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第3章 虚ろの淵より来たるもの
王の責務
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黄の王との会話のあと、風呂を済ませ、寝る支度を整えた少年は、ベッドに潜り込んで赤毛のテディベアを抱き締めた。毛足の長い柔らかな生地に顔を埋めて目を閉じた少年の頭を、トカゲが心配そうにぺちぺちと叩く。
「……大丈夫だよ。ありがとう、ティアくん」
顔を上げてそう言えば、二回首を傾げたトカゲが、少年の頬に口先を押し当てた。まるで、赤の王が少年にそうするのを真似しているみたいだ。きっと、トカゲなりに精一杯少年を励まそうとしているのだろう。そんな心遣いが、とても有難かった。
「……うん、大丈夫。あの人は嘘をつかない人だから」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
「…………でも、あのね、」
何度か躊躇うような表情を見せた少年が、そっとトカゲを窺う。トカゲはただ、こてりと首を傾げた。
「……今夜は、一緒に寝てくれる?」
断われてしまったらどうしようという僅かな不安は、杞憂だった。何度かぱちぱちと瞬きをしたトカゲが、少年の頬に自分の頬を擦り付ける。そしてトカゲは、もぞもぞと少年とテディベアの間に入り込み、ぷはっと顔だけ出して少年を見上げた。
そんな愛らしい様に、少年の心に巣食う不安が少しだけ解けていく。
(……ありがとう、貴方)
ただ用心棒にするだけなら、このトカゲでなくても良かった筈だ。けれど、赤の王はわざわざこの子を傍に置いてくれた。それはきっと、ひとりぼっちの少年の心までをも守れるようにという優しさからなのだろう。人が苦手な少年のために、人ではなく、強くて、でも愛らしい、この子をくれたのだ。
そんなことに、少年は今更気づいた。
(……僕の気持ちとか、全然、気にしなくて。居心地が悪いからやめてほしいのに、すぐにキスしてばっかりで。触るのだって、躊躇わないし。別にいらないのに、あれもこれもくれて)
迷惑だと、本当にそう思っていた。少なくとも、初めは絶対にそうだった。
では、今はどうなんだろうか。
大きな手で触れられるのは、やっぱり苦手だ。でも、あの人の手は温かかくて、ときどき泣いてしまいたくなるほどに心地良い。
山ほど貰った贈り物たちは、どれもこれも少年のことを思い、考えてくれたものばかりで、迷惑になるものはほとんどなかった。大きなテディベアだけが、ちょっぴり例外だけれど。
頬に、額に、口に押し当てられる唇は、温かな掌よりもずっと熱くて戸惑うし、胸の奥がざわざわするような不思議な感じがするから、結構苦手かもしれない。でも、決して不快ではなかった。
「……ねぇ、……ティア、くん……」
鈍くなり始めた思考のまま、少年はトカゲの名を呼んだ。なかなか寝付けないだろうと思っていたのに、不思議と瞼が重くて、目が開けられなくなる。もしかすると、赤の王の声や体温を思い出していたからなのかもしれないと、少年はぼんやり思った。
「…………ぼく、どうしたら、いいのかな……」
汚い身体を、愛しているのだと言ってくれた。母にすら望まれなかった子供を、心から望んでくれた。この世の何よりも美しいあの人は、いつだってそうやって少年に全てをくれる。ならば少年は、どうしたらそれに報いることができるのだろうか。
少年が今更ながらにそんなことを考え始めたのは、王妃との会話と、王の死の可能性がきっかけだったのだろう。柔らかく名を呼んでくれるあの声が失われてしまうかもしれないという恐怖が、ただ享受するだけだった少年の心を変えたのだ。
あの王に報いたいのだと、そう言う少年に、トカゲが首を傾げる。
トカゲが何を考えたのかは判らないけれど、彼が困惑していることだけは少年にも判った。それも、少年の言葉の意味が判らなくて困惑しているというよりは、意味を理解しているからこそ困惑しているような様子だ。
どうしてそんな反応をするのだろうと内心で首を傾げた少年は、しかし気づく。そして彼は、柔らかな微笑みを浮かべた。
「……うん、そうだね」
目を閉じ、緩やかな微睡へと身を任せる。眠りに入る直前の、夢の中にいるようなふわふわとした心地の中で、少年は優しく自分の名を呼ぶ声を聞いた気がした。
黄の王の寝室に王軍を束ねる武官長が跳び込んで来たのは、少年が寝入ってから少し経ったあと、まだ日も昇らぬ早朝のことだった。
「クラリオ王陛下!」
ただならぬ気配に跳ねるようにしてベッドから起き上がった王が、扉の方を見る。
「帝国が動いたか!」
「はい! 各都市に配置した軍より、たった今報告が!」
「各都市? ちょっと待て、各都市ってどこの話だよ」
リィンスタット王国には五十を超える都市が存在するが、ここのところ妙に活発だった魔獣を警戒し、その全てに王軍を派遣している。故に家臣のその言葉だけでは判別がつかない、という意図で尋ねた王は、しかし続く武官長の言葉に目を見開いた。
「王都を除く、全てです! 国内全ての都市において、帝国による魔導師たちの襲撃を確認致しました!」
「全てだと!?」
黄の国の情報網は他国よりも遥かに優れている。その情報網を以てしても、全ての都市が、という報告がなされるということは、つまり全ての都市がほぼ同時に攻撃を受けたということを示している。
通常ならば有り得ない事態だ。全ての都市に敵兵が配置されるよりも前に、絶対にどこかの都市で敵の存在が発覚し、すぐさま王都に伝えられるはずだ。だが、
(空間魔導か!)
これほど広範囲に渡って同時に魔導師を配置するとなると、魔導陣による周到な準備がなければ不可能だ。しかし、リアンジュナイル大陸内に設置されていた空間魔導陣は、青、薄紅、紫の三国が全て破壊したと聞いていた。だから、大掛かりな空間魔導は使って来ないと踏んでいたのだが、読みが外れたようだ。恐らく、破壊しきれていない魔導陣が残っていたのだろう。
(いや、でもこれは、見つけ損ねたとか破壊し損ねたって感じじゃねーな。こんだけピンポイントに魔導陣が残ってるってことは、あらかじめ重要な箇所の魔導陣を巧妙に隠してたってことだ。……つーか、あの三国が本気出してそれでも見つからないって、相当厄介だぞ)
手早く服を羽織った王が、寝室を跳び出す。執務室へ向かって走りながら、彼は付き従う武官長に対して口を開いた。
「手短に状況を説明しろ!」
「はっ! 本日未明、都市の外壁付近に突如として大量の砂蟲が出現し、直後その身体に魔導陣が浮き上がったとのこと!」
「なるほどな! 連中、砂蟲自体に魔導陣を仕込んでやがったのか! そりゃ見つからねー訳だ!」
砂蟲は、ほとんどの時を地中深くで過ごす生き物である。その深さ故に、地上から彼らの気配を探るのはまず不可能と言って良いだろう。その身体に仕込まれた魔導陣も、また同じことである。
「砂蟲は魔導陣の発動と同時に弾け、そこから魔導師とその使役魔が現れたとのことです! 全ての都市にて証言が一致しておりますので、まず間違いないかと!」
「ふっざけんなよあいつら! うちの生態系めちゃくちゃにする気か!」
黄の王にしては珍しく、苛立ったような声が吐き出された。
「被害状況は!」
「現在のところ王軍が善戦しているため大きな被害はないようですが、個々の敵が強力で防戦一方だとの報告を受けております! このままでは、敵に攻め切られるのも時間の問題かと!」
「はぁ!? 相手はただの魔導師だろ!?」
現状円卓が入手している情報を鑑みる限り、帝国が所持している戦力の内、警戒が必要なほどの力を持つ魔導師は、ほんの一握りだった筈だ。そしてその一握り以外に苦戦を強いられるほど、黄の国の国軍はやわではない。
何か見落としていることが有るはずだ。歯噛みした王が、すぐさま記憶を探る。時間にして瞬き数回ほどの後、はっとした顔をした王が、武官長を振り返った。
「魔導師は全員まだ生きてるのか!?」
「は……?」
「魔導師死んでねぇだろうなって訊いてんだよ! どうなんだ!」
王の剣幕に気圧された武官長が、しかし瞬時に首を振る。
「そこまでの確認は取れておりません!」
「っくそ! じゃあ十中八九死んでるな!」
術者が死ねば、使役魔は暴走し、その恨みを術者と同じ生き物に向ける。それが帝国が使う魔導だ。そしてそれは恐らく、未熟な魔導師と熟練の魔導師の力の差を埋めることに繋がる。
(この前金の国でやったのは、その性能テストってことかよ!)
空間魔導で全ての都市に同時に魔導師を派遣し、直後に魔導師の命を絶つ。そうすれば、残るのは怒りによって何倍にも力を膨れ上がらせた魔物だけだ。そうなった魔物は統率することこそできないが、単純な力だけで言えば半端な魔導師が付随しているときよりもよほど戦力になる。今回のように敵しかいないような場所に送り込むには、うってつけだろう。
(わざとらしく十二国中に設置されてた魔導陣は全部ブラフ! 明らかにこれが本命だ! それはつまり、ずっと前からアマガヤキョウヤがこの国に来ると予測してたってことになる!)
「クラリオ王陛下! 王軍へのご指示を!」
背後で武官長が叫ぶ。判っている。判っているのだ。だが、どうすれば良い。
王軍はもうこれ以上ないほどに各地へ割いてしまった。更に王軍を投入すれば王都の守りがほとんどなくなってしまうし、何よりも今からでは間に合わない。
万全を期した。あらゆる可能性を考慮して、ぎりぎりまで王都の戦力を削った。だからこその今だ。だからこそ、今こうして不測の事態に耐えられている。だが、クラリオが事前に手配できたのはそこまでだった。
「……仕方ねぇ」
辿り着いた執務室の扉に手を掛けて、王が呟く。
「クラリオ王陛下!」
武官長の叫びに、王は振り返った。そして、頭をがしがしと掻いて叫ぶ。
「うるせー! 指示なんてそんなもん、各個撃破だ各個撃破! 倒せるところから確実に倒してけ! そんでもって死ぬ気で国民守れ!」
投げやりと言えば投げやりなその指示に、武官長が思わず目を剥いてしまう。
「し、しかしながら陛下、」
「しかしも案山子もあるか! お前ら王軍の一員なんだったら少しは自分で考えて自分で動けっつっとけ! 足りねぇもんは全部俺が補う! だから国民最優先で好きにやれ!」
王の言葉に、武官長が一瞬押し黙る。そして王の言葉を反芻し、彼はその場に膝をついて深々と低頭した。
「勅命、確かに承りました」
「おう。納得したんならとっとと指示出して来い。あと死ぬ気でっつったけど死んだら怒るからな!」
そう言った王に、もう一度深く頭を下げてから、武官長がその場を後にする。だが、それと入れ替わるように、今度はこの国の文官長が血相を変えて走って来た。
「クラリオ王陛下!」
「今度はお前かよ! 何!」
噛み付く勢いでそう言った王に、文官長が握っていた紙を差し出した。それは、開封済みの書簡だ。ちらりと見えた宛名にはクラリオの名前が記されているから、どうやら王への手紙を無断で読んだらしい。通常であれば処罰の対象だが、緊急の場合はやむなしという規則があるため、それを適用したのだろう。つまり、そういうことである。
「先程エルキディタータリエンデ王国より緊急連絡用の雷光鳥が来ました!」
「今すぐじゃなきゃ駄目な話なんだな!? じゃあ要点まとめて言ってくれ!」
「敵の主力は神に連なる高次元の生命体! 注意されたしと!」
またもや予想外の言葉に、クラリオが一瞬言葉に詰まった後、大きく叫ぶ。
「今言うかそれ!?」
「あ、あちらはまだ我が国で起こったことをご存じない故……」
「あーうん判ってる。判ってるよ。取り敢えずじゃあ、銀のじーさんにはありがとうお疲れさんって伝えといてくれ。あと、全ての円卓の国に伝達。うちの国やべーから力貸せそうなら貸してちょーだい。貸してくれるならめちゃ早でよろしく。万が一そっちもやべーことになってたらお互い頑張りましょーや。以上」
「はっ! 承りました!」
「あとこれは城内に周知しといて欲しいんだけど、ちょっと俺今から頑張るから、この部屋誰も入れないでくれ。集中切れると困る」
「はっ!」
文官長には王が何をしようとしているのかなど判らなかったが、それでその判断を疑うほど王への信頼は薄くない。王が常に最善を尽くそうとしていることを知っている文官長は、さっと礼をしてから、己の職務をまっとうするために足早に立ち去った。
その背を見送ってから、王が執務室の扉を開ける。そしてすぐに部屋の窓を開け放った王は、空に向かって大きく叫んだ。
「リァン!」
呼び声に応え、雷の獣が空を駆けてやってくる。だが、王獣の到着を待たず、王は続けて叫んだ。
「国中を駆け回って全軍のサポートをしてくれ! お前の脚だったらできるだろ!」
王の指示に、しかし王獣は判りやすく躊躇うように王を見つめる。その躊躇の正体が判っている王は、安心させるように自信に満ちた笑みを浮かべた。
「王都の守りは任せとけ。お前の分まで、俺がしっかり働いてやる」
王の言葉に、王獣が目を細める。未だ僅かな躊躇いを残す獣は、しかし王が意見を曲げないことを悟ったのか、ほんの少しだけ責めるような目をして彼を見た。それに向かって王が肩を竦めてみせれば、低く唸った獣が王から顔をそむける。そして、大きくひと声咆えた王獣が空を蹴った瞬間、光と化した獣は、彼方へと消えていった。
思うところはあったようだが大人しく指示に従ってくれた獣を見送ってから、王は窓を閉め、絨毯で覆われた床に胡坐をかいて座った。
王獣リァンには遠く及ばないが、雷光鳥は速い。もう少しもすれば、王の出した指示が王軍にまで届き始めるだろう。だから、その前に始めなくてはならない。不足分は補うと言ってしまった以上、不足が顕著になる前に動かなければ、余計な不安を煽ってしまうだろう。
王が、大きく息を吸って、吐く。
「……さーて。風霊ちゃんに火霊、準備はオッケー? 俺は全然オッケーじゃないけど、そうも言ってらんないから始めちゃうよ。まともに使ったことないし、そもそもここまでの規模は想定してなかったから、杜撰なところがたくさんで迷惑掛けちゃうと思うけど、……よろしくね」
言い置いてから、もう一度だけ深呼吸をする。僅かに速い鼓動を落ち着け、そして、王は静かに目を閉じた。
「奔る閃光 轟く咆哮 願いは空へ 誓いは大地へ 果てに至る奇跡の名の元に 杭は今ここに穿たれた」
バチバチと音を立てて、王の身体から細い雷が散った。
「吹き荒れる風よ 砂を灼く炎よ 我は行く末を見定める者 我はこの世全ての雷を統べる者 なればその遠雷は 須らく我の手に集うべし!」
王の全身から魔力が奔流となって迸り、見る見るうちに小さな無数の雷へと変質していく。そうして生まれた細かな雷たちは、光の集合体となって王の身体に纏わりついた。
クラリオがこの魔法を創ったのは、一年ほど前。思いつくままに魔法として確立したは良いが、あまりの使い勝手の悪さに実用性なしと判断せざるを得なかった代物である。今だって、できることならば触れたくはない。だが、そうでもしなければこの状況を打破できないのだ。
だから王は迷わない。賭すべき命があるのならば、それはいつだって国王自身のものだ。
「――“轟雷は我が手に在りて”!」
瞬間、王の周囲に留まっていた雷たちが一気に弾けた。王を中心に凄まじい勢いで全方位へと奔っていくそれを追うように、王が叫ぶ。
「効果範囲はリィンスタット王国全土! 後の判断は俺がする!」
空気を切って駆ける雷が、遥けき彼方を目指して広がっていく。光の速度が国境へと至るまでの間は、僅か一瞬のことだった。
王の身体から放たれる雷の波が国土全体へ行き届いた直後、なんの前触れもなく膨大な情報が王の脳に叩きつけられた。その余りの衝撃に、王の身体がぐらりと傾く。だが、意地で腰の曲刀を引き抜いた彼は、それを自身の腿へと突き立てた。その痛みでなんとか意識を保った王が、喘ぐように大きく息を吐く。
(……くそっ! トぶところだった……!)
王の脳内に直接飛び込んできたのは、リィンスタット王国全土の映像情報だ。王が用いたのは、王自身が創り出した超広域魔法だったのである。
まるで目で見ているかのように、一度に百を超える映像が入れ替わり立ち替わり切り替わっていく。総数で言えば軽く万を超えるだろう映像情報は、王都付近の都市のものもあれば、国境近くの何もない砂漠のものまであるなど、まるで統一性がなかった。それほどまでに雑多で過密な情報の嵐に、王の脳が拒絶反応を示す。
失神こそ免れたものの、依然として頭はぐらぐらと煮立ったように熱く、脳が掻き回されるような感覚に、胃の中身が喉元までせり上がって来た。
(っ、き、っつ……!)
だが、弱音を吐いている暇はない。一瞬で流れて行く散漫な情報群に食らいつき、てんでバラバラなそれらの位置関係を把握することに注力する。
一度に全てではなく、百を絶え間なく切り替える方式で情報が流れて来るのは、クラリオがこの魔法をそう定義したからだ。魔法の試作段階で王都全域を把握してみようと試したときに、千を超える情報が入って来て失神した経験があったため、減らせる限界まで情報を減らした結果がこの百だった。本音を言えば十くらいにまで落としたかったのだが、いかにクラリオでもそこまでの調整は不可能だったのである。
しかし、百まで落とそうとも、人の脳が処理するには余りにも過多な情報だ。その上、王都内だけですら運用が困難だった魔法を王国全域に無理矢理適応しているとなると、それを処理するツケはクラリオ自身に襲い掛かる。
必死に情報の処理と把握に努めていた王は、とうとう堪えきれずに背を丸め、胃の中のものを吐き出した。曲刀の柄を掴んでいない方の指が、もがくように絨毯を掻きむしる。
だが、それでも王は折れない。
(ここで踏ん張れなくて、何が王だ……!)
強く噛んだ唇から血を滲ませ、半ば這いつくばるようになりながらも、王は頑として魔法を解除しなかった。
(集中しろ! 大事なのはここからだろうが! 俺がミスったら民が死ぬ! そんなことは許されない! だって俺は王なんだから!)
全ての情報の位置関係を把握し、どこで何が起こっているのかを理解し、王軍と自警団の手が回らない場所、瞬間を見逃さない。血反吐を吐きながら見事そこまでをやってのけた王は、ひとつ息を吐き出し、次いで唸るような声を絞り出した。
「風霊、火霊、いくぞ……!」
「師団長! 魔術師が死んで以降、魔物の勢いが止まりません!」
「これ以上接近を許せば、壁を破壊され都市内部への侵入を許すことになってしまいます!」
そう叫んだのは、国境に近い場所にあるオアシス都市スティラーダに派遣されている王軍第三師団の兵たちだった。
本日未明の襲撃を受け、すぐさま都市を囲うように配備された彼らだったが、想像以上の敵の強さに苦戦を強いられていた。
それもこれも、魔物を従える魔導師が全て死んだためだ。魔導師たちは全員が全員、出現と同時に爆発するように弾けて死んでしまった。恐らく自害ではないだろう。彼らはあらかじめそうなるように細工された上で、戦場に投入されたのだ。もしかすると覚悟の上だった者もいたのかもしれないが、そうでない者もいただろう。そうでなければ、魔導師たちの口からあんなにも悲痛な声は上がらない。
耳に残る痛ましい断末魔を振り払い、第三師団を束ねる師団長は歯噛みした。いくら敵が強いとは言え、ともすれば押し負けそうな戦況を不甲斐なく思ったのだ。だが、師団長が悔やむことは何もない。彼は緊急事態を受けて迅速かつ的確な指令を下し、現状に至るまで一人の死者も出してないのだ。そんな彼のことを、誰も責めようとは思わないだろう。
だが、防戦一方になってしまっている上、近隣国から来るかもしれない援軍の到着まで持ち堪えられるか判らないのもまた事実だ。敵に対してこちら側の戦力が不足していると言ってしまえばそれまでだが、それでもこの都市には第三師団の半数が派遣されている。師団の半分の人員を割いても帝国の襲撃に持ち堪えられないというのはやはり、不甲斐ないと言うほかなかった。
「師団長! 対処し切れません! 既に魔物が数体、防衛ラインを突破しています!」
兵のひとりが叫んだ通り、抑え切れなかった魔物の一部が軍の包囲網を抜け、都市を守る防護壁へと向かっていた。それを追って止めに行くのは簡単だが、そのために兵が持ち場を離れれば、そこにいた魔物が同じように都市に攻め入るだけである。いかんともしようがない事態に、師団長が指示に詰まった。
だがそのとき、まだ明けぬ空から突如雷鳴が轟き、幾筋かの稲妻が大地へと降り注いだ。闇を裂いたその光は、驚くべきことにその全てが軍の包囲を抜けた魔物へと向かい、一瞬にしてそれらを灼き払った。
兵たちの誰もが驚愕を隠せないでいる中、誰よりも早く真実に辿り着いた師団長が叫ぶ。
「っ、クラリオ王陛下だ!」
師団長の言葉に、兵たちが僅かにどよめいた後、一斉に雄たけびを上げた。
兵たちはおろか師団長にすら、どんな原理で遠く離れたこの地に雷魔法が発動したのかは判らない。だが、自国の王が民を守るために落雷を喚んだことは明白だった。
王からの指示は正確に聞き届けていた。足りないところは全て自分が補うから、お前たちはお前達の思う最善を尽くし、国民を守って見せろと。お前達が失敗した分は自分がカバーするから、恐れずに己の役目をまっとうしろと。確かにそう言われた。
そしてその真意が、これなのだ。王軍の不足を補うため。王軍すらをも含む、全ての国民を守るため。遠く離れた王都にいる王は、何らかの力で国中の戦況を把握し、軍の手が回らなかった敵だけを正確に仕留めている。
およそ人の成せる業ではない。あまりにも強大な魔法は、王の魔力を根こそぎ奪い尽くさんばかりに消耗させるだろう。敵を選び、本当に必要な場面においてのみ雷を落としていることからも、それは容易に察せられた。きっと、手当たり次第に落としていては、すぐに限界が来てしまうのだ。そんな不安定な魔法を無理矢理発動しているとなると、王の身に降りかかる負担はどれほどのものだろうか。
だが、民は皆知っていた。それでもその魔法が必要ならば、王は必ずやってのけると。それがどれほど己が身を蝕もうとも、決して一歩も引きはしないと。
ならば、王軍たる彼らがそれに応えぬ訳にいくだろうか。
「一体一体を確実に仕留めることに集中しろ! 敵を取り逃がすことを恐れるな! 我々が取り溢したとしても、必ず陛下が掬ってくださる!」
師団長が叫べば、より一層大きな声がそれに応える。彼らの目にもう迷いはなかった。王を信じ、ただ己の成すべきことを成せば良いのだと、魔法を以て王がそう伝えてくれたのだ。
同様の現象は、国内の各地で起こっていた。その結果王軍の士気は上がり、徐々にではあるが戦況は優勢になりつつあった。国中を駆け回り、少しずつだが確実に敵の数を減らしていった王獣の働きも大きいのだろう。そしてそれでも手が回らずに取り溢された分を、王が確実に仕留める。王あっての戦法ではあるが、限りなく理想に近い采配だ。
リィンスタット王国は、まさに国が持てる全力を尽くし、未曽有の事態に向かっていた。
「……大丈夫だよ。ありがとう、ティアくん」
顔を上げてそう言えば、二回首を傾げたトカゲが、少年の頬に口先を押し当てた。まるで、赤の王が少年にそうするのを真似しているみたいだ。きっと、トカゲなりに精一杯少年を励まそうとしているのだろう。そんな心遣いが、とても有難かった。
「……うん、大丈夫。あの人は嘘をつかない人だから」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
「…………でも、あのね、」
何度か躊躇うような表情を見せた少年が、そっとトカゲを窺う。トカゲはただ、こてりと首を傾げた。
「……今夜は、一緒に寝てくれる?」
断われてしまったらどうしようという僅かな不安は、杞憂だった。何度かぱちぱちと瞬きをしたトカゲが、少年の頬に自分の頬を擦り付ける。そしてトカゲは、もぞもぞと少年とテディベアの間に入り込み、ぷはっと顔だけ出して少年を見上げた。
そんな愛らしい様に、少年の心に巣食う不安が少しだけ解けていく。
(……ありがとう、貴方)
ただ用心棒にするだけなら、このトカゲでなくても良かった筈だ。けれど、赤の王はわざわざこの子を傍に置いてくれた。それはきっと、ひとりぼっちの少年の心までをも守れるようにという優しさからなのだろう。人が苦手な少年のために、人ではなく、強くて、でも愛らしい、この子をくれたのだ。
そんなことに、少年は今更気づいた。
(……僕の気持ちとか、全然、気にしなくて。居心地が悪いからやめてほしいのに、すぐにキスしてばっかりで。触るのだって、躊躇わないし。別にいらないのに、あれもこれもくれて)
迷惑だと、本当にそう思っていた。少なくとも、初めは絶対にそうだった。
では、今はどうなんだろうか。
大きな手で触れられるのは、やっぱり苦手だ。でも、あの人の手は温かかくて、ときどき泣いてしまいたくなるほどに心地良い。
山ほど貰った贈り物たちは、どれもこれも少年のことを思い、考えてくれたものばかりで、迷惑になるものはほとんどなかった。大きなテディベアだけが、ちょっぴり例外だけれど。
頬に、額に、口に押し当てられる唇は、温かな掌よりもずっと熱くて戸惑うし、胸の奥がざわざわするような不思議な感じがするから、結構苦手かもしれない。でも、決して不快ではなかった。
「……ねぇ、……ティア、くん……」
鈍くなり始めた思考のまま、少年はトカゲの名を呼んだ。なかなか寝付けないだろうと思っていたのに、不思議と瞼が重くて、目が開けられなくなる。もしかすると、赤の王の声や体温を思い出していたからなのかもしれないと、少年はぼんやり思った。
「…………ぼく、どうしたら、いいのかな……」
汚い身体を、愛しているのだと言ってくれた。母にすら望まれなかった子供を、心から望んでくれた。この世の何よりも美しいあの人は、いつだってそうやって少年に全てをくれる。ならば少年は、どうしたらそれに報いることができるのだろうか。
少年が今更ながらにそんなことを考え始めたのは、王妃との会話と、王の死の可能性がきっかけだったのだろう。柔らかく名を呼んでくれるあの声が失われてしまうかもしれないという恐怖が、ただ享受するだけだった少年の心を変えたのだ。
あの王に報いたいのだと、そう言う少年に、トカゲが首を傾げる。
トカゲが何を考えたのかは判らないけれど、彼が困惑していることだけは少年にも判った。それも、少年の言葉の意味が判らなくて困惑しているというよりは、意味を理解しているからこそ困惑しているような様子だ。
どうしてそんな反応をするのだろうと内心で首を傾げた少年は、しかし気づく。そして彼は、柔らかな微笑みを浮かべた。
「……うん、そうだね」
目を閉じ、緩やかな微睡へと身を任せる。眠りに入る直前の、夢の中にいるようなふわふわとした心地の中で、少年は優しく自分の名を呼ぶ声を聞いた気がした。
黄の王の寝室に王軍を束ねる武官長が跳び込んで来たのは、少年が寝入ってから少し経ったあと、まだ日も昇らぬ早朝のことだった。
「クラリオ王陛下!」
ただならぬ気配に跳ねるようにしてベッドから起き上がった王が、扉の方を見る。
「帝国が動いたか!」
「はい! 各都市に配置した軍より、たった今報告が!」
「各都市? ちょっと待て、各都市ってどこの話だよ」
リィンスタット王国には五十を超える都市が存在するが、ここのところ妙に活発だった魔獣を警戒し、その全てに王軍を派遣している。故に家臣のその言葉だけでは判別がつかない、という意図で尋ねた王は、しかし続く武官長の言葉に目を見開いた。
「王都を除く、全てです! 国内全ての都市において、帝国による魔導師たちの襲撃を確認致しました!」
「全てだと!?」
黄の国の情報網は他国よりも遥かに優れている。その情報網を以てしても、全ての都市が、という報告がなされるということは、つまり全ての都市がほぼ同時に攻撃を受けたということを示している。
通常ならば有り得ない事態だ。全ての都市に敵兵が配置されるよりも前に、絶対にどこかの都市で敵の存在が発覚し、すぐさま王都に伝えられるはずだ。だが、
(空間魔導か!)
これほど広範囲に渡って同時に魔導師を配置するとなると、魔導陣による周到な準備がなければ不可能だ。しかし、リアンジュナイル大陸内に設置されていた空間魔導陣は、青、薄紅、紫の三国が全て破壊したと聞いていた。だから、大掛かりな空間魔導は使って来ないと踏んでいたのだが、読みが外れたようだ。恐らく、破壊しきれていない魔導陣が残っていたのだろう。
(いや、でもこれは、見つけ損ねたとか破壊し損ねたって感じじゃねーな。こんだけピンポイントに魔導陣が残ってるってことは、あらかじめ重要な箇所の魔導陣を巧妙に隠してたってことだ。……つーか、あの三国が本気出してそれでも見つからないって、相当厄介だぞ)
手早く服を羽織った王が、寝室を跳び出す。執務室へ向かって走りながら、彼は付き従う武官長に対して口を開いた。
「手短に状況を説明しろ!」
「はっ! 本日未明、都市の外壁付近に突如として大量の砂蟲が出現し、直後その身体に魔導陣が浮き上がったとのこと!」
「なるほどな! 連中、砂蟲自体に魔導陣を仕込んでやがったのか! そりゃ見つからねー訳だ!」
砂蟲は、ほとんどの時を地中深くで過ごす生き物である。その深さ故に、地上から彼らの気配を探るのはまず不可能と言って良いだろう。その身体に仕込まれた魔導陣も、また同じことである。
「砂蟲は魔導陣の発動と同時に弾け、そこから魔導師とその使役魔が現れたとのことです! 全ての都市にて証言が一致しておりますので、まず間違いないかと!」
「ふっざけんなよあいつら! うちの生態系めちゃくちゃにする気か!」
黄の王にしては珍しく、苛立ったような声が吐き出された。
「被害状況は!」
「現在のところ王軍が善戦しているため大きな被害はないようですが、個々の敵が強力で防戦一方だとの報告を受けております! このままでは、敵に攻め切られるのも時間の問題かと!」
「はぁ!? 相手はただの魔導師だろ!?」
現状円卓が入手している情報を鑑みる限り、帝国が所持している戦力の内、警戒が必要なほどの力を持つ魔導師は、ほんの一握りだった筈だ。そしてその一握り以外に苦戦を強いられるほど、黄の国の国軍はやわではない。
何か見落としていることが有るはずだ。歯噛みした王が、すぐさま記憶を探る。時間にして瞬き数回ほどの後、はっとした顔をした王が、武官長を振り返った。
「魔導師は全員まだ生きてるのか!?」
「は……?」
「魔導師死んでねぇだろうなって訊いてんだよ! どうなんだ!」
王の剣幕に気圧された武官長が、しかし瞬時に首を振る。
「そこまでの確認は取れておりません!」
「っくそ! じゃあ十中八九死んでるな!」
術者が死ねば、使役魔は暴走し、その恨みを術者と同じ生き物に向ける。それが帝国が使う魔導だ。そしてそれは恐らく、未熟な魔導師と熟練の魔導師の力の差を埋めることに繋がる。
(この前金の国でやったのは、その性能テストってことかよ!)
空間魔導で全ての都市に同時に魔導師を派遣し、直後に魔導師の命を絶つ。そうすれば、残るのは怒りによって何倍にも力を膨れ上がらせた魔物だけだ。そうなった魔物は統率することこそできないが、単純な力だけで言えば半端な魔導師が付随しているときよりもよほど戦力になる。今回のように敵しかいないような場所に送り込むには、うってつけだろう。
(わざとらしく十二国中に設置されてた魔導陣は全部ブラフ! 明らかにこれが本命だ! それはつまり、ずっと前からアマガヤキョウヤがこの国に来ると予測してたってことになる!)
「クラリオ王陛下! 王軍へのご指示を!」
背後で武官長が叫ぶ。判っている。判っているのだ。だが、どうすれば良い。
王軍はもうこれ以上ないほどに各地へ割いてしまった。更に王軍を投入すれば王都の守りがほとんどなくなってしまうし、何よりも今からでは間に合わない。
万全を期した。あらゆる可能性を考慮して、ぎりぎりまで王都の戦力を削った。だからこその今だ。だからこそ、今こうして不測の事態に耐えられている。だが、クラリオが事前に手配できたのはそこまでだった。
「……仕方ねぇ」
辿り着いた執務室の扉に手を掛けて、王が呟く。
「クラリオ王陛下!」
武官長の叫びに、王は振り返った。そして、頭をがしがしと掻いて叫ぶ。
「うるせー! 指示なんてそんなもん、各個撃破だ各個撃破! 倒せるところから確実に倒してけ! そんでもって死ぬ気で国民守れ!」
投げやりと言えば投げやりなその指示に、武官長が思わず目を剥いてしまう。
「し、しかしながら陛下、」
「しかしも案山子もあるか! お前ら王軍の一員なんだったら少しは自分で考えて自分で動けっつっとけ! 足りねぇもんは全部俺が補う! だから国民最優先で好きにやれ!」
王の言葉に、武官長が一瞬押し黙る。そして王の言葉を反芻し、彼はその場に膝をついて深々と低頭した。
「勅命、確かに承りました」
「おう。納得したんならとっとと指示出して来い。あと死ぬ気でっつったけど死んだら怒るからな!」
そう言った王に、もう一度深く頭を下げてから、武官長がその場を後にする。だが、それと入れ替わるように、今度はこの国の文官長が血相を変えて走って来た。
「クラリオ王陛下!」
「今度はお前かよ! 何!」
噛み付く勢いでそう言った王に、文官長が握っていた紙を差し出した。それは、開封済みの書簡だ。ちらりと見えた宛名にはクラリオの名前が記されているから、どうやら王への手紙を無断で読んだらしい。通常であれば処罰の対象だが、緊急の場合はやむなしという規則があるため、それを適用したのだろう。つまり、そういうことである。
「先程エルキディタータリエンデ王国より緊急連絡用の雷光鳥が来ました!」
「今すぐじゃなきゃ駄目な話なんだな!? じゃあ要点まとめて言ってくれ!」
「敵の主力は神に連なる高次元の生命体! 注意されたしと!」
またもや予想外の言葉に、クラリオが一瞬言葉に詰まった後、大きく叫ぶ。
「今言うかそれ!?」
「あ、あちらはまだ我が国で起こったことをご存じない故……」
「あーうん判ってる。判ってるよ。取り敢えずじゃあ、銀のじーさんにはありがとうお疲れさんって伝えといてくれ。あと、全ての円卓の国に伝達。うちの国やべーから力貸せそうなら貸してちょーだい。貸してくれるならめちゃ早でよろしく。万が一そっちもやべーことになってたらお互い頑張りましょーや。以上」
「はっ! 承りました!」
「あとこれは城内に周知しといて欲しいんだけど、ちょっと俺今から頑張るから、この部屋誰も入れないでくれ。集中切れると困る」
「はっ!」
文官長には王が何をしようとしているのかなど判らなかったが、それでその判断を疑うほど王への信頼は薄くない。王が常に最善を尽くそうとしていることを知っている文官長は、さっと礼をしてから、己の職務をまっとうするために足早に立ち去った。
その背を見送ってから、王が執務室の扉を開ける。そしてすぐに部屋の窓を開け放った王は、空に向かって大きく叫んだ。
「リァン!」
呼び声に応え、雷の獣が空を駆けてやってくる。だが、王獣の到着を待たず、王は続けて叫んだ。
「国中を駆け回って全軍のサポートをしてくれ! お前の脚だったらできるだろ!」
王の指示に、しかし王獣は判りやすく躊躇うように王を見つめる。その躊躇の正体が判っている王は、安心させるように自信に満ちた笑みを浮かべた。
「王都の守りは任せとけ。お前の分まで、俺がしっかり働いてやる」
王の言葉に、王獣が目を細める。未だ僅かな躊躇いを残す獣は、しかし王が意見を曲げないことを悟ったのか、ほんの少しだけ責めるような目をして彼を見た。それに向かって王が肩を竦めてみせれば、低く唸った獣が王から顔をそむける。そして、大きくひと声咆えた王獣が空を蹴った瞬間、光と化した獣は、彼方へと消えていった。
思うところはあったようだが大人しく指示に従ってくれた獣を見送ってから、王は窓を閉め、絨毯で覆われた床に胡坐をかいて座った。
王獣リァンには遠く及ばないが、雷光鳥は速い。もう少しもすれば、王の出した指示が王軍にまで届き始めるだろう。だから、その前に始めなくてはならない。不足分は補うと言ってしまった以上、不足が顕著になる前に動かなければ、余計な不安を煽ってしまうだろう。
王が、大きく息を吸って、吐く。
「……さーて。風霊ちゃんに火霊、準備はオッケー? 俺は全然オッケーじゃないけど、そうも言ってらんないから始めちゃうよ。まともに使ったことないし、そもそもここまでの規模は想定してなかったから、杜撰なところがたくさんで迷惑掛けちゃうと思うけど、……よろしくね」
言い置いてから、もう一度だけ深呼吸をする。僅かに速い鼓動を落ち着け、そして、王は静かに目を閉じた。
「奔る閃光 轟く咆哮 願いは空へ 誓いは大地へ 果てに至る奇跡の名の元に 杭は今ここに穿たれた」
バチバチと音を立てて、王の身体から細い雷が散った。
「吹き荒れる風よ 砂を灼く炎よ 我は行く末を見定める者 我はこの世全ての雷を統べる者 なればその遠雷は 須らく我の手に集うべし!」
王の全身から魔力が奔流となって迸り、見る見るうちに小さな無数の雷へと変質していく。そうして生まれた細かな雷たちは、光の集合体となって王の身体に纏わりついた。
クラリオがこの魔法を創ったのは、一年ほど前。思いつくままに魔法として確立したは良いが、あまりの使い勝手の悪さに実用性なしと判断せざるを得なかった代物である。今だって、できることならば触れたくはない。だが、そうでもしなければこの状況を打破できないのだ。
だから王は迷わない。賭すべき命があるのならば、それはいつだって国王自身のものだ。
「――“轟雷は我が手に在りて”!」
瞬間、王の周囲に留まっていた雷たちが一気に弾けた。王を中心に凄まじい勢いで全方位へと奔っていくそれを追うように、王が叫ぶ。
「効果範囲はリィンスタット王国全土! 後の判断は俺がする!」
空気を切って駆ける雷が、遥けき彼方を目指して広がっていく。光の速度が国境へと至るまでの間は、僅か一瞬のことだった。
王の身体から放たれる雷の波が国土全体へ行き届いた直後、なんの前触れもなく膨大な情報が王の脳に叩きつけられた。その余りの衝撃に、王の身体がぐらりと傾く。だが、意地で腰の曲刀を引き抜いた彼は、それを自身の腿へと突き立てた。その痛みでなんとか意識を保った王が、喘ぐように大きく息を吐く。
(……くそっ! トぶところだった……!)
王の脳内に直接飛び込んできたのは、リィンスタット王国全土の映像情報だ。王が用いたのは、王自身が創り出した超広域魔法だったのである。
まるで目で見ているかのように、一度に百を超える映像が入れ替わり立ち替わり切り替わっていく。総数で言えば軽く万を超えるだろう映像情報は、王都付近の都市のものもあれば、国境近くの何もない砂漠のものまであるなど、まるで統一性がなかった。それほどまでに雑多で過密な情報の嵐に、王の脳が拒絶反応を示す。
失神こそ免れたものの、依然として頭はぐらぐらと煮立ったように熱く、脳が掻き回されるような感覚に、胃の中身が喉元までせり上がって来た。
(っ、き、っつ……!)
だが、弱音を吐いている暇はない。一瞬で流れて行く散漫な情報群に食らいつき、てんでバラバラなそれらの位置関係を把握することに注力する。
一度に全てではなく、百を絶え間なく切り替える方式で情報が流れて来るのは、クラリオがこの魔法をそう定義したからだ。魔法の試作段階で王都全域を把握してみようと試したときに、千を超える情報が入って来て失神した経験があったため、減らせる限界まで情報を減らした結果がこの百だった。本音を言えば十くらいにまで落としたかったのだが、いかにクラリオでもそこまでの調整は不可能だったのである。
しかし、百まで落とそうとも、人の脳が処理するには余りにも過多な情報だ。その上、王都内だけですら運用が困難だった魔法を王国全域に無理矢理適応しているとなると、それを処理するツケはクラリオ自身に襲い掛かる。
必死に情報の処理と把握に努めていた王は、とうとう堪えきれずに背を丸め、胃の中のものを吐き出した。曲刀の柄を掴んでいない方の指が、もがくように絨毯を掻きむしる。
だが、それでも王は折れない。
(ここで踏ん張れなくて、何が王だ……!)
強く噛んだ唇から血を滲ませ、半ば這いつくばるようになりながらも、王は頑として魔法を解除しなかった。
(集中しろ! 大事なのはここからだろうが! 俺がミスったら民が死ぬ! そんなことは許されない! だって俺は王なんだから!)
全ての情報の位置関係を把握し、どこで何が起こっているのかを理解し、王軍と自警団の手が回らない場所、瞬間を見逃さない。血反吐を吐きながら見事そこまでをやってのけた王は、ひとつ息を吐き出し、次いで唸るような声を絞り出した。
「風霊、火霊、いくぞ……!」
「師団長! 魔術師が死んで以降、魔物の勢いが止まりません!」
「これ以上接近を許せば、壁を破壊され都市内部への侵入を許すことになってしまいます!」
そう叫んだのは、国境に近い場所にあるオアシス都市スティラーダに派遣されている王軍第三師団の兵たちだった。
本日未明の襲撃を受け、すぐさま都市を囲うように配備された彼らだったが、想像以上の敵の強さに苦戦を強いられていた。
それもこれも、魔物を従える魔導師が全て死んだためだ。魔導師たちは全員が全員、出現と同時に爆発するように弾けて死んでしまった。恐らく自害ではないだろう。彼らはあらかじめそうなるように細工された上で、戦場に投入されたのだ。もしかすると覚悟の上だった者もいたのかもしれないが、そうでない者もいただろう。そうでなければ、魔導師たちの口からあんなにも悲痛な声は上がらない。
耳に残る痛ましい断末魔を振り払い、第三師団を束ねる師団長は歯噛みした。いくら敵が強いとは言え、ともすれば押し負けそうな戦況を不甲斐なく思ったのだ。だが、師団長が悔やむことは何もない。彼は緊急事態を受けて迅速かつ的確な指令を下し、現状に至るまで一人の死者も出してないのだ。そんな彼のことを、誰も責めようとは思わないだろう。
だが、防戦一方になってしまっている上、近隣国から来るかもしれない援軍の到着まで持ち堪えられるか判らないのもまた事実だ。敵に対してこちら側の戦力が不足していると言ってしまえばそれまでだが、それでもこの都市には第三師団の半数が派遣されている。師団の半分の人員を割いても帝国の襲撃に持ち堪えられないというのはやはり、不甲斐ないと言うほかなかった。
「師団長! 対処し切れません! 既に魔物が数体、防衛ラインを突破しています!」
兵のひとりが叫んだ通り、抑え切れなかった魔物の一部が軍の包囲網を抜け、都市を守る防護壁へと向かっていた。それを追って止めに行くのは簡単だが、そのために兵が持ち場を離れれば、そこにいた魔物が同じように都市に攻め入るだけである。いかんともしようがない事態に、師団長が指示に詰まった。
だがそのとき、まだ明けぬ空から突如雷鳴が轟き、幾筋かの稲妻が大地へと降り注いだ。闇を裂いたその光は、驚くべきことにその全てが軍の包囲を抜けた魔物へと向かい、一瞬にしてそれらを灼き払った。
兵たちの誰もが驚愕を隠せないでいる中、誰よりも早く真実に辿り着いた師団長が叫ぶ。
「っ、クラリオ王陛下だ!」
師団長の言葉に、兵たちが僅かにどよめいた後、一斉に雄たけびを上げた。
兵たちはおろか師団長にすら、どんな原理で遠く離れたこの地に雷魔法が発動したのかは判らない。だが、自国の王が民を守るために落雷を喚んだことは明白だった。
王からの指示は正確に聞き届けていた。足りないところは全て自分が補うから、お前たちはお前達の思う最善を尽くし、国民を守って見せろと。お前達が失敗した分は自分がカバーするから、恐れずに己の役目をまっとうしろと。確かにそう言われた。
そしてその真意が、これなのだ。王軍の不足を補うため。王軍すらをも含む、全ての国民を守るため。遠く離れた王都にいる王は、何らかの力で国中の戦況を把握し、軍の手が回らなかった敵だけを正確に仕留めている。
およそ人の成せる業ではない。あまりにも強大な魔法は、王の魔力を根こそぎ奪い尽くさんばかりに消耗させるだろう。敵を選び、本当に必要な場面においてのみ雷を落としていることからも、それは容易に察せられた。きっと、手当たり次第に落としていては、すぐに限界が来てしまうのだ。そんな不安定な魔法を無理矢理発動しているとなると、王の身に降りかかる負担はどれほどのものだろうか。
だが、民は皆知っていた。それでもその魔法が必要ならば、王は必ずやってのけると。それがどれほど己が身を蝕もうとも、決して一歩も引きはしないと。
ならば、王軍たる彼らがそれに応えぬ訳にいくだろうか。
「一体一体を確実に仕留めることに集中しろ! 敵を取り逃がすことを恐れるな! 我々が取り溢したとしても、必ず陛下が掬ってくださる!」
師団長が叫べば、より一層大きな声がそれに応える。彼らの目にもう迷いはなかった。王を信じ、ただ己の成すべきことを成せば良いのだと、魔法を以て王がそう伝えてくれたのだ。
同様の現象は、国内の各地で起こっていた。その結果王軍の士気は上がり、徐々にではあるが戦況は優勢になりつつあった。国中を駆け回り、少しずつだが確実に敵の数を減らしていった王獣の働きも大きいのだろう。そしてそれでも手が回らずに取り溢された分を、王が確実に仕留める。王あっての戦法ではあるが、限りなく理想に近い采配だ。
リィンスタット王国は、まさに国が持てる全力を尽くし、未曽有の事態に向かっていた。
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