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第2章 魔導帝国の陰謀

異変2

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 昼食を食べ終え、使用した食器の片づけを済ませた少年は、店の扉に掛けてあった休憩中であることを示すドアプレートを外しに外に出た。
 今日の予約は午前中に一件あっただけで、午後の予定は今のところ決まっていない。店じまいをする夕方頃までに客が来なければ、このままのんびりと一日が過ぎていくのだろう。
 外したドアプレートを持って店に戻った少年が、店の少し奥まった場所にある大きめの机に向かう。ペンや絵の具が置いてあるこの机は、少年が刺青のデザイン画を作製するときに使っているものだった。
 刺青というのは、実際に彫り込む段にいくまでに割と時間がかかるものだ。何度か客と会話をし、求めている刺青のイメージを聞きながらそれをラフ画としてざっと描いてみせる。何枚か描いたラフ画の中から客が納得するようなものを選んで貰ったら、今度はそれを元に、より細部まで描き込んだデザイン画を作製するのだ。特に少年の場合は、そこいらの刺青師では彫れないような細かな意匠を売りとしているため、このデザイン画の段階は非常に重要である。
 こういった作業は客がいないときにしかできないのだが、幸いなことに少年の店は大繁盛と言えるほど人が来る訳ではなかったので、今日のように予約客がいないタイミングを狙ってデザイン画を起こすことができていた。
(飛び入りのお客さんが来るかもしれないけど、それまではデザイン画を仕上げちゃおうかな)
 作業机の近くにある棚から、描きかけのデザイン画を数枚出す。ほとんど終わりかけのものと、まだ描き始めたばかりのものが混じっているが、このまま客が来なければ、今日中に二、三枚は仕上げられるだろう。別に急ぎの仕事ではないけれど、こういうものはできるときにやっておくのが一番である。
 ペンと絵の具の準備を整えた少年が、椅子に座って机に向かう。色合いや形、大きさなどの全体的なバランスを整えつつ、自分がぎりぎり彫れるくらいの緻密な模様を加えていくこの作業が、少年は好きだった。
 そういえば、あの赤の王と会って間もない頃は、こうしてデザイン画を描く時間すら取れなかった。なにせあの王、ほとんど毎日のように店に入り浸っていたものだから、落ち着いて作業をする暇がなかったのだ。最早客なのかどうなのか判らないような存在だったし、気にせず机に向かっていても良かったのだが、そんなことをすればきっとあの王は覗き込んでくるのだ。そして、いやぁ店主殿は素晴らしいデザインを描くなぁとかなんとか言ってきたのだろう。想像するだけでげっそりしてしまう。
 他の人がどうかは知らないが、少年は自分の作業を誰かに見られるのがとても苦手だった。そもそも注目を浴びるのが苦手な性分である。誰かに見られながら作業しては、恥ずかしいやら居心地が悪いやらで、普段はしないようなミスをしてしまいそうだ。
(今ここにあの人がいたら、絶対に僕が何を描いてるか覗いてくるだろうなぁ……)
 そういうことをされるのは好きではないし、それくらいのことは判りそうなものだが、何故かあの王は少年のパーソナルスペースにずけずけと入ってくるのだ。
(最初から随分親し気に接してくる人だったけど、あの頃は僕が嫌がってるの判ってた気がするんだよなぁ。……でも、最近はどうなんだろう……)
 赤の王は他人の心を読むのが得意だというし、実際に少年の胸の内も何度も読まれているのだが、どうにも最近の王は違うような気がするのだ。少年が割と本気で遠慮したいと思っていることをしてくるときも、王は少年が喜んでいると思い込んでいるようだった。まさか自分が内心で嫌がっているのを見透かして楽しんでいるのか、と思わなかったこともないが、恐らくそういうことをするような人ではない。では、なんだってああも遠慮なく少年の困るようなことばかりするのか。
(……やっぱり、変な人だなぁ)
 実はこれは、愛した相手の心の内を見透かすのは不誠実な行いである、という勝手な基準に基づいた判断の元、少年の考えを読むことを王が意識的にやめているから生じている事態なのだが、少年がそんなことを知る由はない。
(…………でも、嫌なはずなのに、なんでか嫌じゃないような気がして、だけど、そうすると胸の奥が痛いような、寒いような、不思議な感じがして、……僕、どうしたんだろう)
 漠然と抱いた不安のようなものに、しかし少年は気のせいだと言い聞かせて、作業に集中することにした。
 そうして黙々と手を動かし続け、どれくらいの時間が経っただろうか。
 不意に扉を開ける音がして、少年はペンを動かしている手を止めた。どうやら来客らしい。
 そっと玄関の方を窺えば、入口に見知らぬ男が立っていた。服装からして、この辺りに住んでいる商人か何かだろうか。
「いらっしゃいませ。ソファにお掛けになって、少しだけお待ちください」
 そう声を掛けてから、さっと画材の片づけをする。あまり待たせるわけにもいかないから、最低限ペンや絵の具が乾いて駄目になってしまわない程度で済ませてしまおう。
 そうやってざっくりとした片づけを終えてから、少年は客が待っているソファへと向かった。
「すみません、お待たせしました。刺青のご注文ですか?」
 例によって白熱電球を思わせる笑みを顔に貼り付けてそう言った少年に、客の男の方もにこりと微笑んできた。
「いやぁ、ここの店主さんはとても腕が良いと聞いてね。是非にと思ったんだよ。ああ、これ、お宅の常連さんからの紹介状ね」
 そう言った男が、二つ折りの紙をすっと差し出してくる。しかし、少年の店は特に紹介がなくても入れる店だ。紹介状があれば値引きするだとか、そういうサービスも特に行っていないから、こんなものはいちいち必要ないはずだが。
 訝しく思いつつも紙を受け取って中を開き、そして目に入った文字に、少年は僅かに目を見開いた。
『現在、帝国の手の者が貴方を狙っています。上手く誘導しますので、話を合わせてついて来てください。安全な場所までご案内致します』
 思わず客の男に目をやれば、彼はさり気ない仕草で上着を少しだけはだけさせ、その内側に縫い付けられている紋章を見せてきた。ほっそりとした金色の獣を基調にしたその紋章は、紛れもなくギルディスティアフォンガルド王国軍のものである。
「……ああ、ロストさんのご紹介ですね。ありがとうございます。それで、どのようなデザインをお考えですか?」
 王国軍の兵がわざわざ来たということに驚きつつも、笑みを象った表情を崩さないまま、少年が答える。突然のことではあったが、感情を表情や態度に出さないようにすることには慣れているのだ。尤も、あの赤の王の前ではいまいち上手くいかないのだが。
「それなんだけど、こう、モチーフにして貰いたいものがあるんだよ。けど、俺の下手糞な説明で伝えられる気がしないから、できれば実物を見て貰いたい。ああいや、変なものじゃないよ。街の外れに咲いている、ものすごく綺麗な花なんだ」
「なるほど。花を基調にしたデザインをご所望ということですね」
「あー、いや、……うん。……男が花の刺青をするなんて、やっぱりちょっと変だろう? だけど、俺は本当にあの花を気に入ってしまったんだ。摘み取って持ってくるのすら勿体ないって思ってしまうほどにさ。だから、こう、なんとか男の身体にあっても格好悪くない感じのデザインを考えてくれないかい? ロストさんに訊いたら、店主さんならできるだろうって薦められたんだよ」
 懇願するようにそう言った男に、少年が頷く。
「判りました。それで、実物を見せたいということですが、いつにしましょう?」
「ああ、ありがとう店主さん! もうこうなったら善は急げってやつで、今からどうだい?」
「今から、ですか。……そうですね、今日はもう予約のお客様もいないことですし。それでは、少し準備しますのでお待ちください」
 少年の返事に、男が嬉しそうな顔をして頷く。これが全て演技だというのだから、なかなかに凄い話だ。確かにこれなら、本当の客のように見えるだろう。
 しかし、ここまで徹底しているということは、既に帝国の誰かが自分を監視しているのだろうか。
「それじゃあ店主さん! 外にうちの騎獣を待たせてるから、一緒に乗っていこうか!」
 一緒に騎獣に乗る、という発言に一瞬困ってしまった少年だったが、それを表情に出すことはせずに大人しく頷いた。
 少年は他人が近くにいるのが苦手なので、誰かと一緒に騎獣に乗るのはあまり好きではない、というより寧ろ嫌いなのだ。だが、状況が状況だけに我儘は言っていられないだろう。
 一応店の戸締りをしてから男の後を追うと、店からは少しだけ離れた通りに、背中に翼の生えた四つ脚の獣が待っていた。少年はあまり騎獣に詳しくないので種類までは判らないが、翼があるということは、空を飛べる騎獣の中ではそこまでランクの高い種類ではないはずだ。優れた能力を持つ騎獣は総じて翼を持たないということを、少年は知識として知っていた。
「店主さんには前と後ろ、どっちに乗って貰うのが良いかな?」
「あ、ええと、それじゃあ、後ろに乗らせて頂きます」
 赤の王と乗るときはいつも前に乗らされていたが、背後に体温があるのはどうにも落ち着かないのだ。
「了解。でも、しっかり捕まっといてくれよ? 店主さんを落とす訳にゃあいかないからな」
 男の言葉にこくりと頷いてから、改めて騎獣に目をやる。どうやらこの騎獣は二人乗りのものらしく、鞍が二つ取り付けられていた。
 少年が後ろの鞍に座るのを確認してから、男が前に跨る。
「それじゃあ行こうか!」
 陽気な声で男がそう言えば、それに応えてひと声鳴いた騎獣が翼をぶわりと広げる。そして、風霊を纏わせた翼が大きく羽ばたき、少年はみるみるうちに空中へと運ばれていった。
 相変わらず空路を行くのは慣れないし、何故だか赤の王と乗るときよりもずっと風の抵抗を感じるようで、少年は内心でハラハラしながら鞍についている持ち手を強く握った。
 少年は知らないことだが、飛行型の騎獣に快適に乗るためには風霊魔法で常に気圧や気温を含む環境調整を行う必要がある。勿論この男もそれを試みてはいるのだろうが、赤の王のそれと比べるとお粗末なものだ。特に少年を連れているときの赤の王は、自身の魔力量の多さに任せて地上にいるときとほとんど変わりない空間を維持している。そこまでのことができる人間は、それほど多くはないのだ。
 だが、幸いにも飛行時間はそこまで長いものではなかった。少年と男を乗せた騎獣は、王都から少し離れた場所にある林の前に降りたのだ。王都へと続く主要な道から外れたこの辺りは、人気があまりないことで知られている。
 注意深く周囲を見回してから、男は少年を振り返った。
「私は、ギルディスティアフォンガルド王国軍第三師団のダリ・バルディと申します。緊急事態につき、このような手段で突然連れ出してしまったこと、深くお詫び申し上げます」
「え、あ、いえ」
「ここから先は木々が密集しておりますので、地上を行かせて頂きます。どうかご勘弁を」
 寧ろ少年にとってはその方が良い。そう思いながら頷くと、男は騎獣を操って林の奥へと進み始めた。
「……あの、何があったんですか?」
「グランデル王国が帝国の襲撃を受けました。帝国の狙いは不明ですが、この混乱に乗じ、再びキョウヤ様を攫う算段なのかもしれない。そうご判断されたギルヴィス王陛下の命により、こうして私がお迎えにあがりました」
「グランデル王国が……」
 赤の王の顔がぱっと浮かび、少年はどこか不安そうに目を伏せた。
「……あの、ロステアール王陛下は、ご無事なのでしょうか……?」
 あの王が武勇に名高く、優れた魔法を扱える人物であることは知っている。それでも、実際の戦場で駆ける王を見たことがない少年は、不安になってしまうのだ。
「申し訳ありません。私も命を受けてすぐに発ちましたので、詳細は存じ上げないのです。詳しいことは、この先でお待ちのギルヴィス王陛下よりお話があるでしょう」
 男の言葉に少年は思わず彼を見たが、後ろからでは前を向いている彼の表情を窺うことはできない。
(王様が、こんなところに……?)
 少年のようなただの庶民が王意を量ることなどできる筈がない。だが、それにしても、たかだか国民ひとりのために国王自らがこのような場所まで赴くのはおかしい気がした。
(僕がエインストラかもしれないから……? いや、だとしても、やっぱりこんなところまで来るのはおかしい気がする。だって、グランデルが襲われたってことは、この国にも何かあるかもしれないってことで、そんなときにわざわざ王宮から離れるようなことをするのかな……)
「キョウヤ様? どうかされましたか?」
 訝しむような声を受け、少年は咄嗟に、不安と安心感がないまぜになったような表情を作った。
「いえ、ロステアール王陛下がご無事だと良いなと、少し、不安になってしまいまして」
「ああ、キョウヤ様はグランデル王陛下と恋仲でいらっしゃいましたな。……心中お察し致します」
 そう返された言葉に、やはり違和感を覚える。何がひっかかるのかまではうまく判らないが、何かがおかしい気がするのだ。
 だが、結局その答えを見つけられないまま、少年を乗せた騎獣は林の最深部まで到達してしまった。辿り着いたそこには、十数人程度の兵と淡い金髪の少年、ギルヴィス王が待っていた。
「ああ、キョウヤさん! 良かった、ご無事だったのですね!」
(ほ、本当にいた……)
 自分が抱いた不信感は杞憂だったのかと安堵しつつ、少年は慌てて騎獣から降りて深く叩頭した。
「え、ええと、この度は、お手数をお掛けしてしまって、申し訳、ありません」
 何を言えばいいのか判らずに取り敢えず謝罪した少年だったが、そんな彼の肩をギルヴィスがそっと撫でる。
「貴方が謝罪することは何もありませんよ。さあ、どうか立ってください。ここも危険でしょうから、すぐに出発しなければ」
 ギルヴィスの言葉に、少年は思わず顔を上げた。
「え、あの、危険、なんですか……?」
 店を出たときも特に騒ぎが起こっている様子はなかったし、この林だって静かなものだ。少年には、現状からここが危険だと判断することはできなかった。
「ええ、いつ帝国兵が襲ってくるか判りませんからね。けれど、心配する必要はありませんよ。更に離れた地に安全な場所を用意しました。あそこならば、敵の手が及ぶこともないでしょう。ここまで貴方をお連れしたダリが引き続き護衛しますので、どうか貴方は先にそちらに向かってください。私たちは、ここに残って民を守らなければ」
 せかすようにそう言ったギルヴィスに対し、少年は不安そうな表情を変えないまま幼い王を見た。
(……なんだろう、何か、おかしい気が……)
 ギルヴィス王は、幼いながらにも聡明な王だ。他でもない赤の王がそう明言していたのだから、恐らくそれは事実なのだろう。そして、だからこそ、どうしても違和感が拭えないのだ。
 聡明な国王が、このような場所に自ら足を運ぶだろうか。それほどまでに危機的状況なのだとしたら、こんな少人数の護衛のみで来るだろうか。そして、狙われているという少年に護衛を一人しかつけないだろうか。
「……あの、」
 努めて普段通りの声を出せば、ギルヴィスは人当たりの良い笑みを返してきた。
「何でしょうか。私に答えられる範囲のことでしたら、お答えしますよ。そうした方が、貴方の不安も少しは和らぐでしょうから」
「…………ロステアール王陛下は、ご無事なのでしょうか……?」
 恐らく、それは恋人を案じるあまり零れてしまった言葉に思えただろう。だからこそ、ギルヴィスはほんの少し困った表情を浮かべた後、そっと目を伏せた。
「……すみません。詳細な情報がまだ手に入らないため、今すぐにはお答えできないのです。……けれど、」
 そこで一度言葉を切ったギルヴィスは、案じるような目で少年を見た。
「……今回ばかりは、ロステアール王も苦戦なさるかもしれません」
 瞬間、少年の背筋を走ったのは、自身の危機を知らせる怖気だった。心臓が早鐘のようにばくばくと鳴り、掌にじわりと汗が滲む。
 グレイ・アマガヤは、魔術の指南をする傍ら、様々な情報を少年に与えていた。例えばそれは帝国の歴史であったり、円卓の国々の特徴であったり、戦術のようなものであったりと多岐に渡っていたが、考えなしに詰め込んでいた訳ではない。グレイが少年に与えたのは、こういった事態に対応するための知識だった。だからこそ、少年はその知識を以て現状を把握するために、赤の王のことを尋ねたのだ。
 故に、
(この人は、ギルヴィス王じゃない……!)
 ギルヴィスならば、赤の王の無事を疑うような発言はしない。それは、グレイがはっきりと言っていたことだ。そしてこの場で考えられることがあるとすれば、帝国がギルヴィスを騙り、少年をどこかへ連れて行こうとしている可能性だろう。
 しかし、目の前のこれがギルヴィスではないとしたら、周りの兵も十中八九帝国の手の者だ。そんな中で、少年に何ができるだろうか。自分がギルヴィスの正体に勘付いたことを悟られぬように努めるくらいのことはできるが、それでこの場を抜け出せる訳でもない。
 この場所はまだ良い。王都から近く、誰かの助けを期待することもできる。だが、ここから更に別の場所へ移動するとなると話は別だ。幸いなことにここにはデイガーの姿は見えないが、次の拠点にはいるかもしれない。となると、空間魔導で帝国へ飛ばされてしまう可能性は低くないように思えた。
(とにかく、ここを離れないようにしなきゃ……!)
 だが、どうすればいい。この状況下で変にこの場に留まろうとすればすぐに怪しまれるだろう。ここに来て今更家に戻ろうとするなどおかしな話だ。いっそ脚が痛むということにでもしようかと思ったが、ここまで普通に歩いてきたのだから不自然すぎる。そもそも騎獣がいるのだから、それに乗せられてしまえばそれまでだ。
 どうする。この敵の真っただ中で、できる限り自然に、長い時間この場に留まるためには、どうすればいい。
 これ以上ないほどに頭を回転させていた少年は、ふぅ、と小さく長く息を吐いた。それから、一歩、二歩と、騎獣の方へ足を進める。そして少年は、三歩目を踏み出したその脚から唐突に力を抜いた。重力に従い崩れた身体が、湿った下草に倒れ込む。そのまま彼は、胸を片手で掻き毟るように押さえて、苦し気に喘いだ。
「キョウヤさん! どうされました!?」
 焦ったような声と共に、ギルヴィスの姿をした何かが駆け寄る音が聞こえた。それを確認しつつ、少年は途切れ途切れに声を吐き出す。
「ッ、ぅ、……む、ねが……!」
「どうされたのですか!? もしや、何かご病気が!?」
 そんなものある訳がない。少年は至って健康体だ。自分でもなんて陳腐な発想なのだろうと思うが、これよりも良い案が浮かばなかったのだ。だがどうやら、思った以上に効果的なようである。
「っ、……す、こし……っ、むねの……、」
「とにかく、早く落ち着ける場へ移動致しましょう。ダリ! 早くキョウヤさんを騎獣に乗せるのです!」
「ぃ、いえ……」
 ギルヴィスの提案に、必死で首を横に振る。ここで騎獣に乗せられてしまうと、何のためにこんな演技をしているのか判らない。
「発作、は……動かず、おとな、し……っ、は、ぐ、……していろ、と……ぉ、医者、さま、が……っ」
 言っていることは口から出まかせだが、苦しそうな演技でごまかせば、ある程度の信ぴょう性が出るはずだ。特に内傷ならば、ぱっと見で嘘かどうかの判断はできないだろう。帝国にとって少年は重要な存在であるようだから、一度少年の嘘を信じさえすれば、下手に動かすのは危険だと判断されるはずだ。
 あとはもう、この嘘がどれだけ保つかである。
 本当に帝国が赤の国で何かをしているなら、いずれ本物のギルヴィスが動いてくれるだろうし、そうでなくても、金の王が帝国から狙われている少年に対し何の対策も行っていないとは考え難い。その対策が具体的にどんなものかまでは判らないが、今はそれに賭けるしかないだろう。
 地面に転がって出来得る限り苦し気な声を漏らせば、頭上でギルヴィスが狼狽えているのが判った。
 頼むからどうか、そのまま騙されていて欲しい。
 そうして暫く悶えていると、やはりいけません、とギルヴィスの不安そうな声が聞こえた。
「お医者様が動かすのは良くないと診断されたとはいえ、こうも発作が収まらないのを、いつ帝国の襲撃が来るか判らないここで待っているわけには参りません。お辛いでしょうが、やはり一度場を移しましょう」
「っ、でも、」
 少年は慌てて否定の意を示す。まだ助けの手は来ない。移動してしまえばそこでおしまいなのだ。
「しかし、キョウヤさんのためにも、落ち着ける場が必要ではないでしょうか? 安全な場所で、お医者様に診て頂きましょう。できるだけ丁寧に運ばせますから」
「……っ、ぃ、いえ……ぼくは……」
「キョウヤさん」
 それは、少年を心配しているというより、何処かこちらを威圧するような声音だった。僅かに背筋が粟立つ。少年は自身に向けられる悪意に敏感なので、ギルヴィスの声に含まれる僅かな苛立ちを感じ取ってしまったのだ。
「キョウヤさん。この場が危険であると、貴方もご承知されていらっしゃるのでしょう?」
 それとも、と続ける声が、やけに少年の耳に響いて残る。
「――何か、この場に留まらなくてはならない理由がお有りで?」
 息を呑んだ少年が、思わず声の方を見上げた。逆光に陰るギルヴィスの端麗な顔は優しそうに微笑んでいるが、目に宿る光が全く笑っていない。
「っ、い、いえ、」
 何か返さねばと無理矢理出した声が、不自然に震えた。そこに滲み出た焦りと恐怖に、ギルヴィスの姿をしたそれはすっと目を細めた。
「なんだ、私が金の王じゃないってこと、バレちゃってるみたい」
 ギルヴィスの姿と声でそう言ったそれは、はぁとわざとらしいため息をついてから、ひらりと右手を振った。すると、見る見るうちにギルヴィスの姿が揺らぎ、不明瞭なものへと変化していく。
「っ!?」
 少年が息を呑む中、揺らぎが徐々に収まっていき、不明瞭な像が再び線を結んだそこに現れたのは、ギルヴィスよりも幼い、可憐な少女だった。
「折角金の王っぽく振舞ってみたのに、バレちゃってたなんてショックだわ。ちょっと、アンタが連れてくるときにドジったんじゃないでしょうね」
 ツンとした声で言った少女にじろりと睨まれ、ダリと名乗った男は慌てて首を振った。
「滅相もございません。きちんと王軍の紋章も見せましたし、ご指示通りのことしかしておりません」
「じゃあどうして私の完璧な変装がバレたって言うの? ああそう。ふーん。私の指示が悪かったって言いたいのね?」
「い、いいえ、そのようなことは! アンネローゼ様、どうかお許しを……!」
「だーめ」
 可愛らしい笑顔を浮かべてそう言った少女が、男に人差し指を向ける。
「私、使えない駒は嫌いなの。さよなら」
 言葉と同時に、少女の指先から一筋の靄のようなものが放たれ、男の顔に纏わりついた。
 その後の男に何が起こったのか、少年には判らない。だが、突然ぐるんと白目を剥いた男は、凄まじい力で自らの喉を掻き毟り始めた。自らの指先が喉を抉り、露出した肉と口からごぼごぼと血が零れ落ちる。およそ想像すらつかない苦痛だろうに、男がそれをやめることはなく、とうとうその爪が自らの気管に当たったところで、男は地面に倒れ込んだ。だが、それでもなお、喉に埋めた指は肉を掘ることをやめはしない。
 血の泡を吹いて地に伏している男に、少年は引き攣るような声にならない悲鳴を漏らして後ずさった。早く立ち上がって逃げねばならないと思うのに、恐怖に震える脚は言うこときいてくれないのだ。
 それでも、地面を這ってでも良いから逃げようとした身体を、周囲にいた者たちに捕らえられてしまう。
「もう、そんなに怖がらないで欲しいわ。貴方に危害を加えるつもりはないんだから。大切な貴方の血を零しちゃったら、皇帝陛下に怒られちゃうもの」
 そう言って歩み寄ってきた少女に、ひっと引き攣った悲鳴を零してしまう。だが、そんな少年の様子を気に留めることなく、可憐な彼女は愛らしく微笑んだ。
「私の名前はアンネローゼ・ヴェアリッヒ。貴方を私たちの帝国にご招待しに来たの。よろしくね、エインストラ様」
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