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第三章:
独白②
しおりを挟む闇が白く濁っている。
微かな風に流されて、あちこちで渦を巻くようになびいているのは、季節外れの濃い霧だった。白い帳に浸食され、もうすぐ夏だというのにじんわりとした寒さが襲ってくる。
……もっとも、この場にどこまで人界の感覚が通用するのか、甚だ疑問ではあるが。
「やれやれ。こう涼しいと、君たちも仕事がはかどらないよねえ」
独り言のつもりでこぼした台詞に、ぶーんと微かな響きが返ってきた。気にするなということか。
律儀なことだと微苦笑をたたえ、再び己の手元に視線を戻す。中途半端になっていた作業を再開しつつ、今度はあちらに聞こえない程度の声でつぶやいてみる。
「――納期まであと半月、か。いくら幽世の花園とはいえ、そんなにうまくいくもんか? 相手は自然なんだけどな」
彼個人というか、彼の故郷の人々にとって、自然は人の意のままにならないのが当たり前なのだ。
だからこそ昔から、その中に住まう精霊や神霊共々、強いて征服するのではなく共存するという方針をとってきた。山や森は出来るだけそのままの形を保つし、どうしても開墾せねばというときには丁重に祭祀を行った上で地脈と水脈を読む。でなくばあちらの怒りに触れて、取り返しのつかないことになるのを識っているからだ。
いかに技術を磨き、知識を蓄えても、人の身は脆く壊れやすい。大いなる存在に生かされ、守られていることを忘れてはならない。その力の一端を扱うことを許された身であるならば、なおのこと――
「……っと、なんか爺様たちの説教みたくなってきてない、これ? やめやめ」
せっかく独立したのに! と、頭をぶんぶん振って思考を切り替える。ちょうど近くにきたものが、なびいた髪に当たってぶぅん、とびっくりしたように飛ぶ軌跡を変えた。申し訳ない。
「あーっごめん! 痛くなかった!?」
『ぶーん』
「……大丈夫そうだね、よかった。あのさ、こっちの事情とかはあんまり気にしなくていいよ? 無理矢理連れてきといて何だけど」
ぶぅん? と、差し出した手のひらで首をかしげるような仕草をしているのは、丸っこい橙花蜂だ。グローアライヒ近郊に生息するミツバチの一種で、言葉こそ話せないが知能は高い。
一群まるごと『勧誘』して事情説明をしたところ、ちゃんと帰してもらえるならと快諾してくれて、現在の作業を手伝っているという実にいい子たちだった。
そんな恩義に感謝しているからこそ、絶対無事に元いた場所に戻さねばという使命感がわいてくる。たとえその後、どんな厄介ごとが待ち受けていようとも。
「義理があるから引き受けたけど――なーんか、嫌な予感しかしないんだよね。この依頼」
低く潜めた声でそう告げて、視線を転じる。ミツバチに向けた柔らかなものとは打って変わって、鋭く見透かすようなそれが向かう先に、いくつもの黒ずんだ壷が無造作に転がされていた。
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