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第二話 既朔

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「あの事」から、一月が経っていた。
 その日も、小十郎は神前にいた。

 神酒を、神饌を捧げ、祓え詞を奏上した後、おもむろに眼前に刀を捧げもち、ゆっくりと鞘を抜き放つ。
 白々とした刀身は冷たく冴え、早朝の陽光をいっそう鋭く反射させる。
 身幅は厚く、煮えは煩さすぎず、落ち着いた風情が、小十郎の好みに合っていた。
 刀は、実戦に用いるもの---華美は不要、と選んだものだ。鞘も柄も灰色がかった黒。目釘と鍔にあしらわれた九曜紋も、らしい---と言えばらしかった。

 つぃ---と立ち上がり、まず右、左と祓う。空を裂く音は、ヒュ---と鋭く、しかし大仰ではない。
 あくまでも、『剣祓い』である。
---過剰の必要はない。---
と小十郎は思っている。

 ひとしきり祓え事を終えると、作法に則って刀を納め、床上に静かに置き、目を閉じる。
 かすかに、葉擦れの音だけが、肩越しにわずかに行き過ぎる。

 あの後---、社に戻った小十郎は、いつも通りに祓え事を済ませ、しばしの仮眠を取り、稽古に向かった。

 少年が一命を取り留め、快方に向かっている---という喜多からの報せを受け取ったのは、その日の夕刻だった。
 まずは安堵した。
 少年は、伊達家の世子(跡継ぎ)である。その大事な身に乳母として仕える喜多にとっては、自らの生死をも掛かった一大事だった。

---姉上に、僅かながらでも、恩を返せたなら、それで良い。---

 早くに両親を無くした小十郎を親代わりに育ててくれたのは、喜多だった。
 嫁ぐこともせず、小十郎に学問と武術と作法とを厳しく叩き込んだ。
 あの事件の折りも---狼狽えはしたが、取り乱してはいなかった。
 その度胸と才を買われて、伊達家の世子の乳母となったのだが---
―まぁ、元が違う―

 離縁された母に連れられて、片倉の家の子供となったとは言え、伊達家の重臣、鬼庭左月の娘である。筋金入り---と言っても言い過ぎではない。
 そして、この手塩にかけて育てた異父弟をこの上なく可愛がって、武士として身を立てることを切に願っている。---が、その枠に入りきらない才のあることも知っている。
 片倉の家は、代々の祝(はふり)=神主である。巫覡としての力量も高い。殊に小十郎は退魔の能力が高い。宮司の兄にとって得難い片腕でもある。

 とりあえずは、少年の病が癒えたとの報せには、安堵した。あの龍の力をなんとか身に収めたのだ。
―大したものだ。---―と思う。
 確か齢は数えの七つ。右目はたぶん駄目だろう、可哀想に---とは思う。
 いや、それ以上に、龍というものの及ぼす力が心配ではあった。
 人の思い及ばぬことを龍は成す。それが少年の身を苦しめることにならねば良いが---と危惧せずにはおれない。

―せめて平安を祈ってやるか---―

 早朝の祓え事に、少年の無事の祈願を加えたのは、同じような事態に遭遇した身の共感---思い遣りでもあった。
 なにしろ、自分の時よりも幼い身で試練に合ってしまったのだ。

―辛かろうな---―

 小十郎は、ふぅ---と大きい息をついた。

---と、そこに人の気配が近づいてきた。

「お務め、殊勝であるな。」

 長兄だった。

「だいぶ、心を入れかえておるようじゃの。気が落ち着いてきておる。」

 兄は、ウンウン---と頷きながら言った。

「お城からお召しじゃ。謹慎は解かれた。」

「笛を持ってな、登城して参れとのことじゃ。---鬼庭殿がな、後見に付かれるそうだ。」

 うへ---と小十郎は内心、思った。鬼庭綱元---小十郎の血の繋がらない義兄である。家中では切れ者として知られ、当主の輝宗の信頼も厚い。

―わしが、暴れさせぬ。―

とでも言うところか。

 しかしながら、少年の身がいささか気になっていることもあり、小十郎はともかくも城勤めを再開した。
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