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第二十話 名残月

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 政宗は、ギヤマンの杯を二つ、卓の上の漆の塗盆に並べた。
 盆には、金箔を貼った地に、二匹の龍が描かれている。
 一方は青く、一方は黒く、螺鈿を散りばめた鱗を輝かせている。青い龍は、黒い龍の首元に頭を持たせかけて天を仰ぎ、黒い龍はゆったりとトグロを巻いて青い龍を眺めている。周囲は波立つ海、その上のこんもりした岩に二匹がくつろいで、ある。
 透明なギヤマンの杯は、鱗のような切子で飾られ、政宗は、その中に、西洋から渡ってきたという、紅色の酒を注いだ。

 傍らには、政宗自らが、厨で拵えてきた肴が二皿、添えられている。山独活のぬたと、蛤の甘露煮とを、それぞれ、ギヤマンの小さな皿に二つずつ盛り、並べた。

 そして、政宗は、おもむろに、傍らにあった、これも舶来の小さな取っ手のついた銀色のベルを振った。
 チリン---チリンと、澄んだ高い音色が、夜更けの静寂に零れて、消えた。

 すると、パタパタと軽やかな足音が近付き、開け放した障子の前で、止まった。
 「父上さま、お呼びですか?」
 「うむ---。」
 政宗は、廊下に控える萌葱色の打ち掛けがゆるゆると、入ってくるのを待った。
 「眼帯を外してくれ---」
 「はい。」
 入ってきたのは、五郎八姫---。徳川家康の六男、忠輝に嫁したが、忠輝が不行状で改易されたため、この青葉城に帰ってきていた。
 姫は、政宗の背後に膝をつき、政宗が眼帯を押さえている間に括っている紐を解いた。最近、白いものがとみに目立ってきた髪から、紐がはらり---と落ちた。
 「下がってよいぞ。」
 政宗が言うと、姫はにっこりと一礼して出ていった。
 還暦間近になり尚も多忙を極める政宗だが、月の美しい夜には、こうして、二人分の酒肴を並べ、眼帯を外す。
 卓の上に眼帯を置き、灯りを小さく落とした室内で、政宗は月明かりに目をこらすと、薄ぼんやりと、白い影が、庭先に立っている。
「入れ---。」
 と小さく声をかけると、影はするすると濡れ縁に座り、室内ににじり入った。
 影は半透明な人の姿に変わり、政宗ににっこりと微笑んだ。
 「今日は、ちと遅くなったが---」
 政宗は、杯と肴を勧め、両の目をしばたたいた。
「美味いか、小十郎---。」

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 政宗は、小十郎を亡くしたあの日の夜、どうにも苦しくて、眼帯を自ら外し、部屋の隅に投げやった。
 月明かりに龍の目を晒し、抑えきれず滴を滲み出させる眼で、じっ---と庭先を見ていた。
 すると---、黒松の枝のあたりに、ぼんやりと、白い影が浮かび上がった。
 その影は、灯りも点けずに、濡れ縁に身を投げ出した政宗にゆっくりと近付き、その指で---するりと政宗の頬を撫でた。
―小十郎---?!―
―泣かないでください---。―
 政宗は、その時、はっ---と思い出した。―龍の眼は、時空を縦にみる眼---。希めば、異なる次元を見ることもできます。---―幼い頃に、小十郎に聞いたその話を突然、思い出した。
―他愛の無いお伽噺だと思っていた---。―異形の自分を慰めるための作り噺だと思っていた。
でも---
―小十郎!―
 叫び出しそうになる政宗を小十郎は、し---と自らの唇に手を当てて制した。
―見えるのは、政宗さまだけですから---―
 声が、直接に耳の奥に、囁きとなって響いてくる。
―本当に、小十郎なのか---。―
 声を潜める政宗に、その影は、ふわり---と頷いた。
―お暇乞いに参りました。―
―いやじゃ。暇などやらぬ。―
 ひそひそと---だが、烈火のごとく怒る政宗に、小十郎は---、その影は、諭すように言った。
―百日だけ、お暇をください。---百日経ったら、必ず戻って参ります。―

―本当だな。---なれば、赦す。―

 藁にも縋る思いで、政宗は百日を耐えた。そして---百日目の夜に眼帯を外すと---そこには紛れもない小十郎の半透明な姿があった。
 政宗は、両目に涙を滲ませながら、小声で、叫んだ。
―遅かったではないか、馬鹿め。―

 それから---政宗は月の明るい人恋しい夜には、酒肴を用意し、御霊となった小十郎と、語るともなく、時を過ごすようになった。
 

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「人外の者を見るなど、禄でもない。いっそこのような眼は抉ってしまおうか---と幾度も思ったが---。」
 くぃ---と杯を煽って政宗は、ほぅっと息をついた。
「抉らんで、良かったわ。」
 小十郎の影は小さく苦笑いした---ように政宗には思えた。 
「---で、」
 政宗は、トクトク---と杯に酒を足して言った。
「いつ、我れを迎えに来るんだ?」
―いずれ---時が満ちましたら--。―
 小十郎の影は、相変わらず、同じ答えを繰り返す。
 「早うせい。我れは来年には還暦ぞ。お前が逝った歳になってしもうたぞ。---何時まで我れを独りにしておくつもりだ。」
 政宗は、同じ催促を繰り返す。
 今の政宗には、子も、孫もいる。江戸留置きの愛姫とも一年置きには会えるし、愛姫との間に生まれた嫡子の忠宗にも、猫御前の子-秀宗にも、子があり、たくさんの孫がいた。
 母の保春院も、まだ健在で、最上氏の改易の後は、政宗のいる青葉城に戻っていた。

―それでも---―
 政宗は、呟いた。
―お前がおらねば、我れは独りなのじゃ。---―

 成実も滅多に亘理から帰ってこない。来れば、政宗がこうして小十郎と語り合っている様を、ため息混じりに、慰めてはくれるが---。

―陰膳は良いことだ。
 しかしなぁ---お前も、もぅ巣立て。
何時までも雛ではあるまい。
 立派に翔べるようになって、誰にも畏れられる猛禽が、何時まで親鳥を恋しがってるんだ、うん?―

 成実は、わからん----という。しかし、政宗には、小十郎のいない世界は不完全で、常に何が欠けている---その欠落感は、如何として埋め難かった。

―いずれ、あっちで会えるさ。---―

 その『あっち』で、また共に過ごせるのは、何時なのだろう---。
 
 政宗は、この世の余生を享受しながら、しかし小十郎の居る『あっち』の世界に行ける日を、心待ちにしていた。
 

―『あっち』の月も美しいだろうか---。―

  政宗は、今一度、くぃ---っと杯を干して、西に傾き始めた月を見詰めた。
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