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〜もしもアイリスが悪魔に出会ったら〜
しおりを挟むそれはもしもの話。もしも、もしも前世で、あの時。
悪魔を、召喚してしまったら。
いつも通り仮面をつけて参加した悪魔召喚の儀式。血に熱狂する会場を離れ、アイリスはひとり、窓から月を見上げ廊下を歩いていた。
そんなときだった。
「女神のにおいをたどってきてみれば」
突然現れた気配に、アイリスは勢いよく振り返る。そこには返り血を浴びた、一人の男がたっていた。
真っ黒な髪、真っ黒な目。底冷えのするような美貌。纏っている空気は、禍々しくおぞましい
「……まさか、」
「まさか人間だとは」
「……悪魔?」
にィ、と唇を釣りあげて笑う。
「悪魔アベル、ここに参上した」
アイリスの仮面が落ちる。嗚呼、なんてこと。
「契約に必要なものはたったの二つ。望みと、その対価。さあ言ってみろ」
契約しない選択肢はアイリスにはなかった。残されていやしなかった、というべきか。悪魔召喚に関わっていたどころか、本当に契約を結ぶなんて、死刑で済むかどうか分からないけれど。
「……女神とわたくしに隷属関係を結びなさい。もちろん、わたくしが上、女神が下」
「ほう」
真っ黒な瞳が、興味深そうに金色をのぞき込む。
「対価は……」
「俺にその目を寄越せ」
「目は無理よ」
青を見つめるために、アイリスは生きようとしているのだ。
「片目でいい」
「無理、と言ったでしょう」
流石にうるさい心臓を宥める。これからアイリスは賭けに出る。成功すれば片目で済むかもしれないし、失敗すれば両目どころか命もない。
『おやめなさい。相手は悪魔よ』
一体どこの愚図のせいで、悪魔を引き当てる羽目になったと思ってる。焦ったって無駄よ。
「悪魔如きの分際で。この女神の瞳を奪うつもり?」
言ってやった。悪魔にもこの口は動いてくれるらしい。悪魔を真似して唇をつりあげる。
どの道八つ裂きになったら、おまえも一緒よ、ラトラ。
『私が見つけた魂よ。横取りなんてさせない』
「ラトラも言ってるわ。穢らわしい悪魔がこの目に、この体に触れればどうなるか、と」
『……確かに、そうね。多分消えるわ、この悪魔』
この愚図。アイリスが悪魔に怯える前に、それをさっさと言いなさい。嘘八百、口から出まかせだったが、裏付けを得てしまった。
今度はアイリスが笑う番だ。
悪魔の手を躊躇なく掴む。冷たい氷のような皮膚が、アイリスが触れているところだけ、じゅうと音を立てた。
「っ、離れろ」
「悪魔。対価はわたくしの髪よ。おまえにはこの目もこの血も、気高すぎるわ」
『アイリス、そのまま滅ぼせばいいでしょう!ダメよ契約なんて!』
「悪魔アベル。これは命令よ。おまえ、消されたくなければ、わたくしと契約を結びなさい」
「俺を脅すか、人間」
「ええ、そうだと言ったら?」
悪魔は唇を吊り上げて笑った。
「……いいだろう。面白い。その契約を結んでやる」
勝った。
「ただし___」
・
アイリスが新しい騎士を連れている。その話題は直ぐに広まり、リュートの耳にも届いていた。
しかし、それを聞かなかったことにして、執務に戻る。
アイリスは、普通であれば近づかない貴族と繋がりを持ち、きな臭い噂が出回っていた。アイリスに真相を尋ねたし、近寄るなとも言った。
しかし、アイリスは行動を改めず、ますます厄介な貴族と交流を深めている。
アイリスになにがあったのか、それさえも分からぬまま。リュートは頭を抱えることしか出来なかった。
今ならまだ間に合う。揉み消せる。でも、これ以上醜聞が広まると、一体アイリスはどうなる。
だから騎士一人増えたところでどうだっていい、と思っていたのだけれど。
その騎士が現れたタイミングで、アイリスはこれまでの遊び場と距離を置くようになった。
・
リュートとの関係がほぼ壊れかけているアイリスは、滅多に城にもこない。だが令嬢たちと遊ぶ時は、いつもその騎士を連れているという。
「……その騎士は何者だ」
「それが。突然アイリス様が連れてきて、それ以来ずっと側に置いているのです」
アイリスの侍女であるナタリーが、憂いを浮かべて小さく息を吐いた。
ナタリーもアイリスの側から外されて、暫くの時が経っていた。今は屋敷と騎士団を往復しているが、その合間に、ほかの侍女から見聞きした情報をリュートに流している。
「貴族か?」
「……家紋は知りません。けれど身の振る舞いは丁寧で、知識も深いため、平民はありえないかと」
リュートは深く息を吐いた。
まさか、アイリスが男を作るなんて、考えもしていなかった自分に気づく。
王都いちの花。手折ろうとする輩を自分で跳ね除け、甘い言葉にも惑わされず、リュートと婚約してからはリュートの側にいてくれた。
だから、過信していたのかもしれない。
アイリスはいつか自分を愛してくれるのではないか、と。
「……無様だな」
現実は違ったというわけだ。
「アイリスを呼び出せ」
「……畏まりました」
・
さすがに、婚約者の元へは、噂の騎士は連れてこなかったようだ。
久しぶりに会ったアイリスはますます美しさを磨いていて、他の男を傍に置いているのだと思うと、胸が焼け付くように痛む。
「アイリス」
「お久しぶりですわね、リュート様」
呼ばれた名前に、目を瞑ってしまいたかった。相変わらず金色の瞳は輝いていてる。眩しいほどに。リュートの胸の内だけが、暗く沈んでいく。
「……今日はきみに話があるんだ」
「なんでしょう」
「俺は、絶対に婚約を解消しないからな、アイリス」
「……え?」
アイリスのことだ。リュートが気づいた時には、周りを固めて、その上で微笑んでいることだろう。
皇太子との婚約破棄だろうがなんだろうが、アイリスが望めば必ず自分でやってのける。そんな女だということは、リュートはよく知っていた。
アイリスが何を考えているのかは分からないが、とにかく対アイリスに必要なのは、先手を打つことだ。
後手に回ったらその時点で負ける。
騎士とどうなりたいか、なんて知らない。知りたくもない。ただ婚約が続く限りアイリスは騎士のものにはならない。
「いいか、アイリス。きみは俺と結婚する。他の未来なんて、許さない」
・
「熱烈だな」
「……ねえ、とうとう婚約破棄でも言い渡されるのかと思ったら、リュート様、わたくしと結婚するそうよ。どうしましょう」
「悪魔持ちの女と王族が、か?」
「あら、まだ契約はしてないわ」
『ただし、次の新月の日に。悪魔が契約できるのは新月の時だけだ』
と、悪魔は言ったものの。なんだかんだあって新月はすぎてしまい、今に至る。保留中、というやつだ。
それからとりあえず騎士として家に置いているが、これまた色々あって、リュートに呼び出されてしまった。
騎士に扮した悪魔との噂を聞いたリュートから何を言われるのか、少し覚悟もしていたのだが。
悪魔とラトラはずっと喧嘩ばかりしていて、ラトラの力もそちらに向いているので、悪魔がいるうちは乗っ取られる心配はない。
『私に乗っ取られる心配する前に悪魔を追い出しなさい!』
次の新月まであと少し。
契約をするべきか、それともやめておくべきか。
「ラトラ、今考え事をしているの。煩いわ」
「フン」
『あ、悪魔の分際で女神を笑ったわね!?』
結論はまだ出そうにない。
契約せずに飼い殺しておくだけなら、王妃でも許されるかしら?
女神も飼っているので、うまく中和してくれる。
アイリスも、リュートと結婚する未来を歩きたいと思うから。もう少し考えてみるわ。
ああ、忙しい。
次の新月は、アイリスの19になる誕生日も重なっているというのに。
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