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愚者(メリーレ)編
愚者の夢 4
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母の言葉通り、駆けつけてきたリュートはアイリスを見て、挨拶をする間もなく抱きしめた。
馬車で来たはずなのに外套は雨で濡れていて、冷たいのに熱くてたまらない。
「ごきげんよう、リュートさま」
「きみは、本当に……どれだけ心配したことか」
はあ、と荒い息を吐いて、上下する肩が暫く落ち着くまでリュートはそのままでいた。本当に急いできてくれたのだ。前回のリリスがリュートに敵意を向けた分、余計に居てもたってもいられなかったのだろう。
いつもは品行方正なリュートの乱れている姿に煩い心臓を宥めながら、ひそかに、こんなにアイリスのことが好きなら他の女に取られることもなさそうねと安堵していた。
あのアイリス=ウェルバートンとて、好きな男に対しては手探りになってしまう。義務や責任よりも深く踏み込んだところで、ずっと愛していてほしいもの。
うおっほん、とわざとらしい執事の咳払いで、ようやくリュートはアイリスを解放した。今度は大人しく、テーブルにアイリスと向かい合って座る。
「……早く結婚したいな」
ぼそっと小さく吐き出された言葉を聞き逃さなかったが、聞こえなかったフリをした。照れてしまい言葉が見つからなかったのだ。
わたくしもよ、と囁けばよかったと思ったのは、リュートが切り替えて額の模様について聞いてきた時だった。
「それで、またリリスか?」
「いいえ。メリーレさまです」
「……雨の女神の。もう俺は何を言われても構わないが、アイリスはこの国にいてもらうぞ」
「天界へのお誘いでもありませんわ。相談を持ち掛けられたのです、メリーレさまの恋の相談を」
同じ話には父にもしているので、メリーレの話はアイリスによって爆速で拡散されている。しかしこんな目立つものを残してしまったメリーレが悪いのだ。しかも寝る間も惜しいほど忙しいこの時期に。
リュートも朝から公務をずらして、無理をしてでも来てくれたに違いない。
ただ夢の中の相談に留めてくれていれば、アイリスが一人で頭をひねって適当なアドバイスをしたものの。実際にそれが役立つかは別として。
ただし、先程の母のようなことは言えなかった。愚かになれだなんて。
愚か者はアイリスが一番嫌いな部類だ。
毒を飲むほど恨んで憎んで呪ったラトラを許しているのは、ラトラが特別だから。アイリスと同じ色を持った女神。孤独を嘆いて、前世も今世もずっとアイリスの中にいた。
ラトラが愚図なせいでアイリスは死ぬ羽目になったが、代わりに今世で叶わなかった愛を手に入れることが出来た。
痛み分け。あの強烈な憎しみを忘れることはないけれど、捕らわれてはいない。
分厚い雲に覆われてどんよりと暗い空とは違い、雨上がりの澄んだ濃い青を見つめる。
「恋?」
「ええ。女の戦いです」
戦いこそ賢くあらねばならぬというのに。それが恋に纏わるなら、愚かにならねばならないらしい。
アイリスは愚か者なのだろうか。リュートの前では愚か者だからこそ、愛してくれるのだろうか。
「……俺はそういったものに疎いから、何も言葉は見つからないんだが。ただの相談でよかった。今日は夢に羽の生えたきみが出てきそうだ」
女神がトラウマを超えて地雷になりそうなリュートは、ようやく大きな息を吐いてアイリスを見つめた。柔らかい眼差しで。
「リュートさまは、どう思われます?相手を振り向かせるためには、賢くなればよいのか、愚かになればよいのか」
リュートは疎いと言っただろうなんて、笑いながら、
「賢くなるべきじゃないのか?」
空の目に愛をこめた。
雨の降る音が部屋を包む。メリーレが泣いている。
賢く泣いているのか、愚かに泣いているのか。
雨の音が聞こえる。今の世ではずっと、アイリスは雨が嫌いだった。みんながラトラに祈りを向けるから。
けれど心の中で、アイリスはラトラに問いかけた。
ねぇ、ラトラ。わたくし、愚か者は嫌いよ。嫌いなのよ。
・
父に与えられた猶予は三日だった。ついこの前体調不良を理由に屋敷に篭ったばかりなのに、何度も繰り返せば良くない噂が回る。
アイリス=ウェルバートンは体が弱い。
これからリュートに嫁いで、そして子を儲けなければならないアイリスにとって、今一番回避しなければならないことだった。実際は病気のひとつせず、城から派遣された医師にも婚前の体調の確認をされて健康の証明はできるのだが。
子がなかなか生まれなければ、ほらやはりアイリスには子を産めぬのだ!とリュートに大量の側妃がつくことだろう。
おぞましい。
三日を過ぎれば、密かに噂されているにすぎない加護を公表しなければならない。女神の加護を授かったなんて前人未到である。
アイリス様万歳!王家万歳!などと話は簡単に進まないから、王はアイリスと女神の関係に箝口令を敷いているのだ。
そして忙しいアイリスには、口も顔も手も出してくるであろう教会に構う時間もない。
変に教会や神殿に乗り込んで、今の王家と教会との付かず離れずな距離を崩すこともしたくない。
外国もどう動くか分からない。
アイリスは目を閉じ、息を吐く。城を抜け出してきたから、と直ぐにリュートが戻ったあと、アイリスはメリーレやラトラとの会話を試みたが、反応はなかった。どうやら夢の中でしか無理らしい。
香りのいい湯につかり、髪と肌の手入れをされ、アイリスはいつもより早々にベッドに入った。
寝つきがよくなる寝酒まで飲んだ。
女神になることを恐れて眠れなかった日々は未だにアイリスにこびり付いていて、眠る感覚に慣れない。意識が夢に落ちていけば抗うように目を開けてしまう。気絶するように眠っても、酷い夢も見る。
普段はほとんど酒を飲まないアイリスでも、寝酒は違った。喉の焼ける感覚がないアルコール度数が低い液体で思考を鈍らせ、柔らかなシーツの上にからだを滑らせる。
どうか、夢の中でメリーレさまと話ができますように。
夢と現の間。あと数秒も経たぬうちに、意識が泥に沈んでいく。その中から這い出でることはできないのではないか。
それでもアイリスは、眠る。深く深く、女神のいる世界まで。
馬車で来たはずなのに外套は雨で濡れていて、冷たいのに熱くてたまらない。
「ごきげんよう、リュートさま」
「きみは、本当に……どれだけ心配したことか」
はあ、と荒い息を吐いて、上下する肩が暫く落ち着くまでリュートはそのままでいた。本当に急いできてくれたのだ。前回のリリスがリュートに敵意を向けた分、余計に居てもたってもいられなかったのだろう。
いつもは品行方正なリュートの乱れている姿に煩い心臓を宥めながら、ひそかに、こんなにアイリスのことが好きなら他の女に取られることもなさそうねと安堵していた。
あのアイリス=ウェルバートンとて、好きな男に対しては手探りになってしまう。義務や責任よりも深く踏み込んだところで、ずっと愛していてほしいもの。
うおっほん、とわざとらしい執事の咳払いで、ようやくリュートはアイリスを解放した。今度は大人しく、テーブルにアイリスと向かい合って座る。
「……早く結婚したいな」
ぼそっと小さく吐き出された言葉を聞き逃さなかったが、聞こえなかったフリをした。照れてしまい言葉が見つからなかったのだ。
わたくしもよ、と囁けばよかったと思ったのは、リュートが切り替えて額の模様について聞いてきた時だった。
「それで、またリリスか?」
「いいえ。メリーレさまです」
「……雨の女神の。もう俺は何を言われても構わないが、アイリスはこの国にいてもらうぞ」
「天界へのお誘いでもありませんわ。相談を持ち掛けられたのです、メリーレさまの恋の相談を」
同じ話には父にもしているので、メリーレの話はアイリスによって爆速で拡散されている。しかしこんな目立つものを残してしまったメリーレが悪いのだ。しかも寝る間も惜しいほど忙しいこの時期に。
リュートも朝から公務をずらして、無理をしてでも来てくれたに違いない。
ただ夢の中の相談に留めてくれていれば、アイリスが一人で頭をひねって適当なアドバイスをしたものの。実際にそれが役立つかは別として。
ただし、先程の母のようなことは言えなかった。愚かになれだなんて。
愚か者はアイリスが一番嫌いな部類だ。
毒を飲むほど恨んで憎んで呪ったラトラを許しているのは、ラトラが特別だから。アイリスと同じ色を持った女神。孤独を嘆いて、前世も今世もずっとアイリスの中にいた。
ラトラが愚図なせいでアイリスは死ぬ羽目になったが、代わりに今世で叶わなかった愛を手に入れることが出来た。
痛み分け。あの強烈な憎しみを忘れることはないけれど、捕らわれてはいない。
分厚い雲に覆われてどんよりと暗い空とは違い、雨上がりの澄んだ濃い青を見つめる。
「恋?」
「ええ。女の戦いです」
戦いこそ賢くあらねばならぬというのに。それが恋に纏わるなら、愚かにならねばならないらしい。
アイリスは愚か者なのだろうか。リュートの前では愚か者だからこそ、愛してくれるのだろうか。
「……俺はそういったものに疎いから、何も言葉は見つからないんだが。ただの相談でよかった。今日は夢に羽の生えたきみが出てきそうだ」
女神がトラウマを超えて地雷になりそうなリュートは、ようやく大きな息を吐いてアイリスを見つめた。柔らかい眼差しで。
「リュートさまは、どう思われます?相手を振り向かせるためには、賢くなればよいのか、愚かになればよいのか」
リュートは疎いと言っただろうなんて、笑いながら、
「賢くなるべきじゃないのか?」
空の目に愛をこめた。
雨の降る音が部屋を包む。メリーレが泣いている。
賢く泣いているのか、愚かに泣いているのか。
雨の音が聞こえる。今の世ではずっと、アイリスは雨が嫌いだった。みんながラトラに祈りを向けるから。
けれど心の中で、アイリスはラトラに問いかけた。
ねぇ、ラトラ。わたくし、愚か者は嫌いよ。嫌いなのよ。
・
父に与えられた猶予は三日だった。ついこの前体調不良を理由に屋敷に篭ったばかりなのに、何度も繰り返せば良くない噂が回る。
アイリス=ウェルバートンは体が弱い。
これからリュートに嫁いで、そして子を儲けなければならないアイリスにとって、今一番回避しなければならないことだった。実際は病気のひとつせず、城から派遣された医師にも婚前の体調の確認をされて健康の証明はできるのだが。
子がなかなか生まれなければ、ほらやはりアイリスには子を産めぬのだ!とリュートに大量の側妃がつくことだろう。
おぞましい。
三日を過ぎれば、密かに噂されているにすぎない加護を公表しなければならない。女神の加護を授かったなんて前人未到である。
アイリス様万歳!王家万歳!などと話は簡単に進まないから、王はアイリスと女神の関係に箝口令を敷いているのだ。
そして忙しいアイリスには、口も顔も手も出してくるであろう教会に構う時間もない。
変に教会や神殿に乗り込んで、今の王家と教会との付かず離れずな距離を崩すこともしたくない。
外国もどう動くか分からない。
アイリスは目を閉じ、息を吐く。城を抜け出してきたから、と直ぐにリュートが戻ったあと、アイリスはメリーレやラトラとの会話を試みたが、反応はなかった。どうやら夢の中でしか無理らしい。
香りのいい湯につかり、髪と肌の手入れをされ、アイリスはいつもより早々にベッドに入った。
寝つきがよくなる寝酒まで飲んだ。
女神になることを恐れて眠れなかった日々は未だにアイリスにこびり付いていて、眠る感覚に慣れない。意識が夢に落ちていけば抗うように目を開けてしまう。気絶するように眠っても、酷い夢も見る。
普段はほとんど酒を飲まないアイリスでも、寝酒は違った。喉の焼ける感覚がないアルコール度数が低い液体で思考を鈍らせ、柔らかなシーツの上にからだを滑らせる。
どうか、夢の中でメリーレさまと話ができますように。
夢と現の間。あと数秒も経たぬうちに、意識が泥に沈んでいく。その中から這い出でることはできないのではないか。
それでもアイリスは、眠る。深く深く、女神のいる世界まで。
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