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しおりを挟む窓にはカーテンが下ろされ、約束の場所についても、アイリーンからは外を窺い知ることはできなかった。敷き詰められたクッションの中に、兄からもらった銀の短剣が隠れている。花の細工が施された、美しい芸術品のようだった。その短剣越しにクッションを撫ぜながら、アイリーンは目を伏せていた。散々泣いたせいで、目元が腫れぼったいかもしれない。丁寧に侍女に化粧を直されたが、その侍女の手はずっと震えていた。
顔を覆う扇を手持無沙汰に揺らし、外の気配を探る。暗殺を防ぐために車内にひとりでいる羽目になってしまったが、誰かひとり隣にいてくれたらどれだけ気が紛れたことか。
「アイリーン」
こんこん、とドアを叩かれ、返事をする前に扉を開けられる。そうっと扇を目元まで下ろすと、相手は兄だった。その後ろには、鬘を被った人間が数人いる。おそらく隣国の者だろう。それぞれが手元に持っている明かりだけでは、暗くてよく見えなかった。
扇を閉じて顔を晒すと、アイリーンの美貌に目を見開く気配がした。父が褒美として差し出そうとしたほどなのだ、実物は出回っている姿絵や噂以上だろう。
ちらりと周りに視線を向けるが、暗闇に紛れる騎士たちはいても悪魔の姿は見られない。
「アイリーン、手を。暗いから気をつけて」
兄が差し出した手を取り、馬車を降りる。___嗚呼。降りてみて、分かった。悪魔はいる。ただし、アイリーンを守るように立つ騎士たちの向こうに。無意識のうちに兄に縋る。
漆黒に濡れて、アイリーンの花婿は立っていた。
こつり、靴の音が響くと、騎士が道を開ける。兄が差し出した明かりで、男の___悪魔の全貌が露になった。濡れるような黒髪に、血を垂らした赤い瞳。この世の者とは思えないほど整った顔、兄よりも高くすらりと伸びた背。纏う空気は冷え切っていて、人の姿をしているのに、それは人ではなかった。
これが、悪魔。おそろしいほど、うつくしかった。
「お初にお目にかかる。私はリシャール=ナイトだ」
「……アイリーン=ウェールズです」
「これからよろしく頼む」
手を、差し出された。黒い爪が伸びていて、肌は闇に溶けるように青白い。……この手を一振りするだけで、アイリーンの首を掻っ切ってしまえるのだろう。
固唾をのんで、ゆっくりと、手を伸ばす。悪魔の___リシャールの手は氷のように冷たくて、目を見開いた。
夜の覇者が、ぞっとするほど艶やかにわらう。するりと手は離れていく。ようやく、アイリーンは自分が呼吸を止めていたことに気づいた。
「さぁ、夜の風は冷えるだろう。馬車へ。今日は美しい満月だ、魔界へも直ぐにつく」
その言葉に導かれるように、分厚い雲が流れていく。夜空には、神々しいほど大きな月が鎮座していた。月の柔らかな明かりが、リシャールを照らす。赤い瞳が煌めいているように見えて、アイリーンは目を細めた。____悪魔、なのに。怖いとは、思えない。
大勢に見守られて、馬車に乗り込む。あちらこちらですすり泣く声が聞こえても、アイリーンの目は熱くならなかった。
「アイリーン、また会おう」
兄の手がそっと目元の柔い肌を撫ぜる。流れていない涙を拭うように、最後の別れを惜しんでいる。血の通った温かな手。頷きながら、アイリーンはリシャールの手の感触を思い出していた。
「……お兄さま、どうかお母さまのネックレスはお兄さまがお持ちになって」
「ああ、必ず。……どうか体には気をつけて」
「お兄さまも。___お元気で」
兄はちいさく笑って、そっと手を離す。そしてゆっくりと扉が閉められた。藍色の瞳が、銀色の髪が、もう手の届かない場所にあるのだと、隔たれた扉を見て思い知らされる。兄の指輪を握りしめた。
縋れるものは、もうこれしかない。兄が戦場へ出向く前にしていた光景をなぞるように、指輪に口づけを落とす。
そしてこれからアイリーンには、リシャールしかいない。
「リシャール公。どうか妹を頼みます」
「リュオン王子。……ええ、わが身にかえて、お守りしますよ」
二人の会話が聞こえて、涙を堪える。
「……リュオンお兄様」
いつか笑って、貴方と共に死ななくてよかったと言える日が来るのだろうか。馬ではない魔物が嘶く声が響き、ぐ、と馬車が持ち上がる。__上へ、空へ。感じたことがない浮遊感に襲われながら、窓から地上を見下ろす。
遠くからでも一目でわかった姿が見えなくなるまで、アイリーンは兄を見つめていた。
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