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かざぐるま
しおりを挟む「なんか…普通の病院って感じ」
目の前にある施設はいかにも田舎の診療所といった建物だった、ここが安楽死施設だとは誰も想像しないだろう。
ガラスの押扉を開け中に入る。
「すみません、予約していた橘です」
受付にいた女性に声をかける。歳は三十後半くらいだろうか、一昔前のアニメに出てくるような分厚いまるメガネに、無造作に後ろで束ねられた髪はあまり手入れされていないようだ。
女性は無表情のままこちらをチラリと見たあと手元に視線を戻し
「橘 侑香(タチバナ ユウカ)様ですね、案内いたしますのでかけてお待ちください」
あまりにも淡々としたやり取りに少し拍子抜けしながらも近くの長椅子に腰を掛ける。しばらくすると女性の看護師に呼ばれ奥の個室へと案内された。
「本日担当させていただきます、城金(シロガネ)です。よろしくお願いします」
城金と名乗った女性は歳は二十代前半だろうか、人懐っこい雰囲気にきりりとした眉が意思の強そうな雰囲気を出している。
「まずは、本人確認させていただきたいのですが、免許証などはお持ちですか?」
財布から免許証を取り出し城金に渡す
「ありがとうございます、一緒に確認お願いします。橘侑香さん、二〇二七年十月二十九日生まれ、現在二十九歳、本日は点滴による安楽死希望、立会人は無し…こちらでお間違い無かったですか?」
カルテと免許証を照らし合わせながら確認する。
「はい、間違いないです」
「ありがとうございます、ではこの後の流れを説明しますね。この後お部屋を移動します、そちらの部屋で安楽死の準備をします。点滴を刺しただけではまだ実行にはなりません、点滴を刺してから一時間以内に橘さん本人がバルブを開け実行となります。詳しい説明や同意書のサインなどは事前に済ましていただいておりますので、質問等なければこのまま移動となりますが問題ないでしょうか?」
淡々としたやり取りの中、橘はどこか居心地の悪さを感じていた。城金がずっと真っ直ぐに橘の目を見て話をしていたからだ。もうずいぶん前に人と向き合うことを諦めた橘にとって、人の目を見る行為は苦痛にすら感じるのだ。
「大丈夫です」
俯いたまま橘は答えた。
「…ではご案内します」
一瞬の間の後城金が立ち上がったので、橘もそれに続く。
案内されたのはごく普通の個室の病室だった。城金は橘にベッド横になるよう促し、点滴の準備を始めた。自分を殺す準備をされているのにどこか現実味がなく落ち着いていた。
「ここのバルブを開ければ完了です、今回は私が完了まで同室しますがよろしいでしょうか?」
「大丈夫です」
いつの間にか刺さっていた点滴針を見つめながら落ち着いた様子で答える。返事を聞くと城金は少し離れた丸椅子に腰掛けた。
(待たせるのも申し訳ない…)
これから死ぬというのに看取ってくれる人も最後に想いを伝えたい人もいない。これが私の二十九年なのか、呆気ないな。橘は自嘲気味に笑うと、点滴のバルブに手をかけた。
「…え、あれ」
さっきまで死を受け入れていたはずなのに、バルブにかけた手が激しく震えていた。
(これを回すだけなのに…そうしたら私は)
冷や汗が吹き出し呼吸が苦しくなり堪らず起き上がった。覚悟はできていたはずだった。この瞬間を望んでいたはずだった。なのに何故今こんなに
「…こわい」
言葉に出してしまうと一気に押し込めていた感情が溢れてきた。そもそも何故私が死ななくてはいけないのか?
幼い頃の記憶は怒鳴る母の声と、男に媚を売る女の顔をした母、捨てられ惨めに泣き叫ぶ可哀想な母、その時の気分で愛をくれた母、私には母以外の家族が居なかった。中高は孤立し、うさ晴らしできる人間として嫌がらせを受けた。それでも、卒業後家を出て社会人になり、やっとみんなと同じ人間になれた。特別親しくなくても当たり前に会話ができる相手。会社で私は理不尽に悪意を向けてこない人達と、愛し愛されたいと思う異性に出会うことができた。
私はやっとみんなと同じ価値を持つ人間になれた。
でもそれは突然に終わった。
ある日彼氏の奥さんと名乗る人が会社に乗り込んで来たのだ。彼は既婚者だった。
彼はあっさりと私を切り捨て、この女が不倫を持ちかけてきたのだと言いふらした。
その瞬間から全員が手のひら返しだ。周りにとって真実などどうでもいい、事実と異なってもゲスくて面白い方を真実にするのだ。
私は彼が既婚者だとは知らなかったので、慰謝料などの請求はなかった。三年も付き合っていたのに知らなかったなんて、呆れを通り越して笑えてしまう。
会社での居心地が悪くなり私は転職した。なるべく人と関わらないように工場勤務を選んだ。最初のうちは何人か声をかけてくれていたが、だんだん私を気にかける人は居なくなった。
これでいい、1人がいい。二十八歳を過ぎた頃にはもうすっかり喜怒哀楽の感情も人との喋り方も忘れてしまった。その頃にはもう漠然と死にたいと思うようになっていた。
別に死ぬに値するほどの悲劇も、不治の病も、莫大な借金もない。ただ生きたいと思う理由が何もなかった。
そうして安楽死を選択した。決行前に親族に連絡をしなければならなかったので約十一年ぶりに母に電話をかけた。
「はい」
久しぶりに聞いた母の声は昔より酒焼けた声になっていた。
「あ…もしもし…お母さん、私…侑香だけど」
「何ぃ?お金ならないよぉ?」
「そういうんじゃなくて…私」
心臓がうるさい、何を緊張しているんだろう。もし止められたら?それでも私はやると言えるだろうか。馬鹿なことはやめて帰ってこいって言われたなら、これまでのことを謝ってくれて…一緒に住もうって言ってくれたならその時は…
「私…安楽死制度、使うことにしたんだ」
ほんの数秒の沈黙がやけに長く感じた。
「安楽死制度?…あれ二〇〇万くらいかかるんでしょ?大丈夫?あんた死んだ後こっちになんか請求来たりしない?アパートの解約とか、面倒なことは嫌よぉ。あ、死ぬ前に貯金とかあるなら送っとい」
母の言葉を最後まで聞かず私は電話を切っていた。止める?誰が。そんな人じゃない。分かっていた、それでも期待してしまった。
「お母さん…なんで私を産んだの…」
ポツリと呟き、橘はふと城金を見る。そこには相変わらず真っ直ぐにこっちを見つめる城金がいた。
「見ないでよ…嫌なの…こっち見ないでよ!!!」
橘は耐えきれず城金を怒鳴りつけた。こんな大声を出したのはいつぶりだろうか。
「哀れだと思うんでしょう!?馬鹿だって思うんでしょう!?生きたい理由がないから死ぬなんて!!」
一度叫んだら止まらなかった。
「親からも愛されなくて、誰からも必要とされなくて!!そりゃそうよ!!だって私が一番私を必要としていないんだもの!!私が誰のことも愛せなかったんだもの!!あの男の行動が怪しいのは気づいてた!でも何も聞けなかった!聞き分けいいふりしてた!捨てられたくないから!!」
「本気で向き合わなければ傷つかないから!職場の人とも一定の距離を保った!本当の私を知って嫌われたくないから!!」
「生きてればいいことがある?止まない雨はない?うるせえよ!!分かってんだよそんなこと!!…ただ…今がどうしようもなく辛いのよ…」
「いつ来るかも分からない幸せも、いつ壊れるか分からない幸せも…怖いのよ…」
溜まっていたものを全部吐き出し、肩で息をする橘に城金が口を開いた。
「私の仕事はあなたの最後を見届けることです。生きてなんて無責任なことや、耳にタコができるほど聞いたであろう正論も言いません。ただ今までたくさん苦しんで頑張ってきた橘さんの最後の決断を、橘さんのそばで見届けます」
そう言って城金は橘の側まで来てそっと背中に手を当てた。
「橘さん…今まで本当によく頑張ったね」
その瞬間橘は堰が切れたように泣き出した。
「うわああああああん!お母さんなんでぇ!なんで愛してくれなかったの!私が死んでもなんとも思わないの?止めてよ!何よ!お金ばっか!りょうくんも!結婚してるならなんで私に愛してるって言ったのよぉ!やりたかっただけのくせに!期待させないでよ!私馬鹿みたいじゃんかぁ!うわああああああん!!!」
「ぐすっ…ごめんなさい…もう大丈夫です」
子供のように泣きじゃくって落ち着いた頃、橘はずっと城金が背中を摩っていてくれたことに気づいた。
「いいえ」
城金はにっこり笑って答える。
橘も不器用な笑顔を返しベッドに横になりバルブに手をかける。今度はもう手の震えもなかった。
「城金さん、ありがとう。私最後が城金さんでよかった」
橘は真っ直ぐ城金を見つめて言った。
「…こちらこそ。橘さん、二十九年間お疲れ様でした」
橘はやはり不器用な笑顔を返し、バルブを勢いよく捻った。
私の選択は一般的には正しくなかったんだろうと思う。
一ミリも後悔がないかって聞かれたらちょっと怪しい。
それでも二十九年生きた努力と、決して簡単ではない選択ができた自分に敬意を。
私だけは自分を褒めてあげたい。
死という終わりがあるおかげで、私はここまで頑張れた。
…あれ…城金さん?泣いてるの?困ったな…慰めたいけど体が重くて声が出ないの…ごめんね…
あぁ…意識が…私が消える
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