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第1章 かなしい蝶と煌炎の獅子
潜入
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常連客の発した『裏カジノ』という単語に男が顕著に反応を示したのは、謎の告白から数日たった後のことだった。
発言した本人が僅かに呼吸を乱したことから察するに、例にもよって男の巧みな言述に乗せられて口を滑らせてしまったのだろう。
金の国では、賭け事の類は賭博法により厳しく管理されている。わざわざ裏とつけるあたり、法に準じた賭博ではないだろうことくらいは、まだ二十にも満たない少年でも想像できた。同時に、思わず顔を顰めてしまう。
面倒事や厄介事はごめんだ。少年はただ、平和に平凡に過ごせれば良いのだ。だというのに、異国の男はまたしても少年の平穏に影を落として来る。
どうかこれ以上に詮索はしてくれるな、という少年の願いも虚しく、災厄の権化のような男はやはり、少年が最も望まない行動を取るのだ。
「裏カジノ、か。それはそれは」
「あ、いや、今のは、」
「いやはや、ちょうど良い。実は私もそういった類のものに興味があってな。これまで様々な国を渡り、数多くの娯楽に興じてきたが、どの国でも国家公認の賭博は刺激が足りなくていけない。特にこの金の国ではなぁ。……あまり声を大にしては言えんが、この国は窮屈だろう? そろそろ危ない橋を渡ってでも刺激を求めようかと思っていたところなのだ」
「……そりゃ本当かい? 他の国でも非合法なお遊びをしたって?」
疑うような目を向けられた男だったが、全く気にした様子もなく微笑んで返す。
「本当だとも。そうだな、それでは信じて貰えるよう、私が経験した面白い話でもしようか。折角だから店主殿も聞かないか?」
どう考えても耳に入れない方が良さそうな話だ。聞こえないような場所に移動しようかどうか考えあぐねていた少年は、突如振られた話に、しかし笑顔で拒絶を示す。
「いえ、僕は他にやることがあるので」
やんわりと断ったところでこの男ならば強引に話を進めるかと思ったがしかし、少年の予想に反して、それならば仕方がないな、と男はすんなり引き下がった。
以降の話は若い店主の知るところではない。だが、やけに満足そうな顔(といっても相変わらずその造形は曖昧だが)をした男が珍しく日が沈む前に店を出て行った後、残っていた常連客が随分と妙な顔をして少年を見た。
「キョウヤくん、あいつは一体何者なんだい?」
「……さあ? 僕も詳しくは……。……そんなに変な話だったんですか?」
「変というか、思っていた以上に危ない橋を渡ってる男だなありゃ」
「危ない橋……」
少年の呟きに、客が深く頷く。
「いや、俺もね、決して堅気とは言えないような生活をしてるが、あいつはちょっとレベルが違うな。裏稼業に携わる連中は多く見てきたが、それでもここ金の国は平和な国だ。この国にいるならず者なんて大概が半分牙の抜かれた獣みてぇなもんさ。だが、あの男は違う。聞けば、あの銀の王国、エルキディタータリエンデの裏のことまで深く把握してるみてぇだ。他の国のこともよく知ってるようだったが、中でも銀の国は特にやばい。リアンジュナイル一の大国だけあって、裏稼業の人間だっておいそれとは手を出せないような闇の部分を多く抱えてるって噂だ。だってのに、奴はその闇に紛れこんで危ないお遊びに散々興じたらしいぜ? ……良いかい? あいつはかなり危ない男だ。キョウヤくんみたいなお日様の元で生きる子は、あんまり関わっちゃいけねぇよ?」
関わりたくなくたって向こうから関わってくるのだ、というのが本音だったが、勿論それを口にすることはなく、少年はただ曖昧な微笑みを浮かべて頷いた。
「はい。有難うございます」
「ははは、キョウヤくんみてぇな腕の良い刺青師がいなくなったら、俺らみてぇなのは困るからねぇ。また今度新しいの彫って貰おうと思ってるから、良い図案を考えておいてくれよ」
「喜んで。それでは、次にいらっしゃるときまでにいくつかお客様に似合いそうな図案を考えておきますね」
「よろしく頼むよ」
機嫌が良さそうな顔で笑った客が、それじゃあ、と言って店の戸を潜り出て行く。その背中を見送ってから、店主は深々と溜息をついてソファに沈み込んだ。
あの男のことはこれまでも厄介だと思っていたが、ここまで面倒な人間だとは思っていなかった。何よりも正体が一向に掴めず、出てくる情報全てが男の怪しさを増幅させるものばかりである。先程の客の忠告がなくとも、あんな得体の知れない男と関わるだなんて願い下げだった。しかし、
カラン、と、玄関のベルが鳴る。嫌な予感と共にそちらに目をやれば、案の定、あの男が立っていた。
「おや、先程の彼はお帰りになったのかな?」
「はい。貴方は忘れ物ですか?」
「ああ、いや、ふと思い立ってな。店主殿をお誘いしに来たのだ」
「……誘いに?」
明らかに訝しむような顔を向けた店主に、男がお決まりになった人当たりの良い笑顔を浮かべる。
「ああ。今宵、教えて貰った場所に遊びに行こうと思っているのだが、良ければご一緒にいかがだろうか?」
「お誘い有難うございます。ですが先程のお客様に新しい図案をご注文頂きまして、暫くは忙しくなりますので」
「ふむ。それは残念だが、致し方あるまい。それでは一人で遊んでくるとするかな」
本当に残念だと思っているのかもよく判らないが、兎に角男はそう言うだけ言って、やはり思った以上にすんなりと引き下がった。確証が持てない以上何も言えないが、少年にはどうしても、男が今夜裏カジノとやらに行くことを、わざわざ自分に宣言しに来たような気がして仕方がなかった。しかし、それを自分に宣言したところで何があるとも思えない。では、一体何のために……?
考えようとした少年だったが、すぐにその思考を止めてしまう。あんなどうでも良い男に使う時間が勿体ないからだ。そもそも、あの男の考えが判ったところでどうということもない。結局は、天ヶ谷鏡哉という個に対する不利益さえなければ、関係のない話なのだから。
こうして、全てを見なかったこと聞かなかったことにしながら、少年は日常へと戻って行ったのだった。
刺青屋『水月』からそう遠くはない安宿の一室。そこに、男は居た。窓を解放したままベッドに座っていた男が、ふと顔を上げる。その視線の先、夕暮れ時のオレンジに染まった空の向こうから、西日に照らされより一層その身を燃えるような色に染めた、赤い鳥が真っ直ぐに飛んで来ていた。
美しい尾羽を日に晒しながら優雅に飛んで来た鳥は、迷うことなく男のいる窓辺にやってきた。まるで許しを請うように見上げてくる鳥に向かって男が手を差し出せば、赤い鳥は素直にその手にとまる。ぴぴぴ、と美しい音色で歌うように鳴く鳥を撫でてやった男は、鳥の脚にくくりつけられている筒から紙を出して軽く目を通すと、ふむ、と呟いた。
「あちらはあちらでうまくやっているようだな。いや、心配はしておらんよ。うまくやってくれる確信があるからこその采配だ。しかし、私の方がどうにもなぁ。丁度良い子山羊は見つけたものの、なかなかどうして手強い。今日も誘ってみたのだが、やはりついて来てはくれなんだ。さて、どうしたものか」
思案するような素振りを見せた男の頬に自分の頬を摺り寄せた鳥が、ぴぴ、と囀る。
「ああ、そうだな。取り敢えずは単身、乗り込んでみようか。些か撒き餌不足な節はあるが、それでもそこそこ大きな釣り針を仕掛けられただろう。あとは、私自らが食いでのある撒き餌として機能すれば良い話だ」
そう言って微笑んだ男は、もう一度鳥の頭をひと撫でしてから、先程自分が目を通したものとは別の紙を用意して、それを筒に入れた。
「それでは、これを。確実に届けてくれ。お前ならば、闇夜も照らしながら進めるだろう?」
男の言葉に、任せろと言うようにぴぃと鳴いた鳥が、その腕から飛び立つ。夕闇に消えていく炎のような鳥の姿を見送ってから、男はゆっくりとベッドに寝転んだ。
裏カジノが開催されるであろう深夜まで、まだまだ時間がある。それまでに一眠りしておこうという訳だ。安っぽいベッドは、男の巨躯が横たわるとぎしぎしと不安になるような音を立てたが、男は別段気にした様子もない。安宿生活には慣れているので、寝返りの度に軋む古ぼけたベッドにも馴染みがあるのだ。酷いときは、寝ている間にベッドが壊れて床に転がったこともある。あのときは宿の主人にしこたま怒られたものだ。壊してしまった備品の修繕費やら何やらを払わされた挙句に宿を追い出され、確かそのときは結局野宿で凌いだような覚えがある。まあそうなったらそうなったで良いのだ。男は野宿にも非常に慣れているのだから。
浅い眠りを楽しんだ男は、自分が定めた時間きっかりに目を覚ました。そして、身を起こして大きく伸びをした後に立ち上がる。
裏カジノが開催されているのは、驚いたことに王都ギルドレッドの中でも王城により近い中心地の一角であるらしい。確かに当代のギルガルド国王はまだ年若いが、それにしても随分と舐めたことをする、と男は思った。
「さて、常日頃から私の運は非常に良い訳だが、今回もうまいこと場を乱してくれるだろうか……」
呟きつつ、外出の準備をする。と言っても持ち物が少ない身では、精々外套を着こむ程度だが。
準備とも言えない準備を整え、申し訳程度に置いてある汚れて曇った姿見で己の姿をまじまじと見た男は、ひとつ頷く。自分の目で見てもいまいち容姿が判然としないあたり、出立前に施して貰った魔法はまだ生きているようだ。
そのことに満足してから、男は宿を後にした。持ち物は特にない。行く場所が行く場所だけに武器の類などは持って行けないし、そもそも金さえあれば良いような所だ。
多少の人影はあるものの、日中と比べればすっかり落ち着いた街中を歩きながら、目的地を目指す。そうして辿り着いたのは、『黄金の鷹翼』という名のバーだった。別段特筆すべき特徴などはない、一般的なバーだ。アンティーク調の扉を開けて中へ入れば、適度に雰囲気のある空間が広がっていた。男以外に数人の客が会話を楽しんでいるそこには、古めかしすぎず、かと言って時代を感じさせない程に新しくもない、バーでよく見る等級の家具や調度品が並んでいる。その様は、店名に「黄金の」とある割には名前負けしているようにも思える。別段黄金らしさのない店内だが、金の国の名にあやかってつけられた名前なのかも知れない、と、普通の客ならば思うだろう。しかし、ぐるりと辺りを見回した男にはすぐに判った。ここには、目の肥えた者ならばかろうじて判る程度に巧妙に、高価な品が数点、隠すようにして飾られていたのだ。
それは本当に数点だ。だが、その数点が非常に重要なのだろう。例えば、天井から下がっているランプの傘には飾りとして色とりどりの硝子玉が十数個嵌められているが、その内の一粒はルビーである。これほど立派な大きさのものであれば、リンカネット金貨百枚はくだらないだろう。バーテンダーの後ろに並ぶ酒の中にも、実は高価なものが紛れ込んでいる。上から二番目の棚の一番左端にある、埃を被った古臭い瓶。一見空き瓶にすら思えるそれは、銀の国にそびえる大山エルクの頂きにのみ存在する純度の高い氷を溶かして作られた幻の銘酒だった。それも、冬季の氷のみを用いた最上級品だ。季節を問わずに万年雪に覆われているエルク山の環境は常に過酷だが、冬季のそれは筆舌尽くしがたいほどに厳しく、地元の人間でも精々麓くらいまでしか足を踏み入れることはない。そんな中、山頂にまで登ってようやく手に入れることができる氷を用いて作られる銘酒中の銘酒が、何気なく棚に並んでいるのである。確かこの酒が製造されるのは、数十年に一度と言われている筈だ。およそ人が踏み入ることのできぬ冬のエルク山に行って帰って来られる者が数十年に一度しか現れないが故の、稀少な、そして恐らくはこの大陸で最も高価な酒だ。
なるほど。つまりこの店は、窓口の役割をこなすと同時に、試金石としても機能しているのだろう。となれば、男がすべきことは一つである。
カウンター席に座り、バーテンダーに微笑んで、ひとこと。
「そこの端に置いてある酒を一杯貰おうか」
男の言葉に、バーテンダーがぴくりと肩を揺らす。
「申し訳ありません、お客様。あの酒はディスプレイ用の空き瓶でして。それを証拠に、ほら、見て頂くと判ることですが、中身がないでしょう?」
「エル・アウレア」
務めて小さな声で零された男の呟きに、バーテンダーの動きが止まる。そして彼は、未だ微笑みを絶やさない男の顔を、まじまじと見つめた。
「銀の銘酒は奇跡のように透き通っているのが特徴だ。故に、この距離で中身の有無を判断することは極めて困難。手に取って見たとしても、素人では判断がつかぬだろうな。それにあのラベルからすると、もしや二十年ものではないか? いやはや、幻のエル・アウレアをこのような場で見つけるとは、私も運が良い」
その言葉に、バーテンダーがふわりと微笑む。柔らかな、それでいて何処か纏わり付くような笑顔だった。
「これは、参りました。お客様は大変目利きでいらっしゃる。……ここには、お酒を飲みに?」
「まあ、そうだな」
「それはそれは」
言いながら、男がエル・アウレアと呼ばれた瓶を手に取って、静かに持ってくる。そして男の目の前に赤い布で底まで覆われたグラスを置いてから、瓶を傾けて中身を注いだ。
「良いのか? 貴重な品だろうに」
「お飲みになりたいとおっしゃったのはお客様ではないですか。ああ、氷ですが、」
「山頂の氷は溶けることのない氷。特殊な技法で液体にした後も、未だその温度は氷点下百度を保っている。……火霊の炎で温めながら飲むのが決まりだったな?」
「本当に、よく御存じで」
そう言って、バーテンダーはグラスを赤い布で覆ってから、男の元へと滑らせた。
「氷点下百度に耐えられる特殊なグラスの周りを、火霊を纏わせた布で覆ってあります。これでしたら、丁度良い温度でお楽しみ頂けるかと」
「これは至れり尽くせりだ。有難い」
「いえいえ。ここはお客様にお酒をお楽しみ頂く場ですから」
グラスを持って味わうように一口飲んだ男が、ほう、と息をつく。
「やはり、これは最高の酒だな」
「喜んで頂けたのでしたら何よりです。……ときにお客様、失礼ながらお支払のご用意は大丈夫でしょうか? ご存知かとは思いますが、こちら、グラス一杯でも値が張るもので……」
「はっはっはっ、心配せずとも持ち合わせくらいはあるさ。尤も、例えばそこの角に置いてある花瓶はさすがに買えぬがな」
「……なるほど。やはり素晴らしい審美眼。本物、ということでございますね」
す、と目を細めたバーテンダーが、無言で小さなカードを取り出し、男に向かって差し出す。
「……これは?」
「そこの奥にある従業員用の扉に入って頂き、突き当たりにある壁をご覧ください。非常に判りにくいですが、このカードを差し込める箇所があります。もしお客様が刺激的な遊戯がお好きな方でしたら、是非一度ご来場くださいませ」
「……ほう」
「途中で誰かに何か言われましたら、ここであったことをお話頂ければ結構です」
にこやかにそう述べたバーテンダーに笑顔を返しつつ、男は内心で冷静に事態を分析していた。
恐らく、これこそが裏カジノへの招待なのだろう。やはり、思った通りである。国から隠れて運営している闇カジノである以上、第一に重要なのは気取られないことだ。故に、風の噂にカジノの存在を聞いただけの相手や目利きのできぬ素人などに対しては知らぬ存ぜぬを通し、それ以上は踏み込ませないのだろう。逆に男のように即座に隠された非日常に気づける相手ならば、顧客として申し分ない、ということである。それはつまり、このカジノ自体がかなり上級の貴族向けであることを示唆していた。
男が刺青屋で聞いた話では、このカジノは最近になって噂されるようになったものらしい。ということは、もしかするとかなり新しいカジノなのか。はたまたこれまでは表沙汰にならずにうまく隠れていたものが、何らかのトラブルで外部に漏れてしまったのか。その辺りも重要になるかもしれないのだが、現段階ではそこまでの判断はできない。だが、元々このカジノのことを話してくれたあの客自体、カジノの存在には半信半疑の様子だったのだ。情報自体が曖昧な中、男の目的に適うかもしれないカジノに辿り着けただけ上出来だろう。
そう考えつつ酒をゆっくりと味わった男は、空になったグラスをカウンターに置いて立ち上がった。
「馳走になった。支払いはいくらだろうか」
「ご招待には応じて頂けるので?」
「ああ、丁度暇を持て余していたところだしな」
「それではお支払いは結構でございます。我々の営む遊戯に興じて頂けることに感謝を込めて。ささやかな贈り物ということで」
優雅に一礼したバーテンダーを見て、男が首を小さく傾げる。
「良いのか? 金貨一枚はすると思っていたが」
「勿論ですとも。それでは、どうぞ今宵はお楽しみくださいませ」
優雅に一礼をして見せたバーテンにもう一度礼を言ってから、先程示された方へ向かい、従業員用と札の掛かった扉を潜る。すると、長い廊下の向こうに壁があることが窺えた。
なるほど、あれが例の壁か。となると、あそこでカードを差し込む部分を探せば良い訳だ。
しかし、それにしても随分用心深い。バーテンダーは何気ない顔で男と会話をしていたが、実はあの時、男以外には会話の一切を聞かれぬよう、その場に居た他の顧客には幻術の類をかけていたのだ。そして、男の見立てが正しければ、あれは魔法ではなく魔導の類だった。
リアンジュナイルにおいて魔導は異端である。この大陸で尊ばれるのは魔法であり、魔法があれば魔導は必要ないのだ。ただし魔法は生まれついた能力に大きく依存するものであるため、生まれつき魔法の才がない者も勿論いる。そんな人間のうち、それでも魔法に準ずる何がしかを成し遂げたい者は、魔術を学ぶのがこの土地における定石である。故に、リアンジュナイルで魔導を見ることはほとんどないと言って良い。
そもそも歴史的に見ると、リアンジュナイルには魔術すらも存在しなかったとされている。その理由は定かではないが、この地方で受け継がれている歴史とも伝承とも言える書を信じるのならば、こうである。
原初、全ての次元を統括する最高位の神、太陽神と月神は、この次元において神世と現世を繋ぐ門を設置した場所に、始まりの四大国、赤の国グランデル王国、青の国ミゼルティア王国、橙の国テニタグナータ王国、緑の国カスィーミレウ王国を生み出し、この四つの国をそれぞれの直属の配下に任せることにした。すなわち、太陽神直属の配下、火の神、地の神、月神直属の配下、水の神、風の神である。こうして、赤の国は火を、青の国は水を、橙の国は地を、緑の国は風を司る国家となった。これが、リアンジュナイルの始まりである。この後渡ってきた銀の国が先の四国を統括してリアンジュナイル大陸と成し、更に増えた移民により、最終的に現在の十二国にまで至った。このように、神により生まれた地であるが故に、この地方の人々は誰よりも精霊に愛されており、だからこそ、精霊の加護を必要とする魔法を扱える人間が多いのだ。
この国生みの伝承に関しては、信じている者もいれば信じていない者もいるのだが、他の大陸に比べ、リアンジュナイルの民に魔法適性のある者が多いのは事実だ。
一方の魔導は、魔法とは全く別機構の術式である。それはいわば、召喚術と魔術を組み合わせて魔法に並ぶ術式にまで昇華させたもの。己には足りぬ魔法的な部分を、ヒトならざるものによって補う術。それも召喚の術式は、限りなく召喚者、すなわち魔導の使用者に有利な条件での召喚がなされる。しかし、それはつまり、召喚される側にとっては不利益でしかない。精霊と対等な関係で行使される魔法とは違い、召喚対象を強制的に使役する魔導は、非常にリスクの高い術式であるとも言える。これは、魔法適性のある人間が少ない他大陸において、それを補うために、リスクを知った上で生み出されたものなのだ。故に、精霊のようなヒトならざるものを尊重するリアンジュナイル大陸の民の多くから魔導は忌み嫌われており、魔導を使用する者のほとんどは、リアンジュナイル外の大陸の人間なのである。
ということは、だ。
(裏カジノの経営側は、別大陸の人間……? ならばここは大当たりか)
思案の片手間に壁を眺めれば、確かに判りにくいが、カードを通す箇所がある。僅かな躊躇いすらなくそこにカードを差し込めば、壁に光の紋様が浮かび上がり、次の瞬間、中央に亀裂が走って扉が開くように左右にスライドした。
(なるほど。これは巧妙だ)
恐らくは、これも魔導。ならば魔導の心得がないこの大陸の人間には、そう簡単には見抜かれないだろう。
開いた扉を潜って中へと進むと、僅かな明かりを灯すランプにぼんやりと照らされる空間に、下へと続く階段があるのが見えた。やはり逡巡することなく、男はゆっくりと階段を下りる。壁にかかる橙色の光を宿したランプには、この大陸ではあまり目にすることのない装飾が施されていた。
階下へ進むと、そこには両開きの大きな扉があった。そして、その扉を守るように、屈強と称して良いだろう護衛兵のような者が二人立っている。尤も、恐らくそれなりの手練れであろう護衛兵よりも、のんびりと階段を下りてきた男の方が優れた体格ではあったが。
「失礼ながら、お客様でしょうか?」
護衛兵の内の一人が口を開く。それにしては随分と粗末な格好をしているが、という目で見てきた彼に、男は肩を竦めて見せた。
「少なくとも、上にいたバーテンダーにここを案内された以上は客なのだろうよ。サービスでエル・アウレアのような上等な酒を貰ってしまった以上、立ち寄らずに帰るのも無粋だと思ったのだが」
お邪魔なようなら帰るとしようか、と続けた男に、護衛兵が慌てて頭を下げる。
「失礼致しました。どうぞお入りください」
重々しい音を立てて扉が開かれ、その招きに応じた男が中へ入る。すると、入った先にはまた、同じような扉が設置されていた。
「ほう、二重扉か」
「こちらのお客様方がお楽しみなっているお声が漏れては、上でお酒を嗜まれているお客様にご迷惑ですので」
「なるほど。素晴らしい配慮だな」
感心したように頷いた男の背後で、入ってきた扉が閉まる。次いで、護衛兵によって、向かう先である正面の扉が開かれた。
途端、耳に飛び込んでくる歓声。勿論それは、男に向けられたものではない。地下に造られた遊技場で遊ぶ人々の声である。じゃらじゃらとコインが積まれる音や、ルーレットが回る音。そう、紛れもなくここは、非合法に運営されている裏カジノであった。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
再び深々と頭を下げた護衛兵が、後方へと下がり、扉が閉まる。それを目端に捉えてから、男は改めて目の前に広がる光景を眺めた。リアンジュナイルの十二の国にある裏カジノは全て回ったという自負のある男だったが、このカジノの大きさは、その中でも最大級の内の一つに数えられるだろう。驚くべきは、この規模のものを恐らくは短期間で設置したであろうことだ。半年ほど前に男が金の国へ来たとき、確かにこのカジノも、上のバーも存在しなかった。だとすれば、半年足らずでここまでのものを造り出したことになる。
それが可能か不可能かで言えば、可能ではあるだろう。しかし、人の手では無理だ。ヒト以外の何かの力を借りなければ、ここまでのものを短期間で造ることはできない。いや、それよりも、もしかするとこの空間自体が異質なのではないだろうか。
急ごしらえの地下施設は、どうしても耐久の面で弱くなってしまうものだ。しかし、このカジノは敷地面積が広く、途中途中に支えとなるような柱もない。ではどうやって、このような柱を置かないぶち抜きの巨大な空間を造るかだが、可能性として考えられるのは、空間の転移だろうか。地霊の力を借りて大地を固定させた可能性もあるにはあるが、地霊は少々頑固者が多く、大地を大きく変動させた上にそれを長期間固定させるとなると、かなりの魔法の腕と魔力が必要となる。橙の国の王であれば容易にやってのけるだろうが、リアンジュナイル外の人間がそうそう真似できることではないだろう。故に、やはり空間転移の可能性が高い。実はここはバーの地下ではなく、どこか別の場所、なのかもしれない。扉は空間と空間を繋ぐゲートであり、潜った者を別の空間に飛ばす装置だとしたら、まあ納得はできる。それならば魔法を使えずとも魔導を駆使すれば可能だろうし、少なくとも、地霊を説得して穴掘り作業をするよりは現実的だ。
と、そこまで思考を巡らせたところで、男がひと息つく。
男の魔法や魔術や魔導に関する感知能力は、そこまで高くない。というか、どちらかと言うと鈍い方だ。よって、これ以上考えるのは無駄である。いくら考えたところで憶測の域を出ないし、今回の目的を考えるならば、ここがどういう空間であるかを知ることはあまり本質的ではない。いざというときに逃げられれば、まあそれで良いのだ。
さて、と呟いた男は、手始めにカード遊戯が行われている場所へ足を運んだ。遊戯自体は、合法である表カジノでも採用されている、よくある種類のものだ。“キングオブキングス”と呼ばれるそのゲームのルールは、いたって単純であり、見習い騎士、準騎士、騎士、騎士隊長、騎士団長、姫、王子、王妃、王獣、国王といった十階級のカードが、リアンジュナイルの十二の国の分だけ用意されていて、山札から得た五枚の手札を互いに見せ合い、強い役の方が勝ち、といったものである。手札は、一度だけ好きな枚数を捨てて山札からその枚数分引き直すことも可能だ。
簡単ルールであることから、小さな子供の遊びにも使われることが多いが、実は役の数が非常に多く、また山札内のカードの配合はカジノによって異なってもいるため、単純ではあるが運に大きく左右されるゲームでもあった。それはつまり、勝ち続けることが困難なゲームであることを示唆し、同時に今の男にとって最も条件の良いゲームであることを示していた。
「失礼。私もひと勝負、良いだろうか?」
取りあえず、と手近にいた初老の男性(恐らくは貴族だろう)に声を掛ける。初老の男は、勝負に誘ってきた男が傭兵のような風貌であることに一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに微笑みを貼り付けて頷いた。
「これはこれは。まだお若いのにお盛んなことだ。ルールはお判りかな?」
「若いだけであれば、私よりも若い者も多く遊びに来ているでしょう。これでもカジノ通いは趣味でしてね。特にこのゲームはとても好みだ」
「ほう。では、楽しませて貰おうかね」
にっこりと微笑み、初老の男が席につく。やたらと豪奢な机を挟んで向き合う形で、男も毛皮張りの椅子に腰掛けた。すると、ディーラーが自然な動作でテーブルの上にカードの山を置く。山は四つ。厚みからして、全て合わせると百二十枚程度だろう。尤も、配合がどうなっているかは不明だが。
「ベットはどうなさいますか?」
「そちらのお若いのに任せるよ。いくらにするかね?」
「そうですね。……では、まずはこれくらいでいかがだろうか」
そう言い、男は懐からリンカネット金貨を五枚取り出して机に置いた。
「ほう、これは」
この大陸での金貨は非常に価値が高い。職にもよるが、ごく一般的な人間がひと月働いたとして、その収入は金貨二枚もあるかどうかだろう。それを五枚となると、この男、もしかすると手練れの傭兵なのかもしれない。と、相対している貴族を含む、周囲の人間は思った。
相手が男のベットと同じ枚数の金貨を机に乗せたところで、ゲームが開始する。ディーラーの合図に合わせ、二人は交互に好きな山からカードを手札に加えていった。五枚になったところで一度ストップがかかり、男は改めて自分の手札を見る。まあ、判っていたし予想していた結果だ。特に驚くこともない。
男が普段と変わらぬ表情のまま見つめる先、大きな手によって扇状に広げられている五枚のカードは、全て縁が赤く彩られており、姫、王子、王妃、王獣、国王を模した絵が描かれていた。赤の国グランデル王国が一揃いになった上、上位から順に階級が揃っている、“赤国”という最上級の大役である。この手札に勝てる役は、四大国である赤青橙緑の王札に銀の王札が加わった“国始”などであるが、さて相手の方はどうか、と視線を上げれば、落ち着いた表情で微笑みを絶やさぬ顔が窺えた。どうやら相手もかなり遊び慣れている人間のようで、その表情から手札のほどを読み取ることは難しい。面白そうに勝負の行方を眺めている周囲の人間も、二人の手札がいかほどのものか、判断しかねているようだった。だが、
(ふむ。有り余るほどに自信に満ちているな。よほど良い手が揃ったと見える)
この男にとっては、関係のない話だった。
人の心というものは、どんなに隠そうとも隠し切れないものだ。呼吸のリズム、瞬きの回数、唇の濡れ具合、指先の僅かな震え、その他様々な身体的特徴を全て逃すことなく見れば、あらゆる生き物のおおよその思考が、手に取るように判る。増してや、男は日常的にそれを行ってきた人間だった。故に、今もはっきりと判る。今目の前にいる相手は、この上ないほどに最上の手を持っているのだと。
このゲームに絶対はない。だが、限りなく絶対に近い手が、ひとつだけ存在する。そして相手は恐らくそれを引き当てた。だとすれば、男が次に取る手はひとつである。
「チェンジはいかがなさいますか?」
ディーラーの言葉に、初老の貴族はわざとらしくゆっくりと首を横に振った。
「私はやめておこう。これで勝負させて貰うよ」
「承知致しました。そちら様は?」
「では、こちらは全てチェンジで」
持っていたカードをすっと机に伏せた男に、周囲が僅かにざわめく。
「おや、全て換えてしまって良いのかね?」
「ええ。残念ながら、あまり良い手ではなかったので」
言いながら、今一度男が手札を五枚引いたところで、ディーラーによって山札が回収された。
「それでは、手札を公開してくださいませ」
ディーラーの指示に待ちきれないといった風にカードを机に置いたのは、初老の貴族の方だった。表になったその柄に、周囲がおおっとどよめく。
五枚のカードは、縁の色がバラバラで、男の最初の手札のように上位階級のカードが揃っている訳でもない。だが、一枚だけ、一際豪奢な縁取りのカードがあった。金箔によって複雑な模様を描く縁取りがなされたそれには、美しい男の姿が描かれている。
そう。これこそが、このゲームがカジノで好まれる所以である、最高の一枚。
相手が示したそれは、太陽神のカードであった。
そのカードが場に出たとき、“キングオブキングス”における番狂わせの特殊ルールが適応される。リアンジュナイルの神話では、太陽の神はありとあらゆる次元を統括する最高峰の神であり、何者も敵うことのない絶対的な存在だとされている。それ故に、このカードもまた、ありとあらゆる役を凌ぐ最高の一枚なのである。つまり、このカードが手札にあるだけで、相手がどのような役を持っていようとも勝ててしまうのだ。ルール上山札にたった一枚しか入らないカードではあるが、引き当ててさえしまえばこれほど強いカードもない。この時点で、ほとんど勝負は決まっていたようなものだったし、周囲の人間も勿論そう思い、男に同情の目や馬鹿にしたような視線を向けたのであったが、当の男はにっこりと微笑んで見せた。
「素晴らしい。太陽神のカードは久々に拝見した。お陰様で、私の勝ちです」
そう言って男が机に無造作に置いたカードを見て、周囲が先ほどよりも大きくどよめく。
出されたのは、初老の貴族が出したのと似通った、特に何の役もないようなバラバラの絵柄と色のカードである。だがその中の一枚だけ、毛色が異なっていた。
他のカードと違って縁取りがない、随分と質素なカードである。しかし、そこに描かれている美しい女性の絵は、このカードがこの場における逆転の一枚であることを示していた。
「月神のカード」
驚きを隠せないとった様子で呟いたのは、勝負の行方を見守っていたディーラーだった。
月神のカード。それは、“キングオブキングス”中、最も不要とされるカードだった。持っていても何の役にもならないどころか、持っている者は問答無用で負けになる、という特殊カード故に、手札に入った場合はすぐさま捨てられる疫病神的なカードなのだ。が、とある条件においてのみ、最強のカードに変貌することができる。その条件が揃ったのが、今この瞬間なのであった。
月神のカードは、相手が太陽神のカードを持っているときに限り、所有者に勝利をもたらす奇跡のカードとなる。
しかし、月神のカードが発動することは極めて少ない。何故なら、太陽神のカードと月神のカードは山札に一枚ずつしか入れられず、両者が揃って場に出ることはほぼあり得ないからだ。よって、月神のカードは捨てられないことの方が珍しい。
だが、男はそれが狙いだった。相手の細かな挙動から、向こうが太陽神のカードを持っていることはほぼ確実だと踏んで、ならばと月神のカードを引き当てるために、大役だった五枚のカードを全て捨てることにしたのだった。
もちろん、たかだか五枚を引いただけで、百枚以上の中から望むたった一枚を引き当てることは困難だが、男にそれに対する不安はなかった。何故なら、男は異常なくらいの強運の持ち主であり、本人もそれを自覚していたからである。現に、こうしてたった一枚を引き当て、奇跡のような勝利を収めている。
まんまと金貨五枚を手に入れた男は、続く勝負も危なげなく勝ち抜いていった。そのまま続けること十戦。すべての勝負に大勝した男は、順調に金貨を積み上げていった。
さてそれではもう一戦、と十一戦目に臨もうとするも、どうやら少々やりすぎたようで、その頃にはもう、男に勝負を挑んでくる者はいなくなってしまった。これは困ったぞ、と、仕方なく別の遊戯に移ろうとした男だったが、歩み寄ってきた気配に、ぽん、と肩を叩かれ、振り返る。
「何か?」
振り返った先に居たのは、年配のディーラーだった。胸につけている名札をちらりと見れば、ディーラーの中でも上の立場の者であることが窺えた。
「いえ、お客様、本日は非常に幸運でいらっしゃるようで」
「ああ、たまたまだとは思うが、やはりツキが来ていると楽しいものだな」
「それは何よりでございます」
にこりと微笑んだディーラーだったがしかし、男には彼が心の底から笑っている訳ではないことがよく判った。
どの道、そろそろ来る頃合いだと思っていた。男は誓ってイカサマなどしていないが、あのゲームでここまで勝ち続けるとそう思われるのは当然だろう。イカサマをする必要など一切ないほどの強運の持ち主なのだ、と言って納得してくれるような相手ではないし、それで納得してくれる相手の方が珍しい。
「ぜひとも一勝負、お願いできませんか?」
お願いできませんか、と言ってはいるが、男が勝ち越しているこの流れでは断ろうにも断れない。裏カジノに来る客のほとんどは、それなりに権力のある人間だ。こういった場で誘いを断っては、自分の顔に泥を塗ることになる。もともと断るつもりはなかったどころか、これが狙いだった男は、少しだけ渋る様子を見せた後、仕方ない風を装って頷いて見せた。
「有難うございます。それでは、勝負はぜひあちらのルーレットで」
「ルーレットか。久々だな」
構わない、と言ってディーラーの誘いに乗った男だったが、この時点で大体の展開は読めていた。
腕利きのディーラーは、望みのマスに止まるように球を投げられるという。大方、イカサマで稼がれた大金をイカサマで回収しようという魂胆なのだろう。男の場合はイカサマで稼いだ大金ではない訳だが。
案内されたルーレットは、いくつか種類がある中でも最も単純なものだった。十二国の内の金と銀を除く十色がそれぞれ三マスずつと、金と銀が一マスずつ組み込まれたルーレット版。そのどの色の部分に球が止まるかを賭けるゲームだった。ただし、金色と銀色だけはディーラーマスと呼ばれ、プレイヤーが賭けることはできない。そして、球がディーラーマスに止まった場合は、場にある賭け金は全てディーラーが回収する決まりである。
「ルールは単純明快に、一色賭けの五回勝負でいかがでしょう。お客様が賭けたマスにもディーラーマスにも止まらなかった場合は場にプールされる、ということで」
「構わんよ。ではそうしよう」
プレイヤー用にと渡された赤色のチップを受け取り、取り敢えず適当な枚数を青色のマスに賭けてみる。いつの間にか、周囲には人だかりができていた。大方、勝ち越して有頂天になっていた客がディーラーに大負けする様を一目見ようといったところだろう。まったく、良い見世物である。
それでは、という声と共に、ディーラーがルーレットを回し、球を投げ入れる。カラカラと音を立てて駆ける球の行方を目で追えば、徐々に速度を落としていったそれは、見事に青色のマスに落ち着いた。観衆が感嘆の声を上げるが、しかし男は表情を変えない。
勝負は五回あるのだ。どうせ最後のベットでこちらの稼ぎを全て賭けさせるのだろうから、最後の勝負に勝たねば意味がない。その後、三回四回と勝負を重ねたが、驚いたことにその全てで、球は男の選んだ色のマスに止まった。さすがの男も、これはディーラーがわざとやっていることなのでは、と考えたが、様子を見るにディーラー側も想定外の事態だったらしい。思っていた以上に男の運が場を乱してくれているようで結構なことだが、大事なのは次の一戦だ。
「そこまで大勝されますと、こちらとしても引き下がれなくなってしまいます。……どうでしょう。ここは一つ、お客様がここで稼いだ金額を全て賭けて頂くことはできないでしょうか。勿論、お客様が勝利されたあかつきには、その金額の更に倍をお支払いさせて頂きます」
やはりこう来たか、と思いつつ周囲を見回せば、いつの間にか増えているギャラリーが揃って、賭けに乗れと無責任に囃し立ててくる。ほら見たことか。案の定逃げることは許されない状況を作り上げられてしまっている。
どうせギャラリーの一部はサクラなのだろうなぁと悠長に考えながら、男はふたつ返事でディーラーの提案を飲んだ。元より逃げるつもりなどないのだから、ここで物怖じをする必要はない。
もう一度盤面を確認してから、稼いだ分と同じ枚数のコインを、赤のマスに置く。一際大きくなったギャラリーのざわめきを受けて、ディーラーが今まで以上に演技じみた動作でルーレットを回した。そして、男が見つめる先、回転する盤の中に球が投じられる。先ほどまでと変わらぬディーラーの手捌きに、しかし男は僅かに目を細めた。本当に些細なものではあるが、投じる際の動きに違いがある。それは恐らく、男だからこそ判った変化だろう。やはり、仕掛けてきたのだ。
一同が固唾を飲んで見守る中、その回転を緩めていく盤面の上を球が転がっていく。勢い良く走る球は、やがてひとつのマスに向けてその動きを鈍くしていった。
かた、と音を立てて球が、止まろうとする。そのマスは、確かに金色に染まる一マスであった。だが、ディーラーの勝利を確信したギャラリーが歓声を上げる寸前、黙って盤面を見つめていた男の瞳が、僅かに、まるで何かに目配せをするかのように動いた。刹那、
からり、という乾いた音とともに、球がゆっくりと転がり、金のマスの隣にあった赤のマスへと進んで、止まった。
たっぷり三秒後、ルーレット台を取り巻く周囲が湧いた。ディーラーは信じられないものを見るような目で呆然と盤面を見つめ、周囲にいたスタッフたちも皆、動揺したように視線を彷徨わせている。
「いやはや、どうなることかと心臓が早鐘を打ったが、これはツイている」
ほっと胸を撫で下ろすような動作をして見せた男がにこりと微笑むと、ギャラリーたちが次々と賛辞や祝いの言葉を投げかける。それらに丁寧に応えてから、男は若干顔色が悪くなっているディーラーを見た。
「さて」
「……いやはや、私の完敗です。お見事としか言いようがありません」
「いや、今日はたまたまツキがあっただけのことだろう。して、勝利金のことだが」
そこで言葉を切った男が周囲を見回してから、テーブルの赤マスに置かれていたコインを綺麗に半分に分ける。
「今日は随分と楽しませて貰ったからな。これの二倍の金貨が貰えるとして、それでは、その内半分はこのカジノに、もう半分は、共に楽しんでくれたギャラリーの方々で山分けを」
そう言って微笑んだ男に、今日一番の歓声が上がる。これ以上ないほどに気前の良い男の采配に、ギャラリーは大いに盛り上がり、ディーラーを含めたスタッフも感嘆と感謝の念を感じられずにはいなかった。
この一件は少しの間、貴族などの権力者の間でちょっとした伝説のように語られたのだが、不思議なことに、その場にいた誰もが、男の詳細な容姿を思い出せずにいたのだった。
ディーラーとの大勝負を終えた男は、やることはやったとばかりにひっそりとこの場を去ることにした。幸い、観衆だった人々は男の残した金貨の山分けで忙しい。勿論声を掛けてくる者もいたが、皆二言三言話しただけで、すぐに金貨の山へと向かって行った。男の方もこれ以上ここに留まる気はなかったので、声を掛けてくる者には簡単な言葉を返しつつ、入口である大きな扉へと向かって行く。
と、こちらに向かって真っ直ぐに歩いてくる人影に気づき、男は立ち止まった。
「私に何か?」
致し方なかったこととは言え、男は少々目立ちすぎてしまった。自分に掛けられている魔法の都合上、できる限り長居はしたくはないのだが。
そんなことを思いつつ、歩み寄ってきた男性に向き直る。見た目から判断される相手の歳は、男よりも少し若いくらい、恐らくは二十五歳前後だろうか。黒く艶やかな髪と、同じく漆黒の瞳が印象的な青年だった。体格は男に劣るが、細すぎるということはなく、筋肉がしっかりとついている。それも、恐らくはそれ相応に鍛え上げてある。そこまでを男が見て取ったところで、青年は優雅に一礼をした。
「初めまして。私、このカジノのオーナーをしております、デイガー・エインツ・リーヒェンと申します」
「ほう、貴方のようなお若い方がオーナーでしたか。わざわざご挨拶頂き有難い。私はロストと言います。本日は素晴らしい体験をさせて貰った。今日はこれで帰ろうと思っているのだが、またこちらに伺ってもよろしいだろうか?」
引き止められるのはあまり望ましい事態ではないと、先んじて今日はもう帰宅するのだと伝えた男だったが、どうやら相手はそこまで引き止める気もないようだった。
「それは勿論でございます。先程の勝負、実は私も拝見させて頂いていたのですが、素晴らしい限りでございました。その後の采配もお客様の懐の深さが垣間見え、従業員一同、感嘆の極みでございます」
「そう言われると照れてしまうな。なに、今晩存分に楽しませて貰ったお礼です」
「ふふふ。やはり素敵なお方だ。その赤銅色の髪を見るに、もしやグランデル王国生まれの傭兵様ですか? グランデルと言えば、武具を含む製鉄技術とその扱いに優れたお国だ。もしや、貴方も相当の手練れなのでは?」
「はてさて、傭兵という見立ては、さすが顧客をよく見ていらっしゃる、ご明察です。しかし、手練れかどうかは、私には判断致しかねるな。そこはその時々の依頼主の判断にお任せするとしよう」
少しいたずらっぽく笑って見せた男に、デイガーと名乗った青年もつられたように笑う。
「それでは、私はこれで失礼する」
「はい。お気をつけて」
深々と一礼をしたオーナーに軽く会釈をしてから、男はドアマンに開けられた扉を潜った。二重扉を抜けた先にある薄暗い階段を上ってバーに入り、覚えのあるバーテンダーにひらりと手を振ってから店を出る。そのまま夜風を楽しむようにのんびりと歩き、店から十分に離れたところで、男の唇が小さく動いた。
「誰かつけているものは?」
微かな呟きに、男の髪を風が撫でた。
「いないか。では、急ぎで言伝を頼む。私に掛かっているはずの目くらましの魔法を、恐らくは看破する者が現れた。しかし、私はそういった類の魔法に対する感知能力が低く、目くらましの魔法が解呪されたのか透過されたのかの判断をしかねる。よって、早急にその類に優れた魔法師を寄越してほしい。できれば再度目くらましをかけ直せて、かつこの国への長期滞在が可能な者が良いな」
風がするりと頬を撫で、男は小さく笑った。
「いや、元より私と目くらましの魔法の相性が致命的に悪いのだ。私には判らぬが、どうにも私はやたらと目立つ魂をしているらしくてな。存在や輪郭を曖昧なものに落としこみ目立たなくする目くらましの魔法を掛ける対象として、これほど不適切なものもそうあるまいと罵られたくらいだ。故に、少し目立ったことをするだけで、簡単に解けてしまう。カジノで少々大勝ちするくらいならばと思ったが、向こうに目利きがいる可能性を考えると、これはもう少し抑えた方が良いかもしれないな。と言っても、賭け事の運に関しては私にどうこうできるものでもないのだが」
最後の方はひとりごとのように呟いた男の髪を、まるで慰めるように風が揺らす。
「ああ、有難う。カジノでの一件も含め、礼を言おう。それでは頼んだぞ。伝達用の鳥は数時間前に飛ばしてしまったが、風霊の言伝であれば、それよりも早く駆けることが可能であろう?」
傍らでそよぐ風を撫でるように掌を滑らせれば、ひゅう、と小さな音を立てて風が走っていく。ひとまずは、これで大丈夫だろう。鳥を使った手紙でのやり取りと違って精霊間での伝言ミスが怖いところではあるが、あの鳥よりも少しだけ伝達が早いのは利点だ。
ふわあ、と大きく欠伸をしてから、男は赤銅の髪を夜風に揺らしながら、宿への道をゆっくりと歩んでいった。
裏カジノの遊技場の、更に奥。従業員用の出入り口である扉とは別にある、装飾の施された扉。このカジノにいくつか存在するVIPルームに繋がる扉の向こうの、最奥にある一室。カジノの遊技場や上階にあるバーも顔負けないくらい高価な調度品が並ぶそここそが、オーナーであるデイガー・エインツ・リーヒェンの居室だった。
遊技場をひと通り回り、得意客への挨拶を済ませて帰ってきた彼は、上等な革張りのソファに腰かけ、手にした杯をゆっくりと揺らした。グラスの中でちゃぷんと揺れた深紅は、上質なワインだろうか。
「さっきの彼、一体何者なんだろうねぇ」
部屋にはデイガー以外の人影はないが、彼が語るのをやめる様子はなかった。
「やたらと強力な目くらましがかかっていたみたいで僕にもぼんやりとしか判らなったけれど、あの珍しい髪色、探せば何か出てきそうじゃあないかい? それに、ルーレットの件も気がかりだ。ディーラーはいつも通りきちんと所定のマスに止まるように回していた。にもかかわらず、止まったのはあの男が選んだコマだった。……お前、何か判るかい?」
自分以外は誰もいない部屋に問いかけが投げられる。と、絨毯に落ちているデイガーの影が、一瞬だが揺らめいた。
「……何? そんな馬鹿なことがあるものか。あの男には、呪文を詠唱した様子は勿論、精霊を呼んだ様子すらなかったんだぞ。どんなに優れた魔法師でも、精霊を使役する際は必ず名を呼ぶものだ。風霊を使って球を動かしたと言うなら、どこかで必ず風霊を呼ばなくてはならない。だけどお前だって見ていただろう? 最後の勝負の最中、あの男はただの一度も口を開いていないじゃあないか。例えば目配せひとつで精霊を動かせるって言うのなら話は別だけれど、それはもう人の所業ではない。次元を隔てて外の世界にいるというエルフの王であれば、そういうことも可能なのかもしれないけれどね」
デイガーが、結局何が起こったのかは判らずじまいか、と溜息をついたが、彼の影が揺れることはもうなかった。
「まあ良いや。彼が何者なのかは判らないけれど、僕たちのやることは変わらないしね。まあ、念のため彼の周辺には探りを入れておこう」
そう言ってから、デイガーは握っていたグラスを逆さにした。落ちる液体が、上等な絨毯を赤く濡らしていく。自分の影に滴る赤を見て、デイガーは満足したように微笑んだ。
発言した本人が僅かに呼吸を乱したことから察するに、例にもよって男の巧みな言述に乗せられて口を滑らせてしまったのだろう。
金の国では、賭け事の類は賭博法により厳しく管理されている。わざわざ裏とつけるあたり、法に準じた賭博ではないだろうことくらいは、まだ二十にも満たない少年でも想像できた。同時に、思わず顔を顰めてしまう。
面倒事や厄介事はごめんだ。少年はただ、平和に平凡に過ごせれば良いのだ。だというのに、異国の男はまたしても少年の平穏に影を落として来る。
どうかこれ以上に詮索はしてくれるな、という少年の願いも虚しく、災厄の権化のような男はやはり、少年が最も望まない行動を取るのだ。
「裏カジノ、か。それはそれは」
「あ、いや、今のは、」
「いやはや、ちょうど良い。実は私もそういった類のものに興味があってな。これまで様々な国を渡り、数多くの娯楽に興じてきたが、どの国でも国家公認の賭博は刺激が足りなくていけない。特にこの金の国ではなぁ。……あまり声を大にしては言えんが、この国は窮屈だろう? そろそろ危ない橋を渡ってでも刺激を求めようかと思っていたところなのだ」
「……そりゃ本当かい? 他の国でも非合法なお遊びをしたって?」
疑うような目を向けられた男だったが、全く気にした様子もなく微笑んで返す。
「本当だとも。そうだな、それでは信じて貰えるよう、私が経験した面白い話でもしようか。折角だから店主殿も聞かないか?」
どう考えても耳に入れない方が良さそうな話だ。聞こえないような場所に移動しようかどうか考えあぐねていた少年は、突如振られた話に、しかし笑顔で拒絶を示す。
「いえ、僕は他にやることがあるので」
やんわりと断ったところでこの男ならば強引に話を進めるかと思ったがしかし、少年の予想に反して、それならば仕方がないな、と男はすんなり引き下がった。
以降の話は若い店主の知るところではない。だが、やけに満足そうな顔(といっても相変わらずその造形は曖昧だが)をした男が珍しく日が沈む前に店を出て行った後、残っていた常連客が随分と妙な顔をして少年を見た。
「キョウヤくん、あいつは一体何者なんだい?」
「……さあ? 僕も詳しくは……。……そんなに変な話だったんですか?」
「変というか、思っていた以上に危ない橋を渡ってる男だなありゃ」
「危ない橋……」
少年の呟きに、客が深く頷く。
「いや、俺もね、決して堅気とは言えないような生活をしてるが、あいつはちょっとレベルが違うな。裏稼業に携わる連中は多く見てきたが、それでもここ金の国は平和な国だ。この国にいるならず者なんて大概が半分牙の抜かれた獣みてぇなもんさ。だが、あの男は違う。聞けば、あの銀の王国、エルキディタータリエンデの裏のことまで深く把握してるみてぇだ。他の国のこともよく知ってるようだったが、中でも銀の国は特にやばい。リアンジュナイル一の大国だけあって、裏稼業の人間だっておいそれとは手を出せないような闇の部分を多く抱えてるって噂だ。だってのに、奴はその闇に紛れこんで危ないお遊びに散々興じたらしいぜ? ……良いかい? あいつはかなり危ない男だ。キョウヤくんみたいなお日様の元で生きる子は、あんまり関わっちゃいけねぇよ?」
関わりたくなくたって向こうから関わってくるのだ、というのが本音だったが、勿論それを口にすることはなく、少年はただ曖昧な微笑みを浮かべて頷いた。
「はい。有難うございます」
「ははは、キョウヤくんみてぇな腕の良い刺青師がいなくなったら、俺らみてぇなのは困るからねぇ。また今度新しいの彫って貰おうと思ってるから、良い図案を考えておいてくれよ」
「喜んで。それでは、次にいらっしゃるときまでにいくつかお客様に似合いそうな図案を考えておきますね」
「よろしく頼むよ」
機嫌が良さそうな顔で笑った客が、それじゃあ、と言って店の戸を潜り出て行く。その背中を見送ってから、店主は深々と溜息をついてソファに沈み込んだ。
あの男のことはこれまでも厄介だと思っていたが、ここまで面倒な人間だとは思っていなかった。何よりも正体が一向に掴めず、出てくる情報全てが男の怪しさを増幅させるものばかりである。先程の客の忠告がなくとも、あんな得体の知れない男と関わるだなんて願い下げだった。しかし、
カラン、と、玄関のベルが鳴る。嫌な予感と共にそちらに目をやれば、案の定、あの男が立っていた。
「おや、先程の彼はお帰りになったのかな?」
「はい。貴方は忘れ物ですか?」
「ああ、いや、ふと思い立ってな。店主殿をお誘いしに来たのだ」
「……誘いに?」
明らかに訝しむような顔を向けた店主に、男がお決まりになった人当たりの良い笑顔を浮かべる。
「ああ。今宵、教えて貰った場所に遊びに行こうと思っているのだが、良ければご一緒にいかがだろうか?」
「お誘い有難うございます。ですが先程のお客様に新しい図案をご注文頂きまして、暫くは忙しくなりますので」
「ふむ。それは残念だが、致し方あるまい。それでは一人で遊んでくるとするかな」
本当に残念だと思っているのかもよく判らないが、兎に角男はそう言うだけ言って、やはり思った以上にすんなりと引き下がった。確証が持てない以上何も言えないが、少年にはどうしても、男が今夜裏カジノとやらに行くことを、わざわざ自分に宣言しに来たような気がして仕方がなかった。しかし、それを自分に宣言したところで何があるとも思えない。では、一体何のために……?
考えようとした少年だったが、すぐにその思考を止めてしまう。あんなどうでも良い男に使う時間が勿体ないからだ。そもそも、あの男の考えが判ったところでどうということもない。結局は、天ヶ谷鏡哉という個に対する不利益さえなければ、関係のない話なのだから。
こうして、全てを見なかったこと聞かなかったことにしながら、少年は日常へと戻って行ったのだった。
刺青屋『水月』からそう遠くはない安宿の一室。そこに、男は居た。窓を解放したままベッドに座っていた男が、ふと顔を上げる。その視線の先、夕暮れ時のオレンジに染まった空の向こうから、西日に照らされより一層その身を燃えるような色に染めた、赤い鳥が真っ直ぐに飛んで来ていた。
美しい尾羽を日に晒しながら優雅に飛んで来た鳥は、迷うことなく男のいる窓辺にやってきた。まるで許しを請うように見上げてくる鳥に向かって男が手を差し出せば、赤い鳥は素直にその手にとまる。ぴぴぴ、と美しい音色で歌うように鳴く鳥を撫でてやった男は、鳥の脚にくくりつけられている筒から紙を出して軽く目を通すと、ふむ、と呟いた。
「あちらはあちらでうまくやっているようだな。いや、心配はしておらんよ。うまくやってくれる確信があるからこその采配だ。しかし、私の方がどうにもなぁ。丁度良い子山羊は見つけたものの、なかなかどうして手強い。今日も誘ってみたのだが、やはりついて来てはくれなんだ。さて、どうしたものか」
思案するような素振りを見せた男の頬に自分の頬を摺り寄せた鳥が、ぴぴ、と囀る。
「ああ、そうだな。取り敢えずは単身、乗り込んでみようか。些か撒き餌不足な節はあるが、それでもそこそこ大きな釣り針を仕掛けられただろう。あとは、私自らが食いでのある撒き餌として機能すれば良い話だ」
そう言って微笑んだ男は、もう一度鳥の頭をひと撫でしてから、先程自分が目を通したものとは別の紙を用意して、それを筒に入れた。
「それでは、これを。確実に届けてくれ。お前ならば、闇夜も照らしながら進めるだろう?」
男の言葉に、任せろと言うようにぴぃと鳴いた鳥が、その腕から飛び立つ。夕闇に消えていく炎のような鳥の姿を見送ってから、男はゆっくりとベッドに寝転んだ。
裏カジノが開催されるであろう深夜まで、まだまだ時間がある。それまでに一眠りしておこうという訳だ。安っぽいベッドは、男の巨躯が横たわるとぎしぎしと不安になるような音を立てたが、男は別段気にした様子もない。安宿生活には慣れているので、寝返りの度に軋む古ぼけたベッドにも馴染みがあるのだ。酷いときは、寝ている間にベッドが壊れて床に転がったこともある。あのときは宿の主人にしこたま怒られたものだ。壊してしまった備品の修繕費やら何やらを払わされた挙句に宿を追い出され、確かそのときは結局野宿で凌いだような覚えがある。まあそうなったらそうなったで良いのだ。男は野宿にも非常に慣れているのだから。
浅い眠りを楽しんだ男は、自分が定めた時間きっかりに目を覚ました。そして、身を起こして大きく伸びをした後に立ち上がる。
裏カジノが開催されているのは、驚いたことに王都ギルドレッドの中でも王城により近い中心地の一角であるらしい。確かに当代のギルガルド国王はまだ年若いが、それにしても随分と舐めたことをする、と男は思った。
「さて、常日頃から私の運は非常に良い訳だが、今回もうまいこと場を乱してくれるだろうか……」
呟きつつ、外出の準備をする。と言っても持ち物が少ない身では、精々外套を着こむ程度だが。
準備とも言えない準備を整え、申し訳程度に置いてある汚れて曇った姿見で己の姿をまじまじと見た男は、ひとつ頷く。自分の目で見てもいまいち容姿が判然としないあたり、出立前に施して貰った魔法はまだ生きているようだ。
そのことに満足してから、男は宿を後にした。持ち物は特にない。行く場所が行く場所だけに武器の類などは持って行けないし、そもそも金さえあれば良いような所だ。
多少の人影はあるものの、日中と比べればすっかり落ち着いた街中を歩きながら、目的地を目指す。そうして辿り着いたのは、『黄金の鷹翼』という名のバーだった。別段特筆すべき特徴などはない、一般的なバーだ。アンティーク調の扉を開けて中へ入れば、適度に雰囲気のある空間が広がっていた。男以外に数人の客が会話を楽しんでいるそこには、古めかしすぎず、かと言って時代を感じさせない程に新しくもない、バーでよく見る等級の家具や調度品が並んでいる。その様は、店名に「黄金の」とある割には名前負けしているようにも思える。別段黄金らしさのない店内だが、金の国の名にあやかってつけられた名前なのかも知れない、と、普通の客ならば思うだろう。しかし、ぐるりと辺りを見回した男にはすぐに判った。ここには、目の肥えた者ならばかろうじて判る程度に巧妙に、高価な品が数点、隠すようにして飾られていたのだ。
それは本当に数点だ。だが、その数点が非常に重要なのだろう。例えば、天井から下がっているランプの傘には飾りとして色とりどりの硝子玉が十数個嵌められているが、その内の一粒はルビーである。これほど立派な大きさのものであれば、リンカネット金貨百枚はくだらないだろう。バーテンダーの後ろに並ぶ酒の中にも、実は高価なものが紛れ込んでいる。上から二番目の棚の一番左端にある、埃を被った古臭い瓶。一見空き瓶にすら思えるそれは、銀の国にそびえる大山エルクの頂きにのみ存在する純度の高い氷を溶かして作られた幻の銘酒だった。それも、冬季の氷のみを用いた最上級品だ。季節を問わずに万年雪に覆われているエルク山の環境は常に過酷だが、冬季のそれは筆舌尽くしがたいほどに厳しく、地元の人間でも精々麓くらいまでしか足を踏み入れることはない。そんな中、山頂にまで登ってようやく手に入れることができる氷を用いて作られる銘酒中の銘酒が、何気なく棚に並んでいるのである。確かこの酒が製造されるのは、数十年に一度と言われている筈だ。およそ人が踏み入ることのできぬ冬のエルク山に行って帰って来られる者が数十年に一度しか現れないが故の、稀少な、そして恐らくはこの大陸で最も高価な酒だ。
なるほど。つまりこの店は、窓口の役割をこなすと同時に、試金石としても機能しているのだろう。となれば、男がすべきことは一つである。
カウンター席に座り、バーテンダーに微笑んで、ひとこと。
「そこの端に置いてある酒を一杯貰おうか」
男の言葉に、バーテンダーがぴくりと肩を揺らす。
「申し訳ありません、お客様。あの酒はディスプレイ用の空き瓶でして。それを証拠に、ほら、見て頂くと判ることですが、中身がないでしょう?」
「エル・アウレア」
務めて小さな声で零された男の呟きに、バーテンダーの動きが止まる。そして彼は、未だ微笑みを絶やさない男の顔を、まじまじと見つめた。
「銀の銘酒は奇跡のように透き通っているのが特徴だ。故に、この距離で中身の有無を判断することは極めて困難。手に取って見たとしても、素人では判断がつかぬだろうな。それにあのラベルからすると、もしや二十年ものではないか? いやはや、幻のエル・アウレアをこのような場で見つけるとは、私も運が良い」
その言葉に、バーテンダーがふわりと微笑む。柔らかな、それでいて何処か纏わり付くような笑顔だった。
「これは、参りました。お客様は大変目利きでいらっしゃる。……ここには、お酒を飲みに?」
「まあ、そうだな」
「それはそれは」
言いながら、男がエル・アウレアと呼ばれた瓶を手に取って、静かに持ってくる。そして男の目の前に赤い布で底まで覆われたグラスを置いてから、瓶を傾けて中身を注いだ。
「良いのか? 貴重な品だろうに」
「お飲みになりたいとおっしゃったのはお客様ではないですか。ああ、氷ですが、」
「山頂の氷は溶けることのない氷。特殊な技法で液体にした後も、未だその温度は氷点下百度を保っている。……火霊の炎で温めながら飲むのが決まりだったな?」
「本当に、よく御存じで」
そう言って、バーテンダーはグラスを赤い布で覆ってから、男の元へと滑らせた。
「氷点下百度に耐えられる特殊なグラスの周りを、火霊を纏わせた布で覆ってあります。これでしたら、丁度良い温度でお楽しみ頂けるかと」
「これは至れり尽くせりだ。有難い」
「いえいえ。ここはお客様にお酒をお楽しみ頂く場ですから」
グラスを持って味わうように一口飲んだ男が、ほう、と息をつく。
「やはり、これは最高の酒だな」
「喜んで頂けたのでしたら何よりです。……ときにお客様、失礼ながらお支払のご用意は大丈夫でしょうか? ご存知かとは思いますが、こちら、グラス一杯でも値が張るもので……」
「はっはっはっ、心配せずとも持ち合わせくらいはあるさ。尤も、例えばそこの角に置いてある花瓶はさすがに買えぬがな」
「……なるほど。やはり素晴らしい審美眼。本物、ということでございますね」
す、と目を細めたバーテンダーが、無言で小さなカードを取り出し、男に向かって差し出す。
「……これは?」
「そこの奥にある従業員用の扉に入って頂き、突き当たりにある壁をご覧ください。非常に判りにくいですが、このカードを差し込める箇所があります。もしお客様が刺激的な遊戯がお好きな方でしたら、是非一度ご来場くださいませ」
「……ほう」
「途中で誰かに何か言われましたら、ここであったことをお話頂ければ結構です」
にこやかにそう述べたバーテンダーに笑顔を返しつつ、男は内心で冷静に事態を分析していた。
恐らく、これこそが裏カジノへの招待なのだろう。やはり、思った通りである。国から隠れて運営している闇カジノである以上、第一に重要なのは気取られないことだ。故に、風の噂にカジノの存在を聞いただけの相手や目利きのできぬ素人などに対しては知らぬ存ぜぬを通し、それ以上は踏み込ませないのだろう。逆に男のように即座に隠された非日常に気づける相手ならば、顧客として申し分ない、ということである。それはつまり、このカジノ自体がかなり上級の貴族向けであることを示唆していた。
男が刺青屋で聞いた話では、このカジノは最近になって噂されるようになったものらしい。ということは、もしかするとかなり新しいカジノなのか。はたまたこれまでは表沙汰にならずにうまく隠れていたものが、何らかのトラブルで外部に漏れてしまったのか。その辺りも重要になるかもしれないのだが、現段階ではそこまでの判断はできない。だが、元々このカジノのことを話してくれたあの客自体、カジノの存在には半信半疑の様子だったのだ。情報自体が曖昧な中、男の目的に適うかもしれないカジノに辿り着けただけ上出来だろう。
そう考えつつ酒をゆっくりと味わった男は、空になったグラスをカウンターに置いて立ち上がった。
「馳走になった。支払いはいくらだろうか」
「ご招待には応じて頂けるので?」
「ああ、丁度暇を持て余していたところだしな」
「それではお支払いは結構でございます。我々の営む遊戯に興じて頂けることに感謝を込めて。ささやかな贈り物ということで」
優雅に一礼したバーテンダーを見て、男が首を小さく傾げる。
「良いのか? 金貨一枚はすると思っていたが」
「勿論ですとも。それでは、どうぞ今宵はお楽しみくださいませ」
優雅に一礼をして見せたバーテンにもう一度礼を言ってから、先程示された方へ向かい、従業員用と札の掛かった扉を潜る。すると、長い廊下の向こうに壁があることが窺えた。
なるほど、あれが例の壁か。となると、あそこでカードを差し込む部分を探せば良い訳だ。
しかし、それにしても随分用心深い。バーテンダーは何気ない顔で男と会話をしていたが、実はあの時、男以外には会話の一切を聞かれぬよう、その場に居た他の顧客には幻術の類をかけていたのだ。そして、男の見立てが正しければ、あれは魔法ではなく魔導の類だった。
リアンジュナイルにおいて魔導は異端である。この大陸で尊ばれるのは魔法であり、魔法があれば魔導は必要ないのだ。ただし魔法は生まれついた能力に大きく依存するものであるため、生まれつき魔法の才がない者も勿論いる。そんな人間のうち、それでも魔法に準ずる何がしかを成し遂げたい者は、魔術を学ぶのがこの土地における定石である。故に、リアンジュナイルで魔導を見ることはほとんどないと言って良い。
そもそも歴史的に見ると、リアンジュナイルには魔術すらも存在しなかったとされている。その理由は定かではないが、この地方で受け継がれている歴史とも伝承とも言える書を信じるのならば、こうである。
原初、全ての次元を統括する最高位の神、太陽神と月神は、この次元において神世と現世を繋ぐ門を設置した場所に、始まりの四大国、赤の国グランデル王国、青の国ミゼルティア王国、橙の国テニタグナータ王国、緑の国カスィーミレウ王国を生み出し、この四つの国をそれぞれの直属の配下に任せることにした。すなわち、太陽神直属の配下、火の神、地の神、月神直属の配下、水の神、風の神である。こうして、赤の国は火を、青の国は水を、橙の国は地を、緑の国は風を司る国家となった。これが、リアンジュナイルの始まりである。この後渡ってきた銀の国が先の四国を統括してリアンジュナイル大陸と成し、更に増えた移民により、最終的に現在の十二国にまで至った。このように、神により生まれた地であるが故に、この地方の人々は誰よりも精霊に愛されており、だからこそ、精霊の加護を必要とする魔法を扱える人間が多いのだ。
この国生みの伝承に関しては、信じている者もいれば信じていない者もいるのだが、他の大陸に比べ、リアンジュナイルの民に魔法適性のある者が多いのは事実だ。
一方の魔導は、魔法とは全く別機構の術式である。それはいわば、召喚術と魔術を組み合わせて魔法に並ぶ術式にまで昇華させたもの。己には足りぬ魔法的な部分を、ヒトならざるものによって補う術。それも召喚の術式は、限りなく召喚者、すなわち魔導の使用者に有利な条件での召喚がなされる。しかし、それはつまり、召喚される側にとっては不利益でしかない。精霊と対等な関係で行使される魔法とは違い、召喚対象を強制的に使役する魔導は、非常にリスクの高い術式であるとも言える。これは、魔法適性のある人間が少ない他大陸において、それを補うために、リスクを知った上で生み出されたものなのだ。故に、精霊のようなヒトならざるものを尊重するリアンジュナイル大陸の民の多くから魔導は忌み嫌われており、魔導を使用する者のほとんどは、リアンジュナイル外の大陸の人間なのである。
ということは、だ。
(裏カジノの経営側は、別大陸の人間……? ならばここは大当たりか)
思案の片手間に壁を眺めれば、確かに判りにくいが、カードを通す箇所がある。僅かな躊躇いすらなくそこにカードを差し込めば、壁に光の紋様が浮かび上がり、次の瞬間、中央に亀裂が走って扉が開くように左右にスライドした。
(なるほど。これは巧妙だ)
恐らくは、これも魔導。ならば魔導の心得がないこの大陸の人間には、そう簡単には見抜かれないだろう。
開いた扉を潜って中へと進むと、僅かな明かりを灯すランプにぼんやりと照らされる空間に、下へと続く階段があるのが見えた。やはり逡巡することなく、男はゆっくりと階段を下りる。壁にかかる橙色の光を宿したランプには、この大陸ではあまり目にすることのない装飾が施されていた。
階下へ進むと、そこには両開きの大きな扉があった。そして、その扉を守るように、屈強と称して良いだろう護衛兵のような者が二人立っている。尤も、恐らくそれなりの手練れであろう護衛兵よりも、のんびりと階段を下りてきた男の方が優れた体格ではあったが。
「失礼ながら、お客様でしょうか?」
護衛兵の内の一人が口を開く。それにしては随分と粗末な格好をしているが、という目で見てきた彼に、男は肩を竦めて見せた。
「少なくとも、上にいたバーテンダーにここを案内された以上は客なのだろうよ。サービスでエル・アウレアのような上等な酒を貰ってしまった以上、立ち寄らずに帰るのも無粋だと思ったのだが」
お邪魔なようなら帰るとしようか、と続けた男に、護衛兵が慌てて頭を下げる。
「失礼致しました。どうぞお入りください」
重々しい音を立てて扉が開かれ、その招きに応じた男が中へ入る。すると、入った先にはまた、同じような扉が設置されていた。
「ほう、二重扉か」
「こちらのお客様方がお楽しみなっているお声が漏れては、上でお酒を嗜まれているお客様にご迷惑ですので」
「なるほど。素晴らしい配慮だな」
感心したように頷いた男の背後で、入ってきた扉が閉まる。次いで、護衛兵によって、向かう先である正面の扉が開かれた。
途端、耳に飛び込んでくる歓声。勿論それは、男に向けられたものではない。地下に造られた遊技場で遊ぶ人々の声である。じゃらじゃらとコインが積まれる音や、ルーレットが回る音。そう、紛れもなくここは、非合法に運営されている裏カジノであった。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
再び深々と頭を下げた護衛兵が、後方へと下がり、扉が閉まる。それを目端に捉えてから、男は改めて目の前に広がる光景を眺めた。リアンジュナイルの十二の国にある裏カジノは全て回ったという自負のある男だったが、このカジノの大きさは、その中でも最大級の内の一つに数えられるだろう。驚くべきは、この規模のものを恐らくは短期間で設置したであろうことだ。半年ほど前に男が金の国へ来たとき、確かにこのカジノも、上のバーも存在しなかった。だとすれば、半年足らずでここまでのものを造り出したことになる。
それが可能か不可能かで言えば、可能ではあるだろう。しかし、人の手では無理だ。ヒト以外の何かの力を借りなければ、ここまでのものを短期間で造ることはできない。いや、それよりも、もしかするとこの空間自体が異質なのではないだろうか。
急ごしらえの地下施設は、どうしても耐久の面で弱くなってしまうものだ。しかし、このカジノは敷地面積が広く、途中途中に支えとなるような柱もない。ではどうやって、このような柱を置かないぶち抜きの巨大な空間を造るかだが、可能性として考えられるのは、空間の転移だろうか。地霊の力を借りて大地を固定させた可能性もあるにはあるが、地霊は少々頑固者が多く、大地を大きく変動させた上にそれを長期間固定させるとなると、かなりの魔法の腕と魔力が必要となる。橙の国の王であれば容易にやってのけるだろうが、リアンジュナイル外の人間がそうそう真似できることではないだろう。故に、やはり空間転移の可能性が高い。実はここはバーの地下ではなく、どこか別の場所、なのかもしれない。扉は空間と空間を繋ぐゲートであり、潜った者を別の空間に飛ばす装置だとしたら、まあ納得はできる。それならば魔法を使えずとも魔導を駆使すれば可能だろうし、少なくとも、地霊を説得して穴掘り作業をするよりは現実的だ。
と、そこまで思考を巡らせたところで、男がひと息つく。
男の魔法や魔術や魔導に関する感知能力は、そこまで高くない。というか、どちらかと言うと鈍い方だ。よって、これ以上考えるのは無駄である。いくら考えたところで憶測の域を出ないし、今回の目的を考えるならば、ここがどういう空間であるかを知ることはあまり本質的ではない。いざというときに逃げられれば、まあそれで良いのだ。
さて、と呟いた男は、手始めにカード遊戯が行われている場所へ足を運んだ。遊戯自体は、合法である表カジノでも採用されている、よくある種類のものだ。“キングオブキングス”と呼ばれるそのゲームのルールは、いたって単純であり、見習い騎士、準騎士、騎士、騎士隊長、騎士団長、姫、王子、王妃、王獣、国王といった十階級のカードが、リアンジュナイルの十二の国の分だけ用意されていて、山札から得た五枚の手札を互いに見せ合い、強い役の方が勝ち、といったものである。手札は、一度だけ好きな枚数を捨てて山札からその枚数分引き直すことも可能だ。
簡単ルールであることから、小さな子供の遊びにも使われることが多いが、実は役の数が非常に多く、また山札内のカードの配合はカジノによって異なってもいるため、単純ではあるが運に大きく左右されるゲームでもあった。それはつまり、勝ち続けることが困難なゲームであることを示唆し、同時に今の男にとって最も条件の良いゲームであることを示していた。
「失礼。私もひと勝負、良いだろうか?」
取りあえず、と手近にいた初老の男性(恐らくは貴族だろう)に声を掛ける。初老の男は、勝負に誘ってきた男が傭兵のような風貌であることに一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに微笑みを貼り付けて頷いた。
「これはこれは。まだお若いのにお盛んなことだ。ルールはお判りかな?」
「若いだけであれば、私よりも若い者も多く遊びに来ているでしょう。これでもカジノ通いは趣味でしてね。特にこのゲームはとても好みだ」
「ほう。では、楽しませて貰おうかね」
にっこりと微笑み、初老の男が席につく。やたらと豪奢な机を挟んで向き合う形で、男も毛皮張りの椅子に腰掛けた。すると、ディーラーが自然な動作でテーブルの上にカードの山を置く。山は四つ。厚みからして、全て合わせると百二十枚程度だろう。尤も、配合がどうなっているかは不明だが。
「ベットはどうなさいますか?」
「そちらのお若いのに任せるよ。いくらにするかね?」
「そうですね。……では、まずはこれくらいでいかがだろうか」
そう言い、男は懐からリンカネット金貨を五枚取り出して机に置いた。
「ほう、これは」
この大陸での金貨は非常に価値が高い。職にもよるが、ごく一般的な人間がひと月働いたとして、その収入は金貨二枚もあるかどうかだろう。それを五枚となると、この男、もしかすると手練れの傭兵なのかもしれない。と、相対している貴族を含む、周囲の人間は思った。
相手が男のベットと同じ枚数の金貨を机に乗せたところで、ゲームが開始する。ディーラーの合図に合わせ、二人は交互に好きな山からカードを手札に加えていった。五枚になったところで一度ストップがかかり、男は改めて自分の手札を見る。まあ、判っていたし予想していた結果だ。特に驚くこともない。
男が普段と変わらぬ表情のまま見つめる先、大きな手によって扇状に広げられている五枚のカードは、全て縁が赤く彩られており、姫、王子、王妃、王獣、国王を模した絵が描かれていた。赤の国グランデル王国が一揃いになった上、上位から順に階級が揃っている、“赤国”という最上級の大役である。この手札に勝てる役は、四大国である赤青橙緑の王札に銀の王札が加わった“国始”などであるが、さて相手の方はどうか、と視線を上げれば、落ち着いた表情で微笑みを絶やさぬ顔が窺えた。どうやら相手もかなり遊び慣れている人間のようで、その表情から手札のほどを読み取ることは難しい。面白そうに勝負の行方を眺めている周囲の人間も、二人の手札がいかほどのものか、判断しかねているようだった。だが、
(ふむ。有り余るほどに自信に満ちているな。よほど良い手が揃ったと見える)
この男にとっては、関係のない話だった。
人の心というものは、どんなに隠そうとも隠し切れないものだ。呼吸のリズム、瞬きの回数、唇の濡れ具合、指先の僅かな震え、その他様々な身体的特徴を全て逃すことなく見れば、あらゆる生き物のおおよその思考が、手に取るように判る。増してや、男は日常的にそれを行ってきた人間だった。故に、今もはっきりと判る。今目の前にいる相手は、この上ないほどに最上の手を持っているのだと。
このゲームに絶対はない。だが、限りなく絶対に近い手が、ひとつだけ存在する。そして相手は恐らくそれを引き当てた。だとすれば、男が次に取る手はひとつである。
「チェンジはいかがなさいますか?」
ディーラーの言葉に、初老の貴族はわざとらしくゆっくりと首を横に振った。
「私はやめておこう。これで勝負させて貰うよ」
「承知致しました。そちら様は?」
「では、こちらは全てチェンジで」
持っていたカードをすっと机に伏せた男に、周囲が僅かにざわめく。
「おや、全て換えてしまって良いのかね?」
「ええ。残念ながら、あまり良い手ではなかったので」
言いながら、今一度男が手札を五枚引いたところで、ディーラーによって山札が回収された。
「それでは、手札を公開してくださいませ」
ディーラーの指示に待ちきれないといった風にカードを机に置いたのは、初老の貴族の方だった。表になったその柄に、周囲がおおっとどよめく。
五枚のカードは、縁の色がバラバラで、男の最初の手札のように上位階級のカードが揃っている訳でもない。だが、一枚だけ、一際豪奢な縁取りのカードがあった。金箔によって複雑な模様を描く縁取りがなされたそれには、美しい男の姿が描かれている。
そう。これこそが、このゲームがカジノで好まれる所以である、最高の一枚。
相手が示したそれは、太陽神のカードであった。
そのカードが場に出たとき、“キングオブキングス”における番狂わせの特殊ルールが適応される。リアンジュナイルの神話では、太陽の神はありとあらゆる次元を統括する最高峰の神であり、何者も敵うことのない絶対的な存在だとされている。それ故に、このカードもまた、ありとあらゆる役を凌ぐ最高の一枚なのである。つまり、このカードが手札にあるだけで、相手がどのような役を持っていようとも勝ててしまうのだ。ルール上山札にたった一枚しか入らないカードではあるが、引き当ててさえしまえばこれほど強いカードもない。この時点で、ほとんど勝負は決まっていたようなものだったし、周囲の人間も勿論そう思い、男に同情の目や馬鹿にしたような視線を向けたのであったが、当の男はにっこりと微笑んで見せた。
「素晴らしい。太陽神のカードは久々に拝見した。お陰様で、私の勝ちです」
そう言って男が机に無造作に置いたカードを見て、周囲が先ほどよりも大きくどよめく。
出されたのは、初老の貴族が出したのと似通った、特に何の役もないようなバラバラの絵柄と色のカードである。だがその中の一枚だけ、毛色が異なっていた。
他のカードと違って縁取りがない、随分と質素なカードである。しかし、そこに描かれている美しい女性の絵は、このカードがこの場における逆転の一枚であることを示していた。
「月神のカード」
驚きを隠せないとった様子で呟いたのは、勝負の行方を見守っていたディーラーだった。
月神のカード。それは、“キングオブキングス”中、最も不要とされるカードだった。持っていても何の役にもならないどころか、持っている者は問答無用で負けになる、という特殊カード故に、手札に入った場合はすぐさま捨てられる疫病神的なカードなのだ。が、とある条件においてのみ、最強のカードに変貌することができる。その条件が揃ったのが、今この瞬間なのであった。
月神のカードは、相手が太陽神のカードを持っているときに限り、所有者に勝利をもたらす奇跡のカードとなる。
しかし、月神のカードが発動することは極めて少ない。何故なら、太陽神のカードと月神のカードは山札に一枚ずつしか入れられず、両者が揃って場に出ることはほぼあり得ないからだ。よって、月神のカードは捨てられないことの方が珍しい。
だが、男はそれが狙いだった。相手の細かな挙動から、向こうが太陽神のカードを持っていることはほぼ確実だと踏んで、ならばと月神のカードを引き当てるために、大役だった五枚のカードを全て捨てることにしたのだった。
もちろん、たかだか五枚を引いただけで、百枚以上の中から望むたった一枚を引き当てることは困難だが、男にそれに対する不安はなかった。何故なら、男は異常なくらいの強運の持ち主であり、本人もそれを自覚していたからである。現に、こうしてたった一枚を引き当て、奇跡のような勝利を収めている。
まんまと金貨五枚を手に入れた男は、続く勝負も危なげなく勝ち抜いていった。そのまま続けること十戦。すべての勝負に大勝した男は、順調に金貨を積み上げていった。
さてそれではもう一戦、と十一戦目に臨もうとするも、どうやら少々やりすぎたようで、その頃にはもう、男に勝負を挑んでくる者はいなくなってしまった。これは困ったぞ、と、仕方なく別の遊戯に移ろうとした男だったが、歩み寄ってきた気配に、ぽん、と肩を叩かれ、振り返る。
「何か?」
振り返った先に居たのは、年配のディーラーだった。胸につけている名札をちらりと見れば、ディーラーの中でも上の立場の者であることが窺えた。
「いえ、お客様、本日は非常に幸運でいらっしゃるようで」
「ああ、たまたまだとは思うが、やはりツキが来ていると楽しいものだな」
「それは何よりでございます」
にこりと微笑んだディーラーだったがしかし、男には彼が心の底から笑っている訳ではないことがよく判った。
どの道、そろそろ来る頃合いだと思っていた。男は誓ってイカサマなどしていないが、あのゲームでここまで勝ち続けるとそう思われるのは当然だろう。イカサマをする必要など一切ないほどの強運の持ち主なのだ、と言って納得してくれるような相手ではないし、それで納得してくれる相手の方が珍しい。
「ぜひとも一勝負、お願いできませんか?」
お願いできませんか、と言ってはいるが、男が勝ち越しているこの流れでは断ろうにも断れない。裏カジノに来る客のほとんどは、それなりに権力のある人間だ。こういった場で誘いを断っては、自分の顔に泥を塗ることになる。もともと断るつもりはなかったどころか、これが狙いだった男は、少しだけ渋る様子を見せた後、仕方ない風を装って頷いて見せた。
「有難うございます。それでは、勝負はぜひあちらのルーレットで」
「ルーレットか。久々だな」
構わない、と言ってディーラーの誘いに乗った男だったが、この時点で大体の展開は読めていた。
腕利きのディーラーは、望みのマスに止まるように球を投げられるという。大方、イカサマで稼がれた大金をイカサマで回収しようという魂胆なのだろう。男の場合はイカサマで稼いだ大金ではない訳だが。
案内されたルーレットは、いくつか種類がある中でも最も単純なものだった。十二国の内の金と銀を除く十色がそれぞれ三マスずつと、金と銀が一マスずつ組み込まれたルーレット版。そのどの色の部分に球が止まるかを賭けるゲームだった。ただし、金色と銀色だけはディーラーマスと呼ばれ、プレイヤーが賭けることはできない。そして、球がディーラーマスに止まった場合は、場にある賭け金は全てディーラーが回収する決まりである。
「ルールは単純明快に、一色賭けの五回勝負でいかがでしょう。お客様が賭けたマスにもディーラーマスにも止まらなかった場合は場にプールされる、ということで」
「構わんよ。ではそうしよう」
プレイヤー用にと渡された赤色のチップを受け取り、取り敢えず適当な枚数を青色のマスに賭けてみる。いつの間にか、周囲には人だかりができていた。大方、勝ち越して有頂天になっていた客がディーラーに大負けする様を一目見ようといったところだろう。まったく、良い見世物である。
それでは、という声と共に、ディーラーがルーレットを回し、球を投げ入れる。カラカラと音を立てて駆ける球の行方を目で追えば、徐々に速度を落としていったそれは、見事に青色のマスに落ち着いた。観衆が感嘆の声を上げるが、しかし男は表情を変えない。
勝負は五回あるのだ。どうせ最後のベットでこちらの稼ぎを全て賭けさせるのだろうから、最後の勝負に勝たねば意味がない。その後、三回四回と勝負を重ねたが、驚いたことにその全てで、球は男の選んだ色のマスに止まった。さすがの男も、これはディーラーがわざとやっていることなのでは、と考えたが、様子を見るにディーラー側も想定外の事態だったらしい。思っていた以上に男の運が場を乱してくれているようで結構なことだが、大事なのは次の一戦だ。
「そこまで大勝されますと、こちらとしても引き下がれなくなってしまいます。……どうでしょう。ここは一つ、お客様がここで稼いだ金額を全て賭けて頂くことはできないでしょうか。勿論、お客様が勝利されたあかつきには、その金額の更に倍をお支払いさせて頂きます」
やはりこう来たか、と思いつつ周囲を見回せば、いつの間にか増えているギャラリーが揃って、賭けに乗れと無責任に囃し立ててくる。ほら見たことか。案の定逃げることは許されない状況を作り上げられてしまっている。
どうせギャラリーの一部はサクラなのだろうなぁと悠長に考えながら、男はふたつ返事でディーラーの提案を飲んだ。元より逃げるつもりなどないのだから、ここで物怖じをする必要はない。
もう一度盤面を確認してから、稼いだ分と同じ枚数のコインを、赤のマスに置く。一際大きくなったギャラリーのざわめきを受けて、ディーラーが今まで以上に演技じみた動作でルーレットを回した。そして、男が見つめる先、回転する盤の中に球が投じられる。先ほどまでと変わらぬディーラーの手捌きに、しかし男は僅かに目を細めた。本当に些細なものではあるが、投じる際の動きに違いがある。それは恐らく、男だからこそ判った変化だろう。やはり、仕掛けてきたのだ。
一同が固唾を飲んで見守る中、その回転を緩めていく盤面の上を球が転がっていく。勢い良く走る球は、やがてひとつのマスに向けてその動きを鈍くしていった。
かた、と音を立てて球が、止まろうとする。そのマスは、確かに金色に染まる一マスであった。だが、ディーラーの勝利を確信したギャラリーが歓声を上げる寸前、黙って盤面を見つめていた男の瞳が、僅かに、まるで何かに目配せをするかのように動いた。刹那、
からり、という乾いた音とともに、球がゆっくりと転がり、金のマスの隣にあった赤のマスへと進んで、止まった。
たっぷり三秒後、ルーレット台を取り巻く周囲が湧いた。ディーラーは信じられないものを見るような目で呆然と盤面を見つめ、周囲にいたスタッフたちも皆、動揺したように視線を彷徨わせている。
「いやはや、どうなることかと心臓が早鐘を打ったが、これはツイている」
ほっと胸を撫で下ろすような動作をして見せた男がにこりと微笑むと、ギャラリーたちが次々と賛辞や祝いの言葉を投げかける。それらに丁寧に応えてから、男は若干顔色が悪くなっているディーラーを見た。
「さて」
「……いやはや、私の完敗です。お見事としか言いようがありません」
「いや、今日はたまたまツキがあっただけのことだろう。して、勝利金のことだが」
そこで言葉を切った男が周囲を見回してから、テーブルの赤マスに置かれていたコインを綺麗に半分に分ける。
「今日は随分と楽しませて貰ったからな。これの二倍の金貨が貰えるとして、それでは、その内半分はこのカジノに、もう半分は、共に楽しんでくれたギャラリーの方々で山分けを」
そう言って微笑んだ男に、今日一番の歓声が上がる。これ以上ないほどに気前の良い男の采配に、ギャラリーは大いに盛り上がり、ディーラーを含めたスタッフも感嘆と感謝の念を感じられずにはいなかった。
この一件は少しの間、貴族などの権力者の間でちょっとした伝説のように語られたのだが、不思議なことに、その場にいた誰もが、男の詳細な容姿を思い出せずにいたのだった。
ディーラーとの大勝負を終えた男は、やることはやったとばかりにひっそりとこの場を去ることにした。幸い、観衆だった人々は男の残した金貨の山分けで忙しい。勿論声を掛けてくる者もいたが、皆二言三言話しただけで、すぐに金貨の山へと向かって行った。男の方もこれ以上ここに留まる気はなかったので、声を掛けてくる者には簡単な言葉を返しつつ、入口である大きな扉へと向かって行く。
と、こちらに向かって真っ直ぐに歩いてくる人影に気づき、男は立ち止まった。
「私に何か?」
致し方なかったこととは言え、男は少々目立ちすぎてしまった。自分に掛けられている魔法の都合上、できる限り長居はしたくはないのだが。
そんなことを思いつつ、歩み寄ってきた男性に向き直る。見た目から判断される相手の歳は、男よりも少し若いくらい、恐らくは二十五歳前後だろうか。黒く艶やかな髪と、同じく漆黒の瞳が印象的な青年だった。体格は男に劣るが、細すぎるということはなく、筋肉がしっかりとついている。それも、恐らくはそれ相応に鍛え上げてある。そこまでを男が見て取ったところで、青年は優雅に一礼をした。
「初めまして。私、このカジノのオーナーをしております、デイガー・エインツ・リーヒェンと申します」
「ほう、貴方のようなお若い方がオーナーでしたか。わざわざご挨拶頂き有難い。私はロストと言います。本日は素晴らしい体験をさせて貰った。今日はこれで帰ろうと思っているのだが、またこちらに伺ってもよろしいだろうか?」
引き止められるのはあまり望ましい事態ではないと、先んじて今日はもう帰宅するのだと伝えた男だったが、どうやら相手はそこまで引き止める気もないようだった。
「それは勿論でございます。先程の勝負、実は私も拝見させて頂いていたのですが、素晴らしい限りでございました。その後の采配もお客様の懐の深さが垣間見え、従業員一同、感嘆の極みでございます」
「そう言われると照れてしまうな。なに、今晩存分に楽しませて貰ったお礼です」
「ふふふ。やはり素敵なお方だ。その赤銅色の髪を見るに、もしやグランデル王国生まれの傭兵様ですか? グランデルと言えば、武具を含む製鉄技術とその扱いに優れたお国だ。もしや、貴方も相当の手練れなのでは?」
「はてさて、傭兵という見立ては、さすが顧客をよく見ていらっしゃる、ご明察です。しかし、手練れかどうかは、私には判断致しかねるな。そこはその時々の依頼主の判断にお任せするとしよう」
少しいたずらっぽく笑って見せた男に、デイガーと名乗った青年もつられたように笑う。
「それでは、私はこれで失礼する」
「はい。お気をつけて」
深々と一礼をしたオーナーに軽く会釈をしてから、男はドアマンに開けられた扉を潜った。二重扉を抜けた先にある薄暗い階段を上ってバーに入り、覚えのあるバーテンダーにひらりと手を振ってから店を出る。そのまま夜風を楽しむようにのんびりと歩き、店から十分に離れたところで、男の唇が小さく動いた。
「誰かつけているものは?」
微かな呟きに、男の髪を風が撫でた。
「いないか。では、急ぎで言伝を頼む。私に掛かっているはずの目くらましの魔法を、恐らくは看破する者が現れた。しかし、私はそういった類の魔法に対する感知能力が低く、目くらましの魔法が解呪されたのか透過されたのかの判断をしかねる。よって、早急にその類に優れた魔法師を寄越してほしい。できれば再度目くらましをかけ直せて、かつこの国への長期滞在が可能な者が良いな」
風がするりと頬を撫で、男は小さく笑った。
「いや、元より私と目くらましの魔法の相性が致命的に悪いのだ。私には判らぬが、どうにも私はやたらと目立つ魂をしているらしくてな。存在や輪郭を曖昧なものに落としこみ目立たなくする目くらましの魔法を掛ける対象として、これほど不適切なものもそうあるまいと罵られたくらいだ。故に、少し目立ったことをするだけで、簡単に解けてしまう。カジノで少々大勝ちするくらいならばと思ったが、向こうに目利きがいる可能性を考えると、これはもう少し抑えた方が良いかもしれないな。と言っても、賭け事の運に関しては私にどうこうできるものでもないのだが」
最後の方はひとりごとのように呟いた男の髪を、まるで慰めるように風が揺らす。
「ああ、有難う。カジノでの一件も含め、礼を言おう。それでは頼んだぞ。伝達用の鳥は数時間前に飛ばしてしまったが、風霊の言伝であれば、それよりも早く駆けることが可能であろう?」
傍らでそよぐ風を撫でるように掌を滑らせれば、ひゅう、と小さな音を立てて風が走っていく。ひとまずは、これで大丈夫だろう。鳥を使った手紙でのやり取りと違って精霊間での伝言ミスが怖いところではあるが、あの鳥よりも少しだけ伝達が早いのは利点だ。
ふわあ、と大きく欠伸をしてから、男は赤銅の髪を夜風に揺らしながら、宿への道をゆっくりと歩んでいった。
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自分以外は誰もいない部屋に問いかけが投げられる。と、絨毯に落ちているデイガーの影が、一瞬だが揺らめいた。
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デイガーが、結局何が起こったのかは判らずじまいか、と溜息をついたが、彼の影が揺れることはもうなかった。
「まあ良いや。彼が何者なのかは判らないけれど、僕たちのやることは変わらないしね。まあ、念のため彼の周辺には探りを入れておこう」
そう言ってから、デイガーは握っていたグラスを逆さにした。落ちる液体が、上等な絨毯を赤く濡らしていく。自分の影に滴る赤を見て、デイガーは満足したように微笑んだ。
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若干の胸くそが出てきます。
ちょっと痛い表現出てくるかもです。
なんか金髪超絶美形の御曹司を抱くことになったんだが
なずとず
BL
タイトル通りの軽いノリの話です
酔った勢いで知らないハーフと将来を約束してしまった勇気君視点のお話になります
攻
井之上 勇気
まだまだ若手のサラリーマン
元ヤンの過去を隠しているが、酒が入ると本性が出てしまうらしい
でも翌朝には完全に記憶がない
受
牧野・ハロルド・エリス
天才・イケメン・天然ボケなカタコトハーフの御曹司
金髪ロング、勇気より背が高い
勇気にベタ惚れの仔犬ちゃん
ユウキにオヨメサンにしてもらいたい
同作者作品の「一夜の関係」の登場人物も絡んできます
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
はじまりの恋
葉月めいこ
BL
生徒×教師/僕らの出逢いはきっと必然だった。
あの日くれた好きという言葉
それがすべてのはじまりだった
好きになるのに理由も時間もいらない
僕たちのはじまりとそれから
高校教師の西岡佐樹は
生徒の藤堂優哉に告白をされる。
突然のことに驚き戸惑う佐樹だが
藤堂の真っ直ぐな想いに
少しずつ心を動かされていく。
どうしてこんなに
彼のことが気になるのだろう。
いままでになかった想いが胸に広がる。
これは二人の出会いと日常
それからを描く純愛ストーリー
優しさばかりではない、切なく苦しい困難がたくさん待ち受けています。
二人は二人の選んだ道を信じて前に進んでいく。
※作中にて視点変更されるシーンが多々あります。
※素敵な表紙、挿絵イラストは朔羽ゆきさんに描いていただきました。
※挿絵「想い03」「邂逅10」「邂逅12」「夏日13」「夏日48」「別離01」「別離34」「始まり06」
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