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みどりのめのかいぶつ
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それは、講義が始まるほんの少し前のことだ。
ふとスマートフォンが震えたのを感じ、彼はポケットからスマートフォンを取り出した。確認してみれば、メールの着信通知が表示されている。
差出人は大学からで、学生に向けた一斉メールのようだ。物騒な件名のそれを開いてみると、注意喚起文だった。要約すると、ここ最近大学の周辺で殺人事件が多発しているため、外出には気をつけろ、とのことである。
そういえば、この辺りで不審な殺人事件があったという記事をネットで見た覚えがあるな、と彼は思い出した。
とはいえ、殺人事件と言われてもいまいちピンと来ない、というのが彼の正直な感想だ。そういうものはテレビや小説の中の出来事で、自分に関わってくるものという認識を持てなかった。
第一、外出に気をつけろと言われても、大学生に外出を控えろというのは無理があるだろう。真面目な学生などほんの一握りで、多くは飲み会やらサークルやらと、無駄に外に出るものなのだから。
実際、今日も彼には七時から飲み会の予定が入っている。今回の飲み会は、同学科の二年生のほとんどが集まるそこそこ大きなものだ。
楽しみだな、などと思いながら、彼はなんとなく講義室全体を眺めた。もうすぐ授業が始まるため、殆どの学生は席に着いているが、未だに立ち話をしている者もちらほらいる。そんな中でふと一人、目に留まる男がいた。
講義室の一番後ろの、右端の席。そこに今しがたやって来たらしい男は、染めた形跡のない黒髪に、人ごみに沈むような地味な服を着ている。
黙々と机上にノートなどを広げている姿は、今まで何度も行われてきた飲み会でも見た覚えがない。そもそも、名前を知らないどころか、この授業にあんな奴が参加していただろうか、とさえ思う程度に、彼の記憶に男は存在していなかった。
――授業が終わったら、折角だし飲み会に誘ってみるか。
彼がそう思ったのは、ただの気紛れだった。
講義が終了し、室内がざわざわと騒めき出したところで、さてあいつはと後ろを振り返ってみると、件の男は既に帰り支度を整え終えているところだった。
会話を交わしている学友たちに目をくれることもなく、さっさと立ち去ろうとする後姿に、彼は慌てて駆け寄った。
「なぁ、ちょっと!」
男が扉を潜る寸前に、背後から声をかける。すると、男は大げさにびくりと肩を震わせて立ち止まった。
「めちゃくちゃ急ぐなー、あんた。なぁ、今日の夜なんか用事ある? 七時から駅前の居酒屋で飲み会すんだけど、あんたも良かったらどうよ?」
彼の誘いに、しかし男は数秒のあいだ反応を見せなかった。なんでそんな無反応なんだ、と彼が思ったあたりで、男がゆっくりと振り返る。そして向けられたその目を見て、彼は少しだけ息を呑んだ。
――緑の瞳だ。
一瞬そう思った彼だったが、それは違うということにすぐに気づいた。確かに色素の薄い目をしてはいるが、明瞭な緑色という訳ではない。寧ろ、改めて見れば薄い茶色に近い色だ。それこそ、海外の血が少しだけ混じっているのだろう、と思える程度のものである。顔立ちも少しだけ海外の血を窺わせるものなので、あながち間違いではないかもしれないな、と彼は思った。
そう、少し珍しいかもしれないが、そこまで驚くこともない、ただの人の目である。だが、ひどく潤みを帯びたその瞳の中に、どういう訳か緑が差したように見えたのだ。いや、緑に輝いて見えた、と言った方が正確だろうか。
一瞬だけ見えた気がした緑に、彼がなんだか二の句が告げないでいると、男は一度口を開いて、けれどそのまま何も言わずじまいに口を閉じた。そしてにこりともせずにただ一度首を横に振って、こちらに背を向けると足早に去って行ってしまう。
あっという間の出来事だった。
彼がぽかんと立ち尽くしていると、不意に後ろから声が掛けられた。
「お前、汀を誘うなんて馬鹿だなぁ」
振り返ってみれば、呆れ顔で立っていたのは彼の友人だった。
「ミギワ、って、あいつの名前?」
「そ。なんだお前、名前も知らないであいつ誘ったの?」
「いや、なんか見たことねーなって思ったから、折角だし……」
そう言うと、友人は更に呆れたような顔をした。
「あのなぁ、あいつ、すっげぇ付き合い悪いんだよ。俺、去年もあいつと同じ講義取ってたけど、イベントごとに誘っても全部断ってさぁ。つーかそもそも口すら利かねぇし、ふざけてるよな。だからもう誰もあいつを誘ったりしねぇの」
「へぇ。口利かないってのは何?」
「言葉通り。だーれもあいつが喋ってんの、見たことも聞いたこともないって話。どんだけコミュ障なんだよって感じだよなぁ。あいつ、グループディスカッションとかある授業取ったら、間違いなく単位落とすね」
「ふーん……」
随分と変わった奴なんだなぁ、と思いつつ相槌を打った彼の背を、友人が軽く叩く。
「お前もさぁ、あんま汀には関わんない方がいいぜ。なんか変な噂あるって聞いたこともあるし」
「噂? どんな?」
「さぁ。興味ねーもん」
「適当かよ」
なんともざっくばらんな答えに、彼は思わず苦笑いを浮かべた。対する友人は気にした風もなく、そんなことより今日の飲み会遅れんなよ、と笑ってから帰っていった。
その背を見送ってから、彼は一度、元々座っていた席まで戻った。慌てていたせいで、机上に物を広げたままだったのだ。
散らかっているそれらを鞄にしまう最中、彼の頭の中にあったのは飲み会のことではなく、先ほどの男――汀のことだった。
関わらない方がいい、と友人には言われたが、なんだかやけに気になるのだ。
見た目が地味で笑顔のひとつもなく、話を振っても欠片も愛想がないなど、汀には好印象を抱くような要素などない。だが、不思議と心のどこか、端っこあたりに引っかかって取れないような感覚を、彼は覚えた。似た感覚を探すと、喉に刺さった魚の細い骨のよう、というのが近いか。
そこでふと、彼の脳裏を、友人の言った“変な噂”という言葉が過ぎった。だが、すぐにそれを打ち消す。一定の閉鎖環境である大学内で走る噂など、どれだけ尾鰭胸鰭が付いて、大元とは別の物に成り果てているか判ったものではない。
結局のところ、百聞は一見に如かずなのだ。ならば、自分の目で確認するのが一番だろう。
そんなことを考えた彼の瞼の裏で、ふと緑の輝きが閃いたような気がした。
あの一件以降、汀を気にかけるようになって判ったことは、汀という男は孤独であるということだった。
誰とも関わろうとしない姿勢は孤高と取れることもあるのだろうが、汀に関して言えば、孤高と言うよりも孤独だと評する方がぴったりだと彼は思った。
彼と汀が被って取っている講義はひとつだけだったが、その講義では必ず、汀は一番後ろの右端の席に座る。そして毎回毎回、講義が始まる直前にやって来て、講義が終わると同時にさっさと退室してしまうのだ。彼が汀のことを認識していなかった原因は、主にそこにあったらしい。
初めて汀を認識して以降、彼は積極的に汀に関わるように努めた。近くに座ることから始まり、声をかけたり、構内でその姿を探したりした。
だが、反応の程は芳しくない。初対面の時点で愛想がないことは判っていたが、それにしても酷いのだ。反応があるだけマシな方で、彼が汀と二度目の邂逅を果たしたときなど、至近距離でにこやかに声をかけたというのに見事に無視された。まだ講義は始まっていなかったし、あの距離ならば絶対に声は聞こえていたはずなのに、である。
その後、講義中に何度かメモ書きで会話を試みたりもしたのだが、やはり全て無視された挙句、講義が終わった直後も、彼が話しかける間もなく汀はさっさと帰ってしまった。
流石に酷いなと思った彼だったが、いっそ清々しいまでの拒絶が逆に心に火を点けたので、汀からすれば対応を間違えたと言ったところだろうか。
そんなこんなでこのひと月ほど、彼は汀へ様々なアピールを続けてきたのだが、残念ながらまともな反応は未だに得られない。
それでも一応、認識はされ始めているようで、顔を合わせることができると、一瞬またコイツか、という顔をされるようにはなった。それ以上の何かはないが、僅かにリアクションが返ってくるだけ、進展と言えないこともないのかもしれない、と彼は思った。
そんな風に前向きな考えでいるからか、いまのところ彼には諦めるという発想はなかった。
「お前さぁ、結局汀の奴に構うのやめてないんだって?」
彼が何度目かの会話チャレンジに失敗した直後、そう声をかけてきたのは、彼に汀の名前を教えた友人だった。
「そうだけど」
「関わんない方が良いって言ったのに」
「別にいいだろ、俺がどうしたって」
「そりゃお前の勝手だけど、何が楽しいんだよ。一言も口利かねぇだろ、あいつ。追っかけ回してなんかあんの?」
友人の問いに、彼は逆に首を傾げる。
「なんかって何?」
「俺が訊いてんだけど? お前も大概物好きだよなぁ」
呆れ果てたように言われ、彼は少しむっとして眉間にしわを寄せた。
素気無くされ続けてなお諦めるつもりにならないのは、確かに自分でも物好きだと思わないでもない。しかし、それを他人に指摘されると少し反抗心が湧いてくる。
それを察したのか、友人はそう怒るなよと笑ってから、不意に表情を改めた。随分と真剣な表情だったので、思わず身構えた彼に対し、少し声を潜めるようにして友人が言う。
「あのさぁ、……前に言ったじゃん。汀、あいつ変な噂あるって」
「ああ、なんか言ってたな、そんなこと」
「あの後さ、結局気になってちょっと確かめてみたんだけど、それが要するに、あいつと関わると不幸になるとかそういうので」
「なんだそれ。小学校とか中学校とかのイジメでありそうな噂だなぁ」
「いやなんか、実際、あいつの周りで変なこと起きたとかあったらしいぜ」
その言葉に、はぁ、と気の抜けた返事を返して、今度は彼の方が呆れ顔になってしまった。
気になって確かめたという割に、友人の話はふわふわとした確証もない内容で、信ぴょう性が薄いと思ったのだ。だが、そんな彼の反応を気にすることなく、友人が話を続ける。
「あと、一ヶ月くらい前だったっけか。大学から一斉メール来たことあっただろ? ここらで殺人事件が起きてるから外出には気をつけろっての」
「あー、あったな」
「その事件、まだ落ち着いてないみたいなんだけど、それにもあいつが関わってるとか」
「いやいやいや」
あまりにも突飛な話に、彼は思わず待て待てと静止を入れた。先の噂も大概だが、今のはもっと酷い。
「流石にそこまで行くと、風評被害って言った方が良いだろ」
「まぁ、事件どうこうは確かになんとも言いがたいけど、火のないところに煙は立たないとも言うだろ? あそこまで人と関わらないでいるのにこんな噂流されるくらいなんだから、なんかはあるんだよ絶対。だから忠告してんの」
「忠告ねぇ」
友人は本気で言っているようだが、忠告って言われてもなぁ、と彼は思った。そして同時に、汀に対して少しだけ同情する。
あの壊滅的な愛想のなさを考えれば、少しは自業自得な部分もあるのだろうが、そんなことでいちいち殺人事件と結び付けられてしまうなど、たまったものではないだろう。
そんなことを考えている彼に、忠告はしたからな、と友人は念を押してから、次の講義に向かっていった。
賑やかしい男だな、などと思いつつその背を見送り、彼もまた自分の講義に向かうことにする。
次に受けるのは、汀と被っていない講義だ。ふと、自分がその事実を凄く残念に感じていることに気づき、彼は歩きながら思わず苦笑を漏らした。
ここ最近は大学にいないときでも、なんとなく汀について考えてしまうことが多い。先程物好きと指摘された際はむかっ腹が立ったものだが、冷静に考えると確かに物好きなのかもしれない、と彼は思った。
それにしても、と。先ほどの会話を思い返し、彼の脳裏に人混みに埋没しそうな汀の姿が浮かぶ。
先程の噂について、汀自身はどう思うのだろうか。別に噂好きでもなんでもないあの友人の耳に入るくらいだ。幾ら他人と関わらないとはいえ、当事者である汀ならば聞いたことくらいあるかもしれない。
他人に興味がないように、口さがない噂にも興味などないのだろうか。それとも、閉ざしているように見える心の内では、あの男も感情豊かに傷ついて悲しんだりするのだろうか。
そのとき不意に、初めて汀に声をかけた時の、不思議と潤んだ双眸を思い出して、彼の足が止まった。
ざわざわと胸が落ち着かない。訳も判らず、息が上がるような心地がした。それに急かされるように再び動き出した足は、講義室とは違う方向に向かっている。冷静な自分が何をしているんだと怒りの声を上げる一方で、もう一人の自分がのんびりしていないで走れと喚く。頭で考える間すらなく後者の声に従った彼は、いつの間にやら大学内を疾走していた。
正直、どこに行けば良いという当てはなかった。汀が次のコマの授業を何も取っていないことは知っているが、その間の汀の動向については知る由もない。ただ、恐らく人の多いところではないだろうと彼は思った。となると、候補に挙がるのは、この時間に授業がない講義室か、はたまた外れの方にある自習室か。
自分が把握している限りの該当箇所を頭に浮かべ、彼はまず、一番人がいないだろう場所に向かうことにした。
A棟の屋上へ続く階段。A棟の屋上は解放されておらず、ただのどん詰まりと化しているそこは、窓もなく暗い上に、夏は暑く冬は寒いため、人が近寄るような場所ではない。
息を切らしてそこに辿り着いた彼だったが、その場に目的の男はいなかった。踊り場から見上げる先には、ただ灰色の扉が鎮座しているだけである。
当てが外れたことにがっかりするも、まだ一箇所確認しただけだと気を取り直す。だが、次の場所に向かいかけた彼の耳を、ふと微かな音が掠めた。風が細い隙間を抜ける高い音だ。
窓もないような場所でどこから、と周囲を見回した彼は、そこで気づく。本来施錠されているはずの屋上の扉が、僅かに開いていたのだ。
何かに惹かれるように階段を上りきり、そっと扉に手をかける。期待か不安か、騒がしい心臓の音を聞きながらゆっくり手に力を込めれば、扉は蝶番の軋む音を上げながら、呆気ないほど容易く押し開かれた。
開けた視界の中、明度の差に僅かに痛む目を凝らした彼は、ようやくその姿を見つける。
「みぎわ」
彼が零したその名前は、風に浚われつつも消えることなく届いたらしい。
弾かれたように振り向いた男の顔は、驚愕に彩られていた。
「……ここ、いつの間に開いてたんだ? 屋上は立ち入り禁止だって鍵かかってたはずなのに。よく知ってたな」
そう言いながら彼が汀に近寄っていく間にも、汀は驚きから立ち返れないのか、目を丸くして彼を見つめていた。いつになく過剰な反応だった。ただ普段と違うのはそれだけで、それ以外はごくいつも通りに見える。なんだか安心して、彼はそっと胸を撫で下ろした。
そのあたりで気持ちが落ち着いたのか、汀の顔からは驚きの色が消えたが、代わりに眉根を寄せ、苛立っているような素振りで肩にかけていた鞄を漁り始めた。そして汀が引っ張り出したのは筆箱とノートで、乱暴な仕草で何かを書いたと思えば、それを彼の方に見せつけてきた。
『なんで付きまとってくるんですか?』
ノートいっぱいに書かれていた言葉は、汀の表情も相まって、どう捉えようにも疎ましさの表れにしか見えない。それでも、明確な意思を初めて向けられたという事実が、馬鹿みたいに彼の心を跳ねさせた。
そんな浮かれた心が、提示された疑問符への回答を流れるように弾き出す。
――なんでって。
「目が」
咄嗟に口をついて出た言葉に、彼自身が驚いた。苛立ちから訝しげな表情になった汀の様子も目に入らない程度には、自分の言葉に動揺し、それからすぐに、ああそうかと納得に至る。
どうしてこうも汀という男が気にかかるのか、答えはごく簡単だった。
あの色、緑に輝いたあの目の色が忘れられないままでいるのだ。もう一度あの色を見たいと、そう思っているのだ。潤み輝く緑が、脳裏に焼きついたままでいるから。
つまり、結局のところ。
「あんたの目がきれいだったから」
その一言に尽きた。
汀の両目が大きく見開かれる。そこにあの色が窺えないだろうかと覗き込もうとした彼は、ふと動きを止め、不思議そうに自身の喉に手をやった。
こぽり。
そんな音と共に、彼の口から何かが溢れてコンクリートの床を打った。
視線を落としてみれば、足元が濡れて日の光を反射している。そうして見ている間にも、その水濡れは後から後から面積を増やしていき、比例して、息苦しさが増していく。
思わず開けた彼の口から、大量の水がぼたりと落ちた。
「――――ッ!?」
口の奥、喉から肺、胃すら埋める水の感覚に、彼は必死に体内の水を吐き出そうとするが、水が尽きる気配はなく、空気の入り込む隙間をも奪って、ただただ彼の口から零れ落ちていく。
当然だ。床を濡らすこの水は、彼の内側から湧き上がっているのだから。
普通であれば有り得ないその事態を、彼は当然に理解できなかった。とはいえ仮にそれが超常的なものでなかったとしても、今まさに陸で溺れている最中の彼には、理解するだけの余裕などなかっただろう。
倒れ、喉と胸を掻き毟りながら悶える彼は、さながら陸に打ち上げられた魚のようだ。その口から、鼻から、絶えず潮の香りがする水が滾々と湧き出でて、大きな水溜りを形成していく。
一体何が。どうして。自分に何が起きているのか。
混乱の只中で、首を掻き毟りながら転がる彼の視界の端に、一瞬何か煌めくものが見えた気がした。何を考えるでもなく、反射的にそちらに目を向けて、彼は我が目を疑った。
――ソレは蛇のようだった。蛇のように長い身体。けれど蛇などよりもずっと太く、長く、大きく、頑強そうな身体は、青銀の輝きを持つ鱗で覆われていた。汀を捕らえるかのようにとぐろを巻くそれには、蛇にはありえない銀色の巨大な鰭があり、大きな口には、鋭い牙が所狭しと並んでいる。
そして何より、目が。
緑深く爛々と輝く目が。臓物から肉から骨から、何もかもをぐちゃぐちゃに裂いて潰して掻き混ぜて、彼の何もかもを芥と果てさせる、そんな眼光が、彼の全身に突き刺されている。
緑の輝きは、彼が汀に見たそれと似ているのに、それを望むどころか、忌避する心しか湧いてこない。
自分の置かれている状況すら思考から吹き飛ぶような、あまりに悍ましく、あまりに恐ろしいものが、確かにそこにあった。
「なっ、なんでっ!」
苦しみすら忘我に追いやられていた彼は、その場に響いた音がなんであるのかを把握するのに時間がかかった。
既に霞み始めている意識で、それでも今の声を、汀のものであると理解する。
ようやく聞くことができた声は、ごく普通の男のものだった。叫ぶ調子であるというだけで、特に高いことも低いこともない、無難と言うに相応しい声である。
だが不思議と、彼は途方もない恐怖に侵されながらも、その当たり障りのない汀の声を、美しいと感じた。
どうしてそれが美しいと思えるのだろうか。そんなことを考える前に、彼は両の耳に衝撃を感じて、そのままぶつりと意識を失った。
水溜りに転がっている肉塊は、未だその口や鼻、耳からとぽとぽと海水を溢れさせていた。白目を剥いた顔は恐怖に引き攣って醜く、しかしその中に僅かな歓喜が宿ったまま完全に動きを止めている。
その事実がなんとも腹立たしく、ソレは怒りのままに肉塊に意識を向けた。転がっている肉の頭を、熟れた果実が如く潰しておこうと思ったのだ。だが、その力を行使する寸前に、すぐ傍で聞こえた声がソレの動きを止めた。
「なんでだよ!」
割れるような叫び声が甘やかに耳を打ち、ソレ――海竜の如き異形の怪物は、視線を己が抱き込んでいる愛し子へと移した。こちらを見上げている矮小な身体はかすかに震え、引き攣った顔に嵌る二つの目が、一杯に涙を湛えてなんとも無様である。
それがとても愛おしく愛らしく、何より愛し子の目が己しか映していないということが喜ばしくて堪らないままに、怪物は緑の目を満足げに細めた。
「お、俺はっ、喋らなかっただろ!? なのになんで! なんでいきなり、こんな、こんな……!」
『何を言う、可愛いお前』
言い募ろうとする汀の声を遮るかのように、不可思議な音が響いた。音の羅列は意味を成し、確かに声の様相を保っているようで、しかし空気を震わせている訳ではない。頭蓋の隙間からさくりと脳に割り入るような、気味の悪いものだ。そして怪物が口を動かすたび、その音が汀の頭を侵していく。
『私は、幾度となくその肉がお前の視界の内に割り込むのを、健気にも堪えてみせたろう。だがその肉は、私の可愛いお前に触れ、美しいと賛美し、好意を抱き、より深くをお前に望んだ。余りにも度が過ぎた行いだ。故に罰した。それだけのこと』
判るだろう、お前。
怪物が愛しさを込めて囁くと、汀は何も聞きたくないとでも言うように耳を塞いで首を横に振った。しかし怪物の言葉は汀の鼓膜を揺らして伝わっている訳ではないのだから、あまりに無意味である。
それを厭うてか、頭の中に吹き込まれる声を掻き消すためか、汀はいっそうに声を荒げて叫び上げた。
「それでも俺はっ、ちゃんと関わらないようにしてた! 声だって、お前の言う通り誰とも喋らないでいたのに、お前がいきなりあんな真似したから! 俺はちゃんとルールを守ってたのに!」
『そうだね、可愛いお前。お前のその健気さはなんとも愛らしい』
怪物は身を捩じらせ、汀の顔を至近距離から覗き込む。汀が視線を避けるように顔を背けるも、怪物はそれを追って、身を乗り出すように汀の視界に割り込んだ。
『だが、可愛いお前。知っているのだろう? 判っているのだろう?』
囁く声に、察した汀が息を詰まらせた。それを見て、人の身体など骨ごと容易く砕けるだろう牙を持った口が、まるで笑むかの如くぎちりと歪む。
『罰されたあの肉は、挙句の果てにお前の美しいさえずりを耳にした。嗚呼、赦し難い。否、否、到底赦されぬ。そんな耳は奪ってしまわねば、私は身の内に荒れる妬心のあまりに狂ってしまう。お前はそれを知っている。知っていて、……それを犯したのはお前ではないか』
汀の全身が、熱病に冒されているかのように酷く震える。そして、絶望に塗れながら、震える唇でそれでも紡がれようとした言葉を、続く怪物の囁きがやんわりと無情に断ち切った。
『“何があろうともお前の声を私以外に晒してはならない”。この約定を破ったのは、紛れもなくお前だ。私が約定通り、お前の望むように、お前の周囲の有象無象を屠ることなく耐え忍んであげているというのに。私はただ罰を与えていただけだというのに。――その肉を屠ったのは、他ならぬお前自身だろう?』
いっそ優しいくらいの声音に、汀の顔は悲痛にぐちゃりと歪んだ。その表情の醜さの、何と美しいことだろうか。そして何よりも、絶望に染まる薄茶の瞳。いびつに見つめ返してくる双眸のその奥底で鈍く輝く炎の猛々しさを、怪物は心から賞賛し、うっとりと魅入った。
自然と想起するのは、怪物がこの愛し子と出逢った時のことだ。
永きを存在するが故に時の流れは曖昧で、過ぎたその時がいつだったのか、明確には覚えていない。それでも、脆弱な人である怪物の愛し子が死んでいないということは、そう遠い昔のことではないはずだ。
その頃の怪物は今のような矮小な姿をしておらず、鰭の動きひとつで小さな島を容易く沈められるほどの巨躯で、海原の底に没していた。
それがどうしてその時海面へと浮上していたのか。怪物は自身のことであれどやはり覚えてはいなかったが、これを運命と呼ぶのであればそうなのだろうと思っている。
上がっていった先、怪物がゆっくりと泳ぐだけで酷く荒れる海に、人間がひとつ、海流に揉まれて死にかけていた。どうしてそうなっていたのか、怪物は知らないし、興味もない。ただ、辛うじて生きてはいるものの、風前の灯火と言っても過言ではない有様のそれは、本来ならば怪物の意識に引っかかりもしないような、路傍の石にすら成り得ないような存在だった。
それでも。
それでも怪物は、その人間を確かに認めた。
一瞬垣間見た小さな目玉の内に宿るものに、怪物はきっと初めて心が震えた。水に埋もれ潰された声無き叫び声に、怪物は歓喜の絶叫を挙げたいほどの情動を覚えた。もしかするとこれこそが、怪物をここまで呼んだのかもしれなかった。
どうして。何故。死の淵に瀕してなおそう喚き上げ繰り返される声は、己が身の不幸を嘆いた悲嘆ではなかった。
どうして俺がこんな目に遭っていて他の奴は無事なのだろうか。何故俺がこんなに苦しい思いをしているのに、今ものうのうと生きている奴がいるのだろうか。
憎らしい。腹立たしい。羨ましい。妬ましい。
――俺が死に掛けている今、生きているあらゆるものが妬ましい!
死の淵に在るとは思えないほどの鮮烈な叫びは、自身の命運ではなく、己以外のあらゆる全てを呪う妬心の塊だった。
それがとても美しくて――怪物は、存在を始めてから幾星霜の年月を経て、その時ようやく愛おしさを学んだ。この魂こそが、己のつがいであるのだと理解したのだ。
それから怪物は愛しいその人間の、汀の命を救って、共に在ることを定めた。自らの力を封じ、在るべき場所である海を離れ、矮小な姿に身を落としてでも、傍に在ることを決めた。
そして、そのとき汀と怪物が交わした約定が、四つ。
ひとつ、汀の声を怪物以外の何者にも晒さないこと。
ふたつ、汀は怪物以外の何者とも深く関わり合わないこと。
みっつ、以上二つを汀が履行する場合、怪物は汀の周囲に手を出さないこと。
よっつ、汀の周囲が汀へ過干渉を行う等の罪を犯した場合は、これに限らない。
ただ、約定と言っても、これには怪物を縛るような強制力はない。いわば口約束にしか過ぎず、破ったとしても怪物の側になんらデメリットは生じない。
怪物からすれば、自身の愛し子を見るも聞くも、愛し子に聞かれるも見られるも、もっと言えば僅か一瞬でも認識し、認識される全てが妬ましいため、約定など気にせず、その全てを屠った方がずっと気分が良いはずだ。だが、それでも怪物は、ままごとじみた口約束を守っている。なんの枷にもならない首輪に繋がれてあげている。
その理由こそが、まさに目の前にあるこれだ。
ぐずぐずに歪みながら、怪物を見つめている汀の表情を彩るのは、己の存在が他者を害している事実への絶望である。汀は、自身の言動、心持ちのひとつで、見知ったもの、見知らぬもの問わず、何かを屠ることを恐れ、嘆いている。
だがそんな外面の一枚下、剥いた奥にあるのは、いつだって他者への妬みだ。煮え滾る憎悪に近い嫉妬、それこそが汀の本質だった。
本当に他者を害することを厭うのならば、さっさと自身の命を断ち切ればよい。そうすれば怪物は肉の檻から解放された愛しい魂を捕らえて、また水底に戻ることだろう。生きるも死ぬも、どちらにせよ永劫に怪物から逃れることがあたわぬならば、そちらを選べばまだ他者への影響を軽くできる。それを汀がしないのは、自身の命が惜しいからではなく、自分は死なねばならぬのに周囲はそうではないという、相対的な他者の幸福が妬ましいからだ。
怪物の想いが深みから絶えず湧き出で尽き果てぬ、何もかも押し潰す濁流のようであれば、愛し子のそれは、欠片も弱まることを知らぬ、燃え盛り爆ぜる業炎である。その熱が他者を焼き尽くすことを厭いながら、それを向けることを止めようとはしない。
人間が真の意味で孤独に生きていくことは難しい。なればこそ、怪物は約定を守るのだ。生きる以上、独りになりきれない汀は必ず約定を犯す。その瞬間の汀の炎は、より強く猛り燃え盛る。
なんて美しい炎だろうか。怪物は恍惚としながら、いっそうきつく汀に寄り添った。骨が軋む寸前の力に、汀が苦痛に歯を食い縛る。そこに舌を這わせてみれば、細い喉の奥から枯れた笛の音のような悲鳴が小さく響いた。そんな無様すら、怪物には大層愛らしいものに映って見えるのだ。
『本当にあわれで可愛いね、お前は』
低く漏れた笑い混じりの言葉に、汀が涙濡れた目できつく怪物を睨みつける。その瞳に輝く緑の光。滾る妬心が怪物のそれと共鳴して、異形の目と同じ色を露わにするのを、怪物はとても好ましく思っている。
しかし、美しく強い炎は、誘蛾灯のように働くことがままある。そこに転がる肉塊のように、愛し子の炎に燃やされんと近寄る虫の、なんと多いことだろう。そんな、汀に惹かれるものがどこかに存在するという、ただそれだけの事実ですら、怪物の胸中を嵐が如く荒れさせるのだ。
その度に、この小さな目玉二つを潰してしまおうかと考えて、同時に、潰せば二度とこの緑を見ることが叶わぬのだと思い留まり、懊悩する。
妬ましい、憎らしい。私だけであるべきだというのに。他の一切など必要なく、この魂と共に在り、気づき、見て聞いて感じて、愛するは、この身だけで良いというのに。有象無象の全てが赦し難い。しかし、嫉妬の怪物のつがいたる魂は、つがいであるが故にあらゆる生命を妬み嫉み薪とし、焼き尽くしてなお止まらないだろう。だからこそのつがい。それでこその運命。
ああ、なんて愛おしい!
湧き上がる想いのまま、怪物は愛し子にしか聞こえぬ喜悦を高らかに轟かせる。咆哮じみた音なき哄笑に、辺りの空気がびりびりと震えた。
愛おしくて堪らない。私の本性で頭から丸呑みにしてあげたい。愛し子の炎にならば、臓物を焼かれる感覚すらも大層心地良いことだろう!
しかし、もしそうなったとしたら、その時は愛し子の血肉と一体化した己が身をも妬んでしまうのだろうか。
只人には到底理解し難い怪物の思考など知る由もない汀は、突如狂ったように笑い出した怪物に、怯えつつも困惑しているようだった。気味の悪い異物を見るような目を向けられた怪物は、しかし汀が今こうして認識し、意識の上に上らせているものが自分だけであることが心底愉快で、ひとしきり笑い上げた。
『ああ……、驚かせてしまった。すまないね、可愛いお前。何、心配することはないよ。お前が愛おしいと、ただそれだけのことなのだから』
暫くしてようやく笑いを収めた怪物は、謝罪を告げながらゆっくりと汀を締め付ける力を緩める。痛苦から解放され、安心したように小さく息を吐き出した汀は、怪物に言葉を返すでもなく、ただ疲れたように首を横に振った。実際、青白くなった彼の顔には色濃い疲労が浮かんでいる。
「…………もどらないと」
ぽつりと落とされた愛し子の言葉に、怪物が残念そうに、そしてあからさまに妬心を織り交ぜて囁く。
『私はずっとこのまま、お前とふたりきりであるのが好ましいと思うのだけれど』
その言葉に、しかし汀は厭そうに横目で怪物を見遣っただけだった。
大きく息を吐き出した汀が、宣言通りに戻ろうと一歩を踏み出す。だが、その歩みはすぐに止まった。足を止めた彼の視線の先にあるのは、床に転がっている人だったものだ。
見下ろす汀の目に、恐怖と歓喜に歪んだまま止まった表情が映って、色素の薄い双眸がかき混ぜたように揺らいだ。だが、それから一呼吸の間を置いた汀は、興味が失せたように視線を前に戻し、歩みを再開する。
『……ふふ』
そんな愛し子の心の動きが手に取るように判って、怪物は小さく笑みを漏らした。
己が手をかけたことへの罪悪感。罪を犯したことと、それに伴う裁きへの恐れ。奪われた命への哀れみ。それら全てを覆しうるほどの、死による解放への憧憬と妬み。
どこまでいってもこの矮小な、醜悪な、愛しい生き物は、生も死も全てを情念で焼き尽くして、灰の山の上で怪物と共に、被害者のような顔をして立ち尽くすのだ。
『愛しているよ』
万感の思いを込めて、怪物はそっと汀に耳打ちした。本当に本当に、ただただ愛おしくて仕方がないのだ。
至高の愛を囁く怪物に、汀が疎ましさを込めて死ねと吐き出す。だが、浮かれた怪物の頭では、それすらも愛の囁きにしか聞こえなかった。
ふとスマートフォンが震えたのを感じ、彼はポケットからスマートフォンを取り出した。確認してみれば、メールの着信通知が表示されている。
差出人は大学からで、学生に向けた一斉メールのようだ。物騒な件名のそれを開いてみると、注意喚起文だった。要約すると、ここ最近大学の周辺で殺人事件が多発しているため、外出には気をつけろ、とのことである。
そういえば、この辺りで不審な殺人事件があったという記事をネットで見た覚えがあるな、と彼は思い出した。
とはいえ、殺人事件と言われてもいまいちピンと来ない、というのが彼の正直な感想だ。そういうものはテレビや小説の中の出来事で、自分に関わってくるものという認識を持てなかった。
第一、外出に気をつけろと言われても、大学生に外出を控えろというのは無理があるだろう。真面目な学生などほんの一握りで、多くは飲み会やらサークルやらと、無駄に外に出るものなのだから。
実際、今日も彼には七時から飲み会の予定が入っている。今回の飲み会は、同学科の二年生のほとんどが集まるそこそこ大きなものだ。
楽しみだな、などと思いながら、彼はなんとなく講義室全体を眺めた。もうすぐ授業が始まるため、殆どの学生は席に着いているが、未だに立ち話をしている者もちらほらいる。そんな中でふと一人、目に留まる男がいた。
講義室の一番後ろの、右端の席。そこに今しがたやって来たらしい男は、染めた形跡のない黒髪に、人ごみに沈むような地味な服を着ている。
黙々と机上にノートなどを広げている姿は、今まで何度も行われてきた飲み会でも見た覚えがない。そもそも、名前を知らないどころか、この授業にあんな奴が参加していただろうか、とさえ思う程度に、彼の記憶に男は存在していなかった。
――授業が終わったら、折角だし飲み会に誘ってみるか。
彼がそう思ったのは、ただの気紛れだった。
講義が終了し、室内がざわざわと騒めき出したところで、さてあいつはと後ろを振り返ってみると、件の男は既に帰り支度を整え終えているところだった。
会話を交わしている学友たちに目をくれることもなく、さっさと立ち去ろうとする後姿に、彼は慌てて駆け寄った。
「なぁ、ちょっと!」
男が扉を潜る寸前に、背後から声をかける。すると、男は大げさにびくりと肩を震わせて立ち止まった。
「めちゃくちゃ急ぐなー、あんた。なぁ、今日の夜なんか用事ある? 七時から駅前の居酒屋で飲み会すんだけど、あんたも良かったらどうよ?」
彼の誘いに、しかし男は数秒のあいだ反応を見せなかった。なんでそんな無反応なんだ、と彼が思ったあたりで、男がゆっくりと振り返る。そして向けられたその目を見て、彼は少しだけ息を呑んだ。
――緑の瞳だ。
一瞬そう思った彼だったが、それは違うということにすぐに気づいた。確かに色素の薄い目をしてはいるが、明瞭な緑色という訳ではない。寧ろ、改めて見れば薄い茶色に近い色だ。それこそ、海外の血が少しだけ混じっているのだろう、と思える程度のものである。顔立ちも少しだけ海外の血を窺わせるものなので、あながち間違いではないかもしれないな、と彼は思った。
そう、少し珍しいかもしれないが、そこまで驚くこともない、ただの人の目である。だが、ひどく潤みを帯びたその瞳の中に、どういう訳か緑が差したように見えたのだ。いや、緑に輝いて見えた、と言った方が正確だろうか。
一瞬だけ見えた気がした緑に、彼がなんだか二の句が告げないでいると、男は一度口を開いて、けれどそのまま何も言わずじまいに口を閉じた。そしてにこりともせずにただ一度首を横に振って、こちらに背を向けると足早に去って行ってしまう。
あっという間の出来事だった。
彼がぽかんと立ち尽くしていると、不意に後ろから声が掛けられた。
「お前、汀を誘うなんて馬鹿だなぁ」
振り返ってみれば、呆れ顔で立っていたのは彼の友人だった。
「ミギワ、って、あいつの名前?」
「そ。なんだお前、名前も知らないであいつ誘ったの?」
「いや、なんか見たことねーなって思ったから、折角だし……」
そう言うと、友人は更に呆れたような顔をした。
「あのなぁ、あいつ、すっげぇ付き合い悪いんだよ。俺、去年もあいつと同じ講義取ってたけど、イベントごとに誘っても全部断ってさぁ。つーかそもそも口すら利かねぇし、ふざけてるよな。だからもう誰もあいつを誘ったりしねぇの」
「へぇ。口利かないってのは何?」
「言葉通り。だーれもあいつが喋ってんの、見たことも聞いたこともないって話。どんだけコミュ障なんだよって感じだよなぁ。あいつ、グループディスカッションとかある授業取ったら、間違いなく単位落とすね」
「ふーん……」
随分と変わった奴なんだなぁ、と思いつつ相槌を打った彼の背を、友人が軽く叩く。
「お前もさぁ、あんま汀には関わんない方がいいぜ。なんか変な噂あるって聞いたこともあるし」
「噂? どんな?」
「さぁ。興味ねーもん」
「適当かよ」
なんともざっくばらんな答えに、彼は思わず苦笑いを浮かべた。対する友人は気にした風もなく、そんなことより今日の飲み会遅れんなよ、と笑ってから帰っていった。
その背を見送ってから、彼は一度、元々座っていた席まで戻った。慌てていたせいで、机上に物を広げたままだったのだ。
散らかっているそれらを鞄にしまう最中、彼の頭の中にあったのは飲み会のことではなく、先ほどの男――汀のことだった。
関わらない方がいい、と友人には言われたが、なんだかやけに気になるのだ。
見た目が地味で笑顔のひとつもなく、話を振っても欠片も愛想がないなど、汀には好印象を抱くような要素などない。だが、不思議と心のどこか、端っこあたりに引っかかって取れないような感覚を、彼は覚えた。似た感覚を探すと、喉に刺さった魚の細い骨のよう、というのが近いか。
そこでふと、彼の脳裏を、友人の言った“変な噂”という言葉が過ぎった。だが、すぐにそれを打ち消す。一定の閉鎖環境である大学内で走る噂など、どれだけ尾鰭胸鰭が付いて、大元とは別の物に成り果てているか判ったものではない。
結局のところ、百聞は一見に如かずなのだ。ならば、自分の目で確認するのが一番だろう。
そんなことを考えた彼の瞼の裏で、ふと緑の輝きが閃いたような気がした。
あの一件以降、汀を気にかけるようになって判ったことは、汀という男は孤独であるということだった。
誰とも関わろうとしない姿勢は孤高と取れることもあるのだろうが、汀に関して言えば、孤高と言うよりも孤独だと評する方がぴったりだと彼は思った。
彼と汀が被って取っている講義はひとつだけだったが、その講義では必ず、汀は一番後ろの右端の席に座る。そして毎回毎回、講義が始まる直前にやって来て、講義が終わると同時にさっさと退室してしまうのだ。彼が汀のことを認識していなかった原因は、主にそこにあったらしい。
初めて汀を認識して以降、彼は積極的に汀に関わるように努めた。近くに座ることから始まり、声をかけたり、構内でその姿を探したりした。
だが、反応の程は芳しくない。初対面の時点で愛想がないことは判っていたが、それにしても酷いのだ。反応があるだけマシな方で、彼が汀と二度目の邂逅を果たしたときなど、至近距離でにこやかに声をかけたというのに見事に無視された。まだ講義は始まっていなかったし、あの距離ならば絶対に声は聞こえていたはずなのに、である。
その後、講義中に何度かメモ書きで会話を試みたりもしたのだが、やはり全て無視された挙句、講義が終わった直後も、彼が話しかける間もなく汀はさっさと帰ってしまった。
流石に酷いなと思った彼だったが、いっそ清々しいまでの拒絶が逆に心に火を点けたので、汀からすれば対応を間違えたと言ったところだろうか。
そんなこんなでこのひと月ほど、彼は汀へ様々なアピールを続けてきたのだが、残念ながらまともな反応は未だに得られない。
それでも一応、認識はされ始めているようで、顔を合わせることができると、一瞬またコイツか、という顔をされるようにはなった。それ以上の何かはないが、僅かにリアクションが返ってくるだけ、進展と言えないこともないのかもしれない、と彼は思った。
そんな風に前向きな考えでいるからか、いまのところ彼には諦めるという発想はなかった。
「お前さぁ、結局汀の奴に構うのやめてないんだって?」
彼が何度目かの会話チャレンジに失敗した直後、そう声をかけてきたのは、彼に汀の名前を教えた友人だった。
「そうだけど」
「関わんない方が良いって言ったのに」
「別にいいだろ、俺がどうしたって」
「そりゃお前の勝手だけど、何が楽しいんだよ。一言も口利かねぇだろ、あいつ。追っかけ回してなんかあんの?」
友人の問いに、彼は逆に首を傾げる。
「なんかって何?」
「俺が訊いてんだけど? お前も大概物好きだよなぁ」
呆れ果てたように言われ、彼は少しむっとして眉間にしわを寄せた。
素気無くされ続けてなお諦めるつもりにならないのは、確かに自分でも物好きだと思わないでもない。しかし、それを他人に指摘されると少し反抗心が湧いてくる。
それを察したのか、友人はそう怒るなよと笑ってから、不意に表情を改めた。随分と真剣な表情だったので、思わず身構えた彼に対し、少し声を潜めるようにして友人が言う。
「あのさぁ、……前に言ったじゃん。汀、あいつ変な噂あるって」
「ああ、なんか言ってたな、そんなこと」
「あの後さ、結局気になってちょっと確かめてみたんだけど、それが要するに、あいつと関わると不幸になるとかそういうので」
「なんだそれ。小学校とか中学校とかのイジメでありそうな噂だなぁ」
「いやなんか、実際、あいつの周りで変なこと起きたとかあったらしいぜ」
その言葉に、はぁ、と気の抜けた返事を返して、今度は彼の方が呆れ顔になってしまった。
気になって確かめたという割に、友人の話はふわふわとした確証もない内容で、信ぴょう性が薄いと思ったのだ。だが、そんな彼の反応を気にすることなく、友人が話を続ける。
「あと、一ヶ月くらい前だったっけか。大学から一斉メール来たことあっただろ? ここらで殺人事件が起きてるから外出には気をつけろっての」
「あー、あったな」
「その事件、まだ落ち着いてないみたいなんだけど、それにもあいつが関わってるとか」
「いやいやいや」
あまりにも突飛な話に、彼は思わず待て待てと静止を入れた。先の噂も大概だが、今のはもっと酷い。
「流石にそこまで行くと、風評被害って言った方が良いだろ」
「まぁ、事件どうこうは確かになんとも言いがたいけど、火のないところに煙は立たないとも言うだろ? あそこまで人と関わらないでいるのにこんな噂流されるくらいなんだから、なんかはあるんだよ絶対。だから忠告してんの」
「忠告ねぇ」
友人は本気で言っているようだが、忠告って言われてもなぁ、と彼は思った。そして同時に、汀に対して少しだけ同情する。
あの壊滅的な愛想のなさを考えれば、少しは自業自得な部分もあるのだろうが、そんなことでいちいち殺人事件と結び付けられてしまうなど、たまったものではないだろう。
そんなことを考えている彼に、忠告はしたからな、と友人は念を押してから、次の講義に向かっていった。
賑やかしい男だな、などと思いつつその背を見送り、彼もまた自分の講義に向かうことにする。
次に受けるのは、汀と被っていない講義だ。ふと、自分がその事実を凄く残念に感じていることに気づき、彼は歩きながら思わず苦笑を漏らした。
ここ最近は大学にいないときでも、なんとなく汀について考えてしまうことが多い。先程物好きと指摘された際はむかっ腹が立ったものだが、冷静に考えると確かに物好きなのかもしれない、と彼は思った。
それにしても、と。先ほどの会話を思い返し、彼の脳裏に人混みに埋没しそうな汀の姿が浮かぶ。
先程の噂について、汀自身はどう思うのだろうか。別に噂好きでもなんでもないあの友人の耳に入るくらいだ。幾ら他人と関わらないとはいえ、当事者である汀ならば聞いたことくらいあるかもしれない。
他人に興味がないように、口さがない噂にも興味などないのだろうか。それとも、閉ざしているように見える心の内では、あの男も感情豊かに傷ついて悲しんだりするのだろうか。
そのとき不意に、初めて汀に声をかけた時の、不思議と潤んだ双眸を思い出して、彼の足が止まった。
ざわざわと胸が落ち着かない。訳も判らず、息が上がるような心地がした。それに急かされるように再び動き出した足は、講義室とは違う方向に向かっている。冷静な自分が何をしているんだと怒りの声を上げる一方で、もう一人の自分がのんびりしていないで走れと喚く。頭で考える間すらなく後者の声に従った彼は、いつの間にやら大学内を疾走していた。
正直、どこに行けば良いという当てはなかった。汀が次のコマの授業を何も取っていないことは知っているが、その間の汀の動向については知る由もない。ただ、恐らく人の多いところではないだろうと彼は思った。となると、候補に挙がるのは、この時間に授業がない講義室か、はたまた外れの方にある自習室か。
自分が把握している限りの該当箇所を頭に浮かべ、彼はまず、一番人がいないだろう場所に向かうことにした。
A棟の屋上へ続く階段。A棟の屋上は解放されておらず、ただのどん詰まりと化しているそこは、窓もなく暗い上に、夏は暑く冬は寒いため、人が近寄るような場所ではない。
息を切らしてそこに辿り着いた彼だったが、その場に目的の男はいなかった。踊り場から見上げる先には、ただ灰色の扉が鎮座しているだけである。
当てが外れたことにがっかりするも、まだ一箇所確認しただけだと気を取り直す。だが、次の場所に向かいかけた彼の耳を、ふと微かな音が掠めた。風が細い隙間を抜ける高い音だ。
窓もないような場所でどこから、と周囲を見回した彼は、そこで気づく。本来施錠されているはずの屋上の扉が、僅かに開いていたのだ。
何かに惹かれるように階段を上りきり、そっと扉に手をかける。期待か不安か、騒がしい心臓の音を聞きながらゆっくり手に力を込めれば、扉は蝶番の軋む音を上げながら、呆気ないほど容易く押し開かれた。
開けた視界の中、明度の差に僅かに痛む目を凝らした彼は、ようやくその姿を見つける。
「みぎわ」
彼が零したその名前は、風に浚われつつも消えることなく届いたらしい。
弾かれたように振り向いた男の顔は、驚愕に彩られていた。
「……ここ、いつの間に開いてたんだ? 屋上は立ち入り禁止だって鍵かかってたはずなのに。よく知ってたな」
そう言いながら彼が汀に近寄っていく間にも、汀は驚きから立ち返れないのか、目を丸くして彼を見つめていた。いつになく過剰な反応だった。ただ普段と違うのはそれだけで、それ以外はごくいつも通りに見える。なんだか安心して、彼はそっと胸を撫で下ろした。
そのあたりで気持ちが落ち着いたのか、汀の顔からは驚きの色が消えたが、代わりに眉根を寄せ、苛立っているような素振りで肩にかけていた鞄を漁り始めた。そして汀が引っ張り出したのは筆箱とノートで、乱暴な仕草で何かを書いたと思えば、それを彼の方に見せつけてきた。
『なんで付きまとってくるんですか?』
ノートいっぱいに書かれていた言葉は、汀の表情も相まって、どう捉えようにも疎ましさの表れにしか見えない。それでも、明確な意思を初めて向けられたという事実が、馬鹿みたいに彼の心を跳ねさせた。
そんな浮かれた心が、提示された疑問符への回答を流れるように弾き出す。
――なんでって。
「目が」
咄嗟に口をついて出た言葉に、彼自身が驚いた。苛立ちから訝しげな表情になった汀の様子も目に入らない程度には、自分の言葉に動揺し、それからすぐに、ああそうかと納得に至る。
どうしてこうも汀という男が気にかかるのか、答えはごく簡単だった。
あの色、緑に輝いたあの目の色が忘れられないままでいるのだ。もう一度あの色を見たいと、そう思っているのだ。潤み輝く緑が、脳裏に焼きついたままでいるから。
つまり、結局のところ。
「あんたの目がきれいだったから」
その一言に尽きた。
汀の両目が大きく見開かれる。そこにあの色が窺えないだろうかと覗き込もうとした彼は、ふと動きを止め、不思議そうに自身の喉に手をやった。
こぽり。
そんな音と共に、彼の口から何かが溢れてコンクリートの床を打った。
視線を落としてみれば、足元が濡れて日の光を反射している。そうして見ている間にも、その水濡れは後から後から面積を増やしていき、比例して、息苦しさが増していく。
思わず開けた彼の口から、大量の水がぼたりと落ちた。
「――――ッ!?」
口の奥、喉から肺、胃すら埋める水の感覚に、彼は必死に体内の水を吐き出そうとするが、水が尽きる気配はなく、空気の入り込む隙間をも奪って、ただただ彼の口から零れ落ちていく。
当然だ。床を濡らすこの水は、彼の内側から湧き上がっているのだから。
普通であれば有り得ないその事態を、彼は当然に理解できなかった。とはいえ仮にそれが超常的なものでなかったとしても、今まさに陸で溺れている最中の彼には、理解するだけの余裕などなかっただろう。
倒れ、喉と胸を掻き毟りながら悶える彼は、さながら陸に打ち上げられた魚のようだ。その口から、鼻から、絶えず潮の香りがする水が滾々と湧き出でて、大きな水溜りを形成していく。
一体何が。どうして。自分に何が起きているのか。
混乱の只中で、首を掻き毟りながら転がる彼の視界の端に、一瞬何か煌めくものが見えた気がした。何を考えるでもなく、反射的にそちらに目を向けて、彼は我が目を疑った。
――ソレは蛇のようだった。蛇のように長い身体。けれど蛇などよりもずっと太く、長く、大きく、頑強そうな身体は、青銀の輝きを持つ鱗で覆われていた。汀を捕らえるかのようにとぐろを巻くそれには、蛇にはありえない銀色の巨大な鰭があり、大きな口には、鋭い牙が所狭しと並んでいる。
そして何より、目が。
緑深く爛々と輝く目が。臓物から肉から骨から、何もかもをぐちゃぐちゃに裂いて潰して掻き混ぜて、彼の何もかもを芥と果てさせる、そんな眼光が、彼の全身に突き刺されている。
緑の輝きは、彼が汀に見たそれと似ているのに、それを望むどころか、忌避する心しか湧いてこない。
自分の置かれている状況すら思考から吹き飛ぶような、あまりに悍ましく、あまりに恐ろしいものが、確かにそこにあった。
「なっ、なんでっ!」
苦しみすら忘我に追いやられていた彼は、その場に響いた音がなんであるのかを把握するのに時間がかかった。
既に霞み始めている意識で、それでも今の声を、汀のものであると理解する。
ようやく聞くことができた声は、ごく普通の男のものだった。叫ぶ調子であるというだけで、特に高いことも低いこともない、無難と言うに相応しい声である。
だが不思議と、彼は途方もない恐怖に侵されながらも、その当たり障りのない汀の声を、美しいと感じた。
どうしてそれが美しいと思えるのだろうか。そんなことを考える前に、彼は両の耳に衝撃を感じて、そのままぶつりと意識を失った。
水溜りに転がっている肉塊は、未だその口や鼻、耳からとぽとぽと海水を溢れさせていた。白目を剥いた顔は恐怖に引き攣って醜く、しかしその中に僅かな歓喜が宿ったまま完全に動きを止めている。
その事実がなんとも腹立たしく、ソレは怒りのままに肉塊に意識を向けた。転がっている肉の頭を、熟れた果実が如く潰しておこうと思ったのだ。だが、その力を行使する寸前に、すぐ傍で聞こえた声がソレの動きを止めた。
「なんでだよ!」
割れるような叫び声が甘やかに耳を打ち、ソレ――海竜の如き異形の怪物は、視線を己が抱き込んでいる愛し子へと移した。こちらを見上げている矮小な身体はかすかに震え、引き攣った顔に嵌る二つの目が、一杯に涙を湛えてなんとも無様である。
それがとても愛おしく愛らしく、何より愛し子の目が己しか映していないということが喜ばしくて堪らないままに、怪物は緑の目を満足げに細めた。
「お、俺はっ、喋らなかっただろ!? なのになんで! なんでいきなり、こんな、こんな……!」
『何を言う、可愛いお前』
言い募ろうとする汀の声を遮るかのように、不可思議な音が響いた。音の羅列は意味を成し、確かに声の様相を保っているようで、しかし空気を震わせている訳ではない。頭蓋の隙間からさくりと脳に割り入るような、気味の悪いものだ。そして怪物が口を動かすたび、その音が汀の頭を侵していく。
『私は、幾度となくその肉がお前の視界の内に割り込むのを、健気にも堪えてみせたろう。だがその肉は、私の可愛いお前に触れ、美しいと賛美し、好意を抱き、より深くをお前に望んだ。余りにも度が過ぎた行いだ。故に罰した。それだけのこと』
判るだろう、お前。
怪物が愛しさを込めて囁くと、汀は何も聞きたくないとでも言うように耳を塞いで首を横に振った。しかし怪物の言葉は汀の鼓膜を揺らして伝わっている訳ではないのだから、あまりに無意味である。
それを厭うてか、頭の中に吹き込まれる声を掻き消すためか、汀はいっそうに声を荒げて叫び上げた。
「それでも俺はっ、ちゃんと関わらないようにしてた! 声だって、お前の言う通り誰とも喋らないでいたのに、お前がいきなりあんな真似したから! 俺はちゃんとルールを守ってたのに!」
『そうだね、可愛いお前。お前のその健気さはなんとも愛らしい』
怪物は身を捩じらせ、汀の顔を至近距離から覗き込む。汀が視線を避けるように顔を背けるも、怪物はそれを追って、身を乗り出すように汀の視界に割り込んだ。
『だが、可愛いお前。知っているのだろう? 判っているのだろう?』
囁く声に、察した汀が息を詰まらせた。それを見て、人の身体など骨ごと容易く砕けるだろう牙を持った口が、まるで笑むかの如くぎちりと歪む。
『罰されたあの肉は、挙句の果てにお前の美しいさえずりを耳にした。嗚呼、赦し難い。否、否、到底赦されぬ。そんな耳は奪ってしまわねば、私は身の内に荒れる妬心のあまりに狂ってしまう。お前はそれを知っている。知っていて、……それを犯したのはお前ではないか』
汀の全身が、熱病に冒されているかのように酷く震える。そして、絶望に塗れながら、震える唇でそれでも紡がれようとした言葉を、続く怪物の囁きがやんわりと無情に断ち切った。
『“何があろうともお前の声を私以外に晒してはならない”。この約定を破ったのは、紛れもなくお前だ。私が約定通り、お前の望むように、お前の周囲の有象無象を屠ることなく耐え忍んであげているというのに。私はただ罰を与えていただけだというのに。――その肉を屠ったのは、他ならぬお前自身だろう?』
いっそ優しいくらいの声音に、汀の顔は悲痛にぐちゃりと歪んだ。その表情の醜さの、何と美しいことだろうか。そして何よりも、絶望に染まる薄茶の瞳。いびつに見つめ返してくる双眸のその奥底で鈍く輝く炎の猛々しさを、怪物は心から賞賛し、うっとりと魅入った。
自然と想起するのは、怪物がこの愛し子と出逢った時のことだ。
永きを存在するが故に時の流れは曖昧で、過ぎたその時がいつだったのか、明確には覚えていない。それでも、脆弱な人である怪物の愛し子が死んでいないということは、そう遠い昔のことではないはずだ。
その頃の怪物は今のような矮小な姿をしておらず、鰭の動きひとつで小さな島を容易く沈められるほどの巨躯で、海原の底に没していた。
それがどうしてその時海面へと浮上していたのか。怪物は自身のことであれどやはり覚えてはいなかったが、これを運命と呼ぶのであればそうなのだろうと思っている。
上がっていった先、怪物がゆっくりと泳ぐだけで酷く荒れる海に、人間がひとつ、海流に揉まれて死にかけていた。どうしてそうなっていたのか、怪物は知らないし、興味もない。ただ、辛うじて生きてはいるものの、風前の灯火と言っても過言ではない有様のそれは、本来ならば怪物の意識に引っかかりもしないような、路傍の石にすら成り得ないような存在だった。
それでも。
それでも怪物は、その人間を確かに認めた。
一瞬垣間見た小さな目玉の内に宿るものに、怪物はきっと初めて心が震えた。水に埋もれ潰された声無き叫び声に、怪物は歓喜の絶叫を挙げたいほどの情動を覚えた。もしかするとこれこそが、怪物をここまで呼んだのかもしれなかった。
どうして。何故。死の淵に瀕してなおそう喚き上げ繰り返される声は、己が身の不幸を嘆いた悲嘆ではなかった。
どうして俺がこんな目に遭っていて他の奴は無事なのだろうか。何故俺がこんなに苦しい思いをしているのに、今ものうのうと生きている奴がいるのだろうか。
憎らしい。腹立たしい。羨ましい。妬ましい。
――俺が死に掛けている今、生きているあらゆるものが妬ましい!
死の淵に在るとは思えないほどの鮮烈な叫びは、自身の命運ではなく、己以外のあらゆる全てを呪う妬心の塊だった。
それがとても美しくて――怪物は、存在を始めてから幾星霜の年月を経て、その時ようやく愛おしさを学んだ。この魂こそが、己のつがいであるのだと理解したのだ。
それから怪物は愛しいその人間の、汀の命を救って、共に在ることを定めた。自らの力を封じ、在るべき場所である海を離れ、矮小な姿に身を落としてでも、傍に在ることを決めた。
そして、そのとき汀と怪物が交わした約定が、四つ。
ひとつ、汀の声を怪物以外の何者にも晒さないこと。
ふたつ、汀は怪物以外の何者とも深く関わり合わないこと。
みっつ、以上二つを汀が履行する場合、怪物は汀の周囲に手を出さないこと。
よっつ、汀の周囲が汀へ過干渉を行う等の罪を犯した場合は、これに限らない。
ただ、約定と言っても、これには怪物を縛るような強制力はない。いわば口約束にしか過ぎず、破ったとしても怪物の側になんらデメリットは生じない。
怪物からすれば、自身の愛し子を見るも聞くも、愛し子に聞かれるも見られるも、もっと言えば僅か一瞬でも認識し、認識される全てが妬ましいため、約定など気にせず、その全てを屠った方がずっと気分が良いはずだ。だが、それでも怪物は、ままごとじみた口約束を守っている。なんの枷にもならない首輪に繋がれてあげている。
その理由こそが、まさに目の前にあるこれだ。
ぐずぐずに歪みながら、怪物を見つめている汀の表情を彩るのは、己の存在が他者を害している事実への絶望である。汀は、自身の言動、心持ちのひとつで、見知ったもの、見知らぬもの問わず、何かを屠ることを恐れ、嘆いている。
だがそんな外面の一枚下、剥いた奥にあるのは、いつだって他者への妬みだ。煮え滾る憎悪に近い嫉妬、それこそが汀の本質だった。
本当に他者を害することを厭うのならば、さっさと自身の命を断ち切ればよい。そうすれば怪物は肉の檻から解放された愛しい魂を捕らえて、また水底に戻ることだろう。生きるも死ぬも、どちらにせよ永劫に怪物から逃れることがあたわぬならば、そちらを選べばまだ他者への影響を軽くできる。それを汀がしないのは、自身の命が惜しいからではなく、自分は死なねばならぬのに周囲はそうではないという、相対的な他者の幸福が妬ましいからだ。
怪物の想いが深みから絶えず湧き出で尽き果てぬ、何もかも押し潰す濁流のようであれば、愛し子のそれは、欠片も弱まることを知らぬ、燃え盛り爆ぜる業炎である。その熱が他者を焼き尽くすことを厭いながら、それを向けることを止めようとはしない。
人間が真の意味で孤独に生きていくことは難しい。なればこそ、怪物は約定を守るのだ。生きる以上、独りになりきれない汀は必ず約定を犯す。その瞬間の汀の炎は、より強く猛り燃え盛る。
なんて美しい炎だろうか。怪物は恍惚としながら、いっそうきつく汀に寄り添った。骨が軋む寸前の力に、汀が苦痛に歯を食い縛る。そこに舌を這わせてみれば、細い喉の奥から枯れた笛の音のような悲鳴が小さく響いた。そんな無様すら、怪物には大層愛らしいものに映って見えるのだ。
『本当にあわれで可愛いね、お前は』
低く漏れた笑い混じりの言葉に、汀が涙濡れた目できつく怪物を睨みつける。その瞳に輝く緑の光。滾る妬心が怪物のそれと共鳴して、異形の目と同じ色を露わにするのを、怪物はとても好ましく思っている。
しかし、美しく強い炎は、誘蛾灯のように働くことがままある。そこに転がる肉塊のように、愛し子の炎に燃やされんと近寄る虫の、なんと多いことだろう。そんな、汀に惹かれるものがどこかに存在するという、ただそれだけの事実ですら、怪物の胸中を嵐が如く荒れさせるのだ。
その度に、この小さな目玉二つを潰してしまおうかと考えて、同時に、潰せば二度とこの緑を見ることが叶わぬのだと思い留まり、懊悩する。
妬ましい、憎らしい。私だけであるべきだというのに。他の一切など必要なく、この魂と共に在り、気づき、見て聞いて感じて、愛するは、この身だけで良いというのに。有象無象の全てが赦し難い。しかし、嫉妬の怪物のつがいたる魂は、つがいであるが故にあらゆる生命を妬み嫉み薪とし、焼き尽くしてなお止まらないだろう。だからこそのつがい。それでこその運命。
ああ、なんて愛おしい!
湧き上がる想いのまま、怪物は愛し子にしか聞こえぬ喜悦を高らかに轟かせる。咆哮じみた音なき哄笑に、辺りの空気がびりびりと震えた。
愛おしくて堪らない。私の本性で頭から丸呑みにしてあげたい。愛し子の炎にならば、臓物を焼かれる感覚すらも大層心地良いことだろう!
しかし、もしそうなったとしたら、その時は愛し子の血肉と一体化した己が身をも妬んでしまうのだろうか。
只人には到底理解し難い怪物の思考など知る由もない汀は、突如狂ったように笑い出した怪物に、怯えつつも困惑しているようだった。気味の悪い異物を見るような目を向けられた怪物は、しかし汀が今こうして認識し、意識の上に上らせているものが自分だけであることが心底愉快で、ひとしきり笑い上げた。
『ああ……、驚かせてしまった。すまないね、可愛いお前。何、心配することはないよ。お前が愛おしいと、ただそれだけのことなのだから』
暫くしてようやく笑いを収めた怪物は、謝罪を告げながらゆっくりと汀を締め付ける力を緩める。痛苦から解放され、安心したように小さく息を吐き出した汀は、怪物に言葉を返すでもなく、ただ疲れたように首を横に振った。実際、青白くなった彼の顔には色濃い疲労が浮かんでいる。
「…………もどらないと」
ぽつりと落とされた愛し子の言葉に、怪物が残念そうに、そしてあからさまに妬心を織り交ぜて囁く。
『私はずっとこのまま、お前とふたりきりであるのが好ましいと思うのだけれど』
その言葉に、しかし汀は厭そうに横目で怪物を見遣っただけだった。
大きく息を吐き出した汀が、宣言通りに戻ろうと一歩を踏み出す。だが、その歩みはすぐに止まった。足を止めた彼の視線の先にあるのは、床に転がっている人だったものだ。
見下ろす汀の目に、恐怖と歓喜に歪んだまま止まった表情が映って、色素の薄い双眸がかき混ぜたように揺らいだ。だが、それから一呼吸の間を置いた汀は、興味が失せたように視線を前に戻し、歩みを再開する。
『……ふふ』
そんな愛し子の心の動きが手に取るように判って、怪物は小さく笑みを漏らした。
己が手をかけたことへの罪悪感。罪を犯したことと、それに伴う裁きへの恐れ。奪われた命への哀れみ。それら全てを覆しうるほどの、死による解放への憧憬と妬み。
どこまでいってもこの矮小な、醜悪な、愛しい生き物は、生も死も全てを情念で焼き尽くして、灰の山の上で怪物と共に、被害者のような顔をして立ち尽くすのだ。
『愛しているよ』
万感の思いを込めて、怪物はそっと汀に耳打ちした。本当に本当に、ただただ愛おしくて仕方がないのだ。
至高の愛を囁く怪物に、汀が疎ましさを込めて死ねと吐き出す。だが、浮かれた怪物の頭では、それすらも愛の囁きにしか聞こえなかった。
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