落花幻想奇譚 ~薬師の男と妖鳥の少年が旅をしながら不思議なものたちに出逢う話~

倉橋 玲

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空音の揺籃 4

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「……ん」
 ゆっくりと意識が浮上し、椿は少しずつ眠りの中から現へと戻っていく。目を覚ました椿の身体に触れているのは、柔らかな草の上に置かれた毛布だ。そういえば、昨夜はこの森で野宿をしたのだったか。
 眠気の残る頭で、何か良い夢を見たような気がする、などと思いつつ、椿がぼんやりと目を開けると、ふと右の手をくっと引かれた。
 寝惚けたまま、何だろうと思って横に目を向けると、そこには優しい笑顔を浮かべて座る朧の姿があった。もうすっかり見慣れたとはいえ、寝起きに見るにはあまりに輝かしくて美しい顔だ。
「おはよう、椿くん」
 いつもの声で朝の挨拶を告げた朧をぼんやりと見た椿は、朧の手が誰かの手にぎゅっと握られているのを見て、内心で首を傾げる。そして次の瞬間、離れることを拒むように彼の手を握っている手が自分のものだと思い至り、椿はがばっと身体を起こした。
「おっ、おはよう、ございます、朧さん」
 慌てて朧の手を放し、ぺこりと頭を下げた椿に、朧はおかしそうに、ふふと小さく笑った。
「別にそんな、慌てることもないだろう?」
 椿くんの手は温かいねぇ、などと言われ、椿の顔が赤く染まる。一体いつから掴んでしまっていたのだろうか。朧と隣り合って寝ていたわけではないから、椿を起こそうとした朧の手を握ってしまっただとか、そういうことなのだろうけれど、そうやって自身の手を掴んだままぐっすり寝ている椿を、朧はそのままにしてくれていたのだろう。つまり、目覚めるまでの間、椿は意図せずではあるが、朧のことを拘束してしまったのだ。
 すみません、と謝る椿に、朧は何も謝ることなんてないよ、と言って優しく椿の頭を撫でた。それにまた椿の頬はほんのりと熱を持ってしまい、彼はそれを誤魔化すように、ぺちぺちと自分の頬を叩いた。それから朧に断りを入れて、すぐ近くを流れる川へ顔を洗いに向かう。冷たい水で顔をばしゃりと濡らすと、まだ少し残っていた眠気は完全に消え去った。
 ぐっと大きく伸びをしてから息を吐いた椿は、それにしても、と首を傾げる。
(野宿だったのに、なんだか妙にすっきりしてる気がするなぁ。どうしてだろう)
 朧との旅路の中で野宿をする機会は少なくないので、野宿自体はもうすっかり慣れているのだが、それでもやはり、宿に泊まって布団で身を休めるのに比べると、目覚めたときに疲労が抜けきらない感覚が残るものだ。しかし不思議と今日は、なんだか気分も身体もとても軽かった。
(もしかして、良い夢を見たおかげ、とかかな……)
 どんな夢だったのかは目覚めた時点で覚えていなかったが、それでも良い夢だったということだけは、なんとなく心に残っている。もしも本当にそれのおかげであるのなら、内容を覚えていられなかったのは少し残念だ。だが、夢などそういうものだろう。
 そんなことを考えながら朧の元に戻った椿は、荷物の中から保存食を取り出して簡単に調理し、二人分の朝食を用意した。そのままいつものように二人で談笑をしながら朝食を済ませ、火の後始末や片づけをし、椿が出発前の荷造りをしていると、ふと朧が何処か遠くを見ているのが視界の端に映った。どうしたのだろうか、と思った椿が朧の方へ顔を向けると、彼はじっと何かを見つめるように、進む先とは逆にある木々、その奥の方へと視線を向けていた。
 そんな朧の様子に、彼が見ている先に何かあるのだろうか、と思った椿も同じ方を見てみるが、特にこれといったものは見当たらない。
「朧さん?」
「ああ、ううん、なんでもないよ。椿くんの準備も済んだようだし、それじゃあ行こうか」
 優しく微笑んでそう告げた朧が、立ち上がって椿に手を差し出す。内心で疑問を抱きつつもその手を取った椿は、朧と連れ立って森の中を進み始めた。

――つばき。

「え?」
 不意に耳を掠めた音に、椿は後ろを振り返った。その視線の先に広がるのは、歩いて通り過ぎてきた木々だけだ。怪しいものはおろか、獣一匹の姿もない。だがしかし、確かに何かに呼び止められたような気がして、足を止めた椿はきょろきょろと辺りを窺った。
 それでもやはり、動くものの気配はない。風が時折、木々の葉を揺らしてささめきを落とすくらいだ。
「どうしたんだい、椿くん?」
「あ、」
 何となく不安な気持ちに襲われて顔を曇らせた椿の背に、朧の声がかかる。前に向き直れば、少し先で朧の優しい青が椿を見つめていた。
 その色に少しだけ気持ちが落ち着いた椿は、小走りで朧の隣へと進み、足を止めさせてしまったことに頭を下げる。
「すみません。何か、……誰かに呼ばれたような、気がしたのですが……」
「おや、私には聞こえなかったけれど」
「そうですか? それならきっと、僕の気のせいですね」
「うん。もしかしたら、風の音か何かかもしれないね」
「はい」
 頷き、再び朧の隣を行く椿は、しかし口では気のせいだと言いつつも、どうにも後ろ髪を引かれる思いを拭えないままでいた。
 本当に、本当に気のせいだったのだろうか。無論、椿よりもずっと色んなことに気がつく朧が聞こえなかったと言うのだから、椿の気のせいだと判断する方が正しいことはよく判っている。だが、単なる風の音であるのならば、どうしてこうも耳の奥に残るような感覚があるのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、椿はまた無意識に後ろへ視線を向けようとした。
「椿くん」
「はい? ……えっ、あの、朧さん?」
「ふふ、気もそぞろみたいだから。転ばないようにね」
 そう笑う朧の手は、椿の小さな手をしっかりと握っていた。足場の悪い道などでこうして手を貸してもらうことはあるが、今歩いている道は、それなりに踏み固められた人のための道だ。
 これでは歩き始めたばかりの幼子のようだと思った椿が、恥ずかしそうに大丈夫ですと告げるも、朧はまあまあとその言葉を流してしまう。そうして何事もなかったかのように手を繋いだまま進んでしまうものだから、椿は何か言おうと口をもごもごさせたものの、結局何も言わずに朧に手を引かれるまま歩くことになった。
(ああ、もう、しゃんとしないと……)
 内心でそう呟いた椿は、手まで繋がれた上で転びでもしたらそれこそ笑えないと思って、しっかりと前を見据え、地面を正しく踏み締めることに注力する。
 だから、背後に広がる森の奥から、何か恐ろしい声がもう一度椿の名を呼んだのに、彼が気づくことはなかった。
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