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娘の為に

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こんな世界に来なければ良かった。
頭の片隅がキンキンと金切り音のような警報を鳴らしている。
自分が生きてきた中で、これほどの脅威が目の前に現れた事などあっただろうか?
元妻を怒らせた時。
元妻の不倫を知らされた時のあの修羅場さえ、この巨象を前にすると子どものままごとのように思えた。
さきほど自分の勇敢さはなんだったのか。
ああ、あれはきっと、無知故の蛮勇だろう。
ねぎまの言う事は正しかった。

(……これは……無理、だろう……)

諦めた。
あっさりと諦められた。
これは、膝をつく他ない。
命乞いなど通用しないだろう。
ありありと『殺す』と目が物語っている。
ただ殺される為だけに、忠直はそこに立っていた。
それ以外の事が出来そうになかったからだ。

『おい、おいおっさん! お前が指示を出さねーとシロは……』
「無理だ」
『なんだと?』
「こんなのと、戦えるわけがねぇ……勝てるわけが、ねぇよ……」

その目を見たら。
その殺意に晒されたのならば……もう諦めるしかない。
巨象が動く。
牙を擡げ、再びその二本の牙の先端に雷球を生み出す。
これは肉片も残らず消し飛ぶな、と他人事のように思った。
だが、その時——。

「パ、パパ……」
「っ…………!」

振り返ると小さなドラゴンが不安げに見上げてきた。
動く事さえままならなかった忠直の目に、わずかに光が戻る。
自分はなにを勝手に諦めていた?

(俺は……何を……ち、くしょう!)

確かに敵は強大だ。
だがしかし、この娘を自分の子どものように想っている。
その気持ちにはなんの不純物もない。
大事な我が子も同然。
そのショコラが……不安げに見上げている。
父親として、それはなんとも恥ずかしい。

「っ! シロ! 吹雪だ!」
「!」
「守るぞ! それから……ドンを助ける!」
「パパ!」
「ご主人様……」
「マスター……! っ了解した! 吹雪!」

忘れていた。
ねぎまも、シロも、襲いたくて忠直とショコラを襲ってきたわけではなかったのだと。
シロの強さを思えば自分たちは負けていても不思議ではなかったのだ。
それを、勝つ事が出来た。
その意味。

(きっとドンも……!)

ごお、とシロの周囲に風とともに雪が舞い上がる。
瞬く間にそれは広がっていき、ショウジョウたちが倒れていた位置も、巨象の体全体をも覆う。

「さっぶ!」
『今のうちにコブを探せ!』
「ええ⁉︎ 前なんか見えねーよ⁉︎」
「き、ききー!」
「⁉︎」

轟々と吹き荒ぶ吹雪の中、忠直の服の裾を何かが引っ張る。
見れば茶色い顔。
猿だ。
あ、いや、ショウジョウの一匹だ。
ウィンドウが開く。


『ショウジョウAが仲間になりたそうにこちらを見ています』
『ショウジョウAを仲間にしますか?』
【はい】      【いいえ】


「…………! ……い、今の状況分かって言ってんのか⁉︎」

思わずショウジョウAとやらに問う。
自分たちは今、この島の長と戦っている。
雷球が見えないほどの吹雪の中、次の一手もままならない。
しかしその忠直の問いに、ショウジョウAは強く頷いた。

「…………お前の名前は悟空だ!」
「ききぃ!」
「ステータス!」


【悟空】
種族:猩々(ショウジョウ)
レベル:25
HP:436/436
MP:120/120
ちから:76
ぼうぎょ:47
すばやさ:205
ヒット:96
うん:84
[戦闘スキル]
『ひっかく』
『挑発』
『かみつく』
[特殊スキル]
『仲間を呼ぶ』
『遠方監視』
『索敵』
『探知』


吹雪で見えづらいが、最後の一つ目が止まる。
悟空が『自分を使え』とばかりに必死で仲間にするように訴えてきたのは——!

「悟空! 探知でコブを探してくれ!」
「ききぃ! ききぃ!」

カッ!
悟空の目が光る。
吹雪の中から、黒い影がゆっくりと蠢き始めていた。
アレが身震いしただけで、吹雪の方が飛ばされそうだ。
そしてなにより……。

(やべぇ……マジで、寒……!)

『! 体温低下……早く、コブを探せ! お前が先にぶっ倒れるぞ! もしくは今のうちにねぎまにしがみついて吹雪の外へ移動しろ!』
「……そうは、いかね……」
「ききい!」
「見つけたのか⁉︎」
「きぃ! きぃ!」

限界が近い。
目が霞む。
そう感じていた時だ。
悟空が指差す。
しかし吹雪でよく分からない。

(チャンスは、一度……)

目を閉じる。
そして——。

「ねぎま! 魅了のダンス! ショコラ、悟空の見つけたコブへ、ファイヤーブレスを頼む! 吹雪を止めろ、シロ! そんですぐにアイシクル!」
「!」
「ぶおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉ!」
「き、きききーーー!」

シロが吹雪を収める。
その瞬間にショコラとねぎまが悟空の誘導でドンの足元へと駆け出す。
途端に雷球が鼻によって打ち出された。
一つ目の雷球をシロのアイシクルが撃ち抜く。

「ぐう!」
「マスター!」

無防備になった忠直に放電が襲いかかる。
だが、思ったほどの威力やダメージは感じなかった。
吹雪で雷球の威力が削られたのかもしれない。

「魅了のダンス~!」
「ぶるおおおおおぉ!」
「きゃあぁ!」
「ねぎま!」

くるくると回るねぎま。
やはりレベルの差か、『魅了のダンス』は不発。
しかし、一瞬でも気を逸らす事が出来た。

(本命は——!)

悟空が先行する。
それにショコラが続いた。
その巨大故だろう、腹の下に入り込んだ二匹に、ドンはまだ気付いていない。
悟空のその指先が、ドンの腹の下のある箇所を指差した。

「今だ、ショコラ!」
「ファイヤーブレス!」




***



「すまぬ、恩にきる」
「いいって事だ。困った時はお互い様だろう」

通訳魔法をドンにも反映してもらい、会話がついに成立した。
ドンは残念ながらというべきか、仲間にはなっていない。
ショコラとのレベル差がかなりあった為だろう、というのがジークの見解。
地面に座り込み、立ち竦み首を垂れ、謝り倒すドンに笑って手を振った。
反省しきりドンの姿に悟空ともう一匹のショウジョウが、左右から心配そうに見上げている。

「ええと、それで話がある。ショコラ……このドラゴンについてだ」
「……う、うむ。儂も気になっておった。そのドラゴン……まさか竜王……」
「…………やはりそうなのだろうか? 実はここに来るまでに色々あったんだが……」

そうして、ここに来るまでの経緯を説明した。
忠直の世界に空いた穴。
そこから出てきたと思われる小さなドラゴンに、名前を付けた事。
そして、ジークという謎の男の協力の元この世界に来て、仲間に出会った。
ほんの三日ばかりで起きた様々な出来事は、忠直に色々な経験をさせてくれたといえよう。
ちらりとショコラを見やる。
うるうるとした目。
これでお別れなのか、と問う瞳に、グッと喉が詰まる。
——忠直とて、別れたいわけではない。
しかし…………。

「なるほど。……ふむ……間違いなく、その幼生体のドラゴンは竜王の転生体なのだろう。称号があるのであれば疑いようもない」
「……やはりそう、なのか」
「竜王はあの忌まわしい木めが世界に根を張り、成長し、それが世界への害悪だと知った瞬間にはそのうち一本を焼き尽くした。……だが、竜王の力をもってしても木を全て燃やし尽くす事は叶わなんだ……」
「⁉︎」
『⁉︎ ……待てそれはおかしい。【界寄豆】は確かに『火耐性』持ちだが、【厄災級】ともなれば破壊は可能だろう?』

ジークが口を挟んでくる。
一目見れば小さな箱の中に小さな人が入っていて喋っている……という様子にドンとショウジョウたちは最初目を丸くした。
しかし、すぐに悲しげに目を伏せて首を左右に振る。
長い鼻もまた、それにつられてふわ、ふわ、と揺れた。

「その、なんとか厄災級とかいうのは分からん。しかし竜王は半年炎を吐き続け、ようやく一本を倒した。次の一本を倒さんと、この大陸に来て……そして、あの木の上へと力なく飛んでいき……帰らなかった」
『バカな……! 竜王と称号まで得ておきながら、【災害級】程度だったとでも言うのか⁉︎』
「ジーク、その……ドンの話はそんなにあり得ない事なのか?」
『当たり前だ! 竜王という称号まで持つドラゴンだぞ⁉︎ 竜王という称号は最低ランクでも【厄災級】だ! でなければ称号として得られない! ……と、聞いた事がある』
「…………」

急にあやふやになった。

『俺はファンタジー要素の多い世界は担当じゃねーし得意分野でもねーから知識だけだが……『王』を名乗るのであれば最低限、それだけの実力が必要になるはずなんだ』
『データベースをさらって調べてみたが、確かに一般的、と呼べるレベルでその基準は設けられているようだね。異世界も強さの基準は様々だから、もしかしたらその世界は他の世界よりも強さの基準が低いのかもしれないけれど』

ドンたちがまたも目を丸くする。
聞こえてきたのはギベインの声だ。
そして、彼の補足もまた【厄災級】にならなければ『竜王』とは名乗れない、というもの。

『その辺りは詳しく測定してみなければ何とも言えない。ボクらのデータベースはモンスターや剣やら魔法やらの世界のデータがあまり多くないから、資料としては是非欲しいところだけれど……』
『比較対象が少なければ基準を割り出すのは困難だな』
『そうだねぇ』

らしい。

『まあ、竜王とまで呼ばれたドラゴンが転生してそこにいる、という事実を前提にするならば、竜王にはいくつか事情があったとも考えられる。病気、老衰、疲弊……ドラゴンに影響のある毒のようなものを【界寄豆】が出していた、とか』
『最後のはないな。そういう数値は出ていない。だが、個体の病、老衰、疲弊は大いに可能性としてあり、だな。一本倒すのに半年もかかるなんざ異様だ』
『そうだね。……もともと転生時期が近かったとも考えられる。強力なドラゴンは数千年周期で転生するとも言われているから』
「……ふむ、確かに竜王は遥か昔からこの世界を守る神のごとき存在。転生する事がある、と聞いた事がある」

と、ウィンドウの向こう側でああだ、こうだと色々憶測を飛ばしていた二人へ、ドンが頷く。
一体どれほど長い間、ショコラの前のドラゴンたちは守り続けてきたのだろう。
想像も出来ない、とても長い時間をこの世界で『竜王』として……守り続けてきたのだとしたならば……。

「…………」

そしてこれからは、ショコラがその過酷な運命を背負うのか。
そう思うと心苦しくなっていく。

「ドン……俺は……ショコラ……いや、竜王の転生体を、この世界に返す、為に……来たんだが……」
「うむ……」
「………………」

ドンに預けて、自分は元の世界へ帰らねばならない。
元々世界が違うのだ。
これ以上関わる事は、お互いの為にならない。
きっと————。

「…………」

ショコラは何も言わずに、忠直を見つめていた。
その口が決定的な事を告げるのを、静かに待っている。
その眼差しを見て、これからこの世界がどうなっても、自分には関係ないのだと自分自身に言い聞かせた。
ここは異世界で、自分はこの世界では異物。
これはお互いの為だ。
ショコラの為だ。

(ショコラの……為に……)

たった三日だけ一緒にいた存在の為に——。

「……………………ジーク、データは、売れるんだよな?」
『…………。そうだな、物によってはな』
「もう一つ可能性があるんじゃないか? あの【界寄豆】が、突然変異したものだとしたら?」
『……ほう?』

ジークの目が細くなる。
この男は、人を異世界で見殺しにする事などなんの感慨も抱かずにやってのけるだろう。
だが忠直はこの世界も元の世界にも『家族』がいる。

「こういう世界のデータは、少ない、んだよな?」
『…………』

目が細くなったまま、口許が釣り上がる。
笑みは浮かべているが、絶対に油断は出来ない。
この男の底知れない恐ろしさを、自分はまだ断片も見ていないのだろう。
本能的に感じる。
慎重に、そして、確実に『交渉』を進めなければならない。

「お前は、頭が良い。スゲェ良いんだろう。ああ、俺よりずっと、この短い期間で色々、分かった事もあるんだろうし、そして、きっと疑問が拭えない事も、あったんじゃあないか? 俺は、お前の言う通り勇者じゃねぇし、ただの一般人。戦う力もねぇし、お前の助けがなければここまで来れなかっただろう。俺は非力だ」

後半は本心。
違う事なき真実。
捻じ曲げる事さえ出来ない。

「でもやはり、俺はこの世界を……娘が生きる世界を……住みよいところへと変えられたらと思う。いや、これは……願い、だと思うが……そして、だから、これは商売の提案だ。お前が疑問に思う事を俺は、調査する。お前が望むものを俺は何でも集めよう。だから……引き続き支援をしてくれないか……」
『…………』
『ワォウ。やっぱり言い出した』
「……うっ」

ギベインがどこか茶化す様に言う。
やっぱり、と言う事は、ある程度予想されていたという事。
ならば彼は——彼らは、その答えをすでに用意しているのだろう。

「…………。どう、だろうか……」

絞り出す様に、最終決定権を持つ男へ、目線を向けた。
自分が差し出せるものはこのぐらいしか浮かばない。
果たして————。

『………………。メニューが出ているな。だし巻き卵、唐揚げ、そらまめ、ハムカツ、焼き魚……』
「え? ええと?」

突然何を、と思ったが……そういえばジークが今いるのは忠直が開店準備を進める居酒屋の店内か、と思い出す。
その店内に掛けられたメニューの札を読み上げているのだろう。
それが、急速に忠直を現実へと引き戻していく。
そんな暇があるのか?
異世界と、自分の世界の夢を……どちらも両立するなんて事が、自分に。

『……肉じゃが、カレー、それにデザートはプリン、アイス、プチパフェ。プチパフェか、プチパフェはいいな……』
「…………。ん?」
『ちなみにでかいパフェは作らないのか?』
「……え? あ、ああ、酒飲むところだと思ってその辺りが限界だろうと思ってて……」
『はあ? もう少し色々作れないのか? 唐揚げだの焼き魚だの地味で色気のない。もっとこう、ドーナツとかシュークリームだとかケーキだとか、そういうの』
「…………。なんの話だ?」

マジで。
本気トーンで聞き返す。

『…………恐らくその世界は【界寄豆】によって食糧難に見舞われている』
「⁉︎」
『テメェの言う通り、その世界にドラゴンを置いていったところで餓死するか、あるいは【界寄豆】の実を食って肥やしになるしかないだろう。つまり詰んでるんだよ、その世界は』
「……なっ!」

そんな事が。
しかし、皆が皆、一様に悲しげに眉を寄せ、俯く。
それは事実だと、誰もが口に出さずに肯定した。

『……だが、なんとも面白い事にテメェは俺に商売の提案をしてきた。ハハ! いいねぇ、狂ってるよ、お前もなかなか』
「っ……」

その笑みの邪悪さ。
底知れなさに恐怖を感じた。
ドンと相対した時とは違う。
これほど小さなウィンドウの中から、こちらが一歩後退ってしまうほどの圧。

『商売……なるほど? 言い得て妙……なかなかの商才とでも言えばいいのか……』
『……あーあ……ボク知らないよ』
「え?」
『お前は言ったな? 俺が望むものを何でも集めよう、と……その想いに嘘偽りはないな?』
「……、……あ、ああ! ない!」

小さくギベインが『あ~あ~』と残念そうな声を出す。
凶悪、邪悪。
そんな言葉がぴったりの笑みを浮かべだままのジーク。

(……ショコラ……俺を父と慕ってくれる娘の為ならば、俺は——)

その笑顔に『悪魔』という言葉まで浮かんできた。
だが、それを飲み込んで誓う。
悪魔と契約しても、自分は娘の生きる世界をなんとかしてやりたい。
子どもが独り立ちするまで、独り立ち出来るようにするのが親の務めだ。


『ならば契約を結ぼう。たった今から…………その世界は



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