国を救った英雄と一つ屋根の下とか聞いてない!

古森きり

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1巻

1-3

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     * * *


 久しぶりに地区外に出るとすごく視線を感じた。
 俺がΩ型であることを示す首輪をしていることへの物珍しさもあるだろうけど、今日は連れが連れだけにだろうなぁ、と隣を歩くノアを見つめる。
 この国でこいつの名を知らん奴はいないだろうし、なんなら王都でこいつの姿を知らん奴もいないだろう!
 特に地区外じゃあ、凱旋パレードとかでみんな知ってるよな。
 俺の周りからも、含みの囁き声が聞こえる。

「え、あれってΩ型だよな? ノア様のつがいか?」
「よりにもよって男のΩ型かよ」

 そんな目で見ないでほしい。そもそも俺だってまずノアが自分の『運命のつがい』だなんて信じていない。
 小さく溜息を吐く。するとノアはどこかうきうきとした表情で俺を見つめた。

「地区外で買いたかったものとはなんでしょうか」
「……オルギナの実だ」
「デザートに使うのですか?」
「うん、まあ」

 どうやらノアは周りの視線などお構いなしらしい。天然って強い。俺はノアに曖昧に頷きながら歩を進めた。

「お、こりゃあ久しぶりだな」
「よう、おっちゃん。オルギナの実二十個ほど包んでよ」
「はいよ。って……」

 たどり着いたのは、たまに訪れている果物屋だ。店主のおっちゃんにオルギナの実を頼む。だがまあ、おっちゃんも俺の後ろに英雄が現れたら、そりゃあ目を剥いて固まるのも無理ないよな。

「え、な⁉ な、なんでグランデ様がこんなところに? え? あ、ど、どうも? な、何をお求めで……?」
「ああ、お構いなく。私はシオン様の荷物持ちですので」
「は?」
「……色々事情があるんだよ」
「?」

 混乱させてしまってとても申し訳ない。それでもおっちゃんはすぐにオルギナの実を二十個、持ってきた布に包んで手渡してくれた。俺は数を確かめて礼を言う。
 オルギナの実は、手のひらで包める大きさの果実だ。薄いからに覆われているが、子どもの力でも砕くことができる。中にはフニフニとした柔らかい白い実が入っていて、それこそが、Ω型にとっての救いなのだ。
 きっとデザートにするのかと聞いたノアはそんなことも知らない。苦い気持ちでオルギナの実をしまう。
 ノアはいい奴で、α型の中ではΩ型の人間を大事にしようとしてくれる方なんだと思う。
 でも、発情期の苦しみはα型やβ型には、想像もつかないに決まっている。
 当事者の俺であっても、幼いころは発情して気持ちよくなることが怖いだけだと思っていた。でも自分で経験した今だと、『気持ちいい』なんてことはなくてただひたすらに『苦しい』と言い切れる。
 皮膚感覚が敏感になりすぎて、息が上手くできない。体が熱くて、上手く動かせない。
 手を伸ばしても、誰かに触れられないからすがることもできないし、発情期が終わるまではどんなに腹が減っても、食べた物を吐いてしまうことが多い。
 Ω型に生まれれば、三ヵ月に一度、長ければ七日間――俺や母さんは四日、長い時で五日、そんな苦しみにのたうち回ることになる。その間中、飯が食えなければ当然体が弱る。
 水はかろうじて飲めるから、発情期で閉じこもる時は水瓶みずがめを用意しておかなければならない。
 とある娼夫――男のΩ型で、発情期の期間が七日だった者が閉じこもった部屋の水瓶みずがめを初日に苦しみの最中、割ってしまった。彼は水分の補給ができず、六日目に死んでいるのが見つかったそうだ。今は薬の服用によって、発情をある程度軽く済ませることもできるようになったけど、抑制剤が体に合わなければ効果は薄い。
 それほどまでに発情期とは過酷だ。
 発情期だから気持ちいい思いをしている?
 冗談じゃない、発情期は本当に命懸けだ。
 そんな発情期を、オルギナの実が救ったケースは多い。オルギナの実には水分が多く含まれている上に、栄養価が高い。味もほんのりとした甘い風味のみでほとんどしないし、子どもの力でも割れるから発情期で力が入らなくなっても割って食べることができるのだ。
 例えば、オルギナの実を発情期中に一日一つ、食べるだけで違う。
 だから、オルギナの実が近くにあるだけで、心の支えになる。この実があるうちは、まだ大丈夫だと思えるからだ。それに一日一つ数を決めて実を食べることで、残った個数から発情期の苦しみがあと何日で終わる――と逆算できる。
 オルギナの実とはそういう存在だ。
 俺が包みを背負おうとすると、すぐにノアが手を差し伸べる。
 その大きな手から目線を上げて、俺はノアを見つめた。

「母さんが陛下に出会ったのって、この果物屋の前だったんだってさ」
「そうなのですか! せいをお忍びで視察中に出会ったとうかがっておりましたが……それはそれは、なかなか運命的ですね。やはり陛下の『運命のつがい』はエニス様だったのでしょう」

 能天気にそんなことを言うノアを見上げる。俺が言いたいのはそっちじゃない。
 なぜ、俺が今ここに来たように、母が地区外までわざわざ訪れていたのか、だ。

「オルギナの実はΩ型の発情期の時の命綱だ」
「!」
「だから当然Ω型地区でも手に入る。でも地区内に売ってるオルギナの実は高いから、地区外に出てきてまで多めに買っておきたかったんだと。初めての発情期を経て、二回目の発情期が怖かったらしい」

 そこまで言って俺は歩き出した。慌ててノアがついてくる。
 母はお忍びで遊びまわっていた陛下に出会って、見初みそめられ、二度目の発情期を、その男と迎えた。その頃にはまだ『塔』はなかったのだ。
 そして、その男がこの国の王になったばかりであると聞かされたのは、俺をごもったと母が報せた時だったそうだ。
 α型とΩ型が発情期を共に過ごせばΩ型がごもるのなんて誰でも分かるだろうに、陛下は避妊もせず母を抱いたらしい。ただ、その報せを陛下は喜んだ。
 母さんを逃すつもりがまったくなかったからだ。そのくらい一目で夢中になったと聞いた。
 俺は未だに『運命のつがい』なんてとぎばなしだと思う。
 でもα型はそういうのを求めがちらしい。この男も――
 しかし、振り向くとノアは顔をわずかに強張らせていた。

「では、シオン様も……?」
「うん、まあ、三ヵ月ごとだからな」
「自分が宿で働き出したのがおおよそ三ヵ月前でしたが……では」
「そう、宿の開店は俺の発情期が終わってすぐにした。一番体調が整ってるから。母さんが終われば、次は俺の番なんだよ。母さんは城で発情期を過ごすから、先月一週間くらい留守にしてただろ」
「そうでしたね」

 今回俺が買ったオルギナの実は二十個。いつも買っているのが十個であることを考えると多い。

「シオン様……」
「どうした」
「いえ……なんでもありません」

 声をかけておきながら首を振ったノアが言いたいことは分かる。俺のつがいになりたいと言っているノアにとって、俺の発情期はいわゆる『つがいになるチャンス』ってやつだ。
 現在、俺の体質に合う、発情期のフェロモンを止めるための抑制剤はまだ見つかってない。
 俺は発情期の経験がまだ二回しかない。初めての発情期が遅かったからだ。
 だから、抑制剤が見つかるまでオルギナの実をそばに置いて、水瓶みずがめを満杯にして数日過ごす必要がある。
 ――二十個もオルギナの実があれば、俺だけでなくもう一人くらい過ごすのは難しくない。
 Ω型の発情期に惹かれたα型も相当苦しいと聞くから、普通の食べ物ではよくないのではと思ったのだ。まあ、その、つまり。

「ノア、そんなに俺に興味あるなら――次の発情期……一緒に、いて、みる?」
「よろしいのですか⁉」
「首輪は外さないけどα型の匂いが近くにあるだけでも、楽になれるっていうし、本当にそのためだからな」

 つん、と顔をそむける。オルギナの実の話をした時には、やはり今回の発情期も一人で耐えようかと思っていたのだが、ノアは無理に俺と一緒に『塔』に籠もることを迫らなかった。だから、いいかな、と思ったのだ。

「あ、ありがとうございます!」

 運命とかは信じないけど、この男の香りは嫌いではない。
 というわけで――俺は人生三回目の発情期を初めてα型と過ごすことにした。
 父、すなわち国王陛下が、ノアを俺の酒場宿に寄越したことも考えれば、あの人は俺とノアがうっかりつがいになってもいいと思ってるんだろう。
 つまり、まあ、忌々しい話だが……国としても、俺とこの英雄がつがいになるのは『問題ない』ということだ。
 ただ――親父はともかく、他の王族はこの国の英雄が王位継承権を放棄している俺とつがいになってもいいと思っているんだろうか?
 ノアは国民からの人気も高いのだから、王女の誰かと結婚させた方がいいようにも思うんだが。
 別に俺自身、この国の政治についてどうこう言う権利はない。もう王位継承権も放棄しているから、国の英雄とつがいになったからって再び王家の問題に引きずり込まれることはないはずだ。
 そんなことを考えながら歩いていると、ノアの表情が目に入った。

「発情期は『塔』で過ごすんですよね!」
「うん、まあ、そうだけど、なんでウキウキしてんのお前」
「もちろんシオン様に触れる許可をいただけたので! あわよくばうなじを噛む機会に恵まれるのではと……」
「そ、それは話が別だ! 首輪は外す気ないって言っただろう。言っておくけど、体に合う抑制剤が見つかるまでだ。そ、その……おま、お前みたいな強いα型が側にいる方が、楽に済むって聞いたから!」
「それでも構いません! いえ、それはつまり『お試し期間』ということですよね⁉ 精一杯頑張らせていただきます!」
「な、なにを⁉」

 そうだ、うなじを噛ませるのは意味が違う。話が別だ。
 二ヵ月間ノアの仕事ぶりを見ていて、本当にそつなくなんでもこなす男なのは分かったが、根本的な部分――彼がα型であることで信用しきれていないのだ。
 それは多分親父と母の関係性のせいだ。
 いや、別に国王である親父の立場が分からないわけではない。
 他国から嫁をもらった以上、国王の立場としてその嫁を重視する必要があったんだろう。
 他国との戦争になるとか、そういうのは俺もヤだし。
 だから、仕方ないと理解してはいる。
 ただ気持ち的には……母、エニスの息子として、母をΩ型地区に残したまま、三ヵ月ごとの発情期の時だけ二人でまったり過ごしているってところがこう、こう……もやもやする。
 いや、分かるよ? 偶然できてしまった俺ですら、正妃や第二王妃やその子どもたちからめちゃくちゃ嫌われていたし、風当たりは暴風雨だった。あまりに反対意見が正妃たちから湧いた結果、俺と母さんはせい――Ω型地区に残されたって話も、さすがにこの歳になると耳に入っている。
 けどさ、でも、やっぱ小さい頃に植えつけられた疎外感というか絶望というか、がっかりした気持ちはそう簡単に消えないものだ。

『おとうさんは、なんでかあさんとおれをむかえにきてくれないの』

 そう母に聞いたことも一度や二度ではない。
 ここには優しい人がたくさんいたし、母さんも俺もΩ型地区で暮らした方が、都合がよかった。
 ただ、この地区にシングルマザーは多いとはいえ、つがいが見つかったΩ型は出産とある程度の子育てを終えるとΩ型地区を出ていくのが通例だった。『つがい契約』を行ったら、Ω型はつがいのα型しか興奮させなくなり、Ω型だけで固まって生きる必要がなくなるからだ。
 特に発情期は如実に変化するらしく、つがいが側にいると日常生活になんら支障がないほどに楽に過ごせるようになるという。
 でも親父は迎えに来てくれなかった。
 母の発情期は城で過ごすけれど、俺はΩ型地区で留守番。
 挨拶の義務があったから、城で親父には週一で会えたけど、父や一部の家臣以外――主に妃たちやその使用人たちが俺を見る視線はむべき者を見るそれだった。
 幼いながら「ここは自分の居場所ではない」と感じたし、その恐怖は未だに俺のどこかに残っている。
 そうして植えつけられたα型への猜疑心を持って今に至る。
 ノアが悪いわけではない。俺の問題なのだろう。ぼんやりとそう思いながらノアを見つめると、ノアがふと呟いた。

「抑制剤は、やはり体質に合わないとまったく効かないのですか?」
「え? あー、そうだな。元々抑制剤は牛、豚、鳥、魚、デュアナの花から作られる五種類しかなかったんだけど、そこから個々の体質に合わせて調合が進んで、今は五十種類くらいある」
「そ、そんなにあるんですか!」
「だからまずその基礎の五種類を試して、効果が出るやつの系統を試していくんだ。それでも効きが悪ければオーダーメイドだな」
「な、なんと……そんなに大変なんですか」

 そう、自分に合う抑制剤を探すのは大変だ。発情期はオルギナの実を食べるのだけで精一杯なほどに、基本苦しみ、もだえることになる。そんな時に他の薬を試す余裕はないから、基本的には一度の発情期で試せるのは一種類ずつだ。
 すべてを試すとなれば五十回も発情期を乗り越えねばならない。
 発情期は三ヵ月に一度年に四回。だからもし全てを試すなら、最低でも十三年。
 それならいっそつがいを得た方が楽、というΩ型も少なくないのは、無理もないだろう。
 でも、パートナーとなるα型がいれば発情期が楽、とは聞くけど、なにがどう楽なんだろう?

「俺は基礎の牛と豚は試したけど、そりゃあもう全っっっ然効かなかった。死ぬかと思った。だから今回は基礎の鳥。効かなくてもα型が側にいると発情期は楽だっていうし。今回はそっちに期待させてもらう」
「そうなのですね。分かりました、シオン様が穏やかに発情期を過ごせるよう、私も精一杯お手伝いいたします」
「う、うん、頼むな」

 なんでいきなりこんなことを聞いたんだと思ったら、そういうこと?
 意気込んでいるとこ悪いんだが、他の買い物もあるからその気合は当日までしまっていてほしい。


     * * *


 さて、発情期の前兆――体温の上昇が起きたのはその翌日のことだった。
 前兆が現れると、早くて翌日、遅くて数日後に発情期に入る。急いでΩ型地区の中心にある、発情期のΩ型が泊まる『塔』へ鳩を使い、日数とα型の人間がいることを申請する。それからオルギナの実を持ち、酒場宿のことを母に頼んだ。

「今度の抑制剤は効くといいわね」
「うん……」

 今回試すのは鳥を原料にした基礎の抑制剤だ。鳥形の魔物の性器を取り出し、乾燥させて煎じたもの。
 基礎の抑制剤はシンプルな構造のため、これだけで効くという人は少ない。それでもいつもの発情期よりも「少し楽だった」場合、それを基にした系統の薬、約十種類を試していけばどれかしらは自分の体質に合う可能性が高いのだ。
 発情期のΩ型は他者を発情させる匂いを出す。一番まずいのはα型の男で、特に弱いα型の男だと、理性を飛ばして獣のようになるらしい。
 ノアは強いα型だから、そこまで怖いことにはならないだろう。
 どっちかというと俺がノアの匂いでダメになりそう……って、なにを弱気になっている!
 ダメだ、発情期前は気持ちが不安定になる……負けるな、気持ちで!
 きっと乗り越えられる! そう心の中で唱えてから、俺は不自然に準備が遅かったノアを――正確には彼が背負った袋を見つめた。

「で? その荷物はなんだ?」
「Ω型の方は発情期中に巣作りをするとお聞きしたので、手持ちの服を全部持ってきました!」
「着替え以外は置いてこい! ……そもそも着替える余裕なんてないと思うけど、じゃ、なくて! 巣作りはつがいのいるΩ型の習性であって、つがいのいないΩ型はやらねーよ! お前の服なんかいらないって!」
「なんと⁉」

 なんかやけにでかい袋をかついできたと思ったら、変なことに気を回しやがって!
 店の従業員の個室に置いてこい、と指示すると、ノアはしょんぼりと肩を落とした。
 ダメなものはダメだ。俺が仁王立ちで二階を指さすと、ノアは急いで階段を上がっていく。
 そんなノアは一度放っておいて、『塔』に向かい、受付をすることにした。


「シオンくん、『塔』の使用許可が降りたわよ。部屋は三階の五番ね。食事は一日一回、使用日数は最大五日、で間違いない?」
「あ、はい」
「じゃあ入る時にまた言ってね」
「ありがとう、ハヅキさん」

 この人は『塔』の管理人で、俺がこっそり憧れていたお姉さんでもある。彼女はすらっとした長身で、中性的な見た目をしている。経歴は不明だが、『塔』が建ってから、ずっと入り口でここを管理し、ここに泊まるΩ型を援助してくれている。
 彼女は時折、Ω型がもっと生きやすい世界が欲しいと言う。
 俺もそう思う。もっと生きやすくなればいいのに。
 俺が酒場ではなく、酒場宿をやりたいと思ったのは、この人の考え方に憧れたのが大きい。
 滑らかに仕事をこなすハヅキさんを見ていると、勢いよく誰かの姿が俺の横に現れた。

「お待たせしました!」

 息を切らせたノアだ。背中にかついでいた袋はきちんと量を減らしている。よしよしと頷くと、ノアはへにゃっと笑みを浮かべた。

「部屋借りられたから、サクサク行くぞ」

 俺が上を指すと、ノアが頷く。するとハヅキさんに呼び止められた。

「あ、待って。これを」

 ハヅキさんがノアにマスクを手渡す。ノアはそれを受け取り、首を傾げた。

「ええと、これは?」
「ノア様は『塔』に入るのが初めてでしょう? だから少し説明するわね」
「え、あ、は、はい」

 有無を言わさぬ説明モード。さすがハヅキさんだ。
 ノアはマスクを身に着けると姿勢を正す。

「『塔』はΩ型が発情期の時に無料で部屋を貸し出す施設なの。上から一階、二階、三階と数えて一番下であるここが五階。上の方は強いフェロモンを発するΩ型が使うから、間違っても行かないように気をつけてください。今お渡ししたマスクはそのフェロモンをある程度さえぎることができますから、『塔』内では飲食時以外は外さないように」
「はい!」
「貴方ぐらい強いα型なら、二階までは耐えられると思うけど一階は絶対に無理です。同じΩ型でも発情を誘発されるほど強いフェロモンですから」

 そう言って、ハヅキさんは俺の方に体を向けた。

「改めて説明しますね。『塔』の部屋には外から鍵をかけますから、五日間は出られません。緊急時には中に設置してある呼び鈴を使ってください。水分補給は意識が戻ったら必ずするように。食事はおそらく食べられないと思いますが、一日一度はお届けします。食べられそうなら必ず食べてください。トイレとお風呂は部屋にあります。お酒は禁止。持ち込みの食べ物もオルギナの実以外は一度こちらに提出してください。それから……」

 長い。長いけど仕方ない。
 絶対途中からなあなあに聞き流したくなる話だが、ノアをチラリと見上げるとめちゃくちゃ真剣に聞いていた。変な話、その様子がちょっと可愛く見えてしまう。本当にまじめな奴だな。
 ……って、いやいや、ありえねーだろ、こんなゴツゴツマッチョが可愛いとか。俺、ほだされすぎてる?
 首を勢いよく振ると、ちょうど話が終わった。

「――注意事項は以上です。なにか質問はありますか?」
「はい!」
「はい、ノア様」
「α型はなにかできることはありますか!」
「ありません。どうせ発情の匂いに負けて理性が飛びます。飛んだら飛んだで仕方ありませんから、意識が戻ったら、一緒に水分補給を忘れないようにしてください。飲まないと死にますよ。もし余裕があるようなら、パートナーにも水分補給をしてください。余裕があればの話ですが」
「……は、はい」

 ノアが肩を落とす。
 でもハヅキさんの言葉には重みがあった。実際この『塔』以外で発情期中に死んでしまう人は毎年出るという。もっと『塔』が増えれば、死者はなくせるはずなのに……
 いや、『塔』があるだけこの国はマシなんだろう。他国にはないと聞くし。
 しょんぼりしているノアをなんとなく励ましながら、部屋へと向かうための昇降機に向かう。
 するとノアが驚いたように目をしばたたかせた。

「昇降機があるのですね」
「ハヅキさんの魔力で動いてるんだってさ」
「なるほど、彼女には頭が上がりませんね」
「何者なんだろうな、ってたまに話に出るんだけど、探った者は口を閉ざすらしい」
「え、な、なんでですか?」
「分からない。皆一様に『知らない方がいいことも、世の中にはある』と言うんだ。まあ、なんかそれ聞くと『そうだな』って思えてくるし……お前も調べなくていいからな」
「りょ、了解いたしました」
「では上がりますよー」
「「ひっ!」」

 入ってくるはずのないハヅキさんの声がして、二人して声を上げてしまった。
 い、一緒に来るの⁉
 あ、そうか、部屋の扉は外側からしか開閉できないのだ。前に俺が発情期だった時は、母さんが一緒に来て、扉を閉めてくれたんだっけ。
 ということは、今の話めちゃくちゃ聞かれて、た……?
 すげぇ、気まずい。沈黙が昇降機の中に漂うが、ハヅキさんは気にする素振り一つせず、扉を見つめ続けている。そんな気まずい空気の中、三階に降ろされると同時に、五番の部屋の扉が開いた。

「鉄格子つきの鉄扉とは、厳重ですね」
「これぐらいしなければならない、ということです。ノア様の体調は大丈夫かしら? 匂いはキツくありませんか」
「はい、今のところ問題ありません。マスクのおかげですね」
「出てくる時も忘れずつけてください。廊下でシオンくんに襲いかかるようなら、兵を呼びますから」
「は、はい……」

 ノアが怯えている。ハヅキさんって本当に何者なんだろう。そもそも本能性もどれだか分からないんだよな。Ω型の発情期の匂いに影響されないところを思うとΩ型の女性かな、と思うが、『塔』は年中無休で開いている。Ω型ならなんで発情期にならないんだろう。
 じゃあβ型? でもβ型でも発情期の匂いにはやられるはず。ハヅキさんがマスクしてるとこ見たことないし……?

「じゃあ、五日後に開けに来ますね。くれぐれも水分補給は忘れないように」
「「は、はい」」

 考えている間に、ばたん、ガチャン。と、扉が音を立てて閉まる。俺たちはコツコツコツ、というハヅキさんの足音が、昇降機の中に消えるのを待ってから息を吐き出した。

「な、なんだか並々ならぬ空気をお持ちの女性ですね」
「だよな。普段なにしてんのかもよく分からないし。ま、まあ、『塔』の管理してるんだろうけど」
「え、ええと、では……その、まずは……」

 振り返って部屋の中を確認する。今日から五日、ここでノアと二人きりだ。
 部屋はベッドが一つに小さな机。隅に水瓶みずがめ。奥には鉄格子つきの窓。換気の意味もあり、雨よけがあるだけ。おかげで隣の部屋からの喘ぎ声が耳を澄ますと聞こえてくる。
 壁には扉が二つ。トイレと、風呂。
 初めて来た時は広いと感じたが、ノアと来ると途端に狭く感じる。
 ベッドをよく見ると一人部屋の時より大きい。な、なるほど、α型と来る時用の部屋もあるのか。

「素晴らしい施設ですね。水の魔石が置いてある」
「魔物を倒すと出てくるやつ、だっけ。え? ここの水って魔石で出てくんの?」
「そのようです。ご覧ください、あれが魔石です」

 風呂の扉を開き、シャワーヘッドの上にある水色の石を指差すノア。あれ、装飾品じゃなくて魔石だったのか。魔石は魔物を倒すとまれに出てくる石だ。城や貴族の屋敷で使われるとは聞いているが、ここにも使われていたなんて。
 ――魔石を手に入れることができるなんて、ハヅキさんって本当に何者なんだ?
 そう、口にしそうになってやめた。ノアも察してくれたのか、俺の方をちらっと見て黙ったまま扉を閉める。
 さて、こうなると……あと、することと言えば――

「飯だな」
「そうですね」

 本格的に発情期が始まるまで、栄養を詰め込んでおく!
 なんとなくベッドを避けて椅子に腰かけると、ノアも俺の向かいに座った。
 水分補給もしっかりやって、『塔』支給の乾燥栄養食――あんまり美味くはない――をかじっておくのだ。そうしてしばらくが経って――

「シオン様、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……薬、飲んでおく……」
「はい」

 知らぬ間に動きがかなりスローになっていた。
 熱い。ぼんやりする。息も上がってきたし、食欲も、食いながら減っていく感じだ。

「シオン様?」

 差し出された薬を水でえんする。
 これが効いてくれないようなら、またあの地獄のような五日間になるのか。そう思うとどっと疲労感が体に伸し掛かるが、隣で心配そうにこちらを見るノアを見て少しだけ気持ちが軽くなった。
 今回は一人じゃない。ノアがいる。
 こすってもこすっても、出しても出しても気持ちよくならない、あの地獄をこいつが一緒に過ごしてくれるのなら――

「ノア、マスク、外しても……いいんじゃないのか……」
「あ、そういえばつけっぱなしでした。帰りも使うのでしまっておきますね」

 そう言ってノアがマスクを取る。それを、俺は心待ちにしていた。
 いや、違う。俺は……

「っ……」

 ノアが驚いた顔をする。
 そうだろう、部屋には発情期に入りたてのΩ型の匂いが充満し始めているはずだから。
 だいたい、ずるいんだよ。ノアの、強いα型の匂いは発情期で敏感になっている五感に、あまりにも刺激的だ。
 俺ばかりがノアの匂いにくらくらしてるのに、お前は平気って、どういうことだよ。
 お前も――いや違う、俺はこんなことを考えないはずなのに――

「ノアの匂い……」
「シ、シオン様……」
「……だめだ、まだ、薬、効かね……」

 だんだんと思考がまとまらなくなる。理性の部分がノアの手を拒否するのに、本能が剥き出しになっていくにつれてノアの匂いが、体が、声が……いや、もうなにもかもが、欲しいと叫ぶ。
 いやだ、浅ましい。こんなことを考えるのが俺だっただろうか?
 違う、これも俺だ。α型が欲しいと思う、Ω型の本能。こんなのいらないのに、同時に欲しくて堪らない。


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