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◆序章【路地裏喫茶】
一人目……(六)【変貌の百伝忌譚】
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◆◆◆
「――ふにゅぅ! むぐぅ! ぬぅ!
そりゃ! そりゃ! ふにょおぉぉ!!」
床で腹這いの体勢になり、腕を伸ばして形容の難しい奇声を発するイツキ。その隣で屈んで、微笑ましげに成り行きを見守るヌイナ。
奇声の主は、そう苦労せずに目的の物を取れるだろうと高を括っていたのに。既に作業を初めてから数分は経過していて、でも未だに奇声は止まず。
「やっぱり僕が取ろうか……?」
隣で懐中電灯を構えているだけなので。
ヌイナは度々、そう持ち掛けるも、
「平気ですよ。もうちょいで届きますから。
のーぷろぐれむぅ! ふぐぐぅ!!」
「そっか。なら頑張って」
それ以上の手伝いは不要のようだった。
「――あっ! 取れましたぁ!」
そして借りた箒を使い、古時計の下からどうにかなんとか携帯電話を救出したイツキだったが、
「こっ、壊れちゃいましたか……?
がーん。春の最新機種だったのにぃ!」
電源が入らず、がくんと項垂れてしまう。
買ったばかりの新品であり。バッテリーの残量は帰路につく前に確認し、8割は残っていたのにと。これは壊れてしまっている可能性が濃厚か。
「ヌイナさん、お電話も借りていいですか?
お婆ちゃんに連絡はしておかないと――」
「貸すのは構わないけど。連絡するのはおすすめできないかな。少なくとも、祈追さんの身に起こった事をはっきりさせてからの方が良い気がする」
カウンターの隅に置かれた黒電話を指差して一応は許可をするが、やや否定的に告げるヌイナ。
イツキは口を開けて思考顔をし。その後に沈んだ表情を浮かべて、最後に納得したよう頷く。
「むぅたしかに。この状況、説明が難しいです。
『友達の家に泊まってる』とか嘘つくのもダメですね。朝までにどうにかできるか解りませんし」
「……朝まで、か。そうだね」
ヌイナは古時計の文字盤、次いで伝票ホルダーに挟んだレシートに視線を送り。難しい表情。
「もう日付が変わるのか……。
日の出までは、五時間も無いくらいだ」
「あと五時間くらいで、日の出……ですか?
えと『日の出まで』――って、あっ!」
前もって目を通した【あーかいぶ?】というか、あのレシート。先程までは『理解不明』であった裏面に書かれていた内容なのだが。ここで思い出してみて、状況から『書かれていた意味』が想像できてしまい。身体を跳ねさせ、顔を青ざめるイツキ。
たしか『追われていた。水気。日の出までは持たせる。送ってあげて。助けてあげて』と。
「レシートに『日の出までは持たせる』って書いてありましたよね。私ちゃんと内容を見ましたよ。あれが、私のことなら……日の出の時間が何かしらのタイムリミット的なやつ、なのでは……?」
「おっと……!」
その言葉に、驚いた声でヌイナが返す。
「――なんだ。あの一瞬で見たのかな?
むやみに不安にさせるくらいなら、誤魔化して触れなくても良いと思っていたけど。ごめん。僕の独り善がりだったようだ。……祈追さんは落ち着いて分別ができて、物事を冷静に捉えられるんだね」
それでイツキは頭を下げられてしまう。
「……ヌイナさん!」
イツキは気が付いてしまった。
その刹那だけヌイナが浮き上がらせたものに。
憂愁と言い表してもいいほどの顔。感情を張り積めているよう口元を引き結ぶ、険しく難しい顔に。
彼女の負担には目を向けなかったと恥じる。
「――ヌイナさんっ!」
青ざめ顔を振って感情を払い。瞳孔を細め。
イツキは彼女に向かって飛び付いた。
「そんな風に謝らないで下さい! それこそ私のことを思ってくれてたからですよね。そんな優しいヌイナさんが近くに居てくれたから、私は今のとこ冷静になれてて。ヌイナさんに頼れば、きっと『助けてくれる』って信じられるんですよっ!」
彼女のロングスカートを引っ張って言う。
「でも、ただ頼るだけにはしませんよ!
もちろん私も解決の努力をします。だから勝手ですが約束して欲しいです。ヌイナさんは私の為に、苦しくなるほど気負いしないで下さいっ。溢姫は誰かが心身を削ってくれてまで、自分が『助かりたい』と思うほど傲慢にはなれませんから。だから!」
「祈追さん……ははっ。やめて、脱げちゃうよ?」
「…………?」
「スカート脱がしとは……予想外に個性的な方法だったけど。気を使ってくれたのは伝わったよ。うん」
ぐいぐい。布を掴む自分の指。
「うぁあぁぁ! すいませーん!」
感情のままに“とんでもない”行動をしてしまったイツキは我に返り、謝罪の言葉を叫ぶ。長いスカートを引っ張るのは、昔から母親に何かせがむ時していた癖であった。
間髪を入れずイツキからフォローされて、一方のヌイナはスカートを押さえ、バツが悪そうに苦笑い。溜め息を吐いて「助けを求める御客様に気を使わせたらいけないね。祈追さんには、精一杯のおもてなしを約束したんだから」と決意を込めた顔を向ける。
引っ張られて緩んだスカートのベルトを締め、
「ありがとう、祈追さん……。
なら僕は、独り善がりな“お兄さん”なりに。打てる手はさっさと全て打っておこうかな。僕も取り繕って内心で怖がっていてはいけないな。いったい『日の出』まで何が保つのか、キミをどう助ければ良いのかが不明でも。いずれにしても、さ。このまま忌譚の使用を躊躇してはいられないだろうからね」
「お兄さん?」
「あぁ、お姉さんだった」
ヌイナは真剣な面持ちで背中に手を回すと、辺りにはほんのり古い紙特有の香りが漂って。そうしてスッと背中に手を回し。手品みたいに何処からか、紐で纏められていて日焼けしてしまっているそれなりの厚さをもった紙の束を取り出してみせる。
「――祈追さんは“コレ”のことを。
【変貌百伝忌譚】ってのを知っているかい?」
「ふぇ? ぜんぜん知りません。
へんぼー、ひゃくでんきてん……?」
「そっか、まぁ若い子達にはそんなものかな。
この土地【黒百愛】ね。旧名【黒百合淵】だけど。この地には曰くがあって、昔からそういった類いの伝説が多く残っているんだよ。それらを全てひっくるめてこの【変貌百伝忌譚】というんだ」
紙束の表紙には確かに、達筆な文字でそう名前が書かれている気がした。イツキには読めないけど。
「ヌイナさん、それどんな伝説なんでしょう?
土地が『いわく』付きって。そんな伝説って。あのぉーもしかしなくても、ホラーなジャンルなのでは? 私がニガテなやつではありませんか?」
「読んで字のごとくだよ。つまり『変貌』さ。
変な顔って意味でなくて、変わる貌だ。人間が何かに変化してしまうような類い。本能的に忌み憚りたくなるような恐ろしい奇譚の数々で、だから忌譚。ホラーだといえばホラーで合ってるのかな」
「えっ、それって! とらんすふぉーむぅ?
人間が変化する話……今の私みたいに?」
頬の鱗に爪をぶつけて、音を鳴らすイツキ。
「そうだよ。今の祈追さんの姿みたいな、人間が鳥獣虫魚の姿になってしまう。されてしまう伝説も多い。その原因は呪いだったり、戒めだったり、不明のままだったり。……史実としては怪しい。しかし反面、総じて確かな“事実”として在るのは、一つ一つが単なる眉唾物では済まないということで――」
ヌイナは肯定し、
間を取って「けどね」と加える。
「――ところどころ失伝欠損してるし、時に現実を侵す“取り扱い危険”なモノなんだけど。どんなモノも要は扱い次第だろう。そして現代まで語り継がれたモノには必ず、伝えられて来た『意味』が有るものだ。たとえば毒が薬にもなるように。この忌譚も同じく人を助ける手掛かりにも通ずるのさ」
「へぇ……そうなんですね。
あの。私の頭では、理解が及ばないです……」
「むしろ深く理解しない方が良いかもね。
この取り扱い危険物で、助けるつもりの祈追さんがもし“爆発四散”なんてしたら適わないしさ」
「爆発四散っ?!」
紐で結ばれた封を解いて、ヌイナは沈黙。
唾を飲み、眼鏡の位置を調節した後に、彼女はその変貌百伝忌憚の頁をパラパラと指で送り始めた。
「爆発……四散……?」
「……触ってるだけで、指先がひりひりする。
……紙が脈打ってる。……本能で畏れてしまう。恐怖を感じてしまうな。それと……縁を繋いでからでないと、干渉するのは……抵抗される? あるいは僕が……だからなんだろうか……?」
小さく呟きつつ、パラパラパラパラ。
「あのぉ、さらっと『取り扱い危険』てぇ。
それただの伝説が纏められてる紙じゃないってことでしょうか。さっき私の身体を普段の姿に見せてた『お呪い』とかもそうですよ。これはヌイナさん、なかなかファンタジーな世界観の住人に片足を突っ込んでますね。今更ですけどぉ……」
イツキの言葉に苦笑いが返ってきた。
「はは……。うん、今更だね。片足どころか僕はとっくに全身浸かってるんだけど。……さて祈追さん、僕の準備はほぼできたから。余計な忌譚を見ないように、座って目を閉じていて。直ぐに始めるよ」
「余計なもの!? はいっ!」
言われるまま、イツキは視界を閉ざす。
「余計な……もの……?」
「声も出さない方が良い。必要なのは『自分を強く持って、暗闇の中を進んで行く』簡単なイメージ。注意しておくとキミの想像の中と言えど、進んでいる途中で僕以外の声とかが聞こえても……けっして『返事をしたり、振り返ったり、道から逸れる』事はいけないよ。暗闇の中はとても危ないからね?」
「暗闇という名の、私のまぶたの裏で何が……」
「キミの見ているものは目蓋であり、目蓋でない。
転じて一人一人の最も身近にある闇。視界を閉ざす度に見ているのに、普段は気にも留めない闇。現実と非現実の境。だとするなら、現世の理を逸したものを呼び込み、触れるのにうってつけの閉所だ」
「それは絶対にホラーですねっ!?
はっ、はい。頑張ります。わかりました……!」
頭が撫でられて、離れて行く彼女の気配。
「目は通せたし、僕でもできるだろ……。
【――神宮女、囲め。檻の封の鳥居や。
何時、何時、出遣る。宵明けの番人『罪』と神に告げた。後ろの其の銘、誰ぁれだ?】」
拍手、拍手。二拍続ける。
「【――誰も居ない。もう誰も居ない。
後の祭り。祀りの後。寂れた社、荒びれた戒め、錆びれた鎖。残ったのは、誰様遺した忌むべき譚。天眷恵比の紡ぎ謳。百許しの呪い唄。侘し、詫びし、我が身は柱。幾千幾万、夜が明けて。朽ちて迎える次の夜。せめて願わじ久遠の縁。彼方の君へ言ノ葉送ろ。役目に幕無し。そら今宵も一つ綴りましょ。その銘を呼んだら契りましょ。禊の為に飾りましょ。綺麗になったら、綻び縫って、鬼を納めて隠しましょ】だから……いいね。僕に従え!」
何処かの古い童歌、民謡の替吟だろうか。
ヌイナの吟詠が終わると、周囲の空気が重くなった。
「…………」
暗闇の中で、紙と紙が擦れ合う音。直ぐ近くに居たヌイナの気配が曖昧になり。イツキの顔に向かって何処からか生暖かい微風が流れてきて、強まる古紙の匂い。しだいに空中で無数の紙が舞っているかのようなヒラヒラとした物音。懐かしさを感じる花のような香り。天井や壁より、ミシリ、パキリと物音。加えて微かな獣臭さが鼻先を掠める……。
「まっすぐ手を伸ばして。そうだ、そのまま。
自分自身の願いを胸に抱いて、何処かの頁に触れてみて。もし掴めたなら、それが祈追さんの忌縁さ!」
「…………ッ!」
イツキは身体を強張らせる。
ひそひそ。ぼそぼそ。ぶつぶつ。
低音。高音。老若男女。喜怒哀楽。獣鳥虫。
様々な声や、唄や、鳴き声の響き、囁き。たとえば御経のような、嘲笑のような、呻き声のような、慟哭のような、断末魔のような、嘆きのような。一つとして意味を理解できない何か達の囁き。
日常ではけっして体験する事の無い、本来は関わってはならない類いの宵闇の理。陰の気。身体中に張り付いてくるような気味の悪い空気がイツキを中心にして渦を巻く。それはまるで品定め。彼の者が忌譚と結ばれるに値するかを篩に掛けているようであり。
「一度でも掴めてしまえば、引き返せない。
現状への帰り道もありゃしない。対価はキミのあらゆる全て。でも安心していい。キミは己自身と向き合える強さを持ち、逃げない御客様だった。よってこれは禊に非ず。彼の身に憑いた厄枷を祓う手立てなり。掴むそれはキミに合った特別メニューだ」
「…………んっ!」
恐怖を押し殺し、イツキは掴み取った。
それは、忌譚の一片。
「――忌譚。融然の節【カケミズチ】か。
人に裏切られ。四肢を失い、半身を失い、神性を失い。ただの毒蛇へと零落した元水神が、人身を取り殺し同化して、神様へと戻ろうとする物語……」
「――ふにゅぅ! むぐぅ! ぬぅ!
そりゃ! そりゃ! ふにょおぉぉ!!」
床で腹這いの体勢になり、腕を伸ばして形容の難しい奇声を発するイツキ。その隣で屈んで、微笑ましげに成り行きを見守るヌイナ。
奇声の主は、そう苦労せずに目的の物を取れるだろうと高を括っていたのに。既に作業を初めてから数分は経過していて、でも未だに奇声は止まず。
「やっぱり僕が取ろうか……?」
隣で懐中電灯を構えているだけなので。
ヌイナは度々、そう持ち掛けるも、
「平気ですよ。もうちょいで届きますから。
のーぷろぐれむぅ! ふぐぐぅ!!」
「そっか。なら頑張って」
それ以上の手伝いは不要のようだった。
「――あっ! 取れましたぁ!」
そして借りた箒を使い、古時計の下からどうにかなんとか携帯電話を救出したイツキだったが、
「こっ、壊れちゃいましたか……?
がーん。春の最新機種だったのにぃ!」
電源が入らず、がくんと項垂れてしまう。
買ったばかりの新品であり。バッテリーの残量は帰路につく前に確認し、8割は残っていたのにと。これは壊れてしまっている可能性が濃厚か。
「ヌイナさん、お電話も借りていいですか?
お婆ちゃんに連絡はしておかないと――」
「貸すのは構わないけど。連絡するのはおすすめできないかな。少なくとも、祈追さんの身に起こった事をはっきりさせてからの方が良い気がする」
カウンターの隅に置かれた黒電話を指差して一応は許可をするが、やや否定的に告げるヌイナ。
イツキは口を開けて思考顔をし。その後に沈んだ表情を浮かべて、最後に納得したよう頷く。
「むぅたしかに。この状況、説明が難しいです。
『友達の家に泊まってる』とか嘘つくのもダメですね。朝までにどうにかできるか解りませんし」
「……朝まで、か。そうだね」
ヌイナは古時計の文字盤、次いで伝票ホルダーに挟んだレシートに視線を送り。難しい表情。
「もう日付が変わるのか……。
日の出までは、五時間も無いくらいだ」
「あと五時間くらいで、日の出……ですか?
えと『日の出まで』――って、あっ!」
前もって目を通した【あーかいぶ?】というか、あのレシート。先程までは『理解不明』であった裏面に書かれていた内容なのだが。ここで思い出してみて、状況から『書かれていた意味』が想像できてしまい。身体を跳ねさせ、顔を青ざめるイツキ。
たしか『追われていた。水気。日の出までは持たせる。送ってあげて。助けてあげて』と。
「レシートに『日の出までは持たせる』って書いてありましたよね。私ちゃんと内容を見ましたよ。あれが、私のことなら……日の出の時間が何かしらのタイムリミット的なやつ、なのでは……?」
「おっと……!」
その言葉に、驚いた声でヌイナが返す。
「――なんだ。あの一瞬で見たのかな?
むやみに不安にさせるくらいなら、誤魔化して触れなくても良いと思っていたけど。ごめん。僕の独り善がりだったようだ。……祈追さんは落ち着いて分別ができて、物事を冷静に捉えられるんだね」
それでイツキは頭を下げられてしまう。
「……ヌイナさん!」
イツキは気が付いてしまった。
その刹那だけヌイナが浮き上がらせたものに。
憂愁と言い表してもいいほどの顔。感情を張り積めているよう口元を引き結ぶ、険しく難しい顔に。
彼女の負担には目を向けなかったと恥じる。
「――ヌイナさんっ!」
青ざめ顔を振って感情を払い。瞳孔を細め。
イツキは彼女に向かって飛び付いた。
「そんな風に謝らないで下さい! それこそ私のことを思ってくれてたからですよね。そんな優しいヌイナさんが近くに居てくれたから、私は今のとこ冷静になれてて。ヌイナさんに頼れば、きっと『助けてくれる』って信じられるんですよっ!」
彼女のロングスカートを引っ張って言う。
「でも、ただ頼るだけにはしませんよ!
もちろん私も解決の努力をします。だから勝手ですが約束して欲しいです。ヌイナさんは私の為に、苦しくなるほど気負いしないで下さいっ。溢姫は誰かが心身を削ってくれてまで、自分が『助かりたい』と思うほど傲慢にはなれませんから。だから!」
「祈追さん……ははっ。やめて、脱げちゃうよ?」
「…………?」
「スカート脱がしとは……予想外に個性的な方法だったけど。気を使ってくれたのは伝わったよ。うん」
ぐいぐい。布を掴む自分の指。
「うぁあぁぁ! すいませーん!」
感情のままに“とんでもない”行動をしてしまったイツキは我に返り、謝罪の言葉を叫ぶ。長いスカートを引っ張るのは、昔から母親に何かせがむ時していた癖であった。
間髪を入れずイツキからフォローされて、一方のヌイナはスカートを押さえ、バツが悪そうに苦笑い。溜め息を吐いて「助けを求める御客様に気を使わせたらいけないね。祈追さんには、精一杯のおもてなしを約束したんだから」と決意を込めた顔を向ける。
引っ張られて緩んだスカートのベルトを締め、
「ありがとう、祈追さん……。
なら僕は、独り善がりな“お兄さん”なりに。打てる手はさっさと全て打っておこうかな。僕も取り繕って内心で怖がっていてはいけないな。いったい『日の出』まで何が保つのか、キミをどう助ければ良いのかが不明でも。いずれにしても、さ。このまま忌譚の使用を躊躇してはいられないだろうからね」
「お兄さん?」
「あぁ、お姉さんだった」
ヌイナは真剣な面持ちで背中に手を回すと、辺りにはほんのり古い紙特有の香りが漂って。そうしてスッと背中に手を回し。手品みたいに何処からか、紐で纏められていて日焼けしてしまっているそれなりの厚さをもった紙の束を取り出してみせる。
「――祈追さんは“コレ”のことを。
【変貌百伝忌譚】ってのを知っているかい?」
「ふぇ? ぜんぜん知りません。
へんぼー、ひゃくでんきてん……?」
「そっか、まぁ若い子達にはそんなものかな。
この土地【黒百愛】ね。旧名【黒百合淵】だけど。この地には曰くがあって、昔からそういった類いの伝説が多く残っているんだよ。それらを全てひっくるめてこの【変貌百伝忌譚】というんだ」
紙束の表紙には確かに、達筆な文字でそう名前が書かれている気がした。イツキには読めないけど。
「ヌイナさん、それどんな伝説なんでしょう?
土地が『いわく』付きって。そんな伝説って。あのぉーもしかしなくても、ホラーなジャンルなのでは? 私がニガテなやつではありませんか?」
「読んで字のごとくだよ。つまり『変貌』さ。
変な顔って意味でなくて、変わる貌だ。人間が何かに変化してしまうような類い。本能的に忌み憚りたくなるような恐ろしい奇譚の数々で、だから忌譚。ホラーだといえばホラーで合ってるのかな」
「えっ、それって! とらんすふぉーむぅ?
人間が変化する話……今の私みたいに?」
頬の鱗に爪をぶつけて、音を鳴らすイツキ。
「そうだよ。今の祈追さんの姿みたいな、人間が鳥獣虫魚の姿になってしまう。されてしまう伝説も多い。その原因は呪いだったり、戒めだったり、不明のままだったり。……史実としては怪しい。しかし反面、総じて確かな“事実”として在るのは、一つ一つが単なる眉唾物では済まないということで――」
ヌイナは肯定し、
間を取って「けどね」と加える。
「――ところどころ失伝欠損してるし、時に現実を侵す“取り扱い危険”なモノなんだけど。どんなモノも要は扱い次第だろう。そして現代まで語り継がれたモノには必ず、伝えられて来た『意味』が有るものだ。たとえば毒が薬にもなるように。この忌譚も同じく人を助ける手掛かりにも通ずるのさ」
「へぇ……そうなんですね。
あの。私の頭では、理解が及ばないです……」
「むしろ深く理解しない方が良いかもね。
この取り扱い危険物で、助けるつもりの祈追さんがもし“爆発四散”なんてしたら適わないしさ」
「爆発四散っ?!」
紐で結ばれた封を解いて、ヌイナは沈黙。
唾を飲み、眼鏡の位置を調節した後に、彼女はその変貌百伝忌憚の頁をパラパラと指で送り始めた。
「爆発……四散……?」
「……触ってるだけで、指先がひりひりする。
……紙が脈打ってる。……本能で畏れてしまう。恐怖を感じてしまうな。それと……縁を繋いでからでないと、干渉するのは……抵抗される? あるいは僕が……だからなんだろうか……?」
小さく呟きつつ、パラパラパラパラ。
「あのぉ、さらっと『取り扱い危険』てぇ。
それただの伝説が纏められてる紙じゃないってことでしょうか。さっき私の身体を普段の姿に見せてた『お呪い』とかもそうですよ。これはヌイナさん、なかなかファンタジーな世界観の住人に片足を突っ込んでますね。今更ですけどぉ……」
イツキの言葉に苦笑いが返ってきた。
「はは……。うん、今更だね。片足どころか僕はとっくに全身浸かってるんだけど。……さて祈追さん、僕の準備はほぼできたから。余計な忌譚を見ないように、座って目を閉じていて。直ぐに始めるよ」
「余計なもの!? はいっ!」
言われるまま、イツキは視界を閉ざす。
「余計な……もの……?」
「声も出さない方が良い。必要なのは『自分を強く持って、暗闇の中を進んで行く』簡単なイメージ。注意しておくとキミの想像の中と言えど、進んでいる途中で僕以外の声とかが聞こえても……けっして『返事をしたり、振り返ったり、道から逸れる』事はいけないよ。暗闇の中はとても危ないからね?」
「暗闇という名の、私のまぶたの裏で何が……」
「キミの見ているものは目蓋であり、目蓋でない。
転じて一人一人の最も身近にある闇。視界を閉ざす度に見ているのに、普段は気にも留めない闇。現実と非現実の境。だとするなら、現世の理を逸したものを呼び込み、触れるのにうってつけの閉所だ」
「それは絶対にホラーですねっ!?
はっ、はい。頑張ります。わかりました……!」
頭が撫でられて、離れて行く彼女の気配。
「目は通せたし、僕でもできるだろ……。
【――神宮女、囲め。檻の封の鳥居や。
何時、何時、出遣る。宵明けの番人『罪』と神に告げた。後ろの其の銘、誰ぁれだ?】」
拍手、拍手。二拍続ける。
「【――誰も居ない。もう誰も居ない。
後の祭り。祀りの後。寂れた社、荒びれた戒め、錆びれた鎖。残ったのは、誰様遺した忌むべき譚。天眷恵比の紡ぎ謳。百許しの呪い唄。侘し、詫びし、我が身は柱。幾千幾万、夜が明けて。朽ちて迎える次の夜。せめて願わじ久遠の縁。彼方の君へ言ノ葉送ろ。役目に幕無し。そら今宵も一つ綴りましょ。その銘を呼んだら契りましょ。禊の為に飾りましょ。綺麗になったら、綻び縫って、鬼を納めて隠しましょ】だから……いいね。僕に従え!」
何処かの古い童歌、民謡の替吟だろうか。
ヌイナの吟詠が終わると、周囲の空気が重くなった。
「…………」
暗闇の中で、紙と紙が擦れ合う音。直ぐ近くに居たヌイナの気配が曖昧になり。イツキの顔に向かって何処からか生暖かい微風が流れてきて、強まる古紙の匂い。しだいに空中で無数の紙が舞っているかのようなヒラヒラとした物音。懐かしさを感じる花のような香り。天井や壁より、ミシリ、パキリと物音。加えて微かな獣臭さが鼻先を掠める……。
「まっすぐ手を伸ばして。そうだ、そのまま。
自分自身の願いを胸に抱いて、何処かの頁に触れてみて。もし掴めたなら、それが祈追さんの忌縁さ!」
「…………ッ!」
イツキは身体を強張らせる。
ひそひそ。ぼそぼそ。ぶつぶつ。
低音。高音。老若男女。喜怒哀楽。獣鳥虫。
様々な声や、唄や、鳴き声の響き、囁き。たとえば御経のような、嘲笑のような、呻き声のような、慟哭のような、断末魔のような、嘆きのような。一つとして意味を理解できない何か達の囁き。
日常ではけっして体験する事の無い、本来は関わってはならない類いの宵闇の理。陰の気。身体中に張り付いてくるような気味の悪い空気がイツキを中心にして渦を巻く。それはまるで品定め。彼の者が忌譚と結ばれるに値するかを篩に掛けているようであり。
「一度でも掴めてしまえば、引き返せない。
現状への帰り道もありゃしない。対価はキミのあらゆる全て。でも安心していい。キミは己自身と向き合える強さを持ち、逃げない御客様だった。よってこれは禊に非ず。彼の身に憑いた厄枷を祓う手立てなり。掴むそれはキミに合った特別メニューだ」
「…………んっ!」
恐怖を押し殺し、イツキは掴み取った。
それは、忌譚の一片。
「――忌譚。融然の節【カケミズチ】か。
人に裏切られ。四肢を失い、半身を失い、神性を失い。ただの毒蛇へと零落した元水神が、人身を取り殺し同化して、神様へと戻ろうとする物語……」
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