、道中でちらりと窺える品々は、どうやら普段にも増して珍しいものが多いようだ。これなら、少しだけなら長居して他のフロアを覗くのも良いかもしれない、という考えすらちらついた。
「ほう、炎華鳥の羽根に、ウンディーネの水衣、あちらに見えるのはゴーレムの核だな? どれもそう簡単に手に入るものではないが、さすがは貿易祭、と言ったところか」
「いえ、今日は特にすごいと思います。普段の貿易祭でも珍しい品を見かけることくらいはありますが、滅多に手に入らない品がこんなに沢山置いてあることなんて、なかなかありませんから」
「なるほどそうなのか。では、私は運が良いのだろうな」
 嬉しそうに笑った男に、そうですね、と適当な返事を返し、少年は先を急いだ。
 何せ、男はどうだか知らないが、少年はとても運が悪いのだ。買い物に行ったら欲しかったものが品切れだったり、帰りに恐喝にあってせっかく購入した品物を持って行かれてしまったり、数え出したらきりがない。故に、今日も急がなくては、珍しい染料がなくなってしまうかもしれない。
「あの、僕は染料のフロアに行くので、貴方はどうぞお好きなところを見ていてください」
「うん? いや、同行人ということにして貰う代わりに荷物持ちくらいはすると言っただろう。店主殿について行くが」
「いえ、付き合わせてしまうのは申し訳ないので」
 折角素敵なものに囲まれた空間に居るのに、男が隣に居ては台無しである。丁重にお断りすれば、男は存外にあっさりと引いてくれた。やはり、よく判らない人だ。
「それでは、また後で落ち合おう。場所は、……中央に大きな噴水があったな。そこでどうだろうか?」
「判りました」
 男と別れ、急ぎ足で目的のフロアに向かえば、少年の目に様々な染料が飛び込んでくる。見落としがないようにと少し時間をかけてフロアを巡った中で、一際強く少年の目を引いたのは、一角獣の角を削った粉末をたっぷりと含んだ染料だった。きっと、無色の染料に混ぜ込んだのだろう。真珠色のそれは、会場のライトの当たり方によって色を変えて煌めき、まるで虹をそのまま閉じ込めたかのように綺麗だった。
 話には聞いたことがあったが、少年も実物は初めて見た。想像以上の美しさに、ほう、と息を吐き出して見惚れてしまう。しばし人の流れを妨げていることにすら気づかないままその色に見入っていた少年は、思い出したように掲示されている値段を見て、別の意味で息を吐いた。
 ティースプーンひと匙で金貨一枚は、少年が手を出すには高すぎる。だが、それを理由に諦めるには、この染料は美しすぎた。
 散々悩んだ少年だったが、真珠色の染料以外で買おうと思っていたもののおおまかな見積もりをした結果、ふた匙分だけであれば、なんとか残りの手持ちで買えそうだという結論に至った。今月の生活は本当にギリギリになってしまうけれど、それでも、どうしてもあの真珠色が欲しかったのだ。
 結局、少年は自身の生活費を大幅に削って一角獣の染料を買うことに決めた。他の買い物を済ませているうちに売り切れてしまったら悲しいから、まずはこれを買ってしまおう。そう考えて少年は、商人に金貨を一枚差し出した。手持ちのリンカネット金貨はこれだけだ。残っているのは、ジュカイラ銀貨が十枚と、イルテアン銅貨が二十枚ほどだろうか。金貨は、銀貨で二十枚、銅貨で千枚分の価値を持つため、ふた匙ばかりの染料に金貨一枚をはたくのは、とても覚悟のいることだった。
 そうして手に入れた染料の小瓶を大切にしまい、珍しく少しほっこりとした表情を浮かべた少年は、買い物の続きをしようと再びフロアを歩き出すのだった。



 少年が残りの買い物を済ませている頃、のんびりと夜市の賑わいを楽しんでいた男は、ふと、異変に気づいた。
 夜風が、ある。
 周囲の人間たちは買い物に夢中で気づいていないようだったが、確かに、夜の風が肌を撫でたのを感じた。
 それは明らかな異常事態だった。何故なら、貿易祭の会場は例外なく屋根の下だ。そして、錬金錬成によって生み出された装置を内包する屋根に覆われている空間では、その空間特有の空調設定がされており、外部の気候の一切が影響しない環境になっているはずである。だというのに、男の頬を撫でた夜気は、確かに外のものであった。
「……風霊。屋根の様子を見ることはできるか?」
 小さく抑えた声で風の精霊を呼べば、風がふわりと男の髪を揺らした。
「空調機に何かしらの異常があったのやもしれん。だが、ギルガルドの、それも貿易祭の会場の装置が故障する可能性は限りなく低い。この交易の場は貿易国にとっての要だからな。ギルガルド王ならば、常に万全の整備を行っているはずだろう」
 言外に、非常事態の前触れかもしれないと匂わせた男の言葉に、風霊がふわりと駆ける。そのまま天井へとその身を滑らせようとした、その時だった。
 バキ、と大きな音を立てて、天井に亀裂が走った。同時に、会場を照らしていたライトが端から弾け、砕け散って行く。たちまち夜闇に包まれた会場に、今度は凄まじい悲鳴が響き渡った。急に暗くなったせいで闇に慣れない目では明確な判断はできないが、恐らくは、砕けたライトの破片が降って来たのだろう。至る所で次々に上がる悲鳴に、男の判断は早かった。
「風霊!」
 強く呼ぶ声に、風の精霊が奔った。そこに詠唱などはなく、しかし精霊は男の思う通り、降り注ぐ硝子の破片の数々を風で包みこみ、会場の外へと運んで行く。だが、阿鼻叫喚は止まない。いや、それどころか、今度はまた種類の違う悲鳴が男の鼓膜を震わせた。そこに乗せられた恐怖と苦痛の色を男が察するよりも早く、群衆がわっと動き出す。まるで何かから逃れるように駆け出す人波に押されながらも、男は現状の把握に努めた。
 半狂乱になって駆ける人の群れは、どうやら出口を目指しているらしい。長身を生かし、群衆が進むのとは逆の方まで視線を投げたところで、新しい悲鳴が耳に刺さった。比較的近くで聞こえた声に男が振り返れば、先程まで人々が向かっていた先に、巨大な何かが居る。
 悲鳴が生まれた場所に居たのは、リアンジュナイル各地を旅してまわった男すらも見たことがない、何かだった。
 黒い、影のような人型。だが、一見すると確かに巨大な人にも見えるそれは、肩から伸びる腕とは別に、脇腹のあたりから生えるもう一対の腕を持っていた。四本の手それぞれに人間を掴んでいるそれは、何がおかしいのか、巨体を揺らして笑っている。そして次の瞬間、ゆうに男の三倍はあろう巨体からは想像できない速さで跳躍した。高く跳んだ先で、掴んでいた人間を人混みに向かって投げつける。化け物の力で握られた脆い身体は、既にいたるところがおかしな方向に捻じ曲がっており、それをぶつけられた人々は、更に狂ったような金切り声をあげた。
 人々の悲鳴に、化け物はことさら嬉しそうに、耳障りな酷い笑い声を上げた。そのまま落下の勢いを利用して人混みの中心に着地し、店と数人を巻き込んで踏み潰す。骨が折れ、肉が潰される音と、喧騒。それに混じり、生臭い鉄錆の臭いが、むっと男の鼻をついた。
 これはまずい。会場は既に大混乱に陥っており、これでは落ち着いて状況を把握することすらできない。耳に届く悲鳴の発生源はここだけではなく、男が予想するに、会場の各地で化け物が出現しているのだろう。
 いや、それよりも、衛兵は何をしているのだろうか。大きな交易の場である以上、警備もことさら厳重にしいているはずだ。実際、会場内には何人もの衛兵が控えていた。だが、少なくともこの場所には衛兵の姿が見えない。
 これはつまり、会場に置いている衛兵だけでは処理しきれないほどに化け物の数が多い、という可能性を示唆していた。
 男はさっと近くの店に目を走らせた。そして、少し離れた店に華美な装飾が施された剣が飾られているのを見つけ、駆け寄る。店の中にはまだ商人が残っていたが、男は気にせずに剣を引っ掴んだ。
「貰うぞ!」
 懐から適当に出した金貨数枚を店に投げ、男は人々の隙間を縫うようにして駆け出した。まるで人々の動きを予測しているかのように、人混みの中を器用に進んで行く。向かう先に居る化け物に目をやれば、どうやら獲物を踏み潰す行為が気に入ったらしく、軽快に跳んでは人々を潰して遊んでいるようだった。
(とにかく、人々の逃げる道を作ってやらねば)
 ようやく近くまで辿り着いた男の目の前で、化け物が再び跳躍しようと身を屈めた。だが、巨体が地を離れるより速く、男は前方を目指して強く地面を蹴った。化け物の胴を一閃のうちに斬り捨てようと、剣が振るわれる。しかし、
 狙い通り化け物の腹に当たった剣は、だが、その皮膚を切り裂くことができなかった。硬いゴムのような感触が剣を通して手に伝わり、男はすぐさま戦術を切り替えた。本当は斬り捨てるつもりだったが、どうやら今この瞬間にそれをするのは難しいようだ。それならばと、剣を押し当てた勢いのまま力任せに腕を振りぬく。
 男の膂力に押された巨体が、ぐらりと傾いた。が、それまでである。さすがの男も己の数倍の体重を転がすことはできなかったようだ。だが化け物がたたらを踏んだ隙に、彼は体勢を整えるべく、一度巨体から距離を取った。
 ちらりと視線を巡らせれば、周囲には震える人々。そして、化け物に一人向かう男に対する、明らかな期待の目。
 困ったことに、これは割と最悪の状況である。これだけ注目を浴びてしまうと、折角かけ直してもらった目くらましも余り役に立たないかもしれない。だがしかし、残念ながら、だからといって何もしない訳にもいかなかった。
「致し方あるまい。居るな? 火霊」
 小声で語りかければ、男の意図を察した炎の精霊が、握った剣の刀身に僅かに纏わりつく。
 いくら装飾が美しかろうと、所詮は客寄せ展示用の剣だ。化け物の類を斬れないのも仕方がないだろう。リアンジュナイルに住む魔物でも、退魔の効果などを付与した武器でなければ傷一つつけられないものが少なくはない。恐らくは、眼前のこの化け物も、その類の防御特性を持った生き物なのだろう。この場に男の剣があれば事足りる話だったのだが、残念ながらあれは宿に置いて来てしまった。
 だが、刀身に魔法を付与するならば、疑似的に退魔の作用を発揮することも可能だろう。この剣は魔法付与に適したエンチャントウェポンではないようだから、そこまで長持ちはしないだろうが、それでもないよりは良い。
 淡い炎色の光を纏った剣を構え、男が再び駆ける。化け物の方も次の獲物を男に定めたようで、二対の腕を振りかざして向かって来た。男が敵の懐に入るよりも早く、固められた一対の拳が頭上から襲う。だが、男はそれを剣の柄で右殴りに弾いて、軌道をずらした。すかさず残りの二本の腕が男を掴もうと伸びるが、拳を弾いたときの力を利用して左に跳んで避ける。そのまま上手く化け物の脇腹に潜った男は、柄を両手で握り直し、がら空きの胴に刃を叩きこんだ。
 じゅう、というゴムの焦げるような音と悪臭を放ち、刀身が化け物の肉に埋もれる。やはり、今度は刃が通るようだ。それをしかと確認した後の男の動きは速かった。前に大きく脚を踏み込み、化け物の手が己に襲い掛かる前に、前方へと両腕を振りぬく。炎の精霊の加護を受けた刀身は、まるで最初から戦場で躍ることを目的に作られた武具のごとく、分厚い肉と骨を断ち、巨体の胴を両断した。
 切り口からは黒々としたおびただしい血が噴き上がり、辺りに激しく跳び散った。当然周囲の人間にも降り注いだそれに、しかし群衆は気にする余裕もなく、我先にと駆け出す。恐慌状態となった人々から男に対する礼はなく、寧ろ開けた道の真ん中に立つ男をまるで邪魔者であるかのように押しのけながら、群れは出口を目指した。
 窮地を救った人間に対するものとは思えない仕打ちだったが、男に気にした様子はなかった。寧ろ、自分を注視しないでくれるのは好都合だった。
 ちらりと目に入った自身の長髪の先は、既にどことなく赤みを帯びてきてしまっている。やはり戦闘は特によろしくない。どうしても気分が高まってしまい、目くらましが解けるきっかけになってしまうのだ。
 さすがにまだ顔の造形までは晒されていないとは思うが、髪が腰に届くくらい長いことだとか、くせ毛なことだとか、そこら辺の情報は見て取れてしまうだろう。
 取り敢えず、このまま人に揉まれていても仕方がない。そう思った彼は、近場にある店の布張りの屋根に跳び乗った。男の体重を支えるには若干心許ないが、少しの間であれば耐えてくれるだろう。
 そうして改めて辺りを見渡してみて、男は少し顔を顰めた。
 先ほど魔物が出現した辺りに、魔導陣が光っていたのだ。何の前触れもなく魔物が現れたことに疑問を抱いていた男だったが、これで合点が行った。魔導に詳しくない男には、あの魔導陣が持つ正確な効果は判らないが、魔物を召喚する召喚陣のようなものだという解釈で、概ね間違いないだろう。つまりこれは、何者かが意図的に引き起こした事件なのだ。
 似たような陣は、きっと多く仕込まれていたのだろう。会場の至る所で、火の手が上がっている。だが、それだけではなかった。驚いたことに、遥か遠く、恐らくは首都ギルドレッドの最端に近いあたりでも、僅かだが燃えるような赤色が見える。
「風霊。あれは何だ」
 男の声に、風霊が囁く。
 曰く、貿易祭で事件が起こる少し前に、首都の外れの四方で火の手が上がったらしい。風霊も把握しきっている訳ではないようだが、やはりこちらも未知の魔物の出現を伴っている恐れがあると、彼女たちは言った。
「なるほど」
 中心部からですら確認できるほど大きな炎が噴き上がっているということは、向こうは向こうで大変なことになっているのだろう。そして、魔物が貿易祭を襲うよりも早くそれが起こったとなれば、当然兵力が割かれるのはあちらである。
 つまり、郊外で上がった火の手は囮だったのだ。
 そもそも、ギルガルド国王はまだ幼くとも王の器であると男は思っている。その国王の膝元における交易の場で不測の事態が生じたところで、国王直属の近衛兵などの迅速な投入により、混乱はすぐに収束するはずだ。それが、未だに近衛兵が来た様子が見られない。このことから察するに、恐らくは先んじて生じていた四方の戦火の鎮圧に努めたのだろう。大事な貿易祭の最中だ。いくら会場から遠く離れているとは言え、首都を脅かす事件は素早く処理するに限る。故に、金の国王はすぐさま動かせる兵の多くを四方の処理に使ったのではないだろうか。
 それに、この距離で判るほどの戦火だ。仮に外れでの襲撃とこちらでの襲撃が同時に起こった所で、全てを対処しきれるほどの兵力を集めるのにはそれなりの時間を要するだろう。
 それでも、聡明な金の王ならば、真っ先に貿易祭の保護に打って出る。それを知ってか、敵は貿易祭の場に集まる兵を限りなく抑えるために、このような時間差の攻撃を仕掛けたのだろう。それに加え、何の前触れもない突然の襲撃だ。さすがにこれは、若き国王の手に余る。
 ふ、と息を吐いた男が、もう一度辺りを見回す。
 会場の出入り口は一カ所ではない。人々は皆、思い思いの出口を目指し、中央の噴水から見て放射状に散り散りになっているようだった。そして、噴水の直下には、青白く光る巨大な魔導陣がある。魔物たちは、どうやら多くがそこから湧き出しているようだった。先程男が確認したような、魔物一体分くらいの小さな魔導陣は、人々が逃げるだろう先にいくつか設置されているのだろう。だが、いくら小さな魔導陣を壊したところで、中央のあれをどうにかしなければ、焼け石に水だ。そして、現状の兵力では人々を逃がすことで手一杯で、大元の魔導陣までは手が回らない、といったところか。
 人の少ない場所を選んで地面に跳び下りた男は、先程の魔物が出てきた魔導陣を剣で一閃した。すると、じわりと陣が滲み、融けるようにして消え去っていく。
 それを確認してから、彼は中心部を目指して駆け出した。先程魔物を倒して道を作ったせいか、さすがにこのルート上に残る人は少ない。他の場所はまだだろうが、この区画に居た人々は大方逃げおおせたのだろう。ならば。
「風霊、屋根の亀裂が気掛かりだ。崩壊と落下に備えて、何かあればすぐに対応しろ」
 命に従い風が舞い上がると同時に、今度は一際強い声が空気を震わせる。
「火霊!」
 駆ける脚を緩めぬまま呼べば、熱気が男の周囲でゆらりと揺れた。鎮火ならば水霊に任せるのが最良の判断だが、男は水霊との相性が一際悪く、水霊魔法だけは全く扱えない。風で火の拡大を抑え込む方法もあるにはあるが、風霊魔法を得意とする男でも、精々この会場一帯の炎をどうにかするのが限度だろう。
 よって、ここで選択できる方法はひとつである。
「私の魔力であればいくら使っても構わん。首都全域に散り、全ての戦火に潜り込め。可能な限り存在を気取られぬよう、徐々にで良い。あらゆる炎を司る精霊の誇りにかけて、僅かな種火すら残さず鎮火してみせよ!」
 びりびりとした威厳すら感じさせる声が、朗々と響く。その瞬間、男の足元から激しい炎が噴き上がり、たちまちに四方へと迸った。
「ああこら! 存在を気取られるなと言った傍から派手に飛び出る阿呆がいるか!」
 人の話をきちんと聞けと苦言を呈した男に、炎の精霊たちは、やたらと撒き散らしていた炎を慌てて掻き消した。まったく困ったことだが、彼らは男の命を受けたことに歓喜し、はしゃいでいるのだ。そうでなくとも、火霊たちは四大精霊一活発で目立ちたがりやである。そこに大好きな彼からの頼みごとが加われば、こうなるのはある程度予想がついていた。
 だから男は、身元を隠している時にはあまり火霊魔法を使わないのだ。だが、現状を打破するにはこの手段しかない。事実、奔った火霊たちは間違いなく仕事を成し遂げてくるだろう。郊外にそれなりの兵力があるだろうことを考えれば、これくらいの手助けで、あちらの騒動は比較的問題なく収まるはずだ。残るは、この場だけである。
 貿易祭や人々への被害も気にならない訳ではないが、男が何よりも心配しているのは、刺青師の少年のことであった。
 折角ここまで順調に事を進めているのだから、ここで全て無駄になるのだけは避けたい。丸々太らせた子山羊には、きちんと役目を果たすまでは生きていて貰わねば困るのだ。
 飾りだった剣を携え、男は噴水の元を目指す。一部の火霊は、既にこの会場の炎の中に紛れたのだろう。己から僅かずつ魔力が喰われているのを感じた。
 広大な首都の全域に渡り魔法を行使することなど、通常であれば長い詠唱を以てしても不可能なことだったが、男にとってはどうということではない。それどころか、詠唱すら必要のない程度には容易なことであった。
 彼は、その魂を炎に愛されている。故に、炎が彼を傷つけることはなく、炎が彼を想わないことはない。だが、炎の愛情を存分に浴びて行使する火霊魔法は、すなわち、折角魔法で隠していた彼の魂の輝きが漏れ出てしまう行為でもあった。
 その身の魔力を喰われるごとに、彼を覆っていた薄靄が晴れていく。髪の毛の先から薄衣を脱ぐように洗われていった先にあるのは、くすんだ炎のような色を湛える長髪。癖の強い赤銅色の髪は、ようやく晒された素顔に、とても似合っていた。
 美形とは言えないものの、立派な体躯に見合う、精悍に整った顔。そしてそこに二つ嵌るのは、まるで炎を溶かし込んだように橙色がかった、金色の瞳。
 身を覆う霧が全て消えた後に残ったのは、炎を思わせる男の姿だった。
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