58 / 147
第2.5章 小話2
【リクエスト】異邦者・後編
しおりを挟む
「お前は常日頃から私のことを馬鹿だの阿呆だのと罵るが、今回ばかりはお前の方が考えなしだったと断ずるほかないと思うのだが」
森の中を走りながら呆れた声でそう言ったのは、グランデル中央王立騎士団第一部隊の若き副隊長、ロステアール・クレウ・グランダである。
「うるせぇな。あの状況で見捨てる訳にもいかないだろうが。助ける力があって、助けれられる状況だったんだから、助けるのは当然のことだ」
ロステアールの言葉にそう返したのは、次代のロンター公爵の座を継ぐ青年、レクシリア・グラ・ロンターだ。その腕には、さきほど助けた子供、グレイが抱えられている。
「ふむ。そういうものか?」
「そういうもんだ」
レクシリアの言葉に、ロステアールはそうかと言った。
この二人、実はここロイツェンシュテッド帝国には、とある潜入捜査をしに来ていた。といっても、誰かの命を受けての捜査ではない。最近帝国の動きがどうにもきな臭いから見に行ってくる、と言ったロステアールに、例によってレクシリアがくっついてきたのだった。なお二人とも無断で国外に出てきたため、帰ったらレクシリアの父であるロンター公にこっぴどく叱られることだろう。まあ二人とも慣れたものなので、その辺は判った上での行動である。
とにかく、帝都から少し離れたこの森の奥地で帝国の魔導実験所らしきものを発見した二人は、気配を殺してその様子を窺っていたのだ。
「しかし、連中が本当に次元魔導を完成させつつあるたぁ驚きだな」
「ああ、以前訪れたときは成功の片鱗すらなかったのだが、こうして実際に異世界から生き物を喚び寄せてみせたとなると、侮れんな。……しかし、それにしても随分と急速に発展している。もしかすると、ここ数か月の間に何かあったのやもしれんぞ」
「でもまあ、この程度じゃ円卓が動くことはないだろうな。確かにこの次元外から何かを召喚すること自体はそこそこできるようになったみてぇだが、肝心の使役魔導の方がからっきしみてぇだし」
そう言ったレクシリアに、ロステアールも頷く。
「だが、十年後にどうなっているかは判らない。今日のことを父上に報告した上で、警戒を怠ることないよう円卓の連合国全体に進言して頂くべきだろう」
ロステアールがそう言ったあたりで、二人はようやく足を止めた。止まることなく走り続けていたから、さきほど暴れてきた魔導実験所からは随分と離れたはずだ。
「追手は?」
ロステアールの問いに、レクシリアが首を横に振る。
「途中で“虚影の膜”かけたからな。大丈夫なはずだ。そうだろう、風霊」
レクシリアの言葉に、風の乙女たちが二人の目元を撫でる。そこでようやく、二人は顔に巻いていた布をほどいた。
ロステアールの特徴的な赤髪と、レクシリアの整いすぎている顔立ちは、潜入捜査にはこの上なく不向きなのだ。故に、彼らは過剰なほどに顔を隠していたし、身元が悟られぬように魔法や剣の使用も控えていた。あの場を敢えて拳と脚だけで切り抜けたのには、そういう理由があったのだ。
「さて、自己紹介もままならないまま連れてきちまって悪いことしたな。大丈夫か?」
そう言いながら腕の中の少年を見たレクシリアは、ぱちぱちと瞬きをしてから、少しだけ困った顔をしてロステアールを見た。
「気ぃ失ってるわ」
道中、身体強化魔法を駆使し、そこそこ人の域を逸脱した速度で走ってきたことを思い出したロステアールが、ひとつ頷く。
「まあ、そうだろうな」
途中で吐かれなかっただけマシというものだ、という彼の言葉に、レクシリアはやはり困った表情を浮かべるのだった。
はっと目を覚ましたグレイは、がばりと身体を起こした。そのままの勢いで素早く辺りを見回す。あまり広くない部屋に、ふかふかのベッド。
(……しらないへやだ)
不安そうにグレイの眉が寄る。
(どこだ、ここ?)
大別するならば簡素なホテルのような内装の部屋だ。少なくとも、グレイが殺されかけたあの部屋とは随分と雰囲気が違う。取り敢えずの危機は脱せた、と思って良いのだろうか。
そう考えながら、グレイはそっとベッドを降りて、窓に近寄った。とにかく、少しでも現状を把握するための情報が欲しかったのだ。
「……なんだここ」
窓の外に広がる景色に、グレイは呆然とした。
町だ。けれど、そこを歩く人々は皆見慣れない服を着ていて、道には車どころか自転車すら走っていない。建物は一昔前の外国のようなレンガ建てばかりで、ビルのような近代的な建物はまったく見当たらなかった。
本当に、全く知らない土地だ。
ぼうっとグレイが窓際で立ち尽くしていると、不意に背後でドアの開く音がした。
びくりと肩を跳ねさせたグレイが慌てて振り返れば、部屋の入り口には金髪の男が一人立っている。その男の顔を見て、グレイは思わずぽかんと惚けてしまった。
(うわ……めちゃくちゃイケメンだ……)
淡い金色の髪をした男は、グレイがこれまでに見たことがないくらい、とんでもなく美形だったのだ。美しいという表現がこの上なく似合うのに、顔立ちはしっかりと男性らしいという、不思議な類の美人だ。
今自分が置かれている状況も忘れ、ぽーっとした顔で美丈夫を見つめ続けるグレイに、男はぱちぱちと瞬きをした後、優しげに笑って見せた。
『目ぇ覚めたのか。良かった良かった』
声を掛けられ、はっと我に返ったグレイが、訝しむような目を男に向けた。
『あのときはさっさと逃げる必要があったから全力で走らざるを得なかったんだが、そのせいで酔っちまったんだよな? ごめんな』
美人の癖に親しみやすそうな笑顔を浮かべる男に対し、グレイがぎゅっと眉を顰める。
男が何かを喋っていることは判るのだが、何を言っているのかがさっぱり判らなかったのだ。あの薄暗い部屋でのときと同じである。酷く耳慣れない言葉らしきそれは、外国語を聞いているというよりも、最早ただの音の羅列を耳にしているような気分になった。
(……なんか、ほんとに、べつのセカイにきちゃったみたいな……)
グレイが難しい顔をして黙り込んでいると、男は片眉を上げてから歩み寄ってきた。それを見たグレイが、警戒するように身を固くする。
男の態度は友好的に見えるが、何を考えているのかまでは判らない。状況的に味方である可能性が高いとは思うものの、真実が判らない以上、無条件に信用するのは難しかった。
精一杯肩をいからせてギッと睨み付けてくるグレイに、男はどう思ったのか、ぴたりと足を止め、困った顔をした。
『あー……まぁ、なんだ。疑うのも判るが、別に怪しいもんじゃねぇぞ?』
「…………」
『……もしかして喋れない、とかか?』
話している内容は判らないが、明らかに“可哀想だ”という顔をした男に、グレイが反射的に口を開く。
「テメェ、かわいそうって顔するんじゃねェ!」
思わず怒鳴り返してしまったグレイに、男は少しだけ驚いた顔をした後で、やはり困った表情を浮かべた。
『何言ってるのか全然判んねぇな。やっぱエトランジェだと使う言語も違うか。そりゃそうだな』
むすくれた顔で再び黙り込んだグレイを見て、男は顎に手を当てて小さく首を捻った。どうやら、男の方もグレイのことを扱いかねているようである。
少しの間思案するような素振りを見せていた男は、じっとグレイを見た後、子供に目線を合わせるように膝をついた。
そのまま彼は両手を開いてグレイに向けると、ひらひらと手を振った。グレイに伝わったかどうかは不明だが、何も持っていないから安心しろ、という意図である。
『言っても判んねぇだろうが……。取り敢えず、俺はお前に危害を加えるつもりはない。だからもう少し落ち着いて、警戒を解いてくれないか?』
男としては努めて優しい声で言ったつもりだったのだろうが、その声を得体の知れない音としてしか認識できないグレイには効果がなかったようだ。
相変わらず警戒の色が濃いグレイの表情に、男は困ったように笑って後頭部を掻いた。
『やっぱ通じねぇよなぁ』
寄らば噛み付くと言わんばかりの態度を崩そうとしないグレイに、男が小さくため息をつく。そんな、一種の膠着状態の中、
きゅう、くるるる……。
突然、場にそぐわない間抜けな音が鳴った。緊張感の欠片もないそれに、男はぱちぱちと瞬いて、グレイは咄嗟に自分の腹を押さえた。
『……お前……』
グレイの顔がどんどん熱くなっていくのに比例するように、男の顔がどんどん笑み崩れていく。そして最後には、耐え切れなかったらしい男は噴き出してしまった。
「笑うな!!」
恥ずかしいやら腹立たしいやらで怒鳴った少年に、男が口元を手で隠す。互いに互いの言葉は判らないはずだが、状況的に何を怒られているのかは判ったのだろう。
『はっ、ははっ、ああ、悪い悪い。腹減ってんだなぁ』
努めて落ち着きを見せようとした男だったが、その声にはまだ笑いの残滓が多分に含まれていて、グレイの神経を余計に逆撫でした。
『じゃあ、少しここで待ってろ。部屋出るなよ』
男の指が床を指差し、それからグレイを指差す。その後、何かを抑えるような、宥めるような動作をしてから、男は部屋を出て行ってしまった。
(……へや、出るなってことか?)
確証は持てなかったが、多分そういう意味合いなのだろう。
男の言うことを聞くのは癪だったが、ここを出て行っても困るのは自分の方である。こんな右も左も判らないような場所で路頭に迷うのだけはごめんだった。
渋々部屋で待つことにしたグレイは、ぼすっと布団に腰掛けた。そして、忌々しそうな顔で腹をさする。
最後に食事をしたのは、確か母たちと出かける前だ。これだけ空腹だということは、あれからそれなりの時間が経ったということだろうか。
(……おかあさん、ちよう……)
共に出かけた二人を思い出し、グレイはベッドの上で膝を抱えた。胸中に湧いて出てきた心細さに、きゅっと唇をかみ締める。
お腹も空いたし、変なところだし、怖かった。本当は全部夢で、自分はあのとき何故だか倒れてしまっただけで、目が覚めたら家族がいるんじゃないだろうか。
そんなことを考えていたら、じわっと目頭が熱くなったような気がして、グレイは膝に顔を埋めた。今にも泣き出してしまいそうだったが、勝気な心は泣いてたまるかと訴えている。
その時、コンコンとドアがノックされる音がして、グレイは慌てて目を拭って足を下ろした。同時にドアの向こうから聞こえてきたのは、先ほど出て行った男の声らしき音である。タイミング的に、入室を告げるものだろう。
少しの間をおいて、ガチャリとドアが開かれる。顔を見せたのは案の定、あのやたら顔のいい男で、手には何かが乗ったお盆のようなものを持っていた。
『お、ちゃんといい子で待ってたな。ほら、食い物持ってきたから食えよ』
何かを言いながら男が近づいてきて、再び身構えようとしたグレイはそこで、とても良い匂いがすることに気がついた。そしてその匂いを認識すると同時に、また腹の虫が小さく鳴く。
匂いの出所は、男が持ってきたお盆だった。ぐいっと差し出されたそれを反射的に受け取ってから、盆に目を落とす。
盆の上に乗っていたのは、色の薄いスープが入った深皿と、焼いたパンに葉物野菜と肉らしきものが挟まれたサンドイッチだった。スープからもサンドイッチからも湯気が上がっており、温かいことがよく判る。
ごくり、とグレイは思わずつばを飲み込んだ。空っぽの胃は早く物を詰めろとうるさいが、しかしこれは手をつけて良いものなのだろうか。
ちらりと男へ目を向ければ、男は首を傾げてから、パンとスープを指差し、グレイを指差し、最後に何かを食べるような動作をした。食べて良い、ということだろう。
『遠慮しなくていいぞ。それともなんか警戒してんのか? お前みたいな子供にどうこうするほど性根腐っちゃいねーよ』
微笑んだ男が、サンドイッチをひとつ手にとってグレイの前に差し出した。それを受け、グレイの視線が男の顔とサンドイッチとの間を何度も往復する。
この男を怪しむ気持ちが完全になくなったわけではない。だが、グレイの空腹はもう限界だった。
(……ちょっとだけ、なら……)
グレイの手が、そっとサンドイッチを掴む。念のため男の顔を窺えば、彼はなんだかやけに嬉しそうな顔をしていたので、グレイは変な気分になった。
バゲットのようなパンは少し固めで、薄切りの蒸し肉と、レタスのような野菜、それから、見たことがない鮮やかな水色の実が挟まっていた。
一瞬、これは本当に食べても大丈夫なのだろうかと思ったグレイだったが、意を決して、あぐりと食いついてみる。味を確かめるようにゆっくりと咀嚼したグレイは、ぱちぱちと瞬きをした。
(……おいしい)
シンプルな味付けだが、空腹の胃には良く沁みる。サンドイッチだけでなくスープも口に運べば、塩味の効いた優しい味がした。
一度美味しさを感じてしまうと、後は止まらなかった。先ほどまでの警戒が嘘のように、無我夢中で腹に食事を収めていく。そうして腹が満ちて落ち着いたところで、ふと心が緩んだ。
途端、再びグレイの目頭が熱くなってくる。今度は視界が少しだけ滲み、グレイは慌てて食器を置いて袖口で水気を拭った。
ごく当然のように感じる満腹感と食事の美味しさは、これが夢などではないと突きつけてくるようだったのだ。
本当なら今頃家族でご飯を済ませて、買ってもらった誕生日プレゼントを手にはしゃいでいた頃だろうに。それら全てが遠いことになってしまった。帰ることができるのかも判らない。もしかしたら、もう二度と家族には会えないしれない。
(くそっ……泣くな……!)
嫌なことばかり考える自分を叱咤して、グレイは何度も何度も両目を擦った。強く噛み締めた唇から滲んだ鉄の味がとても不味くて、ただただ不快だ。
そんなグレイの頭を、不意に温かいものがぽんぽんと撫でた。
驚いて顔を上げると、グレイの頭に手を乗せている男が酷く優しい顔をしていて、グレイはかっと顔に血が上るのを感じた。
「なっ、に、すんだっ。やめろ、さわんな……!」
優しい手を振り払おうと、頭を振って、男の腕をべちべちと叩く。子供の突然の反抗に一瞬驚いたように手を引いた男は、しかしすぐにまた困ったように笑って、今度はグレイの後頭部に手をやった。そしてそのまま、グレイをぎゅうと抱き締める。何が起きたのかすぐには理解できなかったグレイは、しかし男の腹の辺りに顔を埋める形になっているのだと気づくと、更に激しく暴れ出した。
それでも、男に動じた気配はなかった。ただただ優しく、しっかりとグレイのことを抱き締めて、大きな手が宥めるように頭を撫でる。
『ああ、怖かったな。でも、もう大丈夫だ。今まで我慢して偉かったな』
男が何を言っているかなんて、さっぱり判らない。けれど酷く穏やかな声は、蔑むでもなく哀れむでもなく、ただひたすらに優しいのだと。それだけは、明確なほどに判ってしまった。
男の声を受けて、グレイの動きがぴたりと止まる。そしてその目から、遂にぼろりと涙が零れ落ちた。そのひと粒を皮切りに、後から後から込み上げては溢れるそれを、グレイはもう止めようとは思えなかった。
男の服を強く握るようにしてしがみついたグレイは、この世界に来て初めて、声を上げて泣いた。
『……落ち着いたか?』
あれからどれくらい泣いただろうか。五分くらいの気もするし、三十分くらい経ったような気もする、とグレイは思った。
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら男から離れようとすると、男は拍子抜けするくらい素直にグレイを解放してくれた。
赤く腫れてしまったグレイの目尻を長くて綺麗な指が撫でてきたが、抵抗する気は起きない。今しがた酷く情けなくて恥ずかしい姿を見せたばかりなので、もう今更だと思ったのだ。
それに多分、恐らく、この男は悪い人間ではないのだろう。食事もくれたし、世話をしようという意思があるのはグレイも理解した。
若干冷めてしまったスープとサンドイッチの残りを平らげ、ふぅと息を吐いたグレイの前に、男が椅子を引いて持ってくる。それに腰掛けると、彼はグレイへと笑いかけた。
『ちょっとはすっきりしたか? 取り敢えず、まずは自己紹介から始めるか。つってもここはまだ帝国領だからな。下手に身分を口にできねぇというか、そもそもお前に言っても通じねぇよな。つーわけで、取り敢えずは名前だけな。本当はもう一人いるんだが、そいつは今買い出し中だから、帰ってきてから紹介するよ』
そう言った男が、笑みを深める。
『俺の名前は、レクシリア、だ』
男は自分の名前を言うときだけゆっくりと発音し、自身を指差した。
(なんだ……? ……自分のことを指差してるってことは、名前、とか……?)
しかし、いくらゆっくり言われたところで、グレイにはそれを上手く表音として変換できない。
「……れ……?」
言われた言葉を繰り返そうとして上手くいかなかったグレイが、眉を寄せる。それを見て、男はもう一度、今度はさらにゆっくりと言葉を繰り返した。
『レクシリア』
「れぅ……り……ぁ……?」
上手に発音できない子供に苦笑したレクシリアを、グレイが睨む。言えていないことくらい、自分でも判っているのだ。
『ああ、悪い悪い。上手く聞き取れないんだな。それとも発音が難しいか?』
グレイがむっとしたことに気づいたのか、レクシリアは素直に頭を下げてきた。どうやら謝ろうという意思があるらしい。それは理解したので、グレイは許してやることにした。
『もう一回いくぞ。レクシリア、だ。レ、ク、シ、リ、ア』
さらにゆっくりとした発音に、グレイは段々馬鹿にされているような気さえしてきた。だが、それもこれも自分が上手に発音できていないせいなので、文句は言わないでおく。
『レ、ク、シ、リ、ア』
「れ……ぅ、り……?」
『れー、くー、しー、りー、あ』
「……りぃ、あ?」
ようやく言葉らしさが出てきた音に、レクシリアが頷きつつ首を傾げるような変な反応を返した。
『あー、なんか若干惜しいような、別にそうでもないような。……もう一回な。レクシリア』
「れぅ……りー、あ」
男がゆっくり言ってくれているのは判る。できるだけはっきり発音してくれているのも判る。だが、どうにもグレイには上手く聞き取って言葉にすることができないようだった。
そのことにグレイの眉間の皺はどんどん深くなっていったが、レクシリアはそんな子供を励ますように明るい声を出した。
『おお、近づいてきたんじゃないか? レ、ク、シ、リ、ア』
「……ぅ…………、りーあ」
『……お前、今ちょっと諦めなかったか?』
少し呆れたような顔をしたレクシリアに、グレイがむっとした顔をする。これでもグレイは精一杯やっているのだ。そんな顔をされる謂れはない。
機嫌を損ねたグレイは、怒りのまま、びしっと男を指差して高らかに叫んだ。
『りーあ!』
これでどうだと言わんばかりの威勢に、レクシリアはゆっくり首を傾げた後、苦笑した。
『…………いや、レクシリア、な?』
『りーあ!!』
どうやら、グレイには譲る気がないらしい。お前の名前がなんだかは知らないが俺がこう言うんだからこうだ、という強い意思をレクシリアは感じた。
『…………ああ、まあ、好きに呼んでくれ……』
リーア、というのはどちらかというと女性名なのであまり好ましくは思えない呼び名だが、レクシリアは諦めることにした。
『で、お前の名前は?』
そう言ったレクシリアが、自分を指して、レクシリア、と言い、グレイを指して首を傾げてみせる。その意図を正しく理解したグレイは、少しだけ迷うような表情を浮かべた後で、口を開いた。
「グレイ」
『……ぐ……? ぐ、……ぐれい?』
グレイにこの世界の言葉が発音しにくいように、この世界の人間にはグレイの世界の言葉は発音しにくいらしい。と言っても、目の前の男は僅かな戸惑いの後で及第点の発音をしてしまったので、グレイはとても腹立たしくなった。
『ぐれい……。ぐれい。……グレイ。ああ、こんな感じか。グレイ』
音を何度か舌で転がした男が、あっという間にそれらしい発音でグレイの名を呼ぶものだから、グレイはますます不機嫌になった。
ぶすくれた顔をしたグレイに首を傾げた男が、ぽんぽんと子供の頭を撫でる。
「さわんな!」
拗ねたような声と共にぺしんと払われた手をまじまじと見てから、レクシリアはそのままその手をグレイの前へと差し出した。そしてその整った綺麗な顔が、親しみを籠めた笑みを浮かべる。
『ま、取り敢えずよろしくな、グレイ』
そうやって呼ばれた自分の名は、自分が知っている音とは少し違うのに、心にすとんと落ちてくるような心地良さがあって、グレイはまた少しだけ泣きそうな気持ちになってしまった。だから、それをごまかすように、乱暴にレクシリアの手を掴む。
そして、少し潤んだ強気な目が、キッとレクシリアを見た。
『りーあ!』
これが、後に冠位錬金魔術師となる少年と、未来のグランデル王国宰相の出会いだった。
森の中を走りながら呆れた声でそう言ったのは、グランデル中央王立騎士団第一部隊の若き副隊長、ロステアール・クレウ・グランダである。
「うるせぇな。あの状況で見捨てる訳にもいかないだろうが。助ける力があって、助けれられる状況だったんだから、助けるのは当然のことだ」
ロステアールの言葉にそう返したのは、次代のロンター公爵の座を継ぐ青年、レクシリア・グラ・ロンターだ。その腕には、さきほど助けた子供、グレイが抱えられている。
「ふむ。そういうものか?」
「そういうもんだ」
レクシリアの言葉に、ロステアールはそうかと言った。
この二人、実はここロイツェンシュテッド帝国には、とある潜入捜査をしに来ていた。といっても、誰かの命を受けての捜査ではない。最近帝国の動きがどうにもきな臭いから見に行ってくる、と言ったロステアールに、例によってレクシリアがくっついてきたのだった。なお二人とも無断で国外に出てきたため、帰ったらレクシリアの父であるロンター公にこっぴどく叱られることだろう。まあ二人とも慣れたものなので、その辺は判った上での行動である。
とにかく、帝都から少し離れたこの森の奥地で帝国の魔導実験所らしきものを発見した二人は、気配を殺してその様子を窺っていたのだ。
「しかし、連中が本当に次元魔導を完成させつつあるたぁ驚きだな」
「ああ、以前訪れたときは成功の片鱗すらなかったのだが、こうして実際に異世界から生き物を喚び寄せてみせたとなると、侮れんな。……しかし、それにしても随分と急速に発展している。もしかすると、ここ数か月の間に何かあったのやもしれんぞ」
「でもまあ、この程度じゃ円卓が動くことはないだろうな。確かにこの次元外から何かを召喚すること自体はそこそこできるようになったみてぇだが、肝心の使役魔導の方がからっきしみてぇだし」
そう言ったレクシリアに、ロステアールも頷く。
「だが、十年後にどうなっているかは判らない。今日のことを父上に報告した上で、警戒を怠ることないよう円卓の連合国全体に進言して頂くべきだろう」
ロステアールがそう言ったあたりで、二人はようやく足を止めた。止まることなく走り続けていたから、さきほど暴れてきた魔導実験所からは随分と離れたはずだ。
「追手は?」
ロステアールの問いに、レクシリアが首を横に振る。
「途中で“虚影の膜”かけたからな。大丈夫なはずだ。そうだろう、風霊」
レクシリアの言葉に、風の乙女たちが二人の目元を撫でる。そこでようやく、二人は顔に巻いていた布をほどいた。
ロステアールの特徴的な赤髪と、レクシリアの整いすぎている顔立ちは、潜入捜査にはこの上なく不向きなのだ。故に、彼らは過剰なほどに顔を隠していたし、身元が悟られぬように魔法や剣の使用も控えていた。あの場を敢えて拳と脚だけで切り抜けたのには、そういう理由があったのだ。
「さて、自己紹介もままならないまま連れてきちまって悪いことしたな。大丈夫か?」
そう言いながら腕の中の少年を見たレクシリアは、ぱちぱちと瞬きをしてから、少しだけ困った顔をしてロステアールを見た。
「気ぃ失ってるわ」
道中、身体強化魔法を駆使し、そこそこ人の域を逸脱した速度で走ってきたことを思い出したロステアールが、ひとつ頷く。
「まあ、そうだろうな」
途中で吐かれなかっただけマシというものだ、という彼の言葉に、レクシリアはやはり困った表情を浮かべるのだった。
はっと目を覚ましたグレイは、がばりと身体を起こした。そのままの勢いで素早く辺りを見回す。あまり広くない部屋に、ふかふかのベッド。
(……しらないへやだ)
不安そうにグレイの眉が寄る。
(どこだ、ここ?)
大別するならば簡素なホテルのような内装の部屋だ。少なくとも、グレイが殺されかけたあの部屋とは随分と雰囲気が違う。取り敢えずの危機は脱せた、と思って良いのだろうか。
そう考えながら、グレイはそっとベッドを降りて、窓に近寄った。とにかく、少しでも現状を把握するための情報が欲しかったのだ。
「……なんだここ」
窓の外に広がる景色に、グレイは呆然とした。
町だ。けれど、そこを歩く人々は皆見慣れない服を着ていて、道には車どころか自転車すら走っていない。建物は一昔前の外国のようなレンガ建てばかりで、ビルのような近代的な建物はまったく見当たらなかった。
本当に、全く知らない土地だ。
ぼうっとグレイが窓際で立ち尽くしていると、不意に背後でドアの開く音がした。
びくりと肩を跳ねさせたグレイが慌てて振り返れば、部屋の入り口には金髪の男が一人立っている。その男の顔を見て、グレイは思わずぽかんと惚けてしまった。
(うわ……めちゃくちゃイケメンだ……)
淡い金色の髪をした男は、グレイがこれまでに見たことがないくらい、とんでもなく美形だったのだ。美しいという表現がこの上なく似合うのに、顔立ちはしっかりと男性らしいという、不思議な類の美人だ。
今自分が置かれている状況も忘れ、ぽーっとした顔で美丈夫を見つめ続けるグレイに、男はぱちぱちと瞬きをした後、優しげに笑って見せた。
『目ぇ覚めたのか。良かった良かった』
声を掛けられ、はっと我に返ったグレイが、訝しむような目を男に向けた。
『あのときはさっさと逃げる必要があったから全力で走らざるを得なかったんだが、そのせいで酔っちまったんだよな? ごめんな』
美人の癖に親しみやすそうな笑顔を浮かべる男に対し、グレイがぎゅっと眉を顰める。
男が何かを喋っていることは判るのだが、何を言っているのかがさっぱり判らなかったのだ。あの薄暗い部屋でのときと同じである。酷く耳慣れない言葉らしきそれは、外国語を聞いているというよりも、最早ただの音の羅列を耳にしているような気分になった。
(……なんか、ほんとに、べつのセカイにきちゃったみたいな……)
グレイが難しい顔をして黙り込んでいると、男は片眉を上げてから歩み寄ってきた。それを見たグレイが、警戒するように身を固くする。
男の態度は友好的に見えるが、何を考えているのかまでは判らない。状況的に味方である可能性が高いとは思うものの、真実が判らない以上、無条件に信用するのは難しかった。
精一杯肩をいからせてギッと睨み付けてくるグレイに、男はどう思ったのか、ぴたりと足を止め、困った顔をした。
『あー……まぁ、なんだ。疑うのも判るが、別に怪しいもんじゃねぇぞ?』
「…………」
『……もしかして喋れない、とかか?』
話している内容は判らないが、明らかに“可哀想だ”という顔をした男に、グレイが反射的に口を開く。
「テメェ、かわいそうって顔するんじゃねェ!」
思わず怒鳴り返してしまったグレイに、男は少しだけ驚いた顔をした後で、やはり困った表情を浮かべた。
『何言ってるのか全然判んねぇな。やっぱエトランジェだと使う言語も違うか。そりゃそうだな』
むすくれた顔で再び黙り込んだグレイを見て、男は顎に手を当てて小さく首を捻った。どうやら、男の方もグレイのことを扱いかねているようである。
少しの間思案するような素振りを見せていた男は、じっとグレイを見た後、子供に目線を合わせるように膝をついた。
そのまま彼は両手を開いてグレイに向けると、ひらひらと手を振った。グレイに伝わったかどうかは不明だが、何も持っていないから安心しろ、という意図である。
『言っても判んねぇだろうが……。取り敢えず、俺はお前に危害を加えるつもりはない。だからもう少し落ち着いて、警戒を解いてくれないか?』
男としては努めて優しい声で言ったつもりだったのだろうが、その声を得体の知れない音としてしか認識できないグレイには効果がなかったようだ。
相変わらず警戒の色が濃いグレイの表情に、男は困ったように笑って後頭部を掻いた。
『やっぱ通じねぇよなぁ』
寄らば噛み付くと言わんばかりの態度を崩そうとしないグレイに、男が小さくため息をつく。そんな、一種の膠着状態の中、
きゅう、くるるる……。
突然、場にそぐわない間抜けな音が鳴った。緊張感の欠片もないそれに、男はぱちぱちと瞬いて、グレイは咄嗟に自分の腹を押さえた。
『……お前……』
グレイの顔がどんどん熱くなっていくのに比例するように、男の顔がどんどん笑み崩れていく。そして最後には、耐え切れなかったらしい男は噴き出してしまった。
「笑うな!!」
恥ずかしいやら腹立たしいやらで怒鳴った少年に、男が口元を手で隠す。互いに互いの言葉は判らないはずだが、状況的に何を怒られているのかは判ったのだろう。
『はっ、ははっ、ああ、悪い悪い。腹減ってんだなぁ』
努めて落ち着きを見せようとした男だったが、その声にはまだ笑いの残滓が多分に含まれていて、グレイの神経を余計に逆撫でした。
『じゃあ、少しここで待ってろ。部屋出るなよ』
男の指が床を指差し、それからグレイを指差す。その後、何かを抑えるような、宥めるような動作をしてから、男は部屋を出て行ってしまった。
(……へや、出るなってことか?)
確証は持てなかったが、多分そういう意味合いなのだろう。
男の言うことを聞くのは癪だったが、ここを出て行っても困るのは自分の方である。こんな右も左も判らないような場所で路頭に迷うのだけはごめんだった。
渋々部屋で待つことにしたグレイは、ぼすっと布団に腰掛けた。そして、忌々しそうな顔で腹をさする。
最後に食事をしたのは、確か母たちと出かける前だ。これだけ空腹だということは、あれからそれなりの時間が経ったということだろうか。
(……おかあさん、ちよう……)
共に出かけた二人を思い出し、グレイはベッドの上で膝を抱えた。胸中に湧いて出てきた心細さに、きゅっと唇をかみ締める。
お腹も空いたし、変なところだし、怖かった。本当は全部夢で、自分はあのとき何故だか倒れてしまっただけで、目が覚めたら家族がいるんじゃないだろうか。
そんなことを考えていたら、じわっと目頭が熱くなったような気がして、グレイは膝に顔を埋めた。今にも泣き出してしまいそうだったが、勝気な心は泣いてたまるかと訴えている。
その時、コンコンとドアがノックされる音がして、グレイは慌てて目を拭って足を下ろした。同時にドアの向こうから聞こえてきたのは、先ほど出て行った男の声らしき音である。タイミング的に、入室を告げるものだろう。
少しの間をおいて、ガチャリとドアが開かれる。顔を見せたのは案の定、あのやたら顔のいい男で、手には何かが乗ったお盆のようなものを持っていた。
『お、ちゃんといい子で待ってたな。ほら、食い物持ってきたから食えよ』
何かを言いながら男が近づいてきて、再び身構えようとしたグレイはそこで、とても良い匂いがすることに気がついた。そしてその匂いを認識すると同時に、また腹の虫が小さく鳴く。
匂いの出所は、男が持ってきたお盆だった。ぐいっと差し出されたそれを反射的に受け取ってから、盆に目を落とす。
盆の上に乗っていたのは、色の薄いスープが入った深皿と、焼いたパンに葉物野菜と肉らしきものが挟まれたサンドイッチだった。スープからもサンドイッチからも湯気が上がっており、温かいことがよく判る。
ごくり、とグレイは思わずつばを飲み込んだ。空っぽの胃は早く物を詰めろとうるさいが、しかしこれは手をつけて良いものなのだろうか。
ちらりと男へ目を向ければ、男は首を傾げてから、パンとスープを指差し、グレイを指差し、最後に何かを食べるような動作をした。食べて良い、ということだろう。
『遠慮しなくていいぞ。それともなんか警戒してんのか? お前みたいな子供にどうこうするほど性根腐っちゃいねーよ』
微笑んだ男が、サンドイッチをひとつ手にとってグレイの前に差し出した。それを受け、グレイの視線が男の顔とサンドイッチとの間を何度も往復する。
この男を怪しむ気持ちが完全になくなったわけではない。だが、グレイの空腹はもう限界だった。
(……ちょっとだけ、なら……)
グレイの手が、そっとサンドイッチを掴む。念のため男の顔を窺えば、彼はなんだかやけに嬉しそうな顔をしていたので、グレイは変な気分になった。
バゲットのようなパンは少し固めで、薄切りの蒸し肉と、レタスのような野菜、それから、見たことがない鮮やかな水色の実が挟まっていた。
一瞬、これは本当に食べても大丈夫なのだろうかと思ったグレイだったが、意を決して、あぐりと食いついてみる。味を確かめるようにゆっくりと咀嚼したグレイは、ぱちぱちと瞬きをした。
(……おいしい)
シンプルな味付けだが、空腹の胃には良く沁みる。サンドイッチだけでなくスープも口に運べば、塩味の効いた優しい味がした。
一度美味しさを感じてしまうと、後は止まらなかった。先ほどまでの警戒が嘘のように、無我夢中で腹に食事を収めていく。そうして腹が満ちて落ち着いたところで、ふと心が緩んだ。
途端、再びグレイの目頭が熱くなってくる。今度は視界が少しだけ滲み、グレイは慌てて食器を置いて袖口で水気を拭った。
ごく当然のように感じる満腹感と食事の美味しさは、これが夢などではないと突きつけてくるようだったのだ。
本当なら今頃家族でご飯を済ませて、買ってもらった誕生日プレゼントを手にはしゃいでいた頃だろうに。それら全てが遠いことになってしまった。帰ることができるのかも判らない。もしかしたら、もう二度と家族には会えないしれない。
(くそっ……泣くな……!)
嫌なことばかり考える自分を叱咤して、グレイは何度も何度も両目を擦った。強く噛み締めた唇から滲んだ鉄の味がとても不味くて、ただただ不快だ。
そんなグレイの頭を、不意に温かいものがぽんぽんと撫でた。
驚いて顔を上げると、グレイの頭に手を乗せている男が酷く優しい顔をしていて、グレイはかっと顔に血が上るのを感じた。
「なっ、に、すんだっ。やめろ、さわんな……!」
優しい手を振り払おうと、頭を振って、男の腕をべちべちと叩く。子供の突然の反抗に一瞬驚いたように手を引いた男は、しかしすぐにまた困ったように笑って、今度はグレイの後頭部に手をやった。そしてそのまま、グレイをぎゅうと抱き締める。何が起きたのかすぐには理解できなかったグレイは、しかし男の腹の辺りに顔を埋める形になっているのだと気づくと、更に激しく暴れ出した。
それでも、男に動じた気配はなかった。ただただ優しく、しっかりとグレイのことを抱き締めて、大きな手が宥めるように頭を撫でる。
『ああ、怖かったな。でも、もう大丈夫だ。今まで我慢して偉かったな』
男が何を言っているかなんて、さっぱり判らない。けれど酷く穏やかな声は、蔑むでもなく哀れむでもなく、ただひたすらに優しいのだと。それだけは、明確なほどに判ってしまった。
男の声を受けて、グレイの動きがぴたりと止まる。そしてその目から、遂にぼろりと涙が零れ落ちた。そのひと粒を皮切りに、後から後から込み上げては溢れるそれを、グレイはもう止めようとは思えなかった。
男の服を強く握るようにしてしがみついたグレイは、この世界に来て初めて、声を上げて泣いた。
『……落ち着いたか?』
あれからどれくらい泣いただろうか。五分くらいの気もするし、三十分くらい経ったような気もする、とグレイは思った。
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら男から離れようとすると、男は拍子抜けするくらい素直にグレイを解放してくれた。
赤く腫れてしまったグレイの目尻を長くて綺麗な指が撫でてきたが、抵抗する気は起きない。今しがた酷く情けなくて恥ずかしい姿を見せたばかりなので、もう今更だと思ったのだ。
それに多分、恐らく、この男は悪い人間ではないのだろう。食事もくれたし、世話をしようという意思があるのはグレイも理解した。
若干冷めてしまったスープとサンドイッチの残りを平らげ、ふぅと息を吐いたグレイの前に、男が椅子を引いて持ってくる。それに腰掛けると、彼はグレイへと笑いかけた。
『ちょっとはすっきりしたか? 取り敢えず、まずは自己紹介から始めるか。つってもここはまだ帝国領だからな。下手に身分を口にできねぇというか、そもそもお前に言っても通じねぇよな。つーわけで、取り敢えずは名前だけな。本当はもう一人いるんだが、そいつは今買い出し中だから、帰ってきてから紹介するよ』
そう言った男が、笑みを深める。
『俺の名前は、レクシリア、だ』
男は自分の名前を言うときだけゆっくりと発音し、自身を指差した。
(なんだ……? ……自分のことを指差してるってことは、名前、とか……?)
しかし、いくらゆっくり言われたところで、グレイにはそれを上手く表音として変換できない。
「……れ……?」
言われた言葉を繰り返そうとして上手くいかなかったグレイが、眉を寄せる。それを見て、男はもう一度、今度はさらにゆっくりと言葉を繰り返した。
『レクシリア』
「れぅ……り……ぁ……?」
上手に発音できない子供に苦笑したレクシリアを、グレイが睨む。言えていないことくらい、自分でも判っているのだ。
『ああ、悪い悪い。上手く聞き取れないんだな。それとも発音が難しいか?』
グレイがむっとしたことに気づいたのか、レクシリアは素直に頭を下げてきた。どうやら謝ろうという意思があるらしい。それは理解したので、グレイは許してやることにした。
『もう一回いくぞ。レクシリア、だ。レ、ク、シ、リ、ア』
さらにゆっくりとした発音に、グレイは段々馬鹿にされているような気さえしてきた。だが、それもこれも自分が上手に発音できていないせいなので、文句は言わないでおく。
『レ、ク、シ、リ、ア』
「れ……ぅ、り……?」
『れー、くー、しー、りー、あ』
「……りぃ、あ?」
ようやく言葉らしさが出てきた音に、レクシリアが頷きつつ首を傾げるような変な反応を返した。
『あー、なんか若干惜しいような、別にそうでもないような。……もう一回な。レクシリア』
「れぅ……りー、あ」
男がゆっくり言ってくれているのは判る。できるだけはっきり発音してくれているのも判る。だが、どうにもグレイには上手く聞き取って言葉にすることができないようだった。
そのことにグレイの眉間の皺はどんどん深くなっていったが、レクシリアはそんな子供を励ますように明るい声を出した。
『おお、近づいてきたんじゃないか? レ、ク、シ、リ、ア』
「……ぅ…………、りーあ」
『……お前、今ちょっと諦めなかったか?』
少し呆れたような顔をしたレクシリアに、グレイがむっとした顔をする。これでもグレイは精一杯やっているのだ。そんな顔をされる謂れはない。
機嫌を損ねたグレイは、怒りのまま、びしっと男を指差して高らかに叫んだ。
『りーあ!』
これでどうだと言わんばかりの威勢に、レクシリアはゆっくり首を傾げた後、苦笑した。
『…………いや、レクシリア、な?』
『りーあ!!』
どうやら、グレイには譲る気がないらしい。お前の名前がなんだかは知らないが俺がこう言うんだからこうだ、という強い意思をレクシリアは感じた。
『…………ああ、まあ、好きに呼んでくれ……』
リーア、というのはどちらかというと女性名なのであまり好ましくは思えない呼び名だが、レクシリアは諦めることにした。
『で、お前の名前は?』
そう言ったレクシリアが、自分を指して、レクシリア、と言い、グレイを指して首を傾げてみせる。その意図を正しく理解したグレイは、少しだけ迷うような表情を浮かべた後で、口を開いた。
「グレイ」
『……ぐ……? ぐ、……ぐれい?』
グレイにこの世界の言葉が発音しにくいように、この世界の人間にはグレイの世界の言葉は発音しにくいらしい。と言っても、目の前の男は僅かな戸惑いの後で及第点の発音をしてしまったので、グレイはとても腹立たしくなった。
『ぐれい……。ぐれい。……グレイ。ああ、こんな感じか。グレイ』
音を何度か舌で転がした男が、あっという間にそれらしい発音でグレイの名を呼ぶものだから、グレイはますます不機嫌になった。
ぶすくれた顔をしたグレイに首を傾げた男が、ぽんぽんと子供の頭を撫でる。
「さわんな!」
拗ねたような声と共にぺしんと払われた手をまじまじと見てから、レクシリアはそのままその手をグレイの前へと差し出した。そしてその整った綺麗な顔が、親しみを籠めた笑みを浮かべる。
『ま、取り敢えずよろしくな、グレイ』
そうやって呼ばれた自分の名は、自分が知っている音とは少し違うのに、心にすとんと落ちてくるような心地良さがあって、グレイはまた少しだけ泣きそうな気持ちになってしまった。だから、それをごまかすように、乱暴にレクシリアの手を掴む。
そして、少し潤んだ強気な目が、キッとレクシリアを見た。
『りーあ!』
これが、後に冠位錬金魔術師となる少年と、未来のグランデル王国宰相の出会いだった。
0
お気に入りに追加
450
あなたにおすすめの小説

美形×平凡の子供の話
めちゅう
BL
美形公爵アーノルドとその妻で平凡顔のエーリンの間に生まれた双子はエリック、エラと名付けられた。エリックはアーノルドに似た美形、エラはエーリンに似た平凡顔。平凡なエラに幸せはあるのか?
──────────────────
お読みくださりありがとうございます。
お楽しみいただけましたら幸いです。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。


雪を溶かすように
春野ひつじ
BL
人間と獣人の争いが終わった。
和平の条件で人間の国へ人質としていった獣人国の第八王子、薫(ゆき)。そして、薫を助けた人間国の第一王子、悠(はる)。二人の距離は次第に近づいていくが、実は薫が人間国に行くことになったのには理由があった……。
溺愛・甘々です。
*物語の進み方がゆっくりです。エブリスタにも掲載しています

【完】三度目の死に戻りで、アーネスト・ストレリッツは生き残りを図る
112
BL
ダジュール王国の第一王子アーネストは既に二度、処刑されては、その三日前に戻るというのを繰り返している。三度目の今回こそ、処刑を免れたいと、見張りの兵士に声をかけると、その兵士も同じように三度目の人生を歩んでいた。
★本編で出てこない世界観
男同士でも結婚でき、子供を産めます。その為、血統が重視されています。

完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
【完結】ここで会ったが、十年目。
N2O
BL
帝国の第二皇子×不思議な力を持つ一族の長の息子(治癒術特化)
我が道を突き進む攻めに、ぶん回される受けのはなし。
(追記5/14 : お互いぶん回してますね。)
Special thanks
illustration by おのつく 様
X(旧Twitter) @__oc_t
※ご都合主義です。あしからず。
※素人作品です。ゆっくりと、温かな目でご覧ください。
※◎は視点が変わります。

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる