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第3章 虚ろの淵より来たるもの
頂きに立つもの
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未曽有の事態に緊張が高まる黄の国では、未だ予断を許さぬ状況が続いていた。
赤の国を襲った魔物の数と比較して黄の国でのそれは圧倒的に多く、国内の兵力のみで対応するのには限界があったのだ。クラリオが全土に魔法を展開させることでなんとか凌いではいるが、事態の収束にはまだまだ時間が掛かるだろう。
想定よりも速い勢いで削れていく己の魔力に、黄の王は大きく顔を歪めた。
緊急に対応が必要な魔物については、王と王獣の力で大方排除できたと見て良い。少なくとも、最初に比べれば遥かに状況は好転したはずだ。だが、だからといって王の助けなしで切り抜けられるかというと、現時点ではその確証は持てない。だから、いくら疲労しようとも魔法を切り上げる訳にはいかなかった。
脳を揺らす酷い頭痛は止まらず、いよいよ王の視界は霞み始めていたが、気絶しそうになる度に手にした剣を傷口に突き立て、なんとか意識を保つ。出血こそ激しくないが、何度も繰り返された行為は肉を抉り、脚の傷は見るに堪えないほど無惨なものになっていた。
収まることのない吐き気は胃の中が空になってもなおクラリオを苛み、彼は何度目になるか判らない胃液を吐き出した。吐しゃ物に汚れて地面に這いつくばるその姿は、王と呼ぶにはあまりに憐れであった。
己の情けない姿を思ったクラリオが、うっすらと口の端を吊り上げる。
(……人払い、しといて、良かったな…………)
王は国の象徴だ。故に、いついかなるときも泰然自若としなければならない。こんな姿を、国民に見せる訳にはいかなかった。
(でも、ちょっとだけ、慣れて来た……)
魔法の扱いにではない。痛みや不快感にだ。
無茶な魔法を行使したことによる副作用を緩和することはできないが、副作用の症状をなんとか耐えることはできるようになってきている。
胸中でそう呟いたそのとき、クラリオは不意に見知った気配が部屋に近づいてくるのを感じた。ピクリと指を震わせた王が、歯を食いしばって身を起こす。なんとか上体を起こした彼はのろのろと体勢を整え、積み重なったクッションに背を投げだすようにして座った。口元にこびりついた吐しゃ物を袖口で拭ってから、焦点の合わない目を、それでも扉の方へと向ける。
今のクラリオは国内全土の情報を処理するのに手一杯で、目で見える視覚的な情報はほとんど認識していなかったが、王の顔がそこに向いているということが重要なのだ。
クラリオが最低限の体裁を整え終えるのと同時に、それを待っていたかのように部屋の扉が押し開けられる。ノックはなかった。
そうして入ってきたその人物に、クラリオは一度だけ静かに目を伏せたあと、ゆるりと微笑みを浮かべた。
「……どしたの、アメリアちゃん」
普段と変わらない、最愛である妻の一人に向ける音で、王が言う。その声を渡された王妃アメリアは、僅か一瞬だけ息を詰まらせたあと、真っ直ぐにクラリオを見つめた。
「……ああ。怖くて、俺の傍に来たく、なっちゃった? はは、参ったなぁ。情けないとこ、見られちゃったや」
「…………クラリオ様」
アメリアが、喉に引っ掛かっている何を吐き出そうとするように王の名を呼ぶ。だがクラリオは、それが耳に届いていない風に言葉を続けた。
「こんな姿じゃ、安心できないかな? でも、大丈夫だよ。全部、俺が守るから」
「……クラリオ様」
「俺が強いの、知ってるでしょ? そりゃ、今はちょっと無理、してるけどさ。でも、絶対、守ってみせるから。国も、民も、アメリアちゃんのことも。だから、心配することなんて、何もないんだよ」
包み込むような優しい声が、アメリアの耳を撫でる。王妃の不安を溶かすようにと、思いが込められた言葉たちだ。けれどアメリアは、僅かも揺らがない瞳で王を見つめた。そしてその唇が、一際強く王の名を紡ぐ。
「クラリオ様」
その声に、クラリオの表情が一瞬、ほんの僅か、歪んだように見えた。
「もう、判っているのでしょう?」
そう言ったアメリアの細い指先が、すっと王を指す。すると彼女の足元に陣が浮かび上がり、その中から半透明の結晶のような肌をした魔物が姿を現した。
二足歩行型のその魔物は、クラリオよりも少しだけ背が高いくらいの、比較的小型な魔物だった。だが、肥大化した拳は人間の頭よりも大きく、見るからに硬質そうな皮膚は、恐らく生半可な武器では傷一つつけられないだろうことを窺わせた。
魔物を従えた王妃が、王の元へと歩を進める。だが、王は動かない。とうとう目の前に来た王妃が魔物と共に自分を見下ろしても、王は黙して王妃を見るだけで、指先のひとつすら動かす様子がなかった。
まるで、彼女の隣に控える魔物など目に入っていないかのようだ。クラリオはただ、いつもと変わらない優しい顔をして、アメリアを見ている。今にも、陽が昇ったら一緒に散歩にでも行こうか、と言い出しそうな、そんな表情だ。
アメリアが、小さく拳を握った。
「グリシュタ、この男を殺しなさい」
アメリアがそう言うのと同時に、魔物が両の拳を振り上げる。そのまま王目掛けて無慈悲に打ち下ろされた拳は、しかし王の頭に直撃することなく空を切った。
はっとしたアメリアが慌てて後ろを振り返れば、少し離れた場所に王が立っている。恐らく、雷魔法を応用して瞬時に躱したのだろう。しかし、彼が大魔法を解除した様子は見られない。それはつまり、大魔法を維持したまま別の魔法を発動させたということになる。既に満身創痍かと思われた王だったが、どうやらまだ余力を残していたようだ。
王は一度だけ自分の座っていた場所に目をやってから、アメリアへと顔を向けた。相変わらず焦点の定まらない、どこを見ているのか判らない目だ。けれど、王は確かにアメリアを見つめていた。
瞬間的な見つめ合いは、しかし魔物の追撃によってすぐに終わりを告げる。アメリアの横をすり抜け、重そうな身体からは想像し難い俊敏さで王との間合いを詰めた魔物は、再びその拳を王へと振り下ろした。ふらつく脚でそれを躱した王が、簡易な雷を喚んで魔物へとぶつけたが、それは魔物の皮膚へと到達した瞬間に弾かれてしまった。どうやら、この魔物には雷に対する耐性があるらしい。それを証拠に、魔物は王の雷を意にも介さない様子で、再び拳を振るってきた。
黄の王であるクラリオと対峙することを考えれば、この場にこの魔物を寄越したのは賢い判断だ。だがそれでも、普段の王ならば手こずることなどない相手である。いかに雷への耐性があろうとも、黄の王が高位の魔法を繰り出せば、それに耐えられる生き物はそういない。
だが、大魔法を維持しながらとなると話が違った。今の状態の王では、魔法を使えば使った分だけ、現在展開している大魔法の精度が低下してしまうだろう。それは、国民を危険に晒すことに繋がる。だから王は、魔法ではなく生身の肉体で対処することを選択した。吐き気がする頭の痛みも、自ら傷つけた脚も、何もかもがクラリオの身体を苛んでいたが、そんなことは関係ないのだ。
王の右手が、腰にあったもうひとつの曲刀を握る。その動きに躊躇いはなかった。
敵の猛攻を紙一重で避けて数歩の距離を取った王は、一度強く剣の柄を握り締めたあと、向かってきた魔物に向かいその切っ先を閃かせた。左下から斜めに振り上げられた刃が、魔物の腹から肩にかけてを一刀両断する。
恐らくは、魔物の切断面から覗く核のようなものが心臓に当たる部分だったのだろう。その核ごと斬撃を受けた魔物は、悲鳴を上げる暇すら与えられずに呆気なく砕け散っていった。
剣のひと振りのみで見事に魔物を仕留めてみせた王だったが、別に驚くことなど何もない。
円卓の王たちが持つ武器は、全て赤の国にて作られた最高級の逸品だ。その他大勢が持つそれらとは比べ物にならないほど優れたその刃に、斬れぬものはほとんど存在しない。それは、誰もが知っていることだった。
砕け散ってきらきらと光る細かい結晶となった魔物を前に、クラリオの表情が大きく歪む。
そして彼は、振り上げた剣をくるりと逆手に握り直し、振り返ることなく一気に後方へと突き刺した。
「ッ……!」
引き攣るような小さな悲鳴がクラリオの耳元で聞こえ、背後で何かがずるりと倒れる音がした。
剣を手放した王が、ゆっくりと後ろを振り返る。その目に映ったのは、王の剣で腹を貫かれたアメリアの姿だった。
魔物と対峙しているさなか、短剣を手にした彼女が背後に忍び寄っていたことを、クラリオは知っていた。アメリアの動きは素人そのもので、武に優れた王ならば容易に対処できるものだった。それこそ、赤子の手を捻るよりも容易く。
アメリアのすぐ傍に、王が膝をつく。自らが彼女に刺した刃は肉に深く埋もれ、きっともう彼女が助からないだろうことをまざまざと王に突きつけた。だが当然の結果だ。王に彼女を生かすつもりはなかったのだから。
王の手がアメリアの肩に触れ、その身体を仰向けに転がす。少し乱暴なそれに、アメリアは大きく顔を歪めて呻いた。
彼女の傷は、致命傷ではあるがすぐに死ぬようなものではない。王は、そこまで考えた上で行動している。
アメリアの腹から突き出ている剣を握った王が、唇を開いた。
「帝国の計画について、知っていることを全て話せ」
感情を窺わせない平坦な声が、アメリアの耳に落ちる。脂汗を滲ませて荒い呼吸を繰り返す彼女は、しかしうっすらと微笑み、ゆっくりと首を横に振った。そんな彼女に、剣を握る王の手に力が籠る。そして王は、握った剣を腹に捩じ込むようにして回し、彼女の傷を抉った。
あまりの痛みに、アメリアの細い喉から悲痛な悲鳴が上がる。しかし王は、表情を変化させることなく同じ問いを繰り返した。
「今後の帝国は、どう動くつもりなんだ。答えろ」
だが、アメリアは再び首を横に振る。か細い声が小さく、知らない、と零した。
「この日のために、わざわざ十年前から王家に潜り込んだんだ。何も知らないなんてことはないだろう」
王の手が動き、アメリアの傷口を広げていく。一見すると乱暴な手つきにとは見えるそれは、しかしその実、誤って彼女をすぐに死なせてしまわないようにと細心の注意が払われていた。
再びアメリアが悲鳴を上げたが、それでも彼女は力なく首を横に振る。頑なに情報を秘匿しようとしているように見えるその姿勢に、クラリオは思わず一息に腹を裂いてしまい衝動に駆られた。
ぎり、と歯噛みした王が、アメリアの腕を乱暴に掴む。そしてそのまま、王は力任せに腕を折り曲げた。肉の中で鈍い音が響き、アメリアの細い腕があらぬ方向に曲がる。同時に、一際大きな悲鳴が部屋に響いた。
「言え。帝国は、次に何をするつもりなんだ」
だらりと力をなくした腕を床に投げ、王が再び問う。だが、それでもアメリアは首を横に振るだけだ。
そんな短いやり取りが、何度続いただろうか。両腕を折っても、耳を削いでも、アメリアは悲鳴を上げるだけで何も言わない。度重なる苦痛にぐったりとした彼女は、しかしそれでも王に問われる度、彼に対して微笑みを返した。
王もまた、未だ解除することが叶わない大魔法のせいで徐々に消耗し、意識が朦朧とし始めていた。それでも倒れず正気を保っているのは、偏に彼の気力のなせる業だろう。
だが、今度は腕を斬り落とそうとアメリアの肩に刃先をあてがったところで、とうとう王の表情が大きく歪んだ。歪んでしまった。
そしてその唇から、言葉が零れ落ちる。
「…………頼むから、言ってくれよ……」
小さな声に、アメリアが僅かに目を見開く。
霞み始めた彼女の視界に映る王は、まるで母の手を見失った幼子のような顔をしていたのだ。
よく見れば剣を握る王の手は震え、その瞳にはアメリアよりもずっと色濃い苦痛が満ちていた。
「……お願いだから……嘘でも、良いから……」
泣きそうな声が、アメリアの鼓膜を震わせる。
そこで初めて、アメリアは痛み以外の理由で顔を歪めた。折られた両腕がもどかしくて仕方なかったのだ。
「……クラリオ、さま、」
優しい声が、王の名を紡ぐ。その音に、クラリオはより一層苦しそうな表情を浮かべた。
アメリアは、そんな顔をさせたい訳ではないのだ。だから、微笑みを絶やさないように努めたのに。
「……アメリア、」
小さく震える声が、彼女の名を呼んだ。アメリアは、王の声で紡がれるこの名前が好きだった。
「…………ごめん、なさい。……ほんとう、に、なにも、しらないん、です……」
アメリアの答えに、クラリオが今にも泣き出しそうな顔をする。
判っている。判っているのだ。彼女がきっと何も知らないのだろうことくらい、クラリオは知っていた。クラリオは誰よりも彼女を見てきて、心の底から彼女を愛していたから、彼女が嘘をついていないことくらい判っていたのだ。
だがそれでも、クラリオが彼女の本質を見抜き切っている保証がない以上、問うことを止める訳にはいかなかった。万が一にも彼女の嘘を見抜けていなかった場合、その弊害がどこで訪れるか判らない。国を担う王として、そんな過ちを犯すなど死んでも許されることではなかった。だから王は、彼女が帝国の計画の核となる何かを答えるまで、追及の手を緩めることができない。
だがもう、王にはこれ以上彼女を傷つけるようなことをするのは無理だった。彼女を想っているからではない。これ以上アメリアを傷つければ、何を言うこともできずにすぐに死んでしまうと判ったからだ。
「…………魔導、使えるとは思ってなかったな、俺……」
やや弱い声が、そう零す。この期に及んで、王はまだアメリアから情報を聞き出そうと考えていた。か弱い彼女が死んでしまう前に、少しでも何かを得なければと思ったのだ。
そんな王の内心に、アメリアは気づいたのだろうか。それは判らないが、彼女は少しだけ困ったように微笑んだ。
「むりも、ありません。わたし、まどう、つかえること、おもいだした、の、きのうの、こと、でした、から……」
静かな声に、クラリオは彼女へと手を伸ばした。その指先で優しくそっと触れた頬は、熱を失ったかのように冷たかった。
「……記憶、弄ってたの?」
「……よく、わからないん、です。でも、あなたに、はなしたことは、すべて、しんじつだと、おもって、いました。だけど、やくめを、おもいだし、て……」
「……うん」
「…………もし、うそを、ついてしまって、いたなら、ごめん、なさい……」
「……うん」
ようやくアメリアが話した内容は、思っていたよりもずっと無意味なものだった。ただ、記憶を改竄した上でこの国に送り込まれた刺客であるということが判っただけだ。そんなことは、彼女を見ていれば想像がつく。王が知らなければならないのは、もっとその先にある話だった。
だが、これ以上は無理だ。熱が失われていく身体には、もう生きる力など残っていない。いくら死なせないようにと配慮しようとも、最初の一撃に度重なる拷問が加われば、こうなるのは当然のことだった。
だからだろう。アメリアがもうすぐに死んでしまうと判ったから、だから、クラリオの目から、一粒だけ涙が落ちた。そして、つい口にしてしまったというように、か細く震える声が零れる。
「…………おれ、まもるって、いったじゃん……」
その言葉に、アメリアは一瞬、何を言われているのか判らなかった。だがその意味を理解した彼女は、咲きほころぶような笑みを浮かべた。
クラリオは、守ると言ったその言葉を信じなかったことを責めているのだ。たとえ帝国を裏切ったとしても守ってみせるから安心して欲しいという言葉を、信じて欲しかったと言っているのだ。
「……あなたが、なく、ところ、はじめて、みました……」
クラリオは王だ。だから、決して民に涙を見せない。たとえそれが自分の妻だったとしても、妻である前に民である王妃に涙を見せることはない。王にとって己と王獣以外はすべてが民であり、守るべき存在だからだ。
そんな王が、涙を流し、子供のような理屈でアメリアを責めている。アメリアは、そのことがこの上なく嬉しかった。初めて、王ではないクラリオに出逢えた気さえした。惜しむらくは、霞んだ目ではその顔をしかと見ることができない点だろうか。
だがそれでも、彼女は満たされていた。だからこそ、この世で一番幸せだという顔をして、王の名を呼ぶ。
「…………あいして、います、クラリオさま……。……あなた、を、あいして、ほんとうに、よかった……」
囁くようにそう言葉を紡いで、アメリアの身体から力が失われる。
静かに息を引き取った彼女の腹からは、いつの間にかおびただしい量の血液が溢れ、絨毯を濡らしていた。
どんなに痛かっただろうか。どんなに苦しかっただろうか。それでも彼女はクラリオを責めることなく微笑み続け、愛おしそうにその名を呼んでくれた。
王は、冷たくなった頬に触れていた手を離し、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
彼女と話している最中、頭はずっと戦場の状況を把握しており、時折助けの雷を落とすこともした。最愛の女性を手に掛けている間もずっと、並行して戦況を見定め続けた。
そして今、死んでしまった彼女を前にしてもなお、心は平静を保ち、魔法を行使し続けている。それどころか王は、彼女の死をどう扱うのが国にとって一番良いのかとさえ考えていた。ありのままに伝えるべきか、帝国に殺されたことにすべきか、ああ、葬儀は帝国との諍いが全て済んでからにせざるを得ないな。そういった考えたちが、否応なく頭に流れ込んでくる。
そんな自分のことが、殺してやりたいほどに憎かった。許されることなら、クラリオは今すぐにでも自分の喉に剣を突き立ててやりたかった。
聡明な王は、アメリアと出会ったときから、こうなるのではないかと常に考えていた。
帝国領土から逃れて来た、何の力も持たないアメリア。あのときの彼女からは確かに魔導の痕跡などなかったし、アメリアが話す生い立ちには何の嘘もないように思えた。だがそれでも、クラリオはこの十年、どこかでこうなる可能性を考えていた。そしてその予感は、天ヶ谷鏡哉がやってきてから一層強いものとなった。
だからこそ、アメリアとあの少年が会話を交わす機会を設けたのだ。帝国が狙う対象と少しでも心を通わすことがあれば、彼女が思い留まってくれるのではないかと、そう思って。
だが、現実はそんなに甘くはなかった。あの少年も、クラリオも、アメリアを繋ぐ枷にはならなかったのだ。
そうしてアメリアは死んだ。紛れもない無駄死にだ。
そもそも、彼女一人では絶対に王を倒せない。王がどんな状況にあったとしても、彼女に負けることはないだろう。それほどまでに力量差があった。だからこそ、彼女を送り込んだ目的が判らない。
十年間潜ませてきた刺客だというのに、あまりにも無駄な使い方だ。もしかすると王を惑わせようとしたのかもしれないが、それこそ無駄ではないか。いついかなるときも、何があっても、王が惑うことはない。ならば何故、彼女が死ななければならなかったのだろうか。
死ぬ理由がない彼女が死んでしまったことも、彼女に信じて貰えなかったことも、何もかもがどうしようもなく悲しくて悔しい筈だ。その筈なのに、もうクラリオには自分の感情が判らなかった。
ぐちゃぐちゃになる頭で、だがそれでも王の魔法はその精度を失わない。引き裂かれそうなほどに心は悲鳴を上げるのに、自分はそれをどこか遠くから認識しているだけなのだ。
クラリオは王なのだから、当然だ。こんなことで王が心を乱す訳にはいかない。そんな王は必要ない。
数多の民の全てを背負うのが王ならば、王はその責を負って立ち続けなければならないのだ。そこに揺らぎや惑いは許されない。王は人である前に、王という生き物なのだから。
「…………王なんて、もう……」
ぽつりと落ちた言葉は、しかし行き先を失ったかのようにそこで途切れた。その先を言うことは、民に対する裏切りだ。だから、王はただ王として在り続ける。
クラリオが流した涙は、彼女の死を前に零れた、たった一粒だけだった。
帝国の地下実験室にて次の作戦の準備をし終えたウロは、リィンスタットの王城で起こった一部始終を観ていた。例によって水晶玉を使って遠見をしていた彼は、王妃の死体を横に魔法を使い続ける黄の王を見て、満足そうに微笑んだ。そして、椅子に座ったまま大きく伸びをする。
「んー! 満足! 十年待った甲斐があったよー!」
そう叫んだウロがぱちぱちと拍手をしたが、この場には誰もいない。だがウロはそんなことは気にしないようで、まるでその場に誰かがいるかのように話を続けた。
「いやぁ傑作だと思わないかい? 黄色の王様は一番王様に向いてない性格をしてるから、絶対に面白いことになると思ったんだ。だから、わざわざ帝国から魔導の素質がありそうな女を一人選んで、陳腐な酷い運命を辿って貰ったんだよね。その上で魔導を教えてから、記憶を消して黄の国に放り込めば、あら不思議! 即席喜劇の舞台が整いました! どこか良いタイミングで記憶を戻して自分の使命を思い出させれば、あとはもう予定通りさ」
楽しそうな声を出しながら、ウロが水晶玉を指でつつく。
「クラリオくんの顔見た? あの可哀相な顔。きっと、愛した女であり国民でもあるあの子に信用して貰えてなくて、絶望しちゃったよねぇ。でもしょうがない。何せあの子には僕が直接、王様を殺さなきゃ駄目だよってお願いしちゃったからね。そんなの、僕の言うことに従うしかないじゃない。いくらクラリオくんが強くても、所詮は人間だ。僕を前にした恐怖を刻み込まれたあの子が、人間の言葉で救われる訳がないじゃないか。出来レースってやつだよ」
そう言ったウロが、顔を上げて天井を見る。だがその目は、もっと遠くの何かを見つめているようだった。
「ちょっとしたお遊びさ。今回のこれは、帝国側の作戦とは何の関係もありません。色々種を撒いてるついでに、娯楽も必要だと思って用意しといた分が芽吹いただけ。そりゃあまあ、億が一にもクラリオくんが取り乱してくれたら面白いなぁって思いはしたけど、彼は貴方が創った次元の柱を担う一人だ。たかだか最愛の女を殺した程度で、冷静さを欠くなんて有り得ない。そんな王様、防衛装置にならないからね」
天上に語り掛けるウロは、心底楽しそうだ。
「でも、本当にクラリオくんは王様向いてないね。どの王様も王としての在り方と人間の感情との乖離に苦しんでいるのは知ってるけど、あの子は特別酷いや。いや、だからこそ今回は面白い喜劇になってくれて万々歳なんだけど、ちょっと同情しちゃうなぁ。もーちょっと人間であることを諦められたら良かったのにねぇ。クラリオくんは王様やるにはちょーっと優しすぎだよねぇ。ほら、他の王様はさ、もっとこう、ドライでしょ? ドライにならざるを得なかったって考え方もあるけどさ。あ、いや、赤の王様の話はしてないよ。あれは寧ろ超イージーモードでしょ。他の王様たちが可哀相になるくらい、一人だけ楽してるよね。感情がないって便利だなぁ。あ、正確には、生産される傍から認識される前に捨てられてるんだっけ? まあどっちでもいいか。感情を持つこと自体が寿命を縮めることになるって点は変わらない訳だし」
呟いたウロが、こてりと首を傾げた。
「赤の王様のことはさ、どこまで貴方の想定通りなんだろう。実は僕、今のところ僕の方が読み勝ちしてると思ってるんだよね。でも、もしかして全部が貴方の掌の上だったりする? ふふふ、貴方の掌でコロコロされてるのかぁ。それはそれで気持ち良いなぁ。いやでも、慌てて赤の王様を隠しちゃったってことは、やっぱり僕の方が優勢? 僕知ってるよ。あのクソ野郎が薄紅の王様にちょっと力を貸したでしょ。そのせいで、赤の王様の居場所が全然掴めないんだ。彼、とっても邪魔だからそろそろ処理しておきたいんだけど、どこに行ったのかなぁ」
難しい顔をしてうんうん唸っていたウロだったが、すぐにあっさりと思考をやめて笑顔に戻る。そしてウロは、自分を見ているだろうその人に向かってうっとりと語り掛けるのだ。
「まあいいや。全部どうでも良いもの。僕はただ、貴方と一緒に遊べればそれで満足だもの。ね、太陽神様」
赤の国を襲った魔物の数と比較して黄の国でのそれは圧倒的に多く、国内の兵力のみで対応するのには限界があったのだ。クラリオが全土に魔法を展開させることでなんとか凌いではいるが、事態の収束にはまだまだ時間が掛かるだろう。
想定よりも速い勢いで削れていく己の魔力に、黄の王は大きく顔を歪めた。
緊急に対応が必要な魔物については、王と王獣の力で大方排除できたと見て良い。少なくとも、最初に比べれば遥かに状況は好転したはずだ。だが、だからといって王の助けなしで切り抜けられるかというと、現時点ではその確証は持てない。だから、いくら疲労しようとも魔法を切り上げる訳にはいかなかった。
脳を揺らす酷い頭痛は止まらず、いよいよ王の視界は霞み始めていたが、気絶しそうになる度に手にした剣を傷口に突き立て、なんとか意識を保つ。出血こそ激しくないが、何度も繰り返された行為は肉を抉り、脚の傷は見るに堪えないほど無惨なものになっていた。
収まることのない吐き気は胃の中が空になってもなおクラリオを苛み、彼は何度目になるか判らない胃液を吐き出した。吐しゃ物に汚れて地面に這いつくばるその姿は、王と呼ぶにはあまりに憐れであった。
己の情けない姿を思ったクラリオが、うっすらと口の端を吊り上げる。
(……人払い、しといて、良かったな…………)
王は国の象徴だ。故に、いついかなるときも泰然自若としなければならない。こんな姿を、国民に見せる訳にはいかなかった。
(でも、ちょっとだけ、慣れて来た……)
魔法の扱いにではない。痛みや不快感にだ。
無茶な魔法を行使したことによる副作用を緩和することはできないが、副作用の症状をなんとか耐えることはできるようになってきている。
胸中でそう呟いたそのとき、クラリオは不意に見知った気配が部屋に近づいてくるのを感じた。ピクリと指を震わせた王が、歯を食いしばって身を起こす。なんとか上体を起こした彼はのろのろと体勢を整え、積み重なったクッションに背を投げだすようにして座った。口元にこびりついた吐しゃ物を袖口で拭ってから、焦点の合わない目を、それでも扉の方へと向ける。
今のクラリオは国内全土の情報を処理するのに手一杯で、目で見える視覚的な情報はほとんど認識していなかったが、王の顔がそこに向いているということが重要なのだ。
クラリオが最低限の体裁を整え終えるのと同時に、それを待っていたかのように部屋の扉が押し開けられる。ノックはなかった。
そうして入ってきたその人物に、クラリオは一度だけ静かに目を伏せたあと、ゆるりと微笑みを浮かべた。
「……どしたの、アメリアちゃん」
普段と変わらない、最愛である妻の一人に向ける音で、王が言う。その声を渡された王妃アメリアは、僅か一瞬だけ息を詰まらせたあと、真っ直ぐにクラリオを見つめた。
「……ああ。怖くて、俺の傍に来たく、なっちゃった? はは、参ったなぁ。情けないとこ、見られちゃったや」
「…………クラリオ様」
アメリアが、喉に引っ掛かっている何を吐き出そうとするように王の名を呼ぶ。だがクラリオは、それが耳に届いていない風に言葉を続けた。
「こんな姿じゃ、安心できないかな? でも、大丈夫だよ。全部、俺が守るから」
「……クラリオ様」
「俺が強いの、知ってるでしょ? そりゃ、今はちょっと無理、してるけどさ。でも、絶対、守ってみせるから。国も、民も、アメリアちゃんのことも。だから、心配することなんて、何もないんだよ」
包み込むような優しい声が、アメリアの耳を撫でる。王妃の不安を溶かすようにと、思いが込められた言葉たちだ。けれどアメリアは、僅かも揺らがない瞳で王を見つめた。そしてその唇が、一際強く王の名を紡ぐ。
「クラリオ様」
その声に、クラリオの表情が一瞬、ほんの僅か、歪んだように見えた。
「もう、判っているのでしょう?」
そう言ったアメリアの細い指先が、すっと王を指す。すると彼女の足元に陣が浮かび上がり、その中から半透明の結晶のような肌をした魔物が姿を現した。
二足歩行型のその魔物は、クラリオよりも少しだけ背が高いくらいの、比較的小型な魔物だった。だが、肥大化した拳は人間の頭よりも大きく、見るからに硬質そうな皮膚は、恐らく生半可な武器では傷一つつけられないだろうことを窺わせた。
魔物を従えた王妃が、王の元へと歩を進める。だが、王は動かない。とうとう目の前に来た王妃が魔物と共に自分を見下ろしても、王は黙して王妃を見るだけで、指先のひとつすら動かす様子がなかった。
まるで、彼女の隣に控える魔物など目に入っていないかのようだ。クラリオはただ、いつもと変わらない優しい顔をして、アメリアを見ている。今にも、陽が昇ったら一緒に散歩にでも行こうか、と言い出しそうな、そんな表情だ。
アメリアが、小さく拳を握った。
「グリシュタ、この男を殺しなさい」
アメリアがそう言うのと同時に、魔物が両の拳を振り上げる。そのまま王目掛けて無慈悲に打ち下ろされた拳は、しかし王の頭に直撃することなく空を切った。
はっとしたアメリアが慌てて後ろを振り返れば、少し離れた場所に王が立っている。恐らく、雷魔法を応用して瞬時に躱したのだろう。しかし、彼が大魔法を解除した様子は見られない。それはつまり、大魔法を維持したまま別の魔法を発動させたということになる。既に満身創痍かと思われた王だったが、どうやらまだ余力を残していたようだ。
王は一度だけ自分の座っていた場所に目をやってから、アメリアへと顔を向けた。相変わらず焦点の定まらない、どこを見ているのか判らない目だ。けれど、王は確かにアメリアを見つめていた。
瞬間的な見つめ合いは、しかし魔物の追撃によってすぐに終わりを告げる。アメリアの横をすり抜け、重そうな身体からは想像し難い俊敏さで王との間合いを詰めた魔物は、再びその拳を王へと振り下ろした。ふらつく脚でそれを躱した王が、簡易な雷を喚んで魔物へとぶつけたが、それは魔物の皮膚へと到達した瞬間に弾かれてしまった。どうやら、この魔物には雷に対する耐性があるらしい。それを証拠に、魔物は王の雷を意にも介さない様子で、再び拳を振るってきた。
黄の王であるクラリオと対峙することを考えれば、この場にこの魔物を寄越したのは賢い判断だ。だがそれでも、普段の王ならば手こずることなどない相手である。いかに雷への耐性があろうとも、黄の王が高位の魔法を繰り出せば、それに耐えられる生き物はそういない。
だが、大魔法を維持しながらとなると話が違った。今の状態の王では、魔法を使えば使った分だけ、現在展開している大魔法の精度が低下してしまうだろう。それは、国民を危険に晒すことに繋がる。だから王は、魔法ではなく生身の肉体で対処することを選択した。吐き気がする頭の痛みも、自ら傷つけた脚も、何もかもがクラリオの身体を苛んでいたが、そんなことは関係ないのだ。
王の右手が、腰にあったもうひとつの曲刀を握る。その動きに躊躇いはなかった。
敵の猛攻を紙一重で避けて数歩の距離を取った王は、一度強く剣の柄を握り締めたあと、向かってきた魔物に向かいその切っ先を閃かせた。左下から斜めに振り上げられた刃が、魔物の腹から肩にかけてを一刀両断する。
恐らくは、魔物の切断面から覗く核のようなものが心臓に当たる部分だったのだろう。その核ごと斬撃を受けた魔物は、悲鳴を上げる暇すら与えられずに呆気なく砕け散っていった。
剣のひと振りのみで見事に魔物を仕留めてみせた王だったが、別に驚くことなど何もない。
円卓の王たちが持つ武器は、全て赤の国にて作られた最高級の逸品だ。その他大勢が持つそれらとは比べ物にならないほど優れたその刃に、斬れぬものはほとんど存在しない。それは、誰もが知っていることだった。
砕け散ってきらきらと光る細かい結晶となった魔物を前に、クラリオの表情が大きく歪む。
そして彼は、振り上げた剣をくるりと逆手に握り直し、振り返ることなく一気に後方へと突き刺した。
「ッ……!」
引き攣るような小さな悲鳴がクラリオの耳元で聞こえ、背後で何かがずるりと倒れる音がした。
剣を手放した王が、ゆっくりと後ろを振り返る。その目に映ったのは、王の剣で腹を貫かれたアメリアの姿だった。
魔物と対峙しているさなか、短剣を手にした彼女が背後に忍び寄っていたことを、クラリオは知っていた。アメリアの動きは素人そのもので、武に優れた王ならば容易に対処できるものだった。それこそ、赤子の手を捻るよりも容易く。
アメリアのすぐ傍に、王が膝をつく。自らが彼女に刺した刃は肉に深く埋もれ、きっともう彼女が助からないだろうことをまざまざと王に突きつけた。だが当然の結果だ。王に彼女を生かすつもりはなかったのだから。
王の手がアメリアの肩に触れ、その身体を仰向けに転がす。少し乱暴なそれに、アメリアは大きく顔を歪めて呻いた。
彼女の傷は、致命傷ではあるがすぐに死ぬようなものではない。王は、そこまで考えた上で行動している。
アメリアの腹から突き出ている剣を握った王が、唇を開いた。
「帝国の計画について、知っていることを全て話せ」
感情を窺わせない平坦な声が、アメリアの耳に落ちる。脂汗を滲ませて荒い呼吸を繰り返す彼女は、しかしうっすらと微笑み、ゆっくりと首を横に振った。そんな彼女に、剣を握る王の手に力が籠る。そして王は、握った剣を腹に捩じ込むようにして回し、彼女の傷を抉った。
あまりの痛みに、アメリアの細い喉から悲痛な悲鳴が上がる。しかし王は、表情を変化させることなく同じ問いを繰り返した。
「今後の帝国は、どう動くつもりなんだ。答えろ」
だが、アメリアは再び首を横に振る。か細い声が小さく、知らない、と零した。
「この日のために、わざわざ十年前から王家に潜り込んだんだ。何も知らないなんてことはないだろう」
王の手が動き、アメリアの傷口を広げていく。一見すると乱暴な手つきにとは見えるそれは、しかしその実、誤って彼女をすぐに死なせてしまわないようにと細心の注意が払われていた。
再びアメリアが悲鳴を上げたが、それでも彼女は力なく首を横に振る。頑なに情報を秘匿しようとしているように見えるその姿勢に、クラリオは思わず一息に腹を裂いてしまい衝動に駆られた。
ぎり、と歯噛みした王が、アメリアの腕を乱暴に掴む。そしてそのまま、王は力任せに腕を折り曲げた。肉の中で鈍い音が響き、アメリアの細い腕があらぬ方向に曲がる。同時に、一際大きな悲鳴が部屋に響いた。
「言え。帝国は、次に何をするつもりなんだ」
だらりと力をなくした腕を床に投げ、王が再び問う。だが、それでもアメリアは首を横に振るだけだ。
そんな短いやり取りが、何度続いただろうか。両腕を折っても、耳を削いでも、アメリアは悲鳴を上げるだけで何も言わない。度重なる苦痛にぐったりとした彼女は、しかしそれでも王に問われる度、彼に対して微笑みを返した。
王もまた、未だ解除することが叶わない大魔法のせいで徐々に消耗し、意識が朦朧とし始めていた。それでも倒れず正気を保っているのは、偏に彼の気力のなせる業だろう。
だが、今度は腕を斬り落とそうとアメリアの肩に刃先をあてがったところで、とうとう王の表情が大きく歪んだ。歪んでしまった。
そしてその唇から、言葉が零れ落ちる。
「…………頼むから、言ってくれよ……」
小さな声に、アメリアが僅かに目を見開く。
霞み始めた彼女の視界に映る王は、まるで母の手を見失った幼子のような顔をしていたのだ。
よく見れば剣を握る王の手は震え、その瞳にはアメリアよりもずっと色濃い苦痛が満ちていた。
「……お願いだから……嘘でも、良いから……」
泣きそうな声が、アメリアの鼓膜を震わせる。
そこで初めて、アメリアは痛み以外の理由で顔を歪めた。折られた両腕がもどかしくて仕方なかったのだ。
「……クラリオ、さま、」
優しい声が、王の名を紡ぐ。その音に、クラリオはより一層苦しそうな表情を浮かべた。
アメリアは、そんな顔をさせたい訳ではないのだ。だから、微笑みを絶やさないように努めたのに。
「……アメリア、」
小さく震える声が、彼女の名を呼んだ。アメリアは、王の声で紡がれるこの名前が好きだった。
「…………ごめん、なさい。……ほんとう、に、なにも、しらないん、です……」
アメリアの答えに、クラリオが今にも泣き出しそうな顔をする。
判っている。判っているのだ。彼女がきっと何も知らないのだろうことくらい、クラリオは知っていた。クラリオは誰よりも彼女を見てきて、心の底から彼女を愛していたから、彼女が嘘をついていないことくらい判っていたのだ。
だがそれでも、クラリオが彼女の本質を見抜き切っている保証がない以上、問うことを止める訳にはいかなかった。万が一にも彼女の嘘を見抜けていなかった場合、その弊害がどこで訪れるか判らない。国を担う王として、そんな過ちを犯すなど死んでも許されることではなかった。だから王は、彼女が帝国の計画の核となる何かを答えるまで、追及の手を緩めることができない。
だがもう、王にはこれ以上彼女を傷つけるようなことをするのは無理だった。彼女を想っているからではない。これ以上アメリアを傷つければ、何を言うこともできずにすぐに死んでしまうと判ったからだ。
「…………魔導、使えるとは思ってなかったな、俺……」
やや弱い声が、そう零す。この期に及んで、王はまだアメリアから情報を聞き出そうと考えていた。か弱い彼女が死んでしまう前に、少しでも何かを得なければと思ったのだ。
そんな王の内心に、アメリアは気づいたのだろうか。それは判らないが、彼女は少しだけ困ったように微笑んだ。
「むりも、ありません。わたし、まどう、つかえること、おもいだした、の、きのうの、こと、でした、から……」
静かな声に、クラリオは彼女へと手を伸ばした。その指先で優しくそっと触れた頬は、熱を失ったかのように冷たかった。
「……記憶、弄ってたの?」
「……よく、わからないん、です。でも、あなたに、はなしたことは、すべて、しんじつだと、おもって、いました。だけど、やくめを、おもいだし、て……」
「……うん」
「…………もし、うそを、ついてしまって、いたなら、ごめん、なさい……」
「……うん」
ようやくアメリアが話した内容は、思っていたよりもずっと無意味なものだった。ただ、記憶を改竄した上でこの国に送り込まれた刺客であるということが判っただけだ。そんなことは、彼女を見ていれば想像がつく。王が知らなければならないのは、もっとその先にある話だった。
だが、これ以上は無理だ。熱が失われていく身体には、もう生きる力など残っていない。いくら死なせないようにと配慮しようとも、最初の一撃に度重なる拷問が加われば、こうなるのは当然のことだった。
だからだろう。アメリアがもうすぐに死んでしまうと判ったから、だから、クラリオの目から、一粒だけ涙が落ちた。そして、つい口にしてしまったというように、か細く震える声が零れる。
「…………おれ、まもるって、いったじゃん……」
その言葉に、アメリアは一瞬、何を言われているのか判らなかった。だがその意味を理解した彼女は、咲きほころぶような笑みを浮かべた。
クラリオは、守ると言ったその言葉を信じなかったことを責めているのだ。たとえ帝国を裏切ったとしても守ってみせるから安心して欲しいという言葉を、信じて欲しかったと言っているのだ。
「……あなたが、なく、ところ、はじめて、みました……」
クラリオは王だ。だから、決して民に涙を見せない。たとえそれが自分の妻だったとしても、妻である前に民である王妃に涙を見せることはない。王にとって己と王獣以外はすべてが民であり、守るべき存在だからだ。
そんな王が、涙を流し、子供のような理屈でアメリアを責めている。アメリアは、そのことがこの上なく嬉しかった。初めて、王ではないクラリオに出逢えた気さえした。惜しむらくは、霞んだ目ではその顔をしかと見ることができない点だろうか。
だがそれでも、彼女は満たされていた。だからこそ、この世で一番幸せだという顔をして、王の名を呼ぶ。
「…………あいして、います、クラリオさま……。……あなた、を、あいして、ほんとうに、よかった……」
囁くようにそう言葉を紡いで、アメリアの身体から力が失われる。
静かに息を引き取った彼女の腹からは、いつの間にかおびただしい量の血液が溢れ、絨毯を濡らしていた。
どんなに痛かっただろうか。どんなに苦しかっただろうか。それでも彼女はクラリオを責めることなく微笑み続け、愛おしそうにその名を呼んでくれた。
王は、冷たくなった頬に触れていた手を離し、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
彼女と話している最中、頭はずっと戦場の状況を把握しており、時折助けの雷を落とすこともした。最愛の女性を手に掛けている間もずっと、並行して戦況を見定め続けた。
そして今、死んでしまった彼女を前にしてもなお、心は平静を保ち、魔法を行使し続けている。それどころか王は、彼女の死をどう扱うのが国にとって一番良いのかとさえ考えていた。ありのままに伝えるべきか、帝国に殺されたことにすべきか、ああ、葬儀は帝国との諍いが全て済んでからにせざるを得ないな。そういった考えたちが、否応なく頭に流れ込んでくる。
そんな自分のことが、殺してやりたいほどに憎かった。許されることなら、クラリオは今すぐにでも自分の喉に剣を突き立ててやりたかった。
聡明な王は、アメリアと出会ったときから、こうなるのではないかと常に考えていた。
帝国領土から逃れて来た、何の力も持たないアメリア。あのときの彼女からは確かに魔導の痕跡などなかったし、アメリアが話す生い立ちには何の嘘もないように思えた。だがそれでも、クラリオはこの十年、どこかでこうなる可能性を考えていた。そしてその予感は、天ヶ谷鏡哉がやってきてから一層強いものとなった。
だからこそ、アメリアとあの少年が会話を交わす機会を設けたのだ。帝国が狙う対象と少しでも心を通わすことがあれば、彼女が思い留まってくれるのではないかと、そう思って。
だが、現実はそんなに甘くはなかった。あの少年も、クラリオも、アメリアを繋ぐ枷にはならなかったのだ。
そうしてアメリアは死んだ。紛れもない無駄死にだ。
そもそも、彼女一人では絶対に王を倒せない。王がどんな状況にあったとしても、彼女に負けることはないだろう。それほどまでに力量差があった。だからこそ、彼女を送り込んだ目的が判らない。
十年間潜ませてきた刺客だというのに、あまりにも無駄な使い方だ。もしかすると王を惑わせようとしたのかもしれないが、それこそ無駄ではないか。いついかなるときも、何があっても、王が惑うことはない。ならば何故、彼女が死ななければならなかったのだろうか。
死ぬ理由がない彼女が死んでしまったことも、彼女に信じて貰えなかったことも、何もかもがどうしようもなく悲しくて悔しい筈だ。その筈なのに、もうクラリオには自分の感情が判らなかった。
ぐちゃぐちゃになる頭で、だがそれでも王の魔法はその精度を失わない。引き裂かれそうなほどに心は悲鳴を上げるのに、自分はそれをどこか遠くから認識しているだけなのだ。
クラリオは王なのだから、当然だ。こんなことで王が心を乱す訳にはいかない。そんな王は必要ない。
数多の民の全てを背負うのが王ならば、王はその責を負って立ち続けなければならないのだ。そこに揺らぎや惑いは許されない。王は人である前に、王という生き物なのだから。
「…………王なんて、もう……」
ぽつりと落ちた言葉は、しかし行き先を失ったかのようにそこで途切れた。その先を言うことは、民に対する裏切りだ。だから、王はただ王として在り続ける。
クラリオが流した涙は、彼女の死を前に零れた、たった一粒だけだった。
帝国の地下実験室にて次の作戦の準備をし終えたウロは、リィンスタットの王城で起こった一部始終を観ていた。例によって水晶玉を使って遠見をしていた彼は、王妃の死体を横に魔法を使い続ける黄の王を見て、満足そうに微笑んだ。そして、椅子に座ったまま大きく伸びをする。
「んー! 満足! 十年待った甲斐があったよー!」
そう叫んだウロがぱちぱちと拍手をしたが、この場には誰もいない。だがウロはそんなことは気にしないようで、まるでその場に誰かがいるかのように話を続けた。
「いやぁ傑作だと思わないかい? 黄色の王様は一番王様に向いてない性格をしてるから、絶対に面白いことになると思ったんだ。だから、わざわざ帝国から魔導の素質がありそうな女を一人選んで、陳腐な酷い運命を辿って貰ったんだよね。その上で魔導を教えてから、記憶を消して黄の国に放り込めば、あら不思議! 即席喜劇の舞台が整いました! どこか良いタイミングで記憶を戻して自分の使命を思い出させれば、あとはもう予定通りさ」
楽しそうな声を出しながら、ウロが水晶玉を指でつつく。
「クラリオくんの顔見た? あの可哀相な顔。きっと、愛した女であり国民でもあるあの子に信用して貰えてなくて、絶望しちゃったよねぇ。でもしょうがない。何せあの子には僕が直接、王様を殺さなきゃ駄目だよってお願いしちゃったからね。そんなの、僕の言うことに従うしかないじゃない。いくらクラリオくんが強くても、所詮は人間だ。僕を前にした恐怖を刻み込まれたあの子が、人間の言葉で救われる訳がないじゃないか。出来レースってやつだよ」
そう言ったウロが、顔を上げて天井を見る。だがその目は、もっと遠くの何かを見つめているようだった。
「ちょっとしたお遊びさ。今回のこれは、帝国側の作戦とは何の関係もありません。色々種を撒いてるついでに、娯楽も必要だと思って用意しといた分が芽吹いただけ。そりゃあまあ、億が一にもクラリオくんが取り乱してくれたら面白いなぁって思いはしたけど、彼は貴方が創った次元の柱を担う一人だ。たかだか最愛の女を殺した程度で、冷静さを欠くなんて有り得ない。そんな王様、防衛装置にならないからね」
天上に語り掛けるウロは、心底楽しそうだ。
「でも、本当にクラリオくんは王様向いてないね。どの王様も王としての在り方と人間の感情との乖離に苦しんでいるのは知ってるけど、あの子は特別酷いや。いや、だからこそ今回は面白い喜劇になってくれて万々歳なんだけど、ちょっと同情しちゃうなぁ。もーちょっと人間であることを諦められたら良かったのにねぇ。クラリオくんは王様やるにはちょーっと優しすぎだよねぇ。ほら、他の王様はさ、もっとこう、ドライでしょ? ドライにならざるを得なかったって考え方もあるけどさ。あ、いや、赤の王様の話はしてないよ。あれは寧ろ超イージーモードでしょ。他の王様たちが可哀相になるくらい、一人だけ楽してるよね。感情がないって便利だなぁ。あ、正確には、生産される傍から認識される前に捨てられてるんだっけ? まあどっちでもいいか。感情を持つこと自体が寿命を縮めることになるって点は変わらない訳だし」
呟いたウロが、こてりと首を傾げた。
「赤の王様のことはさ、どこまで貴方の想定通りなんだろう。実は僕、今のところ僕の方が読み勝ちしてると思ってるんだよね。でも、もしかして全部が貴方の掌の上だったりする? ふふふ、貴方の掌でコロコロされてるのかぁ。それはそれで気持ち良いなぁ。いやでも、慌てて赤の王様を隠しちゃったってことは、やっぱり僕の方が優勢? 僕知ってるよ。あのクソ野郎が薄紅の王様にちょっと力を貸したでしょ。そのせいで、赤の王様の居場所が全然掴めないんだ。彼、とっても邪魔だからそろそろ処理しておきたいんだけど、どこに行ったのかなぁ」
難しい顔をしてうんうん唸っていたウロだったが、すぐにあっさりと思考をやめて笑顔に戻る。そしてウロは、自分を見ているだろうその人に向かってうっとりと語り掛けるのだ。
「まあいいや。全部どうでも良いもの。僕はただ、貴方と一緒に遊べればそれで満足だもの。ね、太陽神様」
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