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1巻
1-3
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「リュート様?」
前世では、婚約するまで親戚としての挨拶しか交わしたことがなかった。だから、知らなかったリュートの一面を見るたびに、歓喜すらしている。
変わっていることと、変わらないこと。アイリスの新しい人生は、これからどのように進んでいくのだろう。
その道では、変わっていないことの方が多いのかもしれない。
先日、領地の屋敷で凶暴な番犬に吠えられたとき、逃げもせず叱り飛ばしたことをアイリスはふと思い出した。
『おまえたちの主を誰だと思っているの、この馬鹿犬。いいこと、次わたくしに吠えれば、どうなるか。馬鹿犬は、このウェルバートン家には必要ないのよ』
既に数々の使用人や教師を追放してきたアイリスが今度は番犬すら追放するのかと、屋敷ではまたアイリスの話で持ちきりだった。執事長にはきつく叱られたが、あっけらかんと笑うアイリスに、父も苦く笑うしかなかったようだった。
どうしたって、それはアイリスの性分なのだ。怖い、と思う前に、無礼者だと口が動いてしまう。アイリスが毅然と振舞えば、吠えていた番犬だって怯むのだから、か弱く泣く必要などない。気に入らないことには文句を言わねば気が済まないし、無礼者にはその無礼を思い知らせてやらないといけない。
リュートの前でも猫なんて被れない。大人しくしてもいられない。正しいと思うことは曲げられない。
「わたくしは、リュート様とずっと一緒にいたいです」
「うん。これからよろしく」
淡泊な言葉に再び眉を寄せた王妃の顔には気づかず、リュートは柔らかく微笑んで、アイリスに手を差し出した。
この性格の悪さを直すつもりなどさらさらない。その先に、また前世のようにリュートに軽蔑される日が来るのだろうか。アイリスがアイリスである限り、突き進むしかない道の先で、リュートはこうして笑ってくれるだろうか。
アイリスよりも大きな手を握る。まだ子供らしさが残る大きさとその温度は、彼と会った夜から何も変わっていない。
この温度がある限り、二度目の人生は変えられるのだと信じたい。
「ずっと、お傍にいてください」
「うん」
アイリスがそう言うと、リュートは子供らしい笑顔で笑ってくれた。
◆
そしてアイリスは十二歳になった。
十二年も美しい花として君臨していれば、この国でアイリスの名を知らぬ者はいない。
社交界はまだ始まっていないが、アイリスのご機嫌伺いに公爵邸を訪ねてくる令嬢は多かった。
そんな令嬢たちが集まったお茶会の日は、生憎天気が悪くなった。曇天の空からとうとう雨が降り注ぎ、使用人たちが部屋の窓を閉めていく。
そんな使用人を全く意に介さない令嬢たちの中で、ベランダの傍にひっそりと立っていた翡翠色の髪と瞳を持った少女だけが、「ありがとう」と礼を言った。
髪色も、仕草も、振る舞いも、全てに品がある少女にアイリスは近づく。
「ごきげんよう、メアリ様」
アイリスが微笑みかけたその令嬢の名は、メアリ=カーロイナという。
代々王宮の騎士団長を務め、武を重んじるカーロイナ侯爵家の令嬢。今のアイリスが太陽を背にした天使と呼ばれるのであれば、メアリは月の雫が滴る一輪の百合と呼ばれるような静かな美しさを持つ少女だった。
「ごきげんうるわしゅう、アイリス様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
硬い表情で決まり文句をさらりと謳ったメアリは、アイリスよりも深く頭を下げ、白皙の美貌にうつくしい笑みを浮かべた。
前世では、メアリとアイリスは水と油のような関係だった。
自分の思うまま傲慢に振舞ったアイリスと違い、メアリは品行方正で、まさに貴族の鑑と呼ぶべき令嬢だった。どんな身分の相手でも態度を変えず、古き良き貴族の姿をしている。
前世でアイリスは何度もメアリに感心した。呆れともいう。アイリスであれば二度と顔を出せないように灸をすえる相手にも、思いやりという心を持てるらしい。そんなものが貴族にあるのかと、二度目の人生である今でも不思議でたまらない。
しかし、今世ではアイリスとメアリの仲はよかった。
他の誰よりもメアリが大人びていているから、居心地がいいのかもしれない。
「今日は雨ね。太陽の女神ラトラもきっと悔しがっているわ。このわたくしを見つめられなくて」
「相変わらず雨がお好きですね」
「ええ。ふふ、ほら、太陽があんな分厚い鈍色で覆い隠されているんですもの」
「確かに、これでは女神様も眺めが悪いでしょうね」
メアリはラトラ教の熱心な信者ではない。ラトラ教の信者にとって、雨が降る日は隠れた太陽に向かって祈りを捧げる日だ。ラトラと同じ色彩を持つアイリスが雨を喜ぶ姿が他の貴族に知られれば、異端者と糾弾されてもおかしくない。
アイリス自身は、異端も何も女神を信仰するくらいなら、国外追放の憂き目にあう悪魔信仰でもした方がマシだと思っている。
しかし、そんなアイリスの発言を聞いても、メアリはおっとりと微笑むだけだ。
「雨の音が心地いいわ」
「ええ」
内政を重んじる家ではなく代々騎士一筋を続けている家だから、メアリは面倒な腹の探り合いもしてこない。そして雨が好きだと言ったアイリスに同意してくれたメアリのことを、アイリスは大層気に入っていた。
年も同じで身分も近いので、茶会や貴族の集まりに一緒に出席することが多く、よく見知った仲だ。
女神としてではなく、対等に話せる相手がいることがアイリスには嬉しかった。
「晴れているばかりでは、草木も育たないもの。きっと花々も喜んでいるわ」
「ただ……嵐になりそうです」
「いつまで雨の女神が泣いているのかしら」
二人で、どんよりと分厚い雲で覆われた空を見上げる。窓を打ち付ける雨音が強くなった。
メアリが危惧した通り、連日にわたって大雨が降り続いた。
寝ても覚めても、滝のような雨がざあざあと降っている。
いくらラトラが不機嫌になることが喜ばしくても、降りすぎだ、とアイリスが思うほどに。
その雨はやがて脅威となり、王国に大きな牙を剥いた。これは、前世でも起こった災害だ。
各地で水害が起こり、ウェールズ国は未曽有の危機に陥っていた。自然に恵まれた豊かなこの国には、大きな川が何本も流れ、水に囲まれた美しい街もある。濁流が橋を押し流し、そして水が村や町に流れ込む。
あちらこちらで氾濫を起こす川に手を焼くのは、アイリスの父であるウェルバートン公爵とて変わりはなかった。
既に数々の川が氾濫しているが、被害はさらに深刻化することを、アイリスは知っている。前世では、ウェルバートン領のみならず、王都にまで大きな被害をもたらした。
そんな未来を知っているのに、川の氾濫を止められない。
歯噛みしつつ窓の外を眺めていると、勢いよく母親がアイリスの自室に飛び込んできた。
「アイリス! 旦那様が、領地へ向かわれて……。嗚呼、どうしましょう」
いつも微笑みを絶やさない母ミラウェルが顔に動揺を浮かべている。
その言葉を聞いて、アイリスは目を見開いた。
この雨の中、父が領地へ?
今日、父は、降り続く雨の対応策を話し合うために王城へ向かう予定だった。まさか既に屋敷を出て、そのうえ領地へ向かっただなんて。確かに、王城で知らせを待ってから指示を出すのでは遅すぎる。領民の命を助けるためには、父が現場で指揮を執るべきだ。ただ、領地に行くには大きな川を越えなければならず、非常に危険だった。氾濫した水に巻き込まれたら、命はない。
珍しく動転しているミラウェルの姿が、アイリスを冷静にさせる。
おろおろと自分に縋る母親の背に、アイリスはそっと自分の手を添えた。
「……大丈夫ですわ、お母様。お父様は、無謀な真似などいたしません」
ウェルバートン家に生まれた者としての責任を背負って生きてきた父だ。民も、そして自分の身も、守る人間だと信じている。
ミラウェルの不安を拭うように背を撫で、アイリスは自身の空いている手で、しっかりと母親の手を握った。
「お父様は無事にウェルバートン領に到着します。お父様を信じましょう」
「……ええ、そうね。ありがとう、アイリス。わたくしの愛しい娘」
ミラウェルはアイリスを抱きしめ、その頬にキスをした。そして今にも泣きそうだった顔を引き締め、衰えを知らない美貌に笑みを浮かべる。王族の証であるアイスブルーの瞳に、強い意思が戻った。
それを見て、ずっと雨を眺めてばかりいたアイリスもひとつの覚悟を決める。
「お母様。わたくしも、お城へ参りますわ」
「なぜ城へ、あなたが?」
「城の礼拝堂で、王都にいる聖職者や貴族が集まり、雨がやむよう祈っているのです。その招集を先刻受け取っていました」
城の礼拝堂では、誰も彼もがラトラに対して祈っている。そんな場所へ行けば、祈りをあびてラトラの力が増すと躊躇していたが、これ以上じっとしていられない。少しでも勝機があるなら、行くしかない。
「危険よ……。礼拝堂は我が家にもあるでしょう」
「せっかく祈るなら、少しでもこの声が届く場所へ行きたいのです」
信者が集まるこの機会を、アイリスは利用する。
前世では、ラトラの色を持ったアイリスは特別に教会に呼ばれた。しかし、そこで雨を止めるようラトラに祈ったところで、雨はやまなかった。
今世では太陽神ラトラに祈りを捧げるために、アイリスは王城に呼び寄せられた。
前世では教会に呼び寄せられたのに、今世では行先は王城になっている。もしかすると、ラトラについて公爵に伝えていたことで、未来が少し変わったのかもしれない。
「アイリス、それならわたくしも行くわ」
「いいえ、お母様。お母様がいなければ、誰がこの屋敷を守るというのです。誰がお父様の無事の知らせを受け取るというのです。だから、わたくし一人でしっかりお願い事をして参りますわ。この国と、お父さまの無事を」
アイリスの信念がこもった言葉を聞いて、ミラウェルはアイリスの背を摩りながら「本当にあなたは旦那様とそっくりね」と言った。一度決めたら曲げられない性格は、父から譲り受けた。
「行ってらっしゃい、アイリス。あなたの無事はわたくしが祈っています」
――大丈夫よ、お母様。雨は止まるし、雨がやんだ暁にはお父様も無事に帰ってくるわ。だって、娘の中には太陽の女神ラトラがいるのだから。そしてお父様。お父様が領地へ向かったから、わたくしも城へ乗り込む勇気をもらったの。ラトラの信者に囲まれても平気よ。この国を守るために、しっかり文句を言ってくるわ。
この雨をなんとかしなさい、馬鹿女神、と。
まるで道ごと川になってしまっているように水が溢れている中、馬車で進み、長い時間をかけてアイリスは城に着いた。
使用人が傘を差してくれたにもかかわらず、横殴りの雨のせいで服も靴も濡れてしまった。タオルで水気を取っていると、城の女官たちが美しい羽織を渡してくれる。着替える時間はないため、それを有難く受け取った。
令嬢としての最低限の身だしなみを整え、呼び出された場所へと向かう。
すると、そこにいたのはリュートだった。
「アイリス、無事か?」
「ええ」
リュートは自分だって疲労を濃く浮かべているのに、まっ先にアイリスを労わってくれた。いつもきっちりとした服を身に纏っているリュートにしては珍しく、シャツと簡素なズボンだけで、そのボタンも鎖骨まで開いている。
思わずその姿に見惚れていると、リュートはアイリスが濡れていることに気がついたようだった。
「まだ濡れているじゃないか」
「この程度、平気です」
城内に響く大雨の音に、何かを言いかけたリュートの声がかき消される。心配そうにアイリスを見つめているリュート。濡れたようにすら見える黒く艶やかな髪に、海が広がっているようなブルーの瞳。
嗚呼、と詰まりそうな胸を押さえたくなるのを堪え、微笑みを浮かべる。胸の動揺を隠すように、羽織を前に寄せた。
「あなたに会えたから、もう大丈夫」
そんなアイリスの言葉を聞いて、リュートは驚いた表情を浮かべる。その表情を見て、アイリスの不安と焦りが薄れた。自分なんかにそんな顔をしてくれることが嬉しくて、この雨もなんとかできるのではないかという漠然とした確信すら持てそうだった。
「アイリス、行こう」
今世では、婚約してからもう六年以上 が経っている。その間穏やかに育んできた時間が、リュートを優しい人間にした。そんなリュートがいてくれるから、アイリスの中にあった不安が薄れていく。大丈夫、と何の根拠もなくそう思える。
リュートはアイリスを連れ、城の中にある礼拝堂に向かう。この王国では、家柄が高い貴族であれば、礼拝堂を持っている。ウェルバートン公爵家にも見事な礼拝堂があるが、今世でアイリスが訪れたことは一度もなかった。
じっとりとした空気が漂う城内を早足で進みながら、リュートがアイリスに聞く。
「公爵が領地に向かったと聞いたが」
「……ええ。無事だといいのですが」
「王都の近くの川もいつ氾濫するか分からない。……そうなれば、王都もどうなるか」
暗い影がリュートの顔に落ちる。生真面目な彼は、既に王位を継ぐ者として、寝る間も惜しんで災害に立ち向かっていのだろう。
アイリスは、そっとその背を摩った。まだ薄く細い背中に背負う重圧が、少しでも和らいでほしいと祈りを込めて。
「大丈夫。わたくしたちの祈りは、女神に届きます」
揺れる青い目を、金色の瞳で見つめ返す。
「わたくしがそう言っているのですから。わたくしを信じて」
リュートには、太陽の女神ラトラではなく雨の女神でもなく、アイリスに祈ってほしい。
リュートが信じてくれるのならなんだってできるのだから。
そうアイリスが言うと、リュートはアイリスの手をギュッと握った。
「……ああ」
その手の温もりに、アイリスは金色の瞳を潤ませた。
それだけで勇気が湧き上がり、これから女神を怒鳴りつけ、雨をやませるなんて容易く思えた。
辿り着いた王城の礼拝堂では、祭服を身に着けた司祭と神官たちが既に祈りを捧げていた。
見覚えのある貴族たちも、その後ろにずらりと並んでいる。
リュートがそこへ足を進めると、顔を上げた神官たちがお待ちしておりましたとばかりに歓迎の声を上げた。
しかし彼らは、王子であるリュートにも貴族のような王族に対する礼を取らない。
教会は、女神ラトラを主とする独立組織であるため、王家におもねることがないのだ。教会内には元は貴族だった人間が多く独自の階級社会を築いている。リュートに頭一つ下げない神官たちの前を通りながら、アイリスは冷ややかな目を向けた。
しかしリュートに続いて、アイリスの姿を見ると神官たちの表情が変わった。
礼拝堂の中央にはラトラの石像が厳かに君臨している。石像は無機質な象牙色をしているが、その髪、瞳の本当の色彩はアイリスが持っている。
どうやら神官たちは、我らがラトラの色を肉眼で見ることができて、感動のあまり言葉を失っているらしい。
アイリスはこっそり、ラトラの石像を睨みつける。
――本当に憎たらしいわ、ラトラ。
鳥肌が立った腕をさすりながら、このむき出しの信仰がアイリスの声を天へ送る力になれと願う。
アイリスが視線を向けると、司祭が床に膝をついていた。
「殿下、アイリス=ウェルバートン様。どうか、ラトラ様に祈りを。再び太陽が大地を照らし、雨に打ち勝つよう」
――日照りがない国でよかったわね、ラトラ。日照りが続けば、あなた、ただの邪神だったわ。雨が降るからこそ、ラトラ信仰が根強い国になったのだけど。
そんなことを思いながら、リュートに並んで跪き、祈る仕草をする。
恵みの雨は、雨の女神メリーレの涙である。雨の女神が泣くから雨が降る。そんな神話、子供だって知っている。
そして、雨の女神メリーレと太陽の女神ラトラの仲は最悪で、争いの果てにメリーレはラトラに敗れたという。
だから大雨による災害を鎮めるために、人々はラトラに祈る。しかし、前世でラトラに祈っても無駄だったから、ラトラには祈らない。そのラトラと争う雨の女神メリーレに、アイリスは語りかけた。
――敵の敵は味方、というでしょう? だからわたくしの言葉を聞いて、メリーレさま。ラトラは生意気でしょう。あなたさまの雨を利用して、こんなにも信仰を集めているのですから。
ねえ、メリーレさま。あなたはお優しい女神様だけど、それだけでは駄目よ。ラトラのような性悪には勝てないわ。いいこと、メリーレさま。涙は武器なのよ。
ラトラが困るように泣いてくださらない?
アイリスが祈る姿は敬虔なラトラ教の信者のようだった。しかし内心では、ラトラに牙を剥いている。
アイリスは目を閉じたまま、メリーレに訴える。
――メリーレさま。まずは、いったん泣き止みなさい。癇癪を起こして泣きわめくだけでは駄目よ。この国を涙で呑み込むなんて、許さないわ。ラトラと同じ愚図女神だなんてお嫌でしょう。あんな愚かな女神に負けて、さぞかし悔しいことでしょう。でも一人で泣いたって、なんの意味もないわ。うつくしく泣いて、神々の同情を買いなさい。そして、一番強い力を持つ太陽神――ラトラのお父さまに願いなさい。ラトラを排除せよ、と。
「ほら、メリーレさま。太陽を呑み込むの」
そう小さくつぶやくと、アイリスの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
その涙に、初めに気がついたのはリュートだった。ついで、神官たちがアイリスを見つめる。
まるで金色の宝石から透明な水晶が零れ落ちていくような光景に、ほう、と誰かが息を吐く。
その音に導かれるように、アイリスがゆっくりと瞼を開けると、リュートの青がわずかに見開かれていた。
「……リュート様?」
「アイリス、どうしたんだ?」
「雨が、悲しくて」
そう言ってアイリスは自らの頬に涙が伝うのを感じる。
――これが見本よ、メリーレ。
はらはらと泣くアイリスに、リュートも他の人間も釘付けになっている。
「どうか、雨がやみますように」
アイリスは最後にほのかな笑みを浮かべて、祈りを締めくくった。
アイリスの願いは叶う。叶わなければ、ラトラ共々、メリーレだって地獄に突き落としてやろうと思いながら。
数日後、王都の川が氾濫する前に雨足は落ち着き、太陽が現れた。
ラトラ様のおかげだと国中の民が涙を流して喜んだ。
ウェルバートン領も父の采配により甚大な被害を防ぎ、父も無事に屋敷に帰還した。これから復興が必要な地域は多いが、前世のように酷い傷跡を残すことなく、雨はやんだ。
アイリスは雨の名残をきらきら輝かせている、中庭の美しい花々を見つめる。
「今頃、メリーレは笑っているかしら」
――代わりにラトラは泣いているかしら。
太陽を見上げ、アイリスは勝ち誇ったように微笑んだ。
◆
雨がやんで、数日後のことだ。リュートが突然公爵邸を訪れた。
何か用があるのかと慌てて侍女にお茶を用意させたものの、応接室で向かいのソファに座ったリュートは、じっとアイリスの瞳を見つめてばかりいる。
アイリスの瞳は、透き通った黄金の宝石のようだと称される。光が差し込むと瞳の中に花のような文様が浮かび上がり、この世のものとは思えない神秘的な輝きを帯びるのだ。王城に行くたび、アイリスに見惚れて時を忘れる人間は少なくない。同時に、その瞳が恐ろしいと言って目を合わせない人間も少なくないが。
そんな有象無象とは違って、リュートは幼い頃からアイリスの目を見ていたはずなのに、今更どうしてこんなに興味を示しているのだろうか。
ぼうっとした様子のリュートに声をかける。
「リュート様。お疲れですか?」
「え? あ、いや、……、元気だよ」
ふい、と視線が逸らされる。リュートがこんなに口ごもる姿を初めて見た。
珍しさに好奇心が湧き上がるが、それ以上に体調でも悪いのかと心配になって、アイリスはリュートの顔を覗き込んだ。なにせ、連日の雨がやんだとはいっても、災害の後始末に追われているに違いない。
「リュート様。顔色が少し悪いのではなくて? 休む間もなく働いていらっしゃるのでしょう? 今日はお城へ戻って、ゆっくりお休みになってください」
「いや、本当に大丈夫なんだ」
「気遣いは無用です」
疲労が限界を突破したせいで突然屋敷に来たのだと疑いもせず、アイリスはリュートを馬車に乗せ、城に送り返した。
その後次に会ったときはいつも通りのリュートだった。
やはりあの日は体調が悪かったのだと結論を下した、数週間後、ウェルバートン邸にて。
「……アイリス、きみに見てもらいたいものがある」
どこか緊張した面持ちで、再びリュートが公爵邸に現れた。
――見てもらいたいもの? 何かの書類か、本だろうか?
それとも、と、思考を巡らせてみるが、心当たりはない。
リュートが従者から受け取ったものは、小さな箱だった。
わずかに顔を赤く染めて、リュートが箱を開く。
「これを、きみに」
箱の中には、美しい宝石が鎮座していた。輝く黄金。その透き通る煌めきに、アイリスは目を見開いた。
その色はアイリスの瞳と同じだった。
「まだ加工前のものだが、ダイヤを名産品にしている隣国から取り寄せた」
「これが、ダイヤなのですか?」
宝石には詳しいつもりだったが、こんな色のダイヤは初めて見た。
黄金色にきらめくダイヤモンドなど、この世に存在するとは思いもしなかった。
それに、こうやってリュートからその宝石を差し出されることに何より価値を感じた。前世でも、今世でも婚約者として定期的にウェルバートン家にドレスやら宝飾具やらが贈られてたが、直接渡されるのは初めてだったから。
あまりの驚きに、アイリスはしばらく言葉を失っていた。
「……ありがとう、ございます。綺麗」
顔を上げると、じ、とリュートはアイリスを見つめていた。
「きみの色だと思った」
「……わたくしの?」
アイリスは驚いて目を見開く。その金色の瞳を見て、リュートは優しく微笑んだ。
「これはきみの色だよ、アイリス。あの日、きみのことを女神ラトラだって言った大人もいたけど……そんなことない。きみの色だから、俺は綺麗だと思った」
リュートの言葉に、じわじわと金色の瞳に涙が溜まっていく。
涙で視界が滲んで、リュートの手の中にある宝石が輝きを増す。この忌々しい金色は、なんて綺麗なんだろう。アイリスは自分の瞳がこの世で一番美しいと知っている、唯一無二だと知っている。
こんな色を持って生まれなければ、ラトラの力なんてなければ、アイリスは死ななかったのに。憎くて、恐ろしくて、こんな色は到底愛せないと思っていた。
――でも、これはアイリスの色なのだ。
「喜んで、もらえただろうか」
ゆるりと顔を上げ、緊張を露わにしているリュートを見つめる。
この金の色は、これまで受け取ったどんな贈り物よりも、アイリスの心を深く打った。
――涙が溢れてしまいそう、嬉しい。
アイリスは宝石箱を持つリュートの手に、そっと自分の手を添える。
「ええ、とっても」
前世では、婚約するまで親戚としての挨拶しか交わしたことがなかった。だから、知らなかったリュートの一面を見るたびに、歓喜すらしている。
変わっていることと、変わらないこと。アイリスの新しい人生は、これからどのように進んでいくのだろう。
その道では、変わっていないことの方が多いのかもしれない。
先日、領地の屋敷で凶暴な番犬に吠えられたとき、逃げもせず叱り飛ばしたことをアイリスはふと思い出した。
『おまえたちの主を誰だと思っているの、この馬鹿犬。いいこと、次わたくしに吠えれば、どうなるか。馬鹿犬は、このウェルバートン家には必要ないのよ』
既に数々の使用人や教師を追放してきたアイリスが今度は番犬すら追放するのかと、屋敷ではまたアイリスの話で持ちきりだった。執事長にはきつく叱られたが、あっけらかんと笑うアイリスに、父も苦く笑うしかなかったようだった。
どうしたって、それはアイリスの性分なのだ。怖い、と思う前に、無礼者だと口が動いてしまう。アイリスが毅然と振舞えば、吠えていた番犬だって怯むのだから、か弱く泣く必要などない。気に入らないことには文句を言わねば気が済まないし、無礼者にはその無礼を思い知らせてやらないといけない。
リュートの前でも猫なんて被れない。大人しくしてもいられない。正しいと思うことは曲げられない。
「わたくしは、リュート様とずっと一緒にいたいです」
「うん。これからよろしく」
淡泊な言葉に再び眉を寄せた王妃の顔には気づかず、リュートは柔らかく微笑んで、アイリスに手を差し出した。
この性格の悪さを直すつもりなどさらさらない。その先に、また前世のようにリュートに軽蔑される日が来るのだろうか。アイリスがアイリスである限り、突き進むしかない道の先で、リュートはこうして笑ってくれるだろうか。
アイリスよりも大きな手を握る。まだ子供らしさが残る大きさとその温度は、彼と会った夜から何も変わっていない。
この温度がある限り、二度目の人生は変えられるのだと信じたい。
「ずっと、お傍にいてください」
「うん」
アイリスがそう言うと、リュートは子供らしい笑顔で笑ってくれた。
◆
そしてアイリスは十二歳になった。
十二年も美しい花として君臨していれば、この国でアイリスの名を知らぬ者はいない。
社交界はまだ始まっていないが、アイリスのご機嫌伺いに公爵邸を訪ねてくる令嬢は多かった。
そんな令嬢たちが集まったお茶会の日は、生憎天気が悪くなった。曇天の空からとうとう雨が降り注ぎ、使用人たちが部屋の窓を閉めていく。
そんな使用人を全く意に介さない令嬢たちの中で、ベランダの傍にひっそりと立っていた翡翠色の髪と瞳を持った少女だけが、「ありがとう」と礼を言った。
髪色も、仕草も、振る舞いも、全てに品がある少女にアイリスは近づく。
「ごきげんよう、メアリ様」
アイリスが微笑みかけたその令嬢の名は、メアリ=カーロイナという。
代々王宮の騎士団長を務め、武を重んじるカーロイナ侯爵家の令嬢。今のアイリスが太陽を背にした天使と呼ばれるのであれば、メアリは月の雫が滴る一輪の百合と呼ばれるような静かな美しさを持つ少女だった。
「ごきげんうるわしゅう、アイリス様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
硬い表情で決まり文句をさらりと謳ったメアリは、アイリスよりも深く頭を下げ、白皙の美貌にうつくしい笑みを浮かべた。
前世では、メアリとアイリスは水と油のような関係だった。
自分の思うまま傲慢に振舞ったアイリスと違い、メアリは品行方正で、まさに貴族の鑑と呼ぶべき令嬢だった。どんな身分の相手でも態度を変えず、古き良き貴族の姿をしている。
前世でアイリスは何度もメアリに感心した。呆れともいう。アイリスであれば二度と顔を出せないように灸をすえる相手にも、思いやりという心を持てるらしい。そんなものが貴族にあるのかと、二度目の人生である今でも不思議でたまらない。
しかし、今世ではアイリスとメアリの仲はよかった。
他の誰よりもメアリが大人びていているから、居心地がいいのかもしれない。
「今日は雨ね。太陽の女神ラトラもきっと悔しがっているわ。このわたくしを見つめられなくて」
「相変わらず雨がお好きですね」
「ええ。ふふ、ほら、太陽があんな分厚い鈍色で覆い隠されているんですもの」
「確かに、これでは女神様も眺めが悪いでしょうね」
メアリはラトラ教の熱心な信者ではない。ラトラ教の信者にとって、雨が降る日は隠れた太陽に向かって祈りを捧げる日だ。ラトラと同じ色彩を持つアイリスが雨を喜ぶ姿が他の貴族に知られれば、異端者と糾弾されてもおかしくない。
アイリス自身は、異端も何も女神を信仰するくらいなら、国外追放の憂き目にあう悪魔信仰でもした方がマシだと思っている。
しかし、そんなアイリスの発言を聞いても、メアリはおっとりと微笑むだけだ。
「雨の音が心地いいわ」
「ええ」
内政を重んじる家ではなく代々騎士一筋を続けている家だから、メアリは面倒な腹の探り合いもしてこない。そして雨が好きだと言ったアイリスに同意してくれたメアリのことを、アイリスは大層気に入っていた。
年も同じで身分も近いので、茶会や貴族の集まりに一緒に出席することが多く、よく見知った仲だ。
女神としてではなく、対等に話せる相手がいることがアイリスには嬉しかった。
「晴れているばかりでは、草木も育たないもの。きっと花々も喜んでいるわ」
「ただ……嵐になりそうです」
「いつまで雨の女神が泣いているのかしら」
二人で、どんよりと分厚い雲で覆われた空を見上げる。窓を打ち付ける雨音が強くなった。
メアリが危惧した通り、連日にわたって大雨が降り続いた。
寝ても覚めても、滝のような雨がざあざあと降っている。
いくらラトラが不機嫌になることが喜ばしくても、降りすぎだ、とアイリスが思うほどに。
その雨はやがて脅威となり、王国に大きな牙を剥いた。これは、前世でも起こった災害だ。
各地で水害が起こり、ウェールズ国は未曽有の危機に陥っていた。自然に恵まれた豊かなこの国には、大きな川が何本も流れ、水に囲まれた美しい街もある。濁流が橋を押し流し、そして水が村や町に流れ込む。
あちらこちらで氾濫を起こす川に手を焼くのは、アイリスの父であるウェルバートン公爵とて変わりはなかった。
既に数々の川が氾濫しているが、被害はさらに深刻化することを、アイリスは知っている。前世では、ウェルバートン領のみならず、王都にまで大きな被害をもたらした。
そんな未来を知っているのに、川の氾濫を止められない。
歯噛みしつつ窓の外を眺めていると、勢いよく母親がアイリスの自室に飛び込んできた。
「アイリス! 旦那様が、領地へ向かわれて……。嗚呼、どうしましょう」
いつも微笑みを絶やさない母ミラウェルが顔に動揺を浮かべている。
その言葉を聞いて、アイリスは目を見開いた。
この雨の中、父が領地へ?
今日、父は、降り続く雨の対応策を話し合うために王城へ向かう予定だった。まさか既に屋敷を出て、そのうえ領地へ向かっただなんて。確かに、王城で知らせを待ってから指示を出すのでは遅すぎる。領民の命を助けるためには、父が現場で指揮を執るべきだ。ただ、領地に行くには大きな川を越えなければならず、非常に危険だった。氾濫した水に巻き込まれたら、命はない。
珍しく動転しているミラウェルの姿が、アイリスを冷静にさせる。
おろおろと自分に縋る母親の背に、アイリスはそっと自分の手を添えた。
「……大丈夫ですわ、お母様。お父様は、無謀な真似などいたしません」
ウェルバートン家に生まれた者としての責任を背負って生きてきた父だ。民も、そして自分の身も、守る人間だと信じている。
ミラウェルの不安を拭うように背を撫で、アイリスは自身の空いている手で、しっかりと母親の手を握った。
「お父様は無事にウェルバートン領に到着します。お父様を信じましょう」
「……ええ、そうね。ありがとう、アイリス。わたくしの愛しい娘」
ミラウェルはアイリスを抱きしめ、その頬にキスをした。そして今にも泣きそうだった顔を引き締め、衰えを知らない美貌に笑みを浮かべる。王族の証であるアイスブルーの瞳に、強い意思が戻った。
それを見て、ずっと雨を眺めてばかりいたアイリスもひとつの覚悟を決める。
「お母様。わたくしも、お城へ参りますわ」
「なぜ城へ、あなたが?」
「城の礼拝堂で、王都にいる聖職者や貴族が集まり、雨がやむよう祈っているのです。その招集を先刻受け取っていました」
城の礼拝堂では、誰も彼もがラトラに対して祈っている。そんな場所へ行けば、祈りをあびてラトラの力が増すと躊躇していたが、これ以上じっとしていられない。少しでも勝機があるなら、行くしかない。
「危険よ……。礼拝堂は我が家にもあるでしょう」
「せっかく祈るなら、少しでもこの声が届く場所へ行きたいのです」
信者が集まるこの機会を、アイリスは利用する。
前世では、ラトラの色を持ったアイリスは特別に教会に呼ばれた。しかし、そこで雨を止めるようラトラに祈ったところで、雨はやまなかった。
今世では太陽神ラトラに祈りを捧げるために、アイリスは王城に呼び寄せられた。
前世では教会に呼び寄せられたのに、今世では行先は王城になっている。もしかすると、ラトラについて公爵に伝えていたことで、未来が少し変わったのかもしれない。
「アイリス、それならわたくしも行くわ」
「いいえ、お母様。お母様がいなければ、誰がこの屋敷を守るというのです。誰がお父様の無事の知らせを受け取るというのです。だから、わたくし一人でしっかりお願い事をして参りますわ。この国と、お父さまの無事を」
アイリスの信念がこもった言葉を聞いて、ミラウェルはアイリスの背を摩りながら「本当にあなたは旦那様とそっくりね」と言った。一度決めたら曲げられない性格は、父から譲り受けた。
「行ってらっしゃい、アイリス。あなたの無事はわたくしが祈っています」
――大丈夫よ、お母様。雨は止まるし、雨がやんだ暁にはお父様も無事に帰ってくるわ。だって、娘の中には太陽の女神ラトラがいるのだから。そしてお父様。お父様が領地へ向かったから、わたくしも城へ乗り込む勇気をもらったの。ラトラの信者に囲まれても平気よ。この国を守るために、しっかり文句を言ってくるわ。
この雨をなんとかしなさい、馬鹿女神、と。
まるで道ごと川になってしまっているように水が溢れている中、馬車で進み、長い時間をかけてアイリスは城に着いた。
使用人が傘を差してくれたにもかかわらず、横殴りの雨のせいで服も靴も濡れてしまった。タオルで水気を取っていると、城の女官たちが美しい羽織を渡してくれる。着替える時間はないため、それを有難く受け取った。
令嬢としての最低限の身だしなみを整え、呼び出された場所へと向かう。
すると、そこにいたのはリュートだった。
「アイリス、無事か?」
「ええ」
リュートは自分だって疲労を濃く浮かべているのに、まっ先にアイリスを労わってくれた。いつもきっちりとした服を身に纏っているリュートにしては珍しく、シャツと簡素なズボンだけで、そのボタンも鎖骨まで開いている。
思わずその姿に見惚れていると、リュートはアイリスが濡れていることに気がついたようだった。
「まだ濡れているじゃないか」
「この程度、平気です」
城内に響く大雨の音に、何かを言いかけたリュートの声がかき消される。心配そうにアイリスを見つめているリュート。濡れたようにすら見える黒く艶やかな髪に、海が広がっているようなブルーの瞳。
嗚呼、と詰まりそうな胸を押さえたくなるのを堪え、微笑みを浮かべる。胸の動揺を隠すように、羽織を前に寄せた。
「あなたに会えたから、もう大丈夫」
そんなアイリスの言葉を聞いて、リュートは驚いた表情を浮かべる。その表情を見て、アイリスの不安と焦りが薄れた。自分なんかにそんな顔をしてくれることが嬉しくて、この雨もなんとかできるのではないかという漠然とした確信すら持てそうだった。
「アイリス、行こう」
今世では、婚約してからもう六年以上 が経っている。その間穏やかに育んできた時間が、リュートを優しい人間にした。そんなリュートがいてくれるから、アイリスの中にあった不安が薄れていく。大丈夫、と何の根拠もなくそう思える。
リュートはアイリスを連れ、城の中にある礼拝堂に向かう。この王国では、家柄が高い貴族であれば、礼拝堂を持っている。ウェルバートン公爵家にも見事な礼拝堂があるが、今世でアイリスが訪れたことは一度もなかった。
じっとりとした空気が漂う城内を早足で進みながら、リュートがアイリスに聞く。
「公爵が領地に向かったと聞いたが」
「……ええ。無事だといいのですが」
「王都の近くの川もいつ氾濫するか分からない。……そうなれば、王都もどうなるか」
暗い影がリュートの顔に落ちる。生真面目な彼は、既に王位を継ぐ者として、寝る間も惜しんで災害に立ち向かっていのだろう。
アイリスは、そっとその背を摩った。まだ薄く細い背中に背負う重圧が、少しでも和らいでほしいと祈りを込めて。
「大丈夫。わたくしたちの祈りは、女神に届きます」
揺れる青い目を、金色の瞳で見つめ返す。
「わたくしがそう言っているのですから。わたくしを信じて」
リュートには、太陽の女神ラトラではなく雨の女神でもなく、アイリスに祈ってほしい。
リュートが信じてくれるのならなんだってできるのだから。
そうアイリスが言うと、リュートはアイリスの手をギュッと握った。
「……ああ」
その手の温もりに、アイリスは金色の瞳を潤ませた。
それだけで勇気が湧き上がり、これから女神を怒鳴りつけ、雨をやませるなんて容易く思えた。
辿り着いた王城の礼拝堂では、祭服を身に着けた司祭と神官たちが既に祈りを捧げていた。
見覚えのある貴族たちも、その後ろにずらりと並んでいる。
リュートがそこへ足を進めると、顔を上げた神官たちがお待ちしておりましたとばかりに歓迎の声を上げた。
しかし彼らは、王子であるリュートにも貴族のような王族に対する礼を取らない。
教会は、女神ラトラを主とする独立組織であるため、王家におもねることがないのだ。教会内には元は貴族だった人間が多く独自の階級社会を築いている。リュートに頭一つ下げない神官たちの前を通りながら、アイリスは冷ややかな目を向けた。
しかしリュートに続いて、アイリスの姿を見ると神官たちの表情が変わった。
礼拝堂の中央にはラトラの石像が厳かに君臨している。石像は無機質な象牙色をしているが、その髪、瞳の本当の色彩はアイリスが持っている。
どうやら神官たちは、我らがラトラの色を肉眼で見ることができて、感動のあまり言葉を失っているらしい。
アイリスはこっそり、ラトラの石像を睨みつける。
――本当に憎たらしいわ、ラトラ。
鳥肌が立った腕をさすりながら、このむき出しの信仰がアイリスの声を天へ送る力になれと願う。
アイリスが視線を向けると、司祭が床に膝をついていた。
「殿下、アイリス=ウェルバートン様。どうか、ラトラ様に祈りを。再び太陽が大地を照らし、雨に打ち勝つよう」
――日照りがない国でよかったわね、ラトラ。日照りが続けば、あなた、ただの邪神だったわ。雨が降るからこそ、ラトラ信仰が根強い国になったのだけど。
そんなことを思いながら、リュートに並んで跪き、祈る仕草をする。
恵みの雨は、雨の女神メリーレの涙である。雨の女神が泣くから雨が降る。そんな神話、子供だって知っている。
そして、雨の女神メリーレと太陽の女神ラトラの仲は最悪で、争いの果てにメリーレはラトラに敗れたという。
だから大雨による災害を鎮めるために、人々はラトラに祈る。しかし、前世でラトラに祈っても無駄だったから、ラトラには祈らない。そのラトラと争う雨の女神メリーレに、アイリスは語りかけた。
――敵の敵は味方、というでしょう? だからわたくしの言葉を聞いて、メリーレさま。ラトラは生意気でしょう。あなたさまの雨を利用して、こんなにも信仰を集めているのですから。
ねえ、メリーレさま。あなたはお優しい女神様だけど、それだけでは駄目よ。ラトラのような性悪には勝てないわ。いいこと、メリーレさま。涙は武器なのよ。
ラトラが困るように泣いてくださらない?
アイリスが祈る姿は敬虔なラトラ教の信者のようだった。しかし内心では、ラトラに牙を剥いている。
アイリスは目を閉じたまま、メリーレに訴える。
――メリーレさま。まずは、いったん泣き止みなさい。癇癪を起こして泣きわめくだけでは駄目よ。この国を涙で呑み込むなんて、許さないわ。ラトラと同じ愚図女神だなんてお嫌でしょう。あんな愚かな女神に負けて、さぞかし悔しいことでしょう。でも一人で泣いたって、なんの意味もないわ。うつくしく泣いて、神々の同情を買いなさい。そして、一番強い力を持つ太陽神――ラトラのお父さまに願いなさい。ラトラを排除せよ、と。
「ほら、メリーレさま。太陽を呑み込むの」
そう小さくつぶやくと、アイリスの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
その涙に、初めに気がついたのはリュートだった。ついで、神官たちがアイリスを見つめる。
まるで金色の宝石から透明な水晶が零れ落ちていくような光景に、ほう、と誰かが息を吐く。
その音に導かれるように、アイリスがゆっくりと瞼を開けると、リュートの青がわずかに見開かれていた。
「……リュート様?」
「アイリス、どうしたんだ?」
「雨が、悲しくて」
そう言ってアイリスは自らの頬に涙が伝うのを感じる。
――これが見本よ、メリーレ。
はらはらと泣くアイリスに、リュートも他の人間も釘付けになっている。
「どうか、雨がやみますように」
アイリスは最後にほのかな笑みを浮かべて、祈りを締めくくった。
アイリスの願いは叶う。叶わなければ、ラトラ共々、メリーレだって地獄に突き落としてやろうと思いながら。
数日後、王都の川が氾濫する前に雨足は落ち着き、太陽が現れた。
ラトラ様のおかげだと国中の民が涙を流して喜んだ。
ウェルバートン領も父の采配により甚大な被害を防ぎ、父も無事に屋敷に帰還した。これから復興が必要な地域は多いが、前世のように酷い傷跡を残すことなく、雨はやんだ。
アイリスは雨の名残をきらきら輝かせている、中庭の美しい花々を見つめる。
「今頃、メリーレは笑っているかしら」
――代わりにラトラは泣いているかしら。
太陽を見上げ、アイリスは勝ち誇ったように微笑んだ。
◆
雨がやんで、数日後のことだ。リュートが突然公爵邸を訪れた。
何か用があるのかと慌てて侍女にお茶を用意させたものの、応接室で向かいのソファに座ったリュートは、じっとアイリスの瞳を見つめてばかりいる。
アイリスの瞳は、透き通った黄金の宝石のようだと称される。光が差し込むと瞳の中に花のような文様が浮かび上がり、この世のものとは思えない神秘的な輝きを帯びるのだ。王城に行くたび、アイリスに見惚れて時を忘れる人間は少なくない。同時に、その瞳が恐ろしいと言って目を合わせない人間も少なくないが。
そんな有象無象とは違って、リュートは幼い頃からアイリスの目を見ていたはずなのに、今更どうしてこんなに興味を示しているのだろうか。
ぼうっとした様子のリュートに声をかける。
「リュート様。お疲れですか?」
「え? あ、いや、……、元気だよ」
ふい、と視線が逸らされる。リュートがこんなに口ごもる姿を初めて見た。
珍しさに好奇心が湧き上がるが、それ以上に体調でも悪いのかと心配になって、アイリスはリュートの顔を覗き込んだ。なにせ、連日の雨がやんだとはいっても、災害の後始末に追われているに違いない。
「リュート様。顔色が少し悪いのではなくて? 休む間もなく働いていらっしゃるのでしょう? 今日はお城へ戻って、ゆっくりお休みになってください」
「いや、本当に大丈夫なんだ」
「気遣いは無用です」
疲労が限界を突破したせいで突然屋敷に来たのだと疑いもせず、アイリスはリュートを馬車に乗せ、城に送り返した。
その後次に会ったときはいつも通りのリュートだった。
やはりあの日は体調が悪かったのだと結論を下した、数週間後、ウェルバートン邸にて。
「……アイリス、きみに見てもらいたいものがある」
どこか緊張した面持ちで、再びリュートが公爵邸に現れた。
――見てもらいたいもの? 何かの書類か、本だろうか?
それとも、と、思考を巡らせてみるが、心当たりはない。
リュートが従者から受け取ったものは、小さな箱だった。
わずかに顔を赤く染めて、リュートが箱を開く。
「これを、きみに」
箱の中には、美しい宝石が鎮座していた。輝く黄金。その透き通る煌めきに、アイリスは目を見開いた。
その色はアイリスの瞳と同じだった。
「まだ加工前のものだが、ダイヤを名産品にしている隣国から取り寄せた」
「これが、ダイヤなのですか?」
宝石には詳しいつもりだったが、こんな色のダイヤは初めて見た。
黄金色にきらめくダイヤモンドなど、この世に存在するとは思いもしなかった。
それに、こうやってリュートからその宝石を差し出されることに何より価値を感じた。前世でも、今世でも婚約者として定期的にウェルバートン家にドレスやら宝飾具やらが贈られてたが、直接渡されるのは初めてだったから。
あまりの驚きに、アイリスはしばらく言葉を失っていた。
「……ありがとう、ございます。綺麗」
顔を上げると、じ、とリュートはアイリスを見つめていた。
「きみの色だと思った」
「……わたくしの?」
アイリスは驚いて目を見開く。その金色の瞳を見て、リュートは優しく微笑んだ。
「これはきみの色だよ、アイリス。あの日、きみのことを女神ラトラだって言った大人もいたけど……そんなことない。きみの色だから、俺は綺麗だと思った」
リュートの言葉に、じわじわと金色の瞳に涙が溜まっていく。
涙で視界が滲んで、リュートの手の中にある宝石が輝きを増す。この忌々しい金色は、なんて綺麗なんだろう。アイリスは自分の瞳がこの世で一番美しいと知っている、唯一無二だと知っている。
こんな色を持って生まれなければ、ラトラの力なんてなければ、アイリスは死ななかったのに。憎くて、恐ろしくて、こんな色は到底愛せないと思っていた。
――でも、これはアイリスの色なのだ。
「喜んで、もらえただろうか」
ゆるりと顔を上げ、緊張を露わにしているリュートを見つめる。
この金の色は、これまで受け取ったどんな贈り物よりも、アイリスの心を深く打った。
――涙が溢れてしまいそう、嬉しい。
アイリスは宝石箱を持つリュートの手に、そっと自分の手を添える。
「ええ、とっても」
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