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最終章 伝説の最果てで蝶が舞う
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ここは何処だろう。
ふわふわと浮いて漂うような、空気の中を泳ぐような、不思議な心地だ。
手を動かそうとしても、手がどこにあるのか判らなくて。一歩を踏み出そうと思っても、踏み出すための脚がない。
そんな、何もかもが不明瞭な感覚の中で、ふと声がしたような気がした。しかし、それが自分を呼ぶ声なのかどうかすら判らなくて、彼は戸惑いのままに意識を埋めようとした。
だが、そんな彼を叱責するように、声が大きくなる。
眠くて眠くて仕方がないのに、布団をはがされて無理矢理叩き起こされるような感覚だ。それを厭って、より深くまで自分を沈めようとすれば、聞こえている声がとうとう怒ったような色を含んだ。
「ほら! いい加減にお目覚め!」
ばしっとやや乱暴に身体を叩かれ、天ヶ谷鏡哉は覚醒した。
同時に、先程まで己に降りかかっていた恐怖を思い出した彼は、悲鳴を上げてその場に蹲る。いや、蹲ったつもりだった。
自分の感覚では確かに蹲っているのだが、どうしてか視点が低くはならない。それどころか、改めて考えてみると、自分の身体が今蹲っているのかどうかすら判らなくなってしまった。
まるで自分が自分ではなくなってしまったかのような感覚に、鏡哉はますますその心を恐怖でいっぱいにする。だが、そんな彼に向かって、先程の声が降りかかった。
「寝ぼけてないでしっかりおし」
叱咤する声に、鏡哉がそちらを見やれば、そこには腰の曲がった老婆が一人、立っていた。いや、違う。一瞬そう見えたその姿は、しかしすぐにぐにゃりと歪み、何とも表することができない、不可思議な見た目の何かに変わっていった。あらゆる属性のものが流動し、現れては変化していくような、奇妙な光景だ。
まるで定形ではないそれに、鏡哉が思わず吐き気を催す。そんな鏡哉を見て、不定形は呆れたような声を出した。
「ああ、加減も何もなく最大まで目をかっ開いているから、儂の姿まであやふやに見えとるのか。無駄にきらきらしていたあの王様と言いお前さんと言い、間抜けな子だねぇ。その目はね、そんな常時限界まで開きっぱなしにしておくもんじゃあないんだよ。まったく、仕方がないから手伝ってやろうかね」
若くあり年寄りであり、男であり女であり、生物であり非生物であるような、そんな声がそう言って、次いで鏡哉のどこかを、不定形の何かがするりと撫でた。
すると、曖昧だった不定形の姿が、最初に見た老婆の姿となって安定する。それに鏡哉が驚いていると、老婆はやれやれと言った。
「お前さんの目を少しばかり閉じさせたんだよ。何事にもほどほどってものがあってね。その目にとってのほどほどは、今くらいの状態だ。今後のためにも覚えておきな」
そう言って、老婆はぐるりと周囲を見回した。そこでようやく、鏡哉も自分の居場所を確認することに思い至る。
老婆に倣って辺りを見た鏡哉は、その異様な光景にまたもや驚いてしまった。
何もない、真っ白な空間だ。白い壁で囲まれた部屋なのかとも思ったが、なんとなく、そうではないような気がした。
ここは何処なのか、と問おうとした鏡哉は、しかしその声を出すことができず、混乱する。どうしてだろう、と思って、改めて自分を認識した鏡哉は、先程までの老婆のように、自分が定形でないことに気づき、驚いて悲鳴を上げた。いや、上げようとした、と言うのが正しい。本人は悲鳴を上げたつもりだったのだが、それが出るべき口があるのかないのか判らない状態だったので、音として発されることがなかったのだ。
「ああ、何も言わなくていいよ。お前さんの言いたいことは、なんとなくだが判るさ。そうさね、まずひとつ。虚従えし嬉戯、今はウロと名乗っとるんだったかね。あれはここにはいない。そして、あれがここに来ることもない。何せ、今のあれじゃあ、お前さんがここにいることすら判らないだろうからねぇ。ま、さすがに万分の一のあれと比べれば、儂の方が何枚も上手だったってことだろう。だから安心おし」
その言葉に、鏡哉が困惑の表情を浮かべる。例にもよって浮かべているつもりなだけで、今の鏡哉の身体がそれを表情として表に出せているのかは判らないが、それでも老婆には伝わったようだ。
「ああ、そう、そこから説明がいったか。いいかい、お前さんをここに連れて来たのは儂だ。あのまま放っておくわけにはいかなかったし、たったそれだけのことでも、黒の坊やの手助けになると思ったからね。方法については訊くんじゃないよ。そもそもお前さんがわざわざ訊くような方法じゃあないんだ。さて、じゃあ次は、この場所についてかね。と言っても、明確に何処と言えるような場所じゃあない。ここは、境界と境界を越える、その狭間に位置する空間だ。まあ、何処でもあり何処でもない場所と認識しておけば、概ね正しかろう」
靴の踵でこんこんと足元を叩いて見せた老婆が、更に言葉を続ける。
「儂が誰かということに関しては割愛するとして、あとはお前さん自身の話だが……、」
そこで言葉を切った老婆が、まじまじと鏡哉を見た。
「ふむ、完全に自分を見失っているね。だから姿が安定しないんだよ。しかし、残念ながら、原因が判ったところで、これは儂にどうこうできるものじゃあない。ま、自分でコントロールできるように精進することだね」
あっさりとそう言った老婆が、曲がった腰をぽんぽんと叩いた。
「いやはや、この姿をしていると、どうも腰が痛くなって良くない。性質と外観はまるで別物の筈なんだが、気分的に引き摺られてしまうんだろうね。やれやれ」
ふぅ、と息をついた老婆が、再び鏡哉を見て目を細める。
「さて、儂としてはもう少し世間話をしても良いところなんだが、残念なことに時間がない。ドラゴンが召喚されてしまった以上、長引かせるわけにもいかんだろう」
その言葉に、鏡哉は驚いた。
ウロによって大切な部位を損ねられてしまったことは覚えているのだが、そのあたりの記憶が曖昧なせいで、ドラゴンが召喚されたことを知らなかったのだ。鏡哉が思い出せるのは、自分がこれまでに感じたどれよりも強い逃避願望に満たされたところまでで、そのあとの記憶は真っ白になり、そして、気づいたときにはここにいた。
そうやって反射的に記憶を探ったことで、自分の身に起きたことを鮮明に思い出してしまった鏡哉は、恐怖から身体を震わせた。そして、不明瞭な自分の身体を見つめて、その名状しがたい姿に思う。
唯一自分で認め、許すことができる腕を失い、その上汚い目だけになってしまった自分に、生きる意味はあるのだろうか。生きることが許されるのだろうか。
こんな、何者かも判らないような曖昧な存在になってしまって、それでも、あの人は僕を愛してくれるのだろうか。
ぽつりと浮かんだその考えに、鏡哉は更に恐怖する。一度手にしたものを喪失することがこんなにも恐ろしいだなんて、鏡哉は知らなかった。きっと鏡哉は、最初から何も持っていなかったあの頃よりも、ずっとずっと弱くなってしまった。
一人震える鏡哉に、老婆は何を思ったのか。少しだけ優しさのようなものを滲ませる彼女の声が、鏡哉へとそっと囁かれる。
「儂は何も言えない。これは、お前さんとあの王様の問題だ。だから、他の誰にも介入する権利はない」
言いながら、皺だらけの手が伸ばされる。そしてその手は、慰撫するように鏡哉の曖昧な輪郭をゆるゆると撫でた。
「昔のお前さんだったら、きっと逃げていたことだろう。お前さんは死ぬわけにはいかないから、全てを封じ込んで、手放される前に手放して、そうしてまたひとりぼっちを選んだことだろう。……だけど今のお前さんなら、どうするのが正解か、判っているね?」
老婆の柔らかな声が、優しく撫でるように鏡哉の耳に入ってくる。どうしてだか鏡哉は、その声にこの上ない懐かしさを感じた。そう、まるで、夢に描いていた母親のような。
暖かなそれに背を押されるようにして、鏡哉は思う。
あの人は、僕の思いを否定しなかった。母から与えられた呪いを、呪いだと忌みはしなかった。汚く醜いと嘆く心を、そのままに受け入れてくれた。受け入れた上で、その汚れや醜さに侵されたりはしないと、誓ってくれた。ずっと、永遠に綺麗なままでいると、約束してくれた。
その言葉に、どれだけ救われたことだろう。呪いは呪いであり、たとえあの人の言葉であろうと解けはしない。何よりも、解かれることを厭う自分がいた。
あれは確かに呪いで、自分を苛み続ける害悪なのだろう。だけど、そうと判っていても、それでも母が与えてくれたものだ。どんなに自分を責め立てるそれでも、母がくれたものなのだ。だから、それを否定されるのは嫌だった。きっと、心のどこかで、肯定されることを望んでいた。
あの人は、それを叶えてくれたのだ。否定せず、受け入れて、その上で誓ってくれた。きっと、自分が一番望んでいた言葉を差し出してくれた。それほどまでに、愛してくれた。
それなら、疑う余地なんてない。全部を受け入れて、全部を賭して愛してくれたのだから、疑う必要なんてないのだ。
「…………僕、あの人に、会わなきゃ」
ぽつりと、声が落ちた。つい先ほどまでは、出そうと思っても出なかった声だ。それが、すんなりと零れて溢れた。
相変わらず、姿は安定せず、自分でも嫌になるほどに気持ちが悪いままだ。けれど、それでも、鏡哉はその声だけは取り戻した。
そんな鏡哉を見て、老婆が柔らかく笑む。
「偉い子だ。無自覚なんだろうけれど、必要なものをよく判っているんだね。それなら、儂もお前さんの想いに応えよう」
そう言った老婆が、すっと片手を上げる。すると、鏡哉から少し離れた場所の空間が歪んで、波紋が揺れる薄い膜のようなものが現れた。
「半端者のお前さんじゃあ、まだ繋げるのは荷が重い。だから、少しだけ手伝ってあげよう。ただし、望む場所に行くためには、強く願わないといけないよ。惑えば惑っただけ道は捻じれ、捻じれた果てに、何処でもない場所に閉じ込められてしまうかもしれない。……それでも進むかい?」
問われ、鏡哉は迷わなかった。僅かも躊躇することなく、はい、と答える。
「閉じ込められることよりも、これ以上ないほどに汚くなってしまった僕を見せることの方が、よっぽど怖いです。でも、僕は行かなくちゃ」
揺れ続ける姿が、揺れない声を紡いでいく。
「あの人はいつだって、僕に会いに来てくれました。僕が怖い思いをしているときは、いつだって手を差し伸べてくれました。だから、今あの人がここにいないのは、きっとそういうことなんですよね。……だったら、今度は僕が会いに行く番です」
強い声が、そう言った。そして、鏡哉は一歩を踏み出す。
迷いはない。ただ、覚悟だとか決意だとか、そういう大層な思いを持っている訳でもなかった。ただ、心がそう望んでいるのだ。会いたい、と。他でもない、自分自身の足で、あの人に会いにいきたいと。
「そこを潜ったら、お前さんはまず自分自身と向き合うことになるよ。お前さんの望みを叶えるには、その枷を外さなくちゃあならない。つけるべきけじめを、きちんとつけなくちゃあならない。ただ一つを選ぶっていうのは、そういうことだ。お前さんに、それができるのかい?」
後ろから掛けられた言葉に、鏡哉は振り返らない。振り返らないまま、はい、と答える。
老婆の言うけじめというのがどういうものなのか、鏡哉には判らない。判らないが、それが必要だと言うのならば、逃げたりはしない。できるできないではなく、鏡哉はそれをしなければならない。
「…………それなら、迷わずに進みなさい。その望みが、願いが、必ずお前さんを連れて行ってくれる」
言葉と共に、鏡哉の背中が強く押された。それに抗うことなく、歪な身体が境界の膜を踏み越える。
瞬間、何かが身体に纏わりつくような感覚と共に、鏡哉の視界が一変した。
ふわふわと浮いて漂うような、空気の中を泳ぐような、不思議な心地だ。
手を動かそうとしても、手がどこにあるのか判らなくて。一歩を踏み出そうと思っても、踏み出すための脚がない。
そんな、何もかもが不明瞭な感覚の中で、ふと声がしたような気がした。しかし、それが自分を呼ぶ声なのかどうかすら判らなくて、彼は戸惑いのままに意識を埋めようとした。
だが、そんな彼を叱責するように、声が大きくなる。
眠くて眠くて仕方がないのに、布団をはがされて無理矢理叩き起こされるような感覚だ。それを厭って、より深くまで自分を沈めようとすれば、聞こえている声がとうとう怒ったような色を含んだ。
「ほら! いい加減にお目覚め!」
ばしっとやや乱暴に身体を叩かれ、天ヶ谷鏡哉は覚醒した。
同時に、先程まで己に降りかかっていた恐怖を思い出した彼は、悲鳴を上げてその場に蹲る。いや、蹲ったつもりだった。
自分の感覚では確かに蹲っているのだが、どうしてか視点が低くはならない。それどころか、改めて考えてみると、自分の身体が今蹲っているのかどうかすら判らなくなってしまった。
まるで自分が自分ではなくなってしまったかのような感覚に、鏡哉はますますその心を恐怖でいっぱいにする。だが、そんな彼に向かって、先程の声が降りかかった。
「寝ぼけてないでしっかりおし」
叱咤する声に、鏡哉がそちらを見やれば、そこには腰の曲がった老婆が一人、立っていた。いや、違う。一瞬そう見えたその姿は、しかしすぐにぐにゃりと歪み、何とも表することができない、不可思議な見た目の何かに変わっていった。あらゆる属性のものが流動し、現れては変化していくような、奇妙な光景だ。
まるで定形ではないそれに、鏡哉が思わず吐き気を催す。そんな鏡哉を見て、不定形は呆れたような声を出した。
「ああ、加減も何もなく最大まで目をかっ開いているから、儂の姿まであやふやに見えとるのか。無駄にきらきらしていたあの王様と言いお前さんと言い、間抜けな子だねぇ。その目はね、そんな常時限界まで開きっぱなしにしておくもんじゃあないんだよ。まったく、仕方がないから手伝ってやろうかね」
若くあり年寄りであり、男であり女であり、生物であり非生物であるような、そんな声がそう言って、次いで鏡哉のどこかを、不定形の何かがするりと撫でた。
すると、曖昧だった不定形の姿が、最初に見た老婆の姿となって安定する。それに鏡哉が驚いていると、老婆はやれやれと言った。
「お前さんの目を少しばかり閉じさせたんだよ。何事にもほどほどってものがあってね。その目にとってのほどほどは、今くらいの状態だ。今後のためにも覚えておきな」
そう言って、老婆はぐるりと周囲を見回した。そこでようやく、鏡哉も自分の居場所を確認することに思い至る。
老婆に倣って辺りを見た鏡哉は、その異様な光景にまたもや驚いてしまった。
何もない、真っ白な空間だ。白い壁で囲まれた部屋なのかとも思ったが、なんとなく、そうではないような気がした。
ここは何処なのか、と問おうとした鏡哉は、しかしその声を出すことができず、混乱する。どうしてだろう、と思って、改めて自分を認識した鏡哉は、先程までの老婆のように、自分が定形でないことに気づき、驚いて悲鳴を上げた。いや、上げようとした、と言うのが正しい。本人は悲鳴を上げたつもりだったのだが、それが出るべき口があるのかないのか判らない状態だったので、音として発されることがなかったのだ。
「ああ、何も言わなくていいよ。お前さんの言いたいことは、なんとなくだが判るさ。そうさね、まずひとつ。虚従えし嬉戯、今はウロと名乗っとるんだったかね。あれはここにはいない。そして、あれがここに来ることもない。何せ、今のあれじゃあ、お前さんがここにいることすら判らないだろうからねぇ。ま、さすがに万分の一のあれと比べれば、儂の方が何枚も上手だったってことだろう。だから安心おし」
その言葉に、鏡哉が困惑の表情を浮かべる。例にもよって浮かべているつもりなだけで、今の鏡哉の身体がそれを表情として表に出せているのかは判らないが、それでも老婆には伝わったようだ。
「ああ、そう、そこから説明がいったか。いいかい、お前さんをここに連れて来たのは儂だ。あのまま放っておくわけにはいかなかったし、たったそれだけのことでも、黒の坊やの手助けになると思ったからね。方法については訊くんじゃないよ。そもそもお前さんがわざわざ訊くような方法じゃあないんだ。さて、じゃあ次は、この場所についてかね。と言っても、明確に何処と言えるような場所じゃあない。ここは、境界と境界を越える、その狭間に位置する空間だ。まあ、何処でもあり何処でもない場所と認識しておけば、概ね正しかろう」
靴の踵でこんこんと足元を叩いて見せた老婆が、更に言葉を続ける。
「儂が誰かということに関しては割愛するとして、あとはお前さん自身の話だが……、」
そこで言葉を切った老婆が、まじまじと鏡哉を見た。
「ふむ、完全に自分を見失っているね。だから姿が安定しないんだよ。しかし、残念ながら、原因が判ったところで、これは儂にどうこうできるものじゃあない。ま、自分でコントロールできるように精進することだね」
あっさりとそう言った老婆が、曲がった腰をぽんぽんと叩いた。
「いやはや、この姿をしていると、どうも腰が痛くなって良くない。性質と外観はまるで別物の筈なんだが、気分的に引き摺られてしまうんだろうね。やれやれ」
ふぅ、と息をついた老婆が、再び鏡哉を見て目を細める。
「さて、儂としてはもう少し世間話をしても良いところなんだが、残念なことに時間がない。ドラゴンが召喚されてしまった以上、長引かせるわけにもいかんだろう」
その言葉に、鏡哉は驚いた。
ウロによって大切な部位を損ねられてしまったことは覚えているのだが、そのあたりの記憶が曖昧なせいで、ドラゴンが召喚されたことを知らなかったのだ。鏡哉が思い出せるのは、自分がこれまでに感じたどれよりも強い逃避願望に満たされたところまでで、そのあとの記憶は真っ白になり、そして、気づいたときにはここにいた。
そうやって反射的に記憶を探ったことで、自分の身に起きたことを鮮明に思い出してしまった鏡哉は、恐怖から身体を震わせた。そして、不明瞭な自分の身体を見つめて、その名状しがたい姿に思う。
唯一自分で認め、許すことができる腕を失い、その上汚い目だけになってしまった自分に、生きる意味はあるのだろうか。生きることが許されるのだろうか。
こんな、何者かも判らないような曖昧な存在になってしまって、それでも、あの人は僕を愛してくれるのだろうか。
ぽつりと浮かんだその考えに、鏡哉は更に恐怖する。一度手にしたものを喪失することがこんなにも恐ろしいだなんて、鏡哉は知らなかった。きっと鏡哉は、最初から何も持っていなかったあの頃よりも、ずっとずっと弱くなってしまった。
一人震える鏡哉に、老婆は何を思ったのか。少しだけ優しさのようなものを滲ませる彼女の声が、鏡哉へとそっと囁かれる。
「儂は何も言えない。これは、お前さんとあの王様の問題だ。だから、他の誰にも介入する権利はない」
言いながら、皺だらけの手が伸ばされる。そしてその手は、慰撫するように鏡哉の曖昧な輪郭をゆるゆると撫でた。
「昔のお前さんだったら、きっと逃げていたことだろう。お前さんは死ぬわけにはいかないから、全てを封じ込んで、手放される前に手放して、そうしてまたひとりぼっちを選んだことだろう。……だけど今のお前さんなら、どうするのが正解か、判っているね?」
老婆の柔らかな声が、優しく撫でるように鏡哉の耳に入ってくる。どうしてだか鏡哉は、その声にこの上ない懐かしさを感じた。そう、まるで、夢に描いていた母親のような。
暖かなそれに背を押されるようにして、鏡哉は思う。
あの人は、僕の思いを否定しなかった。母から与えられた呪いを、呪いだと忌みはしなかった。汚く醜いと嘆く心を、そのままに受け入れてくれた。受け入れた上で、その汚れや醜さに侵されたりはしないと、誓ってくれた。ずっと、永遠に綺麗なままでいると、約束してくれた。
その言葉に、どれだけ救われたことだろう。呪いは呪いであり、たとえあの人の言葉であろうと解けはしない。何よりも、解かれることを厭う自分がいた。
あれは確かに呪いで、自分を苛み続ける害悪なのだろう。だけど、そうと判っていても、それでも母が与えてくれたものだ。どんなに自分を責め立てるそれでも、母がくれたものなのだ。だから、それを否定されるのは嫌だった。きっと、心のどこかで、肯定されることを望んでいた。
あの人は、それを叶えてくれたのだ。否定せず、受け入れて、その上で誓ってくれた。きっと、自分が一番望んでいた言葉を差し出してくれた。それほどまでに、愛してくれた。
それなら、疑う余地なんてない。全部を受け入れて、全部を賭して愛してくれたのだから、疑う必要なんてないのだ。
「…………僕、あの人に、会わなきゃ」
ぽつりと、声が落ちた。つい先ほどまでは、出そうと思っても出なかった声だ。それが、すんなりと零れて溢れた。
相変わらず、姿は安定せず、自分でも嫌になるほどに気持ちが悪いままだ。けれど、それでも、鏡哉はその声だけは取り戻した。
そんな鏡哉を見て、老婆が柔らかく笑む。
「偉い子だ。無自覚なんだろうけれど、必要なものをよく判っているんだね。それなら、儂もお前さんの想いに応えよう」
そう言った老婆が、すっと片手を上げる。すると、鏡哉から少し離れた場所の空間が歪んで、波紋が揺れる薄い膜のようなものが現れた。
「半端者のお前さんじゃあ、まだ繋げるのは荷が重い。だから、少しだけ手伝ってあげよう。ただし、望む場所に行くためには、強く願わないといけないよ。惑えば惑っただけ道は捻じれ、捻じれた果てに、何処でもない場所に閉じ込められてしまうかもしれない。……それでも進むかい?」
問われ、鏡哉は迷わなかった。僅かも躊躇することなく、はい、と答える。
「閉じ込められることよりも、これ以上ないほどに汚くなってしまった僕を見せることの方が、よっぽど怖いです。でも、僕は行かなくちゃ」
揺れ続ける姿が、揺れない声を紡いでいく。
「あの人はいつだって、僕に会いに来てくれました。僕が怖い思いをしているときは、いつだって手を差し伸べてくれました。だから、今あの人がここにいないのは、きっとそういうことなんですよね。……だったら、今度は僕が会いに行く番です」
強い声が、そう言った。そして、鏡哉は一歩を踏み出す。
迷いはない。ただ、覚悟だとか決意だとか、そういう大層な思いを持っている訳でもなかった。ただ、心がそう望んでいるのだ。会いたい、と。他でもない、自分自身の足で、あの人に会いにいきたいと。
「そこを潜ったら、お前さんはまず自分自身と向き合うことになるよ。お前さんの望みを叶えるには、その枷を外さなくちゃあならない。つけるべきけじめを、きちんとつけなくちゃあならない。ただ一つを選ぶっていうのは、そういうことだ。お前さんに、それができるのかい?」
後ろから掛けられた言葉に、鏡哉は振り返らない。振り返らないまま、はい、と答える。
老婆の言うけじめというのがどういうものなのか、鏡哉には判らない。判らないが、それが必要だと言うのならば、逃げたりはしない。できるできないではなく、鏡哉はそれをしなければならない。
「…………それなら、迷わずに進みなさい。その望みが、願いが、必ずお前さんを連れて行ってくれる」
言葉と共に、鏡哉の背中が強く押された。それに抗うことなく、歪な身体が境界の膜を踏み越える。
瞬間、何かが身体に纏わりつくような感覚と共に、鏡哉の視界が一変した。
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