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朝影の密か 7
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朧と椿が領主の屋敷に滞在して、三日目の朝。晴れ渡る空の下で、領主の娘の祝言が執り行われた。本来であれば、部外者である朧と椿が参加できるようなものではない筈だが、領主に乞われる形で、二人は来賓の末席に座らせて貰っていた。
元々は屋敷の中で開かれる予定だった祝いの儀は、その予定を変更し、大樹が佇む庭園にて行われている。黒い木を祓う上でどうしても必要なのだと言って、朧が場所の変更を求めたのだ。
だが、勿論その説明は嘘だ。ただ朧は、大樹に娘の晴れ姿を見せてやりたかっただけなのだろうと椿は思う。だから、渋る領主をわざわざ説得してまで、庭園での祝言にこだわったのだろう。
厳かな儀式の中、椿は少し離れたところに見える花嫁の様子をそっと窺った。
未来への期待と喜びに頬を紅潮させ、夫となる人と並んで歩く娘は、それはそれは美しかった。単純な外見だけの話ではない。その身から溢れるあらゆるものが青空に照らされて輝き、それを見ただけで、幸福とはこういうものだと判るような、そんな様子だった。
朧の守りによるものなのか、大樹の尽力によるものなのか、或いは両方なのか。それは椿には判らないが、祝言の儀は滞りなく進んでいき、いよいよ盃を交わすという段まで辿り着いた。
花婿と花嫁が盃に注がれた酒を交互に呑むことで、婚姻という契約が正式に成立する。これさえ成し遂げることができれば、娘を狙う影は手を出せなくなるはずだ。
美しく澄んだ酒が注がれた盃に、花婿が口をつける。透明な液体を三度に分けてこくりと飲み干した彼は、その盃を花嫁へと向けた。差し出されたそれを、はにかんだ花嫁がそっと受け取る。その盃にまた酒が注がれ、そして彼女は、そのまま盃を口元へと運ぼうとした。
そのときだった。
ぞわりと背筋を這った悪寒に、椿はばっと空を見た。
空に、黒々とした泥のような影が見える。それは、幾つもの影が集まって凝縮したような、醜悪な何かだった。まるで怨嗟の塊のようなそれらが、ひたむきで一途な想いと共に花嫁へと向かう。
朧の守りが緩んだのだろうか。それとも木の力が限界に達してしまったのだろうか。或いは、影の力や呪い、願い、そして想いが、娘を庇護するそれらを上回っただけなのかもしれない。なんにせよ、一瞬前まで確かにそこにあった平穏が、瞬きひとつの間に消え去ってしまったことだけは確かだった。
目の当たりにした影の群れに、椿は思わず悲鳴を上げそうになった。しかし、場の人間に驚いた様子がないことに気づき、慌ててそれを呑み込む。どうやら他の人間には、あれが見えていないようだった。
「っ、朧さ、」
隣に座る朧に顔を向けながら、椿は彼の名を零しかけた。が、その途中で、朧の海色の瞳が色を失い、まるで虚ろのような闇に染まるのを目にし、言葉を呑みこむ。理由は判らないが、椿の本能が、今の彼の邪魔をしてはいけないと訴えていた。
漆黒の瞳が、影が押し寄せる花嫁の背後、黒く染まってもなお泰然と佇む美しい大樹を見据える。何千年もの生を刻んだ木肌の内側。その更に奥にあるそれをしかと捉えた朧の、その無機質な瞳孔が僅かに細まった。
瞬間、一切の前触れもなく、まるで春の嵐のような強い風が庭園に吹き込んだ。殴るような強さで、しかしどこか羽で撫でるような優しさを思わせる風が吹き荒れ、その場にいた誰もが反射的に目を閉じた。あまりの風に、手で目を覆う者や、袖で顔を隠す者さえいた。椿もまた、とてもではないが目を開けていられるような状況ではなかったため、何を考える間もなく瞼を強く閉じた。
暴力じみた勢いで庭を駆け巡ったそれは、しかし吹いたときと同じように、何の前触れもなく唐突にその勢いを弱めた。
椿は、妖鳥の持つ感覚で人よりも早くそれを感じ取り、何が起こったのかを確かめようと、瞼を押し上げた。そして、
「…………花、びら」
ぽつりと落ちた椿の言葉に、続いて目を開けたのは誰だったか。
連鎖するように次々と目を開き顔を上げた人々は、その光景に息を呑み、そして僅かな熱と共に吐き出した。
柔らかな風に舞い、まるで雪のように降り注ぐ、無数の花弁。透き通るような純白のそれは、陽に煌めいて一層輝き、光のようですらあった。
きらきらと輝く数多の白が、庭園に、人々に、花嫁に、ひらりひらりと舞い落ちていく。そんな白の輝きに溢れた世界で、人々はそれを見た。
花婿と花嫁の更に向こうにそびえる、巨大な樹。雪解けに濡れる土色の幹を持ったそれは、同じ色の枝に零れそうなほどに花々を咲かせ、そして、惜しげもなくその花弁を散らしていた。
まるで花嫁を祝福しているようだ、と、誰かが呟く。それを合図とするように、人々はこぞって祝いの言葉を口にし、それに背を押されるようにして、花嫁は再び盃を口元へと運んだ。
恭しい手つきで寄せられた盃が、今度こそ彼女の口元へと届き、そして、紅で彩られた唇が、その縁にそっと触れた。透明な液体が口の隙間から喉へと流れ、こくりと小さな音と共に彼女の体内へと落ちる。
一番遠くの席からそれを見ていた椿は、そこで小さく息を呑んだ。思わず隣の朧を窺えば、いつの間にか海色の瞳に戻った彼は、穏やかで優しい、しかし寂しそうな悲しそうな目でそれを見ていた。
そんな朧に何も言うことができず、椿もまた朧と同じものを見るために、花嫁の隣へと視線を戻す。
花婿とは反対側のそこには、半透明の人型がいた。薄紅色の衣を纏ったそれは、地面に垂れて引き摺るほどに長い白髪を風に靡かせ、柔らかな笑みを浮かべている。まるでこの世の幸の全てを与えられたかのような穏やかさで、静かに彼女を見つめている。
花びらは止まない。あとからあとから溢れ出るようにして、花嫁へと零れていく。
そうして花嫁の喉が、最後の一滴を内側へと落とした。
その瞬間、咲き誇る花々が割れるようにして砕けた。砕けて散って、花びらよりも細かな破片となって、輝きとともに風に躍る。きらきらと陽を反射するそれらは、きっと光そのものだった。
煌めきが散って落ちる中、ほとんど透明になったそれは、朧と椿へと顔を向けた。そして、深く深く頭を下げ、風に浚われるようにして消えていった。
元々は屋敷の中で開かれる予定だった祝いの儀は、その予定を変更し、大樹が佇む庭園にて行われている。黒い木を祓う上でどうしても必要なのだと言って、朧が場所の変更を求めたのだ。
だが、勿論その説明は嘘だ。ただ朧は、大樹に娘の晴れ姿を見せてやりたかっただけなのだろうと椿は思う。だから、渋る領主をわざわざ説得してまで、庭園での祝言にこだわったのだろう。
厳かな儀式の中、椿は少し離れたところに見える花嫁の様子をそっと窺った。
未来への期待と喜びに頬を紅潮させ、夫となる人と並んで歩く娘は、それはそれは美しかった。単純な外見だけの話ではない。その身から溢れるあらゆるものが青空に照らされて輝き、それを見ただけで、幸福とはこういうものだと判るような、そんな様子だった。
朧の守りによるものなのか、大樹の尽力によるものなのか、或いは両方なのか。それは椿には判らないが、祝言の儀は滞りなく進んでいき、いよいよ盃を交わすという段まで辿り着いた。
花婿と花嫁が盃に注がれた酒を交互に呑むことで、婚姻という契約が正式に成立する。これさえ成し遂げることができれば、娘を狙う影は手を出せなくなるはずだ。
美しく澄んだ酒が注がれた盃に、花婿が口をつける。透明な液体を三度に分けてこくりと飲み干した彼は、その盃を花嫁へと向けた。差し出されたそれを、はにかんだ花嫁がそっと受け取る。その盃にまた酒が注がれ、そして彼女は、そのまま盃を口元へと運ぼうとした。
そのときだった。
ぞわりと背筋を這った悪寒に、椿はばっと空を見た。
空に、黒々とした泥のような影が見える。それは、幾つもの影が集まって凝縮したような、醜悪な何かだった。まるで怨嗟の塊のようなそれらが、ひたむきで一途な想いと共に花嫁へと向かう。
朧の守りが緩んだのだろうか。それとも木の力が限界に達してしまったのだろうか。或いは、影の力や呪い、願い、そして想いが、娘を庇護するそれらを上回っただけなのかもしれない。なんにせよ、一瞬前まで確かにそこにあった平穏が、瞬きひとつの間に消え去ってしまったことだけは確かだった。
目の当たりにした影の群れに、椿は思わず悲鳴を上げそうになった。しかし、場の人間に驚いた様子がないことに気づき、慌ててそれを呑み込む。どうやら他の人間には、あれが見えていないようだった。
「っ、朧さ、」
隣に座る朧に顔を向けながら、椿は彼の名を零しかけた。が、その途中で、朧の海色の瞳が色を失い、まるで虚ろのような闇に染まるのを目にし、言葉を呑みこむ。理由は判らないが、椿の本能が、今の彼の邪魔をしてはいけないと訴えていた。
漆黒の瞳が、影が押し寄せる花嫁の背後、黒く染まってもなお泰然と佇む美しい大樹を見据える。何千年もの生を刻んだ木肌の内側。その更に奥にあるそれをしかと捉えた朧の、その無機質な瞳孔が僅かに細まった。
瞬間、一切の前触れもなく、まるで春の嵐のような強い風が庭園に吹き込んだ。殴るような強さで、しかしどこか羽で撫でるような優しさを思わせる風が吹き荒れ、その場にいた誰もが反射的に目を閉じた。あまりの風に、手で目を覆う者や、袖で顔を隠す者さえいた。椿もまた、とてもではないが目を開けていられるような状況ではなかったため、何を考える間もなく瞼を強く閉じた。
暴力じみた勢いで庭を駆け巡ったそれは、しかし吹いたときと同じように、何の前触れもなく唐突にその勢いを弱めた。
椿は、妖鳥の持つ感覚で人よりも早くそれを感じ取り、何が起こったのかを確かめようと、瞼を押し上げた。そして、
「…………花、びら」
ぽつりと落ちた椿の言葉に、続いて目を開けたのは誰だったか。
連鎖するように次々と目を開き顔を上げた人々は、その光景に息を呑み、そして僅かな熱と共に吐き出した。
柔らかな風に舞い、まるで雪のように降り注ぐ、無数の花弁。透き通るような純白のそれは、陽に煌めいて一層輝き、光のようですらあった。
きらきらと輝く数多の白が、庭園に、人々に、花嫁に、ひらりひらりと舞い落ちていく。そんな白の輝きに溢れた世界で、人々はそれを見た。
花婿と花嫁の更に向こうにそびえる、巨大な樹。雪解けに濡れる土色の幹を持ったそれは、同じ色の枝に零れそうなほどに花々を咲かせ、そして、惜しげもなくその花弁を散らしていた。
まるで花嫁を祝福しているようだ、と、誰かが呟く。それを合図とするように、人々はこぞって祝いの言葉を口にし、それに背を押されるようにして、花嫁は再び盃を口元へと運んだ。
恭しい手つきで寄せられた盃が、今度こそ彼女の口元へと届き、そして、紅で彩られた唇が、その縁にそっと触れた。透明な液体が口の隙間から喉へと流れ、こくりと小さな音と共に彼女の体内へと落ちる。
一番遠くの席からそれを見ていた椿は、そこで小さく息を呑んだ。思わず隣の朧を窺えば、いつの間にか海色の瞳に戻った彼は、穏やかで優しい、しかし寂しそうな悲しそうな目でそれを見ていた。
そんな朧に何も言うことができず、椿もまた朧と同じものを見るために、花嫁の隣へと視線を戻す。
花婿とは反対側のそこには、半透明の人型がいた。薄紅色の衣を纏ったそれは、地面に垂れて引き摺るほどに長い白髪を風に靡かせ、柔らかな笑みを浮かべている。まるでこの世の幸の全てを与えられたかのような穏やかさで、静かに彼女を見つめている。
花びらは止まない。あとからあとから溢れ出るようにして、花嫁へと零れていく。
そうして花嫁の喉が、最後の一滴を内側へと落とした。
その瞬間、咲き誇る花々が割れるようにして砕けた。砕けて散って、花びらよりも細かな破片となって、輝きとともに風に躍る。きらきらと陽を反射するそれらは、きっと光そのものだった。
煌めきが散って落ちる中、ほとんど透明になったそれは、朧と椿へと顔を向けた。そして、深く深く頭を下げ、風に浚われるようにして消えていった。
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