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1巻
1-2
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生まれ変わっても、一番会いたいのはこの人だった。毒を飲んだ時だって泣かなかったのに。前世で見捨てられた時だって泣かなかったのに。今になって、涙が零れ落ちそうになる。
絶対に泣いてたまるものですか、と涙を我慢したせいで、リュートの目には酷く不愛想に映っただろう。
最低の顔合わせだ。リュートを前にするといつだって、アイリスは自分らしくいることができない。あくまで形式的な顔合わせのせいで、リュートと言葉を交わしたのはそれだけだった。
リュートと入れ替わるように現れた、記憶よりも若い王や王妃とはミラウェルを交えて話したのだけれど。
顔合わせを終え、与えられた客間でアイリスは一人息をつく。
前世で何度も通された、王城の中で一等上等な客間だ。母のために改装され、王族の居住宮の中に特別に設けられているこの部屋からリュートの私室まで、さほど距離はない。
「アイリス様、お疲れになったでしょう。ゆっくりお休みくださいませ」
「……そうね」
ぐったりと重い疲労感を自覚して、アイリスは侍女の言葉に素直に従った。
明日も、リュートと会えるのだから。今日はもう寝て、しっかりと休むべきだ。
懐かしさを感じる寝室に足を踏み入れ、アイリスはベッドに潜り込んだ。
その晩、夢を見た。
塔のてっぺんで、アイリスはラトラの石像と向かい合っていた。アイリスの手には、見覚えのある硝子の小瓶がある。
ラトラの像は、その小瓶に目を落としつつ、滑らかに口を動かした。
『アイリス、おまえは飲めないでしょう。毒なんて』
『いいえ、飲むわ、わたくしは』
そう言って小瓶を持ち上げたとき、その石像の奥から、大人の姿をしたリュートが現れた。
彼は何も言うことなく、青い目でアイリスを冷たく見つめている。その軽蔑しきった目を見るだけで、アイリスの心が千切れるように痛んだ。ふと手を胸に当てると実際に血が流れ、石像の足元に血だまりを作る。
血で赤く染まっていく石像が笑い、アイリスの小瓶を持つ手が動いて、そして――
は、とアイリスは飛び起きた。
こめかみから顎先に伝った汗が、ぱたぱたと白いシーツに落ちる。荒い呼吸を繰り返し、ひゅーひゅーと乾いた音を出す喉に手を押し当てた。
喉が焼ける痛み、硝子の瓶、激痛、石像、そして大人のリュート。
夢で見た光景と前世で味わった痛みが、目まぐるしく繰り返される。悲鳴を上げたいのに、その声すら出なかった。
――誰か、誰か。
首に指の跡を残したアイリスは、震える小さな手を握りしめた。それが祈る仕草を取っていることにも気づかず。
アイリスは落ち着くまで、目を強く瞑って耐えることしかできなかった。
酷い倦怠感と疲労感がのしかかっていて、もう一度眠るなんてことは到底できそうにない。
暗闇を振り切るようにして、アイリスは明かりが灯されている応接間へ出た。
「……お嬢様?」
待機していた侍女を見て、安堵が込み上げてくる。同時に、ひりついた喉の渇きを自覚して、アイリスは侍女に小さく言った。
「……水を」
「かしこまりました」
侍女は、憔悴しきっているアイリスを見ても、何も言わず柔らかく微笑むだけだった。
用意された水を飲み干す。冷たい水で、脳が作り出していた喉の痛みを押し流した。
前世ならば悪夢を見た夜は甘いものがほしくなったけれど、今世のアイリスは、甘いものを求めるなんてことは絶対にしない。それは、生まれ変わっても忘れることができない毒と同じ味をしているせいだ。処刑される時、前世のアイリスが飲んだ毒は、喉が焼けるほど甘かった。
きっと、せめてこれくらいは、と処刑する者が毒にシロップを混ぜてくれたのだろう。
毒は毒のままでよかったのに。甘さで喉が焼けるあの苦しみがいかほどだったか。今のアイリスは甘いものを食べるたびに、思い出してしまう。
毒の味を忘れることを許さないとばかりに、あの最期の日が繰り返される。
この細く白いアイリスの喉は、焼け爛れてなどいないというのに、実際に水を飲むまで幻の痛みに苛まれてしまう。隣で他愛のない話をしてくれる侍女の落ち着いた声を聞きながら、汗でじっとりと濡れた服を着替えても、まだどこか呼吸が上手くできない。
一度味わった死の恐怖と、またそれが繰り返されるかもしれないという恐怖が、アイリスの首に纏わりついている。そして好きだったリュートに見捨てられた苦しみが、心をきつく締めつける。
アイリスは、虚ろな視線を客間の調度品に留めた。
有名な画家が描いた絵画は、前世でもこの部屋に飾られていたことを思い出したのだ。
『アイリス、悪い待たせた』
『わたくしの熱い視線を浴びて、この壁の絵が燃えてしまうかと思いました』
『……燃える前でよかったよ』
『ええ、本当に』
絵画が涙で滲む。ここでリュートと過ごした時間が蘇って、さらにアイリスの呼吸が浅くなった。
「お嬢様……⁉」
薄い胸を摩り、背中を丸めて苦しむ姿は、年相応の子供にしか見えなかった。しかし、泣きもせず、アイリスはじっと苦しみに耐える。駆け寄ってくる侍女に首を横に振り、アイリスは小さな手を伸ばした。
「大丈夫。それより外に、出たいわ」
「……中庭なら自由に出入りできるそうなので、参りましょうか」
手を差し出される。細く白い女の手は前世のリュートの手ではない。疲弊した心は素直な気持ちを呼び起こしてしまう。黄金の瞳にはもうあの手は映ってくれない。代わりに侍女が恭しく宝物のようにアイリスの手を支えてくれる。
前世のリュートはこんな風に触れてはこなかった。そんな記憶を突き付けられながら、アイリスは中庭へと向かった。
部屋の前にいた護衛騎士と共に、前世でも何度も来たことがある夜の中庭に辿り着く。王族しか立ち入ることができないこの宮の庭園は、見回りの兵の姿もなく静かだ。
「私はここにおりますので。何かあれば、お呼びください」
侍女がそう言うと、護衛騎士が驚いた顔で彼女を見た。その視線を目で制し、侍女はアイリスを自由にした。屋敷でも、アイリスは中庭で一人になりたがることが多い。侍女たちの計らいで、そんな束の間の自由は許されてきた。
アイリスはありがたく、一人で中庭へと足を踏み入れる。水色のワンピースの裾が、くるぶしのあたりをくすぐる。夜風がスカートをはためかせ、銀の髪が靡く。
少し肌寒い気温が今のアイリスには心地よかった。
花壇に植えられた花々が夜風に揺れ、香りが夜に匂い立つ。花壇で作られた道の先には、椅子とテーブルが置かれていた。一番手前の椅子に浅く腰かけて一息つき、夢の名残を消してしまいたいと喉元を摩ったときだ。
「誰だ?」
がた、と奥の椅子から、先客が立ち上がった。
アイリスは驚きに目を見開く。この暗い中庭の奥に先客がいたことも、そしてそれが――
「……リュートさま?」
「……アイリス?」
ぼんやりと見えた姿も、その声もリュートで間違いなかった。
――どうして。どうしてよりにもよって、リュートがここにいるの?
呆然と立ちすくむアイリスに、リュートが近づく。
何か言葉を、と探しても、唇がただ戦慄くだけだった。
冷たい空気にさらされた頬に、熱い雫が流れる。それは紛れもなく零れ落ちた涙だった。勝手に流れた涙に触れ、アイリスは目を丸くすることしかできない。ぼろぼろ、次々と涙が零れていく。
「どうした? 泣いているのか?」
アイリスが泣いていることに気づいたリュートの華奢な手が、アイリスの肩にそっと添えられる。
その優しい仕草と手の温度に、アイリスの中で何かが決壊した。
縋りつくように、リュートの手を握る。まだゴツゴツとしていない、滑らかで小さな手だ。
前世のリュートの手とは違うのに、侍女に手を握られたときとは違って痛みも苦しみも和らぐようだった。
幼い力で必死に握りしめると、ぎゅ、と、握り返される。宝物でも、女神の手でもなく、ただ人の手を握るようなその握り方は、前世のリュートと同じだった。
嗚呼、とアイリスの胸が打ち震える。
ずっと隠していた、いや、自分でも気づきもしなかった感情が涙と共に溢れ出した。
「……こわ、かったの」
嗚咽まみれの情けない言葉だ。アイリス=ウェルバートンともあろう者が、こんな泣き言を吐くなどプライドが許さないというのに。
地獄のような時間だって平気でこの足で突き進んできたというのに。
どうして、リュートに縋りついているの。
どうして、リュートは慰めるようにこの手を握ってくれるの。
「大丈夫だよ、アイリス」
その言葉を聞いて、アイリスは眩暈を覚えた。
夢を見ているような心地になる。
よりにもよってリュートの手から救いが与えられるとは思いもしなかった。
ずっと耐えていた孤独と痛みをリュートが和らげてくれるなんて、夢にも思っていなかった。
人間は一度満たされたら、飢えを知ってしまう。また愛に飢える人生なんてもうたくさんだと分かっている。
「リュート……」
リュートの優しさに触れてしまえば、心の奥底に封じ込めていた気持ちを抑えるなんてことできない。
アイリスは、リュートに恋をしていた。リュートのことが大好きだった。
毒を飲んだ人生に不釣り合いなほど、前世のアイリスは、婚約者であったリュートに対して淡く甘い思いを抱え込んでいた。しかし前世のリュートは微笑んですらくれなかった。最期には失望され、見捨てられた。
生まれ変わったって、今でも毒を飲んだアイリスが心の中にいて、どうしてリュートは自分を見捨てたのかと泣いている。ラトラのせいで全て失って、リュートに打ち明けることもできなくて、リュートが嫌いな人間に成り下がった。リュートと幸せになりたかっただけなのに。プライドも愛も踏みにじられて毒まで飲んだ。あんな理不尽な目にあって、今もラトラに怯える人生を送っている。
暗くて顔が見えないのをいいことに、アイリスは目元を擦って唇を噛みしめた。
本当は、出会いたくなかった。またこんな、自分ではどうしようもない思いを抱えたくなかったから。
でも、リュートがこの世界にいるならば、どんな思いをしようとも、出会わない未来など到底選べない。この夜に沈む青い瞳に、自分を映さずにはいられない。見つめていてほしい、見つめていたい。
どんな毒だって、彼のために飲んでみせようとアイリスは過去に思った。そして今も変わらない思いを抱いている。
また軽蔑される未来が待っていようとも、苦しみに苛まれようとも、リュートのために毒を飲む。リュートがいるから毒も飲める。
アイリスの金色の瞳が暗闇に輝く。その色にリュートが目を見開いたことに気づかず、アイリスは涙を拭った。
「……突然、ごめんなさい」
「何かあったのか?」
「こわい夢を見て」
ず、と鼻をすすり、冷静になるにつれ、羞恥心が湧き出てきて辟易する。冷たかった頬はあっという間に熱くなり、アイリスは唇をきゅっと引き結んだ。
静かな夜に、アイリスの呼吸の音と、そしてリュートがゆっくりと息を吸う音が響く。
「……実は、俺もなんだ」
その声が少しくぐもっているように聞こえて、アイリスは目を見開く。
前世のリュートが弱みを見せてくれたことは一度もなかったから、リュートも悪夢を見るのか、と当たり前のことに驚いた。
リュートも泣いているのだろうか。この暗闇の中ではよく見えない。だからこそリュートも打ち明けてくれたのだと思う。幼いながらに、やるせないほど愛しくなって、そして苦しくもなった。
リュートも悪い夢を見て、一人でここにいた。どんな夢を見て、どんなことを考えていたのか。
前世では、リュートが小さな体に孤独を背負い、暗闇の中で佇んでいたなんて知らなかった。
アイリスの背中を支えてくれた手をそっと握り返す。少し冷たいリュートの指先を、アイリスは自分の掌で包み込んだ。じんわりと温かくなっていくリュートの手に、また鼻の奥がツンとした。
――嗚呼、生まれ変わってよかった。毒を、地獄を、味わってよかった。
前世のアイリスが知らぬうちに苦しんでいたこの手に触れていることが、嬉しかった。
泥の底に沈んでいた期待が、ぬっと水面から首を出す。綺麗な空気を吸って息をして、そして大きく膨らんでいく。
それはいずれ、また恋になるだろうとアイリスは予感した。
「同じですね」
ようやく、アイリスは微笑みを口に乗せた。
やっぱりアイリスは、この人を愛さずにはいられない。そして、愛を乞わずにはいられない。
――ほしい、リュートが、リュートの心が。
また前世と同じ結末を繰り返すのだとしても、欲しがりな恋はもう止まってくれない。でも大丈夫。ずっと、この恋は毒に濡れているのだから。飲み干すことだけを考えればいい。
「――リュートさま。また悪い夢を見たときは、この手を握ってくれますか?」
「……もちろん。約束するよ」
夜に交わされた二人だけの淡い約束は、確かにアイリスの心に明かりを灯した。
◇
建国祭が終わってしばらく経った頃、アイリスは自室のバルコニーから美しい中庭を眺めていた。
白いレースのカーテンが風に揺れて柔らかく膨らみ、踊るようにゆらゆらと揺れる。
バルコニーから自室を見ると、カーテンの向こう側にぬいぐるみの影が映っていた。窓際の椅子に置いている大きなクマのぬいぐるみは、先日、五歳の誕生日を迎えたアイリスに国王夫妻が贈ったものだ。首元のリボンには大きな宝石がはめ込まれている。前世でも、このぬいぐるみはアイリスの部屋に鎮座していた。
これまでの人生を振り返って、前世と大きく変わっているところは見あたらない。
国教として厚く信仰されている太陽神ラトラ。アイリスを愛してくれる両親も、国王も、宰相も、なんなら目下仕事に励んでいる庭師だって、ただの前世の繰り返しだ。
唯一の違いはリュートと出会ったことだけれど――
おそらくこのまま順調に十三歳で社交界にデビューすれば、アイリスは淑女として花開き、社交界の頂点に座る。
そして、十四歳でリュートとの婚約が決まる。
前世では、時間があれば馬車に乗り込んで城へ向かっていた。婚約者として好き勝手振舞っては、リュートに冷たい視線を向けられていた。
しかし、リュートとの婚約が決まっていない今、まだ王城はアイリスが行きたいと言って行けるような場所ではない。
アイリスも忙しいが、リュートはその何倍だって忙しいだろうから、いとこの分際で無理に押しかける気にもなれなかった。
夜中の出会いから、時折リュートと手紙を交わしている。ただ、手紙は手紙。綺麗にまっすぐ綴られた字を指先でなぞるのではなく、リュート本人に会いたいのに。
そう思うと、バルコニーでこうしてため息を繰り返すことしかできない。愁いを帯びたその様子に、侍女たちは『リュート殿下のことを思っていらっしゃるのね』と噂しているのだろう。
ウェルバートン家の中ではアイリスがリュートに恋心を抱いていることが共通認識になっていた。
確かに前世のようにこのまま生きていけば、リュートとの婚約は結ぶことができるはずだ。
けれどその後、アイリスは裏社会で罪を重ねることになり、結果として処刑されてしまうのだ。全ての栄華を失って、海の藻屑となる。
だから、同じ轍は踏まない。
アイリスはバルコニーから視線を部屋の中に戻し、侍女を呼んだ。
「ねえ、お父様はいらっしゃる? お話があるの」
アイリスの望みは即座に叶えられた。
仕事中に訪れたアイリスに、公爵は眉を上げて怪訝そうな顔をした。
しかしアイリスが丁寧な謝罪をすると、手短にと言って、仕事の手を止めて要件を聞いてくれた。
公爵家当主たる父は、寡黙で厳格な人だった。ウェルバートン家のために仕事ばかりして、父と話をするときはいつも書斎に呼び出された。昔、殺風景な書斎を見かねたアイリスが鮮やかな瑠璃色の花瓶を贈ると、それから父の書斎の机の上にはその花瓶と一輪の花が添えられるようになった。そんな父のことをアイリスは深く尊敬して、大切に思っていた。
本と書類だけが積みあがっている机の上を一瞥して、前世よりも眉間の皺が薄い父を見つめる。
前世では、アイリスが自分を殺してくれと父と国王に頼んだ。ラトラを止めるためには、アイリスが死ぬしかなかった。一人娘を失うことで国が救われる、そんな残酷な事実を大切な父に突き付けてしまった。
アイリスが死んで苦しむのはアイリス一人ではないのだ。だから今世では父を味方につけて、前世の二の舞は踏まない。絶対に父より長く生きてみせる。
そう内心で決意して、アイリスは公爵に金色の瞳を向ける。
「わたくし、声が聞こえますの」
「声?」
「ええ。――女神ラトラの声が」
公爵はアイリスの話に片眉を上げた。いかにも疑っているような目つきだが、 アイリスの発言を即座に切り捨てはしなかった。
アイリスが女神ラトラに似ているからだろう。
両親の色をアイリスは何ひとつとして受け継がなかった。アイリスは顔のつくり自体は母に似ていると思っているが、同意を得た記憶は少ない。両親よりも女神ラトラに似ていると囁く者のほうがずっと多かった。
両親もまた、アイリスが女神となんらかの関係があると思っていたとしてもおかしくない。
アイリスが静かに見つめ続けると、公爵は頷いた。
「ふむ。私の領分ではないな。……仕方がない、教会に連絡を取るか?」
教会、と言われてアイリスの顔が引きつる。
教会なんて行けば、本当にラトラの声が聞こえるようになるかもしれない。
アイリスは慌てて首を横に振る。
「お待ちください、お父様。まずはラトラの言葉をお聞きになって」
「言ってみろ」
「『こんな愚図共、皆殺しよ』と、おっしゃるの。わたくし、とてもこわくてこわくて」
前世ではラトラもここまでは言わなかった。
だが適当にでっちあげた嘘だって、押し通す自信があった。さほど苦労することなく、ぽろりとアイリスの金色の瞳から涙が零れる。
「アイリス……」
アイリスが泣くのは珍しい。年相応に怯えているように見える娘を見つめ、公爵は部屋の入り口で見守っていた執事に一冊の本を持ってくるよう指示した。それから席を立ち、泣いているアイリスと共にソファに座った。
すぐに持参された古い本をテーブルの上に開き、文字がびっしりと詰まったページを捲っていく。
それはアイリスが神学の授業でも読んだ、女神に関する本だった。
「女神というものに基本的にろくな奴はいない。知っているだろう?」
堂々と女神をろくでなし扱いする我が父に、アイリスの噓泣きも緩みそうになる。母のミラウェルは教会嫌いを隠しもしないが、父もたいがい信仰心に欠けている。
ウェルバートン家は国教であるラトラ教の教えを守ってはいるものの、教会とは距離を置いていた。王家もそうだ。教会に力を持たせないよう、権力は常に抑制されている。
そもそも、これほどまでに女神に似た容姿を持って生まれたアイリスがまともな人生を歩めたのは、ウェルバートン家に生まれたおかげだった。
他の家であれば女神と生き写しの令嬢が誕生したことに歓喜して、我が子を女神に仕立てあげていただろう。
そんな父がアイリスの話を教会に持ちかけるわけがなく、先の言葉は分かりにくい父のユーモアだったらしい、とアイリスはひっそりとソファで脱力した。
それから公爵の手元を覗くと、そこにはラトラの絵図が描かれた神話があった。
「ラトラは特にろくでもない。神の中で最も偉大な太陽神の娘であり、美しい太陽の女神だが、神話では残酷な一面が描かれている。雨の女神と対立関係にあるため、水害に悩まされていた我が国ではラトラ信仰が強く、国教として認められるまでに至った。しかし、全てを慈しみ豊穣をもたらす雨の女神とは反対に、ラトラは苛烈なのだ」
公爵がアイリスに本を向ける。そこには、女神たちが争う絵があった。
「ラトラは雨だけではなく、あらゆる女神と争っていた。土地を枯らしては大地の女神の怒りを買い、夜を眩い光で照らしては月の女神の怒りを買い、ついに闇の女神を夜の中に閉じ込めた」
その話を聞いて、アイリスは唇を歪めた。
公爵から聞くラトラの姿は、前世のアイリスのようだった。貴族令嬢たちと喧嘩を繰り返し、圧倒的な支配の上に立っていた前世。
「『皆殺し』とラトラが言っていたんだな? まあ、そんな女神だから、人間などどうなってもいいと言うのは頷けるが」
話が戻ってきて、アイリスは大きく頷いた。
ラトラを悪役にしつつ、しかしこれ以上アイリスの自由が縛られないようにフォローも入れる。
「ラトラは退屈だと言っていました。きっと、ただの女神の気まぐれだと思っているのですが……」
「――少し検討してみる。この話は私以外にするなよ。教会にも行ってはならん」
公爵は、じ、とアイリスを見つめ、小さく息を吐いた。
アイリスの話を信じているのかどうかは分からない。けれど、それでいい。
はい、と頭を下げ、淑女の礼をしてからアイリスは公爵の執務室を辞した。
布石は打った。きっと、公爵は王に相談を持ちかける。本当に女神の声を聞いていようがいまいが、アイリスが女神ラトラに似ている限り、教会はアイリスを利用しようとする。そしてアイリスがもしも教会の手に渡ったとしたら教会の力が増し、王や貴族は力を失うだろう。
昔、教会の力が強かった時代、この国は別の女神を信仰している隣国と戦争を起こした。だからこの国の王や古い貴族たちは、過去の過ちを繰り返さないよう、教会の力が増すことを恐れている。
教会が勢いをつけて、この国にのさばり、隣国と問題を起こせば困るでしょう?
アイリスは、国の女神にも毒にもなる。
そして一年後、前世よりもずっと早くアイリスとリュートとの婚約が決まった。
「リュート様」
「やあ、アイリス」
初めて出会ったあの夜の日から、リュートの青い瞳にはアイリスが映っている。そして名前を呼ぶと、青はゆるりと細くなって、アイリスを見つめる。その柔らかな表情を見ると、アイリスの胸が緩く締めつけられた。
リュートと見つめあっても平常心を保つなんて、これまでもそしてこれからも到底できそうにない。
リュートは九歳に、アイリスは六歳になった。リュートの成長は目を瞠るほど早く、身長差も会うたびに広がっている。アイリスに対しても、「年上のお兄さん」のような振る舞いが増え、既に大人びた顔をするようになった。
今日もそうだ。婚約者となってから初めての両家揃った顔合わせの日。
アイリスはリュートと会うときにはいつだって気合を入れてお洒落をしていたが、今日はさらに化粧をし、長い銀色の髪もくるくると巻いている。
リュートも、黒い髪をセットし、煌びやかな服装を纏っていた。
しかし珍しいことに、リュートにはいつもの余裕がない。どこか気恥ずかしそうにアイリスを見て、そして隣にいる国王を見上げている。
すると国王とリュートを挟むように立っていた王妃がリュートの肩に手を置き、腰を折って囁いた。
「リュート。婚約者殿に対するご挨拶は、『やあ』でいいのですか?」
「……」
リュートは困ったような顔を国王に向けるが、国王は口元を緩めるだけで何も言わない。
王妃のプレッシャーに耐えかねたのか、言葉を懸命に探しているのか、リュートはアイリスにも助けを求める目を向けた。
その表情が前世で自分を嫌った目とは違っていて、アイリスはほっと胸をなでおろしつつ、名前を呼んだ。
絶対に泣いてたまるものですか、と涙を我慢したせいで、リュートの目には酷く不愛想に映っただろう。
最低の顔合わせだ。リュートを前にするといつだって、アイリスは自分らしくいることができない。あくまで形式的な顔合わせのせいで、リュートと言葉を交わしたのはそれだけだった。
リュートと入れ替わるように現れた、記憶よりも若い王や王妃とはミラウェルを交えて話したのだけれど。
顔合わせを終え、与えられた客間でアイリスは一人息をつく。
前世で何度も通された、王城の中で一等上等な客間だ。母のために改装され、王族の居住宮の中に特別に設けられているこの部屋からリュートの私室まで、さほど距離はない。
「アイリス様、お疲れになったでしょう。ゆっくりお休みくださいませ」
「……そうね」
ぐったりと重い疲労感を自覚して、アイリスは侍女の言葉に素直に従った。
明日も、リュートと会えるのだから。今日はもう寝て、しっかりと休むべきだ。
懐かしさを感じる寝室に足を踏み入れ、アイリスはベッドに潜り込んだ。
その晩、夢を見た。
塔のてっぺんで、アイリスはラトラの石像と向かい合っていた。アイリスの手には、見覚えのある硝子の小瓶がある。
ラトラの像は、その小瓶に目を落としつつ、滑らかに口を動かした。
『アイリス、おまえは飲めないでしょう。毒なんて』
『いいえ、飲むわ、わたくしは』
そう言って小瓶を持ち上げたとき、その石像の奥から、大人の姿をしたリュートが現れた。
彼は何も言うことなく、青い目でアイリスを冷たく見つめている。その軽蔑しきった目を見るだけで、アイリスの心が千切れるように痛んだ。ふと手を胸に当てると実際に血が流れ、石像の足元に血だまりを作る。
血で赤く染まっていく石像が笑い、アイリスの小瓶を持つ手が動いて、そして――
は、とアイリスは飛び起きた。
こめかみから顎先に伝った汗が、ぱたぱたと白いシーツに落ちる。荒い呼吸を繰り返し、ひゅーひゅーと乾いた音を出す喉に手を押し当てた。
喉が焼ける痛み、硝子の瓶、激痛、石像、そして大人のリュート。
夢で見た光景と前世で味わった痛みが、目まぐるしく繰り返される。悲鳴を上げたいのに、その声すら出なかった。
――誰か、誰か。
首に指の跡を残したアイリスは、震える小さな手を握りしめた。それが祈る仕草を取っていることにも気づかず。
アイリスは落ち着くまで、目を強く瞑って耐えることしかできなかった。
酷い倦怠感と疲労感がのしかかっていて、もう一度眠るなんてことは到底できそうにない。
暗闇を振り切るようにして、アイリスは明かりが灯されている応接間へ出た。
「……お嬢様?」
待機していた侍女を見て、安堵が込み上げてくる。同時に、ひりついた喉の渇きを自覚して、アイリスは侍女に小さく言った。
「……水を」
「かしこまりました」
侍女は、憔悴しきっているアイリスを見ても、何も言わず柔らかく微笑むだけだった。
用意された水を飲み干す。冷たい水で、脳が作り出していた喉の痛みを押し流した。
前世ならば悪夢を見た夜は甘いものがほしくなったけれど、今世のアイリスは、甘いものを求めるなんてことは絶対にしない。それは、生まれ変わっても忘れることができない毒と同じ味をしているせいだ。処刑される時、前世のアイリスが飲んだ毒は、喉が焼けるほど甘かった。
きっと、せめてこれくらいは、と処刑する者が毒にシロップを混ぜてくれたのだろう。
毒は毒のままでよかったのに。甘さで喉が焼けるあの苦しみがいかほどだったか。今のアイリスは甘いものを食べるたびに、思い出してしまう。
毒の味を忘れることを許さないとばかりに、あの最期の日が繰り返される。
この細く白いアイリスの喉は、焼け爛れてなどいないというのに、実際に水を飲むまで幻の痛みに苛まれてしまう。隣で他愛のない話をしてくれる侍女の落ち着いた声を聞きながら、汗でじっとりと濡れた服を着替えても、まだどこか呼吸が上手くできない。
一度味わった死の恐怖と、またそれが繰り返されるかもしれないという恐怖が、アイリスの首に纏わりついている。そして好きだったリュートに見捨てられた苦しみが、心をきつく締めつける。
アイリスは、虚ろな視線を客間の調度品に留めた。
有名な画家が描いた絵画は、前世でもこの部屋に飾られていたことを思い出したのだ。
『アイリス、悪い待たせた』
『わたくしの熱い視線を浴びて、この壁の絵が燃えてしまうかと思いました』
『……燃える前でよかったよ』
『ええ、本当に』
絵画が涙で滲む。ここでリュートと過ごした時間が蘇って、さらにアイリスの呼吸が浅くなった。
「お嬢様……⁉」
薄い胸を摩り、背中を丸めて苦しむ姿は、年相応の子供にしか見えなかった。しかし、泣きもせず、アイリスはじっと苦しみに耐える。駆け寄ってくる侍女に首を横に振り、アイリスは小さな手を伸ばした。
「大丈夫。それより外に、出たいわ」
「……中庭なら自由に出入りできるそうなので、参りましょうか」
手を差し出される。細く白い女の手は前世のリュートの手ではない。疲弊した心は素直な気持ちを呼び起こしてしまう。黄金の瞳にはもうあの手は映ってくれない。代わりに侍女が恭しく宝物のようにアイリスの手を支えてくれる。
前世のリュートはこんな風に触れてはこなかった。そんな記憶を突き付けられながら、アイリスは中庭へと向かった。
部屋の前にいた護衛騎士と共に、前世でも何度も来たことがある夜の中庭に辿り着く。王族しか立ち入ることができないこの宮の庭園は、見回りの兵の姿もなく静かだ。
「私はここにおりますので。何かあれば、お呼びください」
侍女がそう言うと、護衛騎士が驚いた顔で彼女を見た。その視線を目で制し、侍女はアイリスを自由にした。屋敷でも、アイリスは中庭で一人になりたがることが多い。侍女たちの計らいで、そんな束の間の自由は許されてきた。
アイリスはありがたく、一人で中庭へと足を踏み入れる。水色のワンピースの裾が、くるぶしのあたりをくすぐる。夜風がスカートをはためかせ、銀の髪が靡く。
少し肌寒い気温が今のアイリスには心地よかった。
花壇に植えられた花々が夜風に揺れ、香りが夜に匂い立つ。花壇で作られた道の先には、椅子とテーブルが置かれていた。一番手前の椅子に浅く腰かけて一息つき、夢の名残を消してしまいたいと喉元を摩ったときだ。
「誰だ?」
がた、と奥の椅子から、先客が立ち上がった。
アイリスは驚きに目を見開く。この暗い中庭の奥に先客がいたことも、そしてそれが――
「……リュートさま?」
「……アイリス?」
ぼんやりと見えた姿も、その声もリュートで間違いなかった。
――どうして。どうしてよりにもよって、リュートがここにいるの?
呆然と立ちすくむアイリスに、リュートが近づく。
何か言葉を、と探しても、唇がただ戦慄くだけだった。
冷たい空気にさらされた頬に、熱い雫が流れる。それは紛れもなく零れ落ちた涙だった。勝手に流れた涙に触れ、アイリスは目を丸くすることしかできない。ぼろぼろ、次々と涙が零れていく。
「どうした? 泣いているのか?」
アイリスが泣いていることに気づいたリュートの華奢な手が、アイリスの肩にそっと添えられる。
その優しい仕草と手の温度に、アイリスの中で何かが決壊した。
縋りつくように、リュートの手を握る。まだゴツゴツとしていない、滑らかで小さな手だ。
前世のリュートの手とは違うのに、侍女に手を握られたときとは違って痛みも苦しみも和らぐようだった。
幼い力で必死に握りしめると、ぎゅ、と、握り返される。宝物でも、女神の手でもなく、ただ人の手を握るようなその握り方は、前世のリュートと同じだった。
嗚呼、とアイリスの胸が打ち震える。
ずっと隠していた、いや、自分でも気づきもしなかった感情が涙と共に溢れ出した。
「……こわ、かったの」
嗚咽まみれの情けない言葉だ。アイリス=ウェルバートンともあろう者が、こんな泣き言を吐くなどプライドが許さないというのに。
地獄のような時間だって平気でこの足で突き進んできたというのに。
どうして、リュートに縋りついているの。
どうして、リュートは慰めるようにこの手を握ってくれるの。
「大丈夫だよ、アイリス」
その言葉を聞いて、アイリスは眩暈を覚えた。
夢を見ているような心地になる。
よりにもよってリュートの手から救いが与えられるとは思いもしなかった。
ずっと耐えていた孤独と痛みをリュートが和らげてくれるなんて、夢にも思っていなかった。
人間は一度満たされたら、飢えを知ってしまう。また愛に飢える人生なんてもうたくさんだと分かっている。
「リュート……」
リュートの優しさに触れてしまえば、心の奥底に封じ込めていた気持ちを抑えるなんてことできない。
アイリスは、リュートに恋をしていた。リュートのことが大好きだった。
毒を飲んだ人生に不釣り合いなほど、前世のアイリスは、婚約者であったリュートに対して淡く甘い思いを抱え込んでいた。しかし前世のリュートは微笑んですらくれなかった。最期には失望され、見捨てられた。
生まれ変わったって、今でも毒を飲んだアイリスが心の中にいて、どうしてリュートは自分を見捨てたのかと泣いている。ラトラのせいで全て失って、リュートに打ち明けることもできなくて、リュートが嫌いな人間に成り下がった。リュートと幸せになりたかっただけなのに。プライドも愛も踏みにじられて毒まで飲んだ。あんな理不尽な目にあって、今もラトラに怯える人生を送っている。
暗くて顔が見えないのをいいことに、アイリスは目元を擦って唇を噛みしめた。
本当は、出会いたくなかった。またこんな、自分ではどうしようもない思いを抱えたくなかったから。
でも、リュートがこの世界にいるならば、どんな思いをしようとも、出会わない未来など到底選べない。この夜に沈む青い瞳に、自分を映さずにはいられない。見つめていてほしい、見つめていたい。
どんな毒だって、彼のために飲んでみせようとアイリスは過去に思った。そして今も変わらない思いを抱いている。
また軽蔑される未来が待っていようとも、苦しみに苛まれようとも、リュートのために毒を飲む。リュートがいるから毒も飲める。
アイリスの金色の瞳が暗闇に輝く。その色にリュートが目を見開いたことに気づかず、アイリスは涙を拭った。
「……突然、ごめんなさい」
「何かあったのか?」
「こわい夢を見て」
ず、と鼻をすすり、冷静になるにつれ、羞恥心が湧き出てきて辟易する。冷たかった頬はあっという間に熱くなり、アイリスは唇をきゅっと引き結んだ。
静かな夜に、アイリスの呼吸の音と、そしてリュートがゆっくりと息を吸う音が響く。
「……実は、俺もなんだ」
その声が少しくぐもっているように聞こえて、アイリスは目を見開く。
前世のリュートが弱みを見せてくれたことは一度もなかったから、リュートも悪夢を見るのか、と当たり前のことに驚いた。
リュートも泣いているのだろうか。この暗闇の中ではよく見えない。だからこそリュートも打ち明けてくれたのだと思う。幼いながらに、やるせないほど愛しくなって、そして苦しくもなった。
リュートも悪い夢を見て、一人でここにいた。どんな夢を見て、どんなことを考えていたのか。
前世では、リュートが小さな体に孤独を背負い、暗闇の中で佇んでいたなんて知らなかった。
アイリスの背中を支えてくれた手をそっと握り返す。少し冷たいリュートの指先を、アイリスは自分の掌で包み込んだ。じんわりと温かくなっていくリュートの手に、また鼻の奥がツンとした。
――嗚呼、生まれ変わってよかった。毒を、地獄を、味わってよかった。
前世のアイリスが知らぬうちに苦しんでいたこの手に触れていることが、嬉しかった。
泥の底に沈んでいた期待が、ぬっと水面から首を出す。綺麗な空気を吸って息をして、そして大きく膨らんでいく。
それはいずれ、また恋になるだろうとアイリスは予感した。
「同じですね」
ようやく、アイリスは微笑みを口に乗せた。
やっぱりアイリスは、この人を愛さずにはいられない。そして、愛を乞わずにはいられない。
――ほしい、リュートが、リュートの心が。
また前世と同じ結末を繰り返すのだとしても、欲しがりな恋はもう止まってくれない。でも大丈夫。ずっと、この恋は毒に濡れているのだから。飲み干すことだけを考えればいい。
「――リュートさま。また悪い夢を見たときは、この手を握ってくれますか?」
「……もちろん。約束するよ」
夜に交わされた二人だけの淡い約束は、確かにアイリスの心に明かりを灯した。
◇
建国祭が終わってしばらく経った頃、アイリスは自室のバルコニーから美しい中庭を眺めていた。
白いレースのカーテンが風に揺れて柔らかく膨らみ、踊るようにゆらゆらと揺れる。
バルコニーから自室を見ると、カーテンの向こう側にぬいぐるみの影が映っていた。窓際の椅子に置いている大きなクマのぬいぐるみは、先日、五歳の誕生日を迎えたアイリスに国王夫妻が贈ったものだ。首元のリボンには大きな宝石がはめ込まれている。前世でも、このぬいぐるみはアイリスの部屋に鎮座していた。
これまでの人生を振り返って、前世と大きく変わっているところは見あたらない。
国教として厚く信仰されている太陽神ラトラ。アイリスを愛してくれる両親も、国王も、宰相も、なんなら目下仕事に励んでいる庭師だって、ただの前世の繰り返しだ。
唯一の違いはリュートと出会ったことだけれど――
おそらくこのまま順調に十三歳で社交界にデビューすれば、アイリスは淑女として花開き、社交界の頂点に座る。
そして、十四歳でリュートとの婚約が決まる。
前世では、時間があれば馬車に乗り込んで城へ向かっていた。婚約者として好き勝手振舞っては、リュートに冷たい視線を向けられていた。
しかし、リュートとの婚約が決まっていない今、まだ王城はアイリスが行きたいと言って行けるような場所ではない。
アイリスも忙しいが、リュートはその何倍だって忙しいだろうから、いとこの分際で無理に押しかける気にもなれなかった。
夜中の出会いから、時折リュートと手紙を交わしている。ただ、手紙は手紙。綺麗にまっすぐ綴られた字を指先でなぞるのではなく、リュート本人に会いたいのに。
そう思うと、バルコニーでこうしてため息を繰り返すことしかできない。愁いを帯びたその様子に、侍女たちは『リュート殿下のことを思っていらっしゃるのね』と噂しているのだろう。
ウェルバートン家の中ではアイリスがリュートに恋心を抱いていることが共通認識になっていた。
確かに前世のようにこのまま生きていけば、リュートとの婚約は結ぶことができるはずだ。
けれどその後、アイリスは裏社会で罪を重ねることになり、結果として処刑されてしまうのだ。全ての栄華を失って、海の藻屑となる。
だから、同じ轍は踏まない。
アイリスはバルコニーから視線を部屋の中に戻し、侍女を呼んだ。
「ねえ、お父様はいらっしゃる? お話があるの」
アイリスの望みは即座に叶えられた。
仕事中に訪れたアイリスに、公爵は眉を上げて怪訝そうな顔をした。
しかしアイリスが丁寧な謝罪をすると、手短にと言って、仕事の手を止めて要件を聞いてくれた。
公爵家当主たる父は、寡黙で厳格な人だった。ウェルバートン家のために仕事ばかりして、父と話をするときはいつも書斎に呼び出された。昔、殺風景な書斎を見かねたアイリスが鮮やかな瑠璃色の花瓶を贈ると、それから父の書斎の机の上にはその花瓶と一輪の花が添えられるようになった。そんな父のことをアイリスは深く尊敬して、大切に思っていた。
本と書類だけが積みあがっている机の上を一瞥して、前世よりも眉間の皺が薄い父を見つめる。
前世では、アイリスが自分を殺してくれと父と国王に頼んだ。ラトラを止めるためには、アイリスが死ぬしかなかった。一人娘を失うことで国が救われる、そんな残酷な事実を大切な父に突き付けてしまった。
アイリスが死んで苦しむのはアイリス一人ではないのだ。だから今世では父を味方につけて、前世の二の舞は踏まない。絶対に父より長く生きてみせる。
そう内心で決意して、アイリスは公爵に金色の瞳を向ける。
「わたくし、声が聞こえますの」
「声?」
「ええ。――女神ラトラの声が」
公爵はアイリスの話に片眉を上げた。いかにも疑っているような目つきだが、 アイリスの発言を即座に切り捨てはしなかった。
アイリスが女神ラトラに似ているからだろう。
両親の色をアイリスは何ひとつとして受け継がなかった。アイリスは顔のつくり自体は母に似ていると思っているが、同意を得た記憶は少ない。両親よりも女神ラトラに似ていると囁く者のほうがずっと多かった。
両親もまた、アイリスが女神となんらかの関係があると思っていたとしてもおかしくない。
アイリスが静かに見つめ続けると、公爵は頷いた。
「ふむ。私の領分ではないな。……仕方がない、教会に連絡を取るか?」
教会、と言われてアイリスの顔が引きつる。
教会なんて行けば、本当にラトラの声が聞こえるようになるかもしれない。
アイリスは慌てて首を横に振る。
「お待ちください、お父様。まずはラトラの言葉をお聞きになって」
「言ってみろ」
「『こんな愚図共、皆殺しよ』と、おっしゃるの。わたくし、とてもこわくてこわくて」
前世ではラトラもここまでは言わなかった。
だが適当にでっちあげた嘘だって、押し通す自信があった。さほど苦労することなく、ぽろりとアイリスの金色の瞳から涙が零れる。
「アイリス……」
アイリスが泣くのは珍しい。年相応に怯えているように見える娘を見つめ、公爵は部屋の入り口で見守っていた執事に一冊の本を持ってくるよう指示した。それから席を立ち、泣いているアイリスと共にソファに座った。
すぐに持参された古い本をテーブルの上に開き、文字がびっしりと詰まったページを捲っていく。
それはアイリスが神学の授業でも読んだ、女神に関する本だった。
「女神というものに基本的にろくな奴はいない。知っているだろう?」
堂々と女神をろくでなし扱いする我が父に、アイリスの噓泣きも緩みそうになる。母のミラウェルは教会嫌いを隠しもしないが、父もたいがい信仰心に欠けている。
ウェルバートン家は国教であるラトラ教の教えを守ってはいるものの、教会とは距離を置いていた。王家もそうだ。教会に力を持たせないよう、権力は常に抑制されている。
そもそも、これほどまでに女神に似た容姿を持って生まれたアイリスがまともな人生を歩めたのは、ウェルバートン家に生まれたおかげだった。
他の家であれば女神と生き写しの令嬢が誕生したことに歓喜して、我が子を女神に仕立てあげていただろう。
そんな父がアイリスの話を教会に持ちかけるわけがなく、先の言葉は分かりにくい父のユーモアだったらしい、とアイリスはひっそりとソファで脱力した。
それから公爵の手元を覗くと、そこにはラトラの絵図が描かれた神話があった。
「ラトラは特にろくでもない。神の中で最も偉大な太陽神の娘であり、美しい太陽の女神だが、神話では残酷な一面が描かれている。雨の女神と対立関係にあるため、水害に悩まされていた我が国ではラトラ信仰が強く、国教として認められるまでに至った。しかし、全てを慈しみ豊穣をもたらす雨の女神とは反対に、ラトラは苛烈なのだ」
公爵がアイリスに本を向ける。そこには、女神たちが争う絵があった。
「ラトラは雨だけではなく、あらゆる女神と争っていた。土地を枯らしては大地の女神の怒りを買い、夜を眩い光で照らしては月の女神の怒りを買い、ついに闇の女神を夜の中に閉じ込めた」
その話を聞いて、アイリスは唇を歪めた。
公爵から聞くラトラの姿は、前世のアイリスのようだった。貴族令嬢たちと喧嘩を繰り返し、圧倒的な支配の上に立っていた前世。
「『皆殺し』とラトラが言っていたんだな? まあ、そんな女神だから、人間などどうなってもいいと言うのは頷けるが」
話が戻ってきて、アイリスは大きく頷いた。
ラトラを悪役にしつつ、しかしこれ以上アイリスの自由が縛られないようにフォローも入れる。
「ラトラは退屈だと言っていました。きっと、ただの女神の気まぐれだと思っているのですが……」
「――少し検討してみる。この話は私以外にするなよ。教会にも行ってはならん」
公爵は、じ、とアイリスを見つめ、小さく息を吐いた。
アイリスの話を信じているのかどうかは分からない。けれど、それでいい。
はい、と頭を下げ、淑女の礼をしてからアイリスは公爵の執務室を辞した。
布石は打った。きっと、公爵は王に相談を持ちかける。本当に女神の声を聞いていようがいまいが、アイリスが女神ラトラに似ている限り、教会はアイリスを利用しようとする。そしてアイリスがもしも教会の手に渡ったとしたら教会の力が増し、王や貴族は力を失うだろう。
昔、教会の力が強かった時代、この国は別の女神を信仰している隣国と戦争を起こした。だからこの国の王や古い貴族たちは、過去の過ちを繰り返さないよう、教会の力が増すことを恐れている。
教会が勢いをつけて、この国にのさばり、隣国と問題を起こせば困るでしょう?
アイリスは、国の女神にも毒にもなる。
そして一年後、前世よりもずっと早くアイリスとリュートとの婚約が決まった。
「リュート様」
「やあ、アイリス」
初めて出会ったあの夜の日から、リュートの青い瞳にはアイリスが映っている。そして名前を呼ぶと、青はゆるりと細くなって、アイリスを見つめる。その柔らかな表情を見ると、アイリスの胸が緩く締めつけられた。
リュートと見つめあっても平常心を保つなんて、これまでもそしてこれからも到底できそうにない。
リュートは九歳に、アイリスは六歳になった。リュートの成長は目を瞠るほど早く、身長差も会うたびに広がっている。アイリスに対しても、「年上のお兄さん」のような振る舞いが増え、既に大人びた顔をするようになった。
今日もそうだ。婚約者となってから初めての両家揃った顔合わせの日。
アイリスはリュートと会うときにはいつだって気合を入れてお洒落をしていたが、今日はさらに化粧をし、長い銀色の髪もくるくると巻いている。
リュートも、黒い髪をセットし、煌びやかな服装を纏っていた。
しかし珍しいことに、リュートにはいつもの余裕がない。どこか気恥ずかしそうにアイリスを見て、そして隣にいる国王を見上げている。
すると国王とリュートを挟むように立っていた王妃がリュートの肩に手を置き、腰を折って囁いた。
「リュート。婚約者殿に対するご挨拶は、『やあ』でいいのですか?」
「……」
リュートは困ったような顔を国王に向けるが、国王は口元を緩めるだけで何も言わない。
王妃のプレッシャーに耐えかねたのか、言葉を懸命に探しているのか、リュートはアイリスにも助けを求める目を向けた。
その表情が前世で自分を嫌った目とは違っていて、アイリスはほっと胸をなでおろしつつ、名前を呼んだ。
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