【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲

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第3章 虚ろの淵より来たるもの

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 少年と赤の王が目覚めた次の日の朝、今後のことについて議論を重ねた二人の王の合意により、少年は赤の王の護衛の元で紫の国ネオネグニオへと向かうことが決まった。
 対外的には、狙われている少年を赤の王が守りつつ、護りが堅牢な紫の国へ送り届ける、といった内容が伝えられたが、それは表向きの話だ。実際は、もう打つ手がなくなったが故の苦肉の策である。
 紫の王の結界魔法を以てしても、敵であるウロの攻撃を防ぐことはできないだろう、というのが黒の王の見立てであったが、それでも彼女の庇護下は、リアンジュナイル大陸の中で最も安全な場所のひとつだ。追い詰められた円卓の王たちに残された選択肢は、もうそれくらいしかなかった。
 紫の国へ向かうことが決まったと少年に告げた赤の王は、事情が事情なので昼食を待たずにすぐに出発すると言った。急なことですまない、と謝罪する赤の王に対し、少年は首を横に振る。二人の王の間でどのような会話があったのかは知らないが、彼らが急ぐべきだと判断したならば、それが最良なのだろう。
 急いで身支度を整えた少年は、世話になった黄の王に別れの挨拶をするため、赤の王に連れられて謁見室へと向かった。
 昨夜、自分の発言のせいで黄の王の機嫌を損ねてしまったのではないかと恐れていた少年だったが、一晩空けて会った彼は、拍子抜けするほどに普段と変わらなかった。
 少年としては、昨夜のことを謝罪したい気持ちでいっぱいだったのだが、少年の行動を見越したのだろう赤の王に事前に止められてしまった。曰く、少年のあの発言を受け止めるのは王として当然の義務なのだから、それに対して謝罪をするのは寧ろ失礼にあたる、とのことらしい。王には王の矜持があり、それを損ねるようなことはしない方が賢明だと、優しく教えられた。
 少年にはその本質を理解することはできなかったが、朝食のときに王の傍で楽しそうに会話をしていた王妃たちのことを思い出し、きっとそういうことなのだろうと思った。
 そのことを口にすれば、赤の王は少し困ったような顔をして笑った。彼女たちの配慮は少々判りやすすぎるところもあるが、だからこそ前を向く気になるのかもしれないし、向かざるを得なくなるのかもしれないな、と続いた言葉に、なんとなく複雑な気持ちになる。
 多分、正解らしい正解なんて存在しないのだろう。それでも、残された王妃たちもまた、あの王を深く愛しているのだということだけは伝わってきた。
(……そういうの、よく、判らなかったのにな……)
 これまでの彼は、基本的に厚い壁を隔てた上で他者と接し、自分に危害が及ぶ可能性のある悪意以外の感情には酷く鈍かった。だが、赤の王と出会ってから、少しずつではあるが、他人の正の感情に目を向けるようになった。それが自分に向いているものだろうと、他人に向いているものだろうと関係なく、この世界は思っていた以上にそういう感情で溢れていることを知った。それを自分に結びつけるまでに相当の時間を要してしまったあたりが少年らしいが、それでも、様々な経験を通して自分の想いの本質を知るところまで辿りついた。これは、自分でも驚くほどに大きな変化である。
 二人の王が何事かを話している間、ぼんやりとそんなことを考えていると、不意に黄の王に名前を呼ばれ、少年は肩を跳ねさせてから慌てて返事をした。
「なんつーか、結局こういう形になっちまって悪いな」
 少しだけ申し訳なさそうに言った黄の王に、慌てて首を横に振る。
 何に対する謝罪なのかは判る。事情はどうあれ、黄の国から追い出すような結果になってしまったことを詫びているのだろう。だが、この状況では仕方がないことだ。
「ロステアール王といっしょくたにしとくと、獲物がちょうど二匹並んでるようなもんだから、あんまり良くねぇんだけどなぁ……。でも、お前らに分散されちゃあ守りの手も二分するしかねぇし、そうなると余計に被害が拡大しましたーってなりかねないしなぁ……」
「……あの、その、……道中はきっと、危ないんでしょうけれど、……紫の国に行けば、大丈夫、なんですか……?」
 おずおずと尋ねられた言葉に、黄の王は顔を顰めて少し黙った後、ふーっと息を吐いて首を横に振った。
「いんや、多分大丈夫じゃねーな。ただ、あそこにいるのが一番マシなのは事実だ。だから、お前とロステアール王には紫に行って貰う」
「まし……?」
 大丈夫ではないけれど、マシではある。それが意味するところが理解しきれなかった少年の頭上で、赤の王が平坦な声で言った。
「周囲への被害の話だ。どう足掻いても私とお前は狙われるし、神と同等の存在が相手では対抗することもできん。ならば、考えねばならないのは私たちの安全ではなく、その周囲の安全だ」
 赤の王が、少年の頭をぽんとひと撫でした。
「私とお前をひとまとめにしておけば、私たちが狙われることによる被害を一箇所に留めることができる。そして、その一箇所は紫の国が望ましい。あそこは結界魔法に長けた国だからな。こと国土や国民への被害を抑えるという点においては、最も優れているのだ。……まあ、詰まるところ、」
「厄介払いだよ。お前らのことは守ってられねーから、悪いが見捨てさせてくれってことだ」
 赤の王の言葉を遮って、黄の王がそう言った。冷たい言葉を吐いた彼の顔は、とても真剣だ。いつものふざけたような面影はなく、ただ無機質な目が少年を見つめている。
 そんな視線を受けてぱちぱちと瞬きをした少年は、次いで、神妙な顔をして頷いた。
「はい、判りました」
 絶望も失望も悲嘆もなければ、責めるような意思も感じられない。ただの享受である。
 それ以上何の反応も示さない少年をまじまじと見た黄の王は、暫くそうしてから、唐突に、だああああっと叫び声を上げた。突然のことに肩を跳ねさせて驚いた少年をよそに、黄の王が自分の頭をがしゃがしゃと掻き毟る。
「なんなんだお前! もっと言うことねぇのか! この先そんな機会なんてねーんだから今言え! ほら! 怒らねーから! 今なら王様に何でも言って良いっつってんだ! めちゃくちゃお得だぞ!」
「え、ええ……」
 何がお得だと言うのか。
 困惑する少年に、なおも黄の王が詰め寄る。
「なんかあるだろーが! 捻り出せ!」
「え、ええと……。………………じゃあ、あの、……この人のことは、助けられるなら、助けておいた方が、それこそ、お得なんじゃないかと……」
 少年なりに頑張って捻り出した結果の発言だったのだが、頭上では噴き出す声が聞こえ、眼前の王は一層大きな声で呻いてしまった。
「そうじゃねぇ! なんだこのテンポの悪ぃ会話は!」
 黄の王が叫ぶ。一方の赤の王は、楽しそうに笑って少年を見た。
「いや、キョウヤは意外と豪胆な子だなぁ。仮にも王である私を、生かしておいた方が得だと評するか」
「え、ええ!? そ、そういうつもりじゃ、なかったんだけど、あの、」
「そりゃあまあ、あんたは腐ってもグランデル王国の国王陛下だからな。生かしといた方が使い道もあらぁよ」
「ああ、そうとも。考え直さんか? お得だぞ?」
 そう言ってまた笑った赤の王に、少年は顔を蒼くしてあわあわとしている。そんな二人を見て、黄の王は疲れたような表情で溜息を吐いた。
「まあお得なのは判ったんだけどよ。俺が言いたいのはそういうことじゃないんだよなぁ……。ロステアール王の決定ならまだしも、今回のは俺が俺の国の都合で決定したことだし……」
 伝わんねーかなー、とぼやく黄の王を見ながら、赤の王が少年の頭を撫でた。
「破れ鍋に綴じ蓋だと言ったのは貴殿だろう」
「げぇ、ちゃっかり聞いてやがんの。性格悪ぃ」
 何がなんだか判らず困惑する少年に向かって、黄の王が再び口を開く。
「見捨てるっつってんだから、もーちょっとなんかあるだろーが」
「切り捨てる判断をされたお前には、王をなじる権利も恨む権利も呪う権利もあり、死を厭わないのであれば刃を向ける権利さえあるという話だ。特にお前はこの国の人間ではないからな。別にクラリオ王に対する信もないだろう。ならばもう少し判りやすい反応があった方が、クラリオ王も色々とやりやすいのだ。ようは、肩透かしを食らってしまったのだよ」
「だああああロステアール王! そういう解説するんのやめろ!」
 悲鳴を上げた黄の王に、少年がますます困惑した様子で彼を見た。
「…………あの、でも、僕、実際すごくお邪魔だと思うので……」
 そうなのだ。どう考えても邪魔なのだ。ようは少年は迷惑な餌のようなもので、いるだけで厄介なのである。そうなったら、それはもう一番迷惑が掛からない場所に捨てるしかない。その判断に間違いはないし、おかしいとも思わない。
 そもそもこの国に来た時に、黄の国にとって不利益が生じた場合は見捨てる旨を言い渡されているのだ。正直殺されないだけ有難いことだし、なんなら隣に赤の王を置いてくれるだけ優しいとさえ少年は思った。勿論、それが少年への優しさではなく、合理性の元にそう判断されただけだということは把握している。そうなるとこの場合、感謝するとしたら運命とやらに、なのだろうか。
 ズレたことを考え初めて黙りこくった少年を見て、黄の王が更に呻く。
「ぐううううう、ものすっごくやりづれぇなこれ……。まともな反応すると思ったら今度は頭おかしいし、なんなんだお前……」
「そこでやりづらさを感じるあたり、貴殿は本当に慈愛深い男だな」
「頼むから黙ってくんねぇ? 見ろよこの鳥肌。あんたのせいだぞ」
 心の底から気持ち悪いというような顔をした黄の王が、己の腕を指さした。確かに、浅黒い肌には大量の鳥肌が立っている。
「お前もとぼけた王様の戯言真に受けんじゃねぇぞ。俺が個人的に気に食わなかっただけで、別にお前がどうこうって訳じゃあねーから」
「口ではこう言っているが、お前が何かを我慢して従っているのであれば、それを吐き出して欲しいと思っているのだ。抱え込むのは王の役目で、民の役目ではないからな。まあ本来ならば、自国の民ではないお前に対しては抱かなくても良い義務感だと思うのだが、そのあたりにクラリオ王の優しさが滲み出ている」
「いい加減にしねぇとぶっ殺すぞあんた!」
 そのあたりで、鈍い少年もようやく気づいた。
(……この人、リィンスタット王陛下で遊んでるんだ……)
 そういえば、赤の王が自国の宰相のことを揶揄って遊んでいる場面を結構見たような覚えがある。案外この王は、他人で遊ぶことが好きなのかもしれない、と少年は思った。まあ、それが本心からなのかどうかまでは判らないのだが。
「そりゃまあ見捨てるからなって宣言はしてたけどよ! 実際に見捨てるって段になったらもっと何かあると思うだろーが! イカれてるたぁ思ってたが、ここまでだとは知らなかったんだよ! 悪ぃか!」
「そうは言ってもなぁ。キョウヤにこの類の話で反抗しろというのは酷だし……。ならば私が泣いて縋ってみようか?」
 赤の王の提案に一瞬絶句した黄の王が、次いでなんとか声を絞り出した。
「……やめろ。この世の終わりか。縁起でもねぇぞ」
「つくづく失礼だな貴殿は」
 心外だとでもいうような顔でそう言った赤の王に、黄の王が嫌そうな表情を浮かべて返す。それを見て再び笑ってから、赤の王は少年へと視線を向けた。
「納得しているのだろう?」
「え、あ、……うん。……えっと、できれば貴方のことは守って欲しいなって思うし、僕も、帝国に攫われたら攫われたで迷惑になっちゃうから、できれば守って貰える方が良いんだろうとは、思うんだけど……」
 守れないものは仕方ないし、と続いた言葉に、今度こそ黄の王が大きな溜息を吐き出した。
「……なんつーか、善人だとか正義感が強いとか、そういうのじゃあねーあたりがなぁ……」
 やりづらいんだよなぁ、という呟きが、形の良い唇から漏れる。
 少年は善人でもなければ正義に溢れる英雄でもないし、増してや自己犠牲に酔う愚か者でもない。ただ単に、自分の価値をどうしようもなく低いものであると判じているだけの子供だ。だからこそ、自分が切り捨てられることをすんなりと受け入れられる。
 ある意味で、この少年もまた損得勘定のみで物事を判断することに長けているのかもしれない。
 だからといって、黄の王は別にその価値観を改めろとは思わない。この子供がそういう価値観を抱いているのには、それ相応の理由があるのだろう。その理由も知らないのに、他人である自分がどうこう言うべきではないし、そこまでしようと思えるほど親しくもない。ただ、そういう感性の人間を切り捨てるのは少し後味が悪いだけだ。
(ま、それこそ俺が呑み込みゃ良いだけの話だからな……)
 僅かでも負の感情があれば吐き出させようと思っていたが、その心配はなさそうだ。赤の王のお墨付きなのだから、間違いない。
「……じゃ、まあ、良いわ。さっさと出てけあんたら」
 準備はできてるんだろ、と疲れ切った声で投げやりに言われ、赤の王は頷いた。
「紫に行くための移動手段は……、」
「騎獣を用意してある。うちの国の中でも飛び切り速いやつだ。急いだ方が良いだろうからな」
 何から何まで有難いことだ、と言った赤の王が礼を述べる。それに遅れて、少年も頭を下げた。
「別にそれくらい構わねーよ」
 そう言った黄の王が、疲れたような溜息をわざとらしく吐き出してから立ち上がった。どうやら、見送ってくれるつもりのようだ。なんだかんだ言って、最後まで面倒見が良い男である。
 三人で連れ立って部屋から出て、長い廊下を進む。十日ほどしか過ごしていない王宮だが、自分の家でない割には、それなりに居心地が良かったような気がする、と少年は思った。
 二人の、というよりも少年の出立を惜しむ王妃たちに挨拶をしてから、外に出る。大きな正門をくぐった先には、鞍を設置されて、いつでも飛び立てる様子の騎獣が待っていた。
 鱗に覆われたやや細身の身体を持つこの騎獣は、黄の国でも機動力が求められる部隊が使う種類の獣だ。戦闘能力はあまりないが、その代わりに速度が出る。
 騎獣に荷物を固定し、あとはもう二人が乗るだけだとなったところで、少年はちらりと後ろを見た。騎獣が飛び立つときの風に煽られないようにか、黄の王を含む王宮の人々は、少し離れた位置に立っている。恐らく、この距離ならば小さな声は届かないだろう。
 それを確認した少年は、ぴたりと動きを止めた。そんな彼に、今にも騎獣に乗ろうとしていた赤の王が、首を傾げる。
「キョウヤ?」
 名を呼ばれた少年の肩が、僅かに跳ねた。顔を俯けている少年は、何度か赤の王を見上げようとして、途中でまた俯いて、ということを繰り返したあと、そっと深い息を吐き出す。そして、今度こそ赤の王を見上げた。
「ぁ、あの……、」
 最初の一言が少し裏返ってしまったのは、極度の緊張からだ。
「……あの、ね、……僕、その、……貴方、に、言いたいことが、あって……」
 騎獣に乗っている間は、正面から王を見ることができない。途中に挟まれるだろう休憩の時間も、休むことに専念すべきで、余計な会話をするのは避けた方が無難だろう。紫の国に行けば少しは落ち着けるかもしれないが、状況を考えるに二人きりにして貰えるとは思えなかったし、そもそもそれでは先延ばしにし過ぎだ。
 だから、多分今が良い。いや、もう今しかない。
 きっと、本当ならもっと早く言うべきだった。気づいた時点で伝えるべきだった。けれど、こういうことは初めてだから、上手くタイミングが掴めなかったのだ。何度も何度も機を逃して、気づいたら夜が過ぎて朝が来て、出発のときになってしまっていた。
 歯切れ悪く言葉を紡ぐ少年に、赤の王は何も言わない。遮ることも急かすこともなく、とても優しい顔をして、少年を見下ろしている。
「あの、あのね……、…………僕、」
 判ったのだと。気づいたのだと。知っているのだと。
 なけなしの勇気が、ようやく辿り着いたその想いの背を押してくれる。
「僕、貴方のことが――」

「はぁ~い! 絶妙なタイミングでお待ちかねのウロくんだよ~~!」

 突然、声が割り込んできた。
 余りにも突然のことに、その場にいた誰もが、黄の王ですら、声の主の存在を認知するまでに僅かな時間を要した。
――ただ一人、赤の王を除いて。

 初めの一音の時点で、赤の王は僅かな遅れもなく声を認識し、五感を最大に発揮してその存在を捉えていた。それと同時に、彼の長髪が頭の上まで余すところなく鮮やかに光る紅蓮に染まり、金の瞳が燐光を放つ。
 これは危険だ。これは私の命を脅かす。何を置いてでも対処しなければ。
 本能が抗えぬ圧を以て告げてくる。故に彼は、それに従う以外の選択肢を持たなかった。
 乱入者の声が全てを言い終える前に、彼は我を忘れ、ただ本能のままに全身から灼熱の炎を噴き上げようとした。だが――、
 ずぶりと何かが肉に埋まるような音がして、今にも弾けそうだった炎が掻き消えた。
 僅かに息を詰めた赤の王が、息が触れそうな距離に仮面の人物がいるのを認める。仮面を映す金の瞳が二度の瞬きで隠されたあと、何かを確かめるようにそろりと下ヘと動いた。
 己の左胸。ちょうど心の臓がある位置から、腕が生えている。違う、生えているのではない。深く穿たれているのだ。仮面の人物の細くしなやかな右腕に。
「こんなところで目覚められても困るんだよねぇ。黄色の国を丸ごと焦土にするつもり?」
 耳の端で誰かの引き攣った悲鳴が聞こえたような気がしたが、ロステアールにはそれが誰のものなのかを認識することができない。ただ、仮面の声だけが彼の脳に張り付くようにこだまする。
「君は本当に、度し難いほどに醜悪な生き物だなぁ。これほどまでに全てが自己の中だけで完結している生き物なんて、僕は未だかつて出逢ったことがないよ!」
 肉に埋められた手が、どくんどくんと激しく鼓動するロステアールの心臓を握った。
「その吐き気がするほどの醜い様を眺めるのも一興だけど、君にここで死なれたら計画倒れなんだよね。だから、その馬鹿みたいに緩みきったネジだけ締めさせて貰おうかな」
 その言葉と共に、ロステアールの髪や目から輝きが失せ、元のくすんだ赤へと戻っていく。呆然とするロステアールの視界の端に、頭上から落ちてくる巨大な落雷が映ったが、彼にはやはりそれが何なのかを理解することができなかった。
 一方の仮面の人物、ウロは、自分を狙って放たれた落雷をなんでもないことのように指先で弾き飛ばし、ロステアールの心臓を握る手に力を籠めた。
「…………死なれると困るけど、傷物になるのは別に構わないんだよね」
 笑い交じりに囁かれた言葉に、ロステアールの全身が悪寒に包まれる。全身が小さく震え、引き攣ったような音がその喉から漏れた。
 心臓などという表現では生温い。もっと奥の、最も大事なものに、触れられた。そして今まさに、それに爪先が突き立てられようとしているのだ。
 未だかつて味わったことのない恐怖が、ロステアールを襲う。だが、彼に抵抗することはできない。圧倒的な強者を前に、指先ひとつ動かすことを許されない。
 そんな彼を嘲笑うように、ウロの爪がそれを抉ろうとした。
 
――瞬間、空を覆う雲を貫き、天上から一筋の炎が奔った。周囲の空気を焼き払いながら真っ直ぐに自分に向かってくるそれを捉えたウロは、赤の王の胸からずるりと腕を引き抜いた。そのまま王の身体を邪魔だとでも言うように突き飛ばし、両手を炎に向かって突き出す。
「あっはははははははは! 僕が本気でこいつの魂を傷つけると思ったの!? 馬っ鹿だねぇ!」
 凄まじい熱量の炎を両手で受けて掻き消したウロが、空を見上げながら、地面に転がった赤の王をわざとらしく蹴飛ばした。
「まさかそこまでこれに執着してるとはねぇ! あんたのお陰で、天秤は完全に僕の味方だよ!」
 そう言って楽しそうに笑ったウロは、顔面を蒼白にしてへたりこんでいる少年の腕を引っ掴んだ。それをなんとか阻止しようと、黄の王が雷魔法を叩き込んだが、やはり指先一つで弾かれてしまう。事態の急変を察知して駆けつけた王獣リァンの攻撃も、ウロには全く届かなかった。
「なんだか賑やかになってきたし、ぼちぼち帰ろうかな」
 僕うるさいのは好きじゃないんだよ、とのんびり言ったウロが、指先をついっと上に上げた。すると、彼の足元の地面がどろりと溶けたように波打ち、何色ともつかない不透明な膜が、ウロと少年を纏めて包むようにぐわりと持ち上がった。
「それじゃ、まったねー!」
 ウロがひらひらと手を振ったのを最後に、二人を囲む膜が急速に上昇し、その姿を覆い隠していく。完全に覆われる直前、震えながらも動いた少年の唇が小さく何かを発し、その手が倒れる王へと伸ばされたが、膜はそれをも呑み込んでしまった。
 二人をすっぽりと包んだ膜は、次の瞬間、突然支えをなくしたかのように液体状に崩壊して地面に落ちた。そしてすっかりと膜の消えたそこには、ウロの姿も少年の姿もない。
 その光景を見た黄の王は、ぎりりと歯噛みしてウロが立っていた地面を睨んだ。
 エインストラだろう少年は連れて行かれ、ウロの発言から察するに天秤の状況も芳しくはない。何よりも、実際に相対したウロという生き物は、想定していた以上に危険な存在だった。
 あれを前に動ける人間はきっといない。黄の王は王という生き物であったからこそ、欠片ほどの気力を総動員して攻撃に出ることができただけだ。それこそ、王の本能のなせる業だったと言って良い。人の本能の方が勝っていたならば、あそこでクラリオは指先ひとつ動かせていなかった。
 あれは、こちらの希望を余すところなく奪い去っていく、深淵のような何かだ。



 初めてと称して良いだろうウロの直接的な介入の末に残ったのは、果てのない絶望と、意識の戻らない赤の王だけであった。
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