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須要の霽レ 3
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一方の朧は、椿の位置を常に把握しつつ、彼に被害が及ばないように立ち回りながら、女の様子を観察していた。
馬鹿のひとつ覚えのように川から吸い上げた水を撃ち出してくる彼女は、それだけ見るとあまり賢いようには思えない。だが、初撃を含むここまでの水の矢の速度や軌道を思い浮かべた朧は、違うな、と胸中で呟いた。
(彼女の力は、恐らくもっと強い。だというのに、初撃も今も、攻撃がこちらに到達するまでにある程度時間がかかるような速度で打ち出している。恐らく、敢えて防御や回避ができるだけの余裕を与えているな)
初撃とそれ以降の攻撃の違いは、朧のどこを狙っているかだろうか。先ほどから浴びせられている水の攻撃は、初撃とは違って、朧の身体の中心からは僅かに逸れた場所を狙って繰り出されている。こうすることで回避しやすい方向が生まれるため、そうやって朧を一定の方向へ誘導したいのだろう。
(目的は……、椿くんを遠ざけることか)
椿をどうこうしたくてそうしているのではない。椿が邪魔だから遠ざけようというのだ。
(初撃では、私が確実に防げると確信できる威力に落としておき、私の真正面を狙う。そうすれば、椿くんに危害が加わることはない。そしてそれ以降は、彼女と私と椿くんが直線状になることがないような位置にまで私を誘導し、椿くんを気にすることなく戦える環境を作りたい、と言ったところかな)
敢えて女の意図に乗りながら、朧は冷静にそう分析した。そして同時に、それならば、と内心で呟く。
(彼女は恐らく違うな。戦う力のない存在には手を上げない、というのは、種類はどうあれ高潔な存在の行いだ。そんな存在が山を踏みにじるような真似をするとは、考えにくい)
何か特別な理由があれば別だろうけれど、と考えた朧に、地面を大きく蹴った女が肉薄する。
「戦いの最中に考えごとかァ!? 余裕じゃねぇか!」
そう叫んで朧に振り下ろされた女の腕は、いつの間にか爬虫類に似た鱗に覆われ、その指の先の爪は太く鋭い狩猟のためのものへと変貌していた。まさしく異形と呼ぶに相応しい爪は、並みの刀程度ならば容易く切り裂いてみせることだろう。
食らえばただでは済まないその一撃を、しかし朧は僅かも掠らせることなく、見事に捌いて回避してみせた。相手の動きが人外の素早さならば、朧のそれもまた同じだ。
戦闘というよりは寧ろ演舞にも似た優雅さすら感じさせる朧の体捌きに、女が感心した顔でひゅうと口笛を吹く。そして直後、更に速度を増した攻撃が朧に襲い掛かった。
息をつく暇もない猛攻を受けた朧が、それでも息ひとつ乱すことなくそれらを凌いでいく。だが不思議なことに、朧は攻撃をいなしはするものの、反撃に出ることはなかった。避けるのに手一杯で出られない、という訳ではないだろう。少なくとも、椿の目には彼がそれほどまでに追い詰められているようには見えなかった。どちらかというと、あれは、
(……困って、いらっしゃる……?)
椿がそんなことを思ったところで、爪による斬撃をひたすら繰り出していた女が、不意に動きを止めた。そして、当初の楽しそうな表情をすっかりと曇らせた彼女は、不満もあらわに朧を睨みつけた。
「お前、手ぇ抜きすぎだろう。何を考えていやがる」
盛大なしかめっ面から発せられた言葉に、朧がぱちりと瞬きをしてから苦笑する。
「貴女がこの山を蝕む穢れの原因でないのなら、私には貴女と戦う理由がありませんから」
「ああ?」
女が不可解そうに片眉を上げ、同時に椿も驚いた。てっきりこの山が穢れている原因は彼女にあるものと思っていたのだが、朧の口ぶりではそうではなさそうである。
しかしそれならそれで、何故彼女は朧に襲い掛かってきたのだろうか。椿が内心で首を傾げていると、もう大丈夫だからおいで、と朧が手招きをしてきた。それに従った椿が小走りでやってくるのを認めてから、朧が女に向かって再び口を開く。
「山を穢すには、貴女の気は強く清かだ。無論、貴女の持つ力以外で事を為すこともできるでしょうけれど、私に襲い掛かる中でも非力な子供には危害が加わらないように留意していた貴女が、わざわざそんな真似をするようには思えません」
「……なんだ、とっくに判ってたってぇのか。あー、いいや、萎えた」
はぁ、と女が大きなため息を吐き出すと、それを合図にするように、鋭く伸びた爪や肌に浮き出た鱗がすぅっと消える。そうして最初に見た人間と変わらぬ姿になった彼女は、相変わらずむすくれた表情で恨めしそうに朧を見た。
「せっかく面白そうなのを見つけたと思ったのに、そうもやる気がねぇんじゃあ、遊んでもつまらん」
「あ、遊び……?」
思わず呟いた椿に、女の視線が向けられる。切れ長の目で見つめられた椿は思わずびくりと肩を跳ねさせてしまったが、女は特に気にした風もなく、あっけらかんとした調子で言った。
「遊びだ。お互い殺す気がねぇんだから、遊びの域を出るわけがない。……あーあ、それにしてもつまらん。あれだけ殺気をたっぷりぶつけたのに、欠片も返してこないってぇんだから、ったく」
がりがりと頭を掻いてそう言った彼女は、心底から本気らしい。どうやら、物凄く好戦的な気質の持ち主のようだ。初めて見る類の人物に、椿は感心と驚きと僅かな呆れが入り混じった何とも言えない気持ちになった。
一方、椿から朧へと視線を戻した彼女に再びじとりと睨まれた朧は、苦笑しつつも、ご期待に添えずすみません、と謝罪の言葉を述べた。それに対して二度目のため息で応えた彼女に再度苦笑を洩らしてから、朧はところで、と言って話を切り出した。
「貴女がこの山の事態に関わっていらっしゃらないことは判りましたが、どうしてこの山に?」
「あ? あー、……いや、まぁいいか。酒だ」
「お酒、ですか?」
訊き返した朧に、彼女がああと頷く。
「この山に美味い酒があるって話を小耳に挟んでな。それを手に入れようと思って来たんだが、……まさか山がこんな穢れてるとは思わなかった。どこも瘴気臭くって鼻も利かねぇし。ああ、折角遠路遥々来たってぇのに、酒まで駄目になってたら最悪だな」
そう言った彼女はまたもや盛大な溜息を吐き出してから、朧に向かって首を傾げてみせた。
「それで?」
「はい?」
「アタシよりもアンタの方が何やってんだ、こんな臭い場所に餓鬼連れて」
ちらりと椿を見て訝しげな顔をした女の疑問は、まったくもって尤もなものだ。
(やっぱり僕、場違いなんだ……)
判っていたことだし、我が儘を言ってついてきている自覚もあるのだが、改めて第三者からそれを指摘されると、椿は朧に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だが、肩身の狭さと羞恥を覚えて少し俯いた椿の頭を、朧が優しく撫でる。温かな手に椿が顔を上げると、優しい青の瞳が椿を見下ろしていた。特に言葉はなかったが、その目が告げるものを聞いた椿は、小さく頷いて背筋を正した。
そんな椿に柔く微笑んでから、朧は女へと向き直った。
「私は、麓の村でこの山の異変について伺ったので、穢れを祓おうと思ってやってきたんです。この子は私の付き人、のようなものでしょうか。私から離れた安全な場所にいるのも私の傍で危険な場所にいるのも変わらないと思ったので、一緒に来てもらいました」
「危険な場所でも自分の傍にいりゃあ問題ないたぁ、また偉い自信だな。しかし、穢れを祓うだと? ……ふぅん、アンタ“そういうの”か。まあ、ただの薬師じゃないのは見りゃあ判るが……」
微かに眉を顰めた女が、そこでふと何かを考え込むように口元に手を添え、視線を彷徨わせた。そして再び朧へと視線を戻した女が、ぽんと手を打つ。
「よっしゃ、丁度いい。それならアタシもアンタについてって、穢れ祓いの手伝いをしてやるよ。その代わりに、もしも酒が穢れてたらそれも良い感じに浄化してくれ」
さも名案だと言わんばかりに、彼女はそう言い放った。内容を考えればいっそ図々しいくらいの言葉が不思議とあまりそう感じないのは、彼女の竹を割ったようなさっぱりとした雰囲気のせいだろうか。
しかしそんな約束をして良いのだろうか、と思った椿が朧を見上げれば、彼はいつもの柔和な笑顔で構いませんよと首肯を返し、それを受けた女は、そうこなくっちゃな、と言って楽しそうに笑った。
馬鹿のひとつ覚えのように川から吸い上げた水を撃ち出してくる彼女は、それだけ見るとあまり賢いようには思えない。だが、初撃を含むここまでの水の矢の速度や軌道を思い浮かべた朧は、違うな、と胸中で呟いた。
(彼女の力は、恐らくもっと強い。だというのに、初撃も今も、攻撃がこちらに到達するまでにある程度時間がかかるような速度で打ち出している。恐らく、敢えて防御や回避ができるだけの余裕を与えているな)
初撃とそれ以降の攻撃の違いは、朧のどこを狙っているかだろうか。先ほどから浴びせられている水の攻撃は、初撃とは違って、朧の身体の中心からは僅かに逸れた場所を狙って繰り出されている。こうすることで回避しやすい方向が生まれるため、そうやって朧を一定の方向へ誘導したいのだろう。
(目的は……、椿くんを遠ざけることか)
椿をどうこうしたくてそうしているのではない。椿が邪魔だから遠ざけようというのだ。
(初撃では、私が確実に防げると確信できる威力に落としておき、私の真正面を狙う。そうすれば、椿くんに危害が加わることはない。そしてそれ以降は、彼女と私と椿くんが直線状になることがないような位置にまで私を誘導し、椿くんを気にすることなく戦える環境を作りたい、と言ったところかな)
敢えて女の意図に乗りながら、朧は冷静にそう分析した。そして同時に、それならば、と内心で呟く。
(彼女は恐らく違うな。戦う力のない存在には手を上げない、というのは、種類はどうあれ高潔な存在の行いだ。そんな存在が山を踏みにじるような真似をするとは、考えにくい)
何か特別な理由があれば別だろうけれど、と考えた朧に、地面を大きく蹴った女が肉薄する。
「戦いの最中に考えごとかァ!? 余裕じゃねぇか!」
そう叫んで朧に振り下ろされた女の腕は、いつの間にか爬虫類に似た鱗に覆われ、その指の先の爪は太く鋭い狩猟のためのものへと変貌していた。まさしく異形と呼ぶに相応しい爪は、並みの刀程度ならば容易く切り裂いてみせることだろう。
食らえばただでは済まないその一撃を、しかし朧は僅かも掠らせることなく、見事に捌いて回避してみせた。相手の動きが人外の素早さならば、朧のそれもまた同じだ。
戦闘というよりは寧ろ演舞にも似た優雅さすら感じさせる朧の体捌きに、女が感心した顔でひゅうと口笛を吹く。そして直後、更に速度を増した攻撃が朧に襲い掛かった。
息をつく暇もない猛攻を受けた朧が、それでも息ひとつ乱すことなくそれらを凌いでいく。だが不思議なことに、朧は攻撃をいなしはするものの、反撃に出ることはなかった。避けるのに手一杯で出られない、という訳ではないだろう。少なくとも、椿の目には彼がそれほどまでに追い詰められているようには見えなかった。どちらかというと、あれは、
(……困って、いらっしゃる……?)
椿がそんなことを思ったところで、爪による斬撃をひたすら繰り出していた女が、不意に動きを止めた。そして、当初の楽しそうな表情をすっかりと曇らせた彼女は、不満もあらわに朧を睨みつけた。
「お前、手ぇ抜きすぎだろう。何を考えていやがる」
盛大なしかめっ面から発せられた言葉に、朧がぱちりと瞬きをしてから苦笑する。
「貴女がこの山を蝕む穢れの原因でないのなら、私には貴女と戦う理由がありませんから」
「ああ?」
女が不可解そうに片眉を上げ、同時に椿も驚いた。てっきりこの山が穢れている原因は彼女にあるものと思っていたのだが、朧の口ぶりではそうではなさそうである。
しかしそれならそれで、何故彼女は朧に襲い掛かってきたのだろうか。椿が内心で首を傾げていると、もう大丈夫だからおいで、と朧が手招きをしてきた。それに従った椿が小走りでやってくるのを認めてから、朧が女に向かって再び口を開く。
「山を穢すには、貴女の気は強く清かだ。無論、貴女の持つ力以外で事を為すこともできるでしょうけれど、私に襲い掛かる中でも非力な子供には危害が加わらないように留意していた貴女が、わざわざそんな真似をするようには思えません」
「……なんだ、とっくに判ってたってぇのか。あー、いいや、萎えた」
はぁ、と女が大きなため息を吐き出すと、それを合図にするように、鋭く伸びた爪や肌に浮き出た鱗がすぅっと消える。そうして最初に見た人間と変わらぬ姿になった彼女は、相変わらずむすくれた表情で恨めしそうに朧を見た。
「せっかく面白そうなのを見つけたと思ったのに、そうもやる気がねぇんじゃあ、遊んでもつまらん」
「あ、遊び……?」
思わず呟いた椿に、女の視線が向けられる。切れ長の目で見つめられた椿は思わずびくりと肩を跳ねさせてしまったが、女は特に気にした風もなく、あっけらかんとした調子で言った。
「遊びだ。お互い殺す気がねぇんだから、遊びの域を出るわけがない。……あーあ、それにしてもつまらん。あれだけ殺気をたっぷりぶつけたのに、欠片も返してこないってぇんだから、ったく」
がりがりと頭を掻いてそう言った彼女は、心底から本気らしい。どうやら、物凄く好戦的な気質の持ち主のようだ。初めて見る類の人物に、椿は感心と驚きと僅かな呆れが入り混じった何とも言えない気持ちになった。
一方、椿から朧へと視線を戻した彼女に再びじとりと睨まれた朧は、苦笑しつつも、ご期待に添えずすみません、と謝罪の言葉を述べた。それに対して二度目のため息で応えた彼女に再度苦笑を洩らしてから、朧はところで、と言って話を切り出した。
「貴女がこの山の事態に関わっていらっしゃらないことは判りましたが、どうしてこの山に?」
「あ? あー、……いや、まぁいいか。酒だ」
「お酒、ですか?」
訊き返した朧に、彼女がああと頷く。
「この山に美味い酒があるって話を小耳に挟んでな。それを手に入れようと思って来たんだが、……まさか山がこんな穢れてるとは思わなかった。どこも瘴気臭くって鼻も利かねぇし。ああ、折角遠路遥々来たってぇのに、酒まで駄目になってたら最悪だな」
そう言った彼女はまたもや盛大な溜息を吐き出してから、朧に向かって首を傾げてみせた。
「それで?」
「はい?」
「アタシよりもアンタの方が何やってんだ、こんな臭い場所に餓鬼連れて」
ちらりと椿を見て訝しげな顔をした女の疑問は、まったくもって尤もなものだ。
(やっぱり僕、場違いなんだ……)
判っていたことだし、我が儘を言ってついてきている自覚もあるのだが、改めて第三者からそれを指摘されると、椿は朧に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だが、肩身の狭さと羞恥を覚えて少し俯いた椿の頭を、朧が優しく撫でる。温かな手に椿が顔を上げると、優しい青の瞳が椿を見下ろしていた。特に言葉はなかったが、その目が告げるものを聞いた椿は、小さく頷いて背筋を正した。
そんな椿に柔く微笑んでから、朧は女へと向き直った。
「私は、麓の村でこの山の異変について伺ったので、穢れを祓おうと思ってやってきたんです。この子は私の付き人、のようなものでしょうか。私から離れた安全な場所にいるのも私の傍で危険な場所にいるのも変わらないと思ったので、一緒に来てもらいました」
「危険な場所でも自分の傍にいりゃあ問題ないたぁ、また偉い自信だな。しかし、穢れを祓うだと? ……ふぅん、アンタ“そういうの”か。まあ、ただの薬師じゃないのは見りゃあ判るが……」
微かに眉を顰めた女が、そこでふと何かを考え込むように口元に手を添え、視線を彷徨わせた。そして再び朧へと視線を戻した女が、ぽんと手を打つ。
「よっしゃ、丁度いい。それならアタシもアンタについてって、穢れ祓いの手伝いをしてやるよ。その代わりに、もしも酒が穢れてたらそれも良い感じに浄化してくれ」
さも名案だと言わんばかりに、彼女はそう言い放った。内容を考えればいっそ図々しいくらいの言葉が不思議とあまりそう感じないのは、彼女の竹を割ったようなさっぱりとした雰囲気のせいだろうか。
しかしそんな約束をして良いのだろうか、と思った椿が朧を見上げれば、彼はいつもの柔和な笑顔で構いませんよと首肯を返し、それを受けた女は、そうこなくっちゃな、と言って楽しそうに笑った。
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