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狼と名もなき墓標

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 木々を縫うように進むんだ先で、急に視界が開けた。周囲を森にまもられた、『狼』の隠れ里がそこにあった。
 エミールは自分の足で、里へと踏み込んだ。

我が君マイン・ヘル、エミール様、ようこそいらっしゃいました」

 気づけば目の前に、狼面をつけた白髪の老人が居た。『狼』の長だとクラウスが教えてくれる。
 エミールが頭を下げるより早く、老人が地面に膝をついた。

「此度の我らの失態を、深くお詫び申し上げます」
「やめよ。私のつがいはそのようなことは望んでいない」

 クラウスの厳しい声が飛んだ。エミールは慌てて割り込み、老人の肩に手を置いた。

「あの、オレ、お礼を言いに来たんです。名前がわからないんですが、スヴェンと一緒に、オレをまもってくれた『狼』のひとに……」

 老人の面の奥の瞳がじわりと細くなった。

「あなた様は、まだ『影』を手元に置かれますか。本来であれば、」
「スヴェンは! スヴェンはオレの侍従です。『狼』かもしれないけど、オレの侍従です」
「……然様にございますか」

 老人は幾度が頷き、
「『狼』は後程あなた様のところへ遣わせます」
 と言ってまた頭を下げた。
 エミールの手を、クラウスが引いた。

「長、魂寄りの木を見せてもらうぞ」
「どうぞご随意に」

 事前に連絡が行っていたのだろう。『狼』にとってだいじな場所だろうに、老人はあっさりと承諾してくれた。
 スヴェンが先に立ち、「こちらです」と案内してくれる。

 里からさらにすこし山を登った場所に、その木は立っていた。エミールの想像よりも背は低かった。低木で、枝葉が横に広がっている。そこに赤い実がびっしりとついていた。

「すごい……」
「エミール様」

 スヴェンに呼ばれ、彼の方を向くと、スヴェンがひと粒をもぎ取り、エミールの手に乗せた。

「取っていいの?」
「どうせもうすぐ収穫しますから」
「結構大きいんだね」

 実は、エミールが食べたものよりも二回りは大きかった。

「種を取り出して乾燥させるから、縮むんです」
「……きれいだね。赤い花が咲いてるみたいだ」
「魂寄りの木は、冬に咲く花も赤いんです」
「『狼』の、いのちの色なんだね」

 エミールがぽつりと漏らした感想に、スヴェンの目がすこし丸くなった。

「そんなふうに考えたことはありませんでしたが……そうですね。きっと、かつての『狼』たちのいのちの色ですね」

 エミールは木の幹にてのひらを当てた。クラウスが身を屈めてエミールの隣に並ぶ。窮屈そうな男の仕草に、エミールはふふっと笑った。

「スヴェン、埋めてもいいかな?」

 エミールが尋ねると、スヴェンが「はい」と頷いた。
 エミールはクラウスと視線を交わして、そっと膝をついた。

 クラウスが木の根元を両手で掘った。エミールはポケットのハンカチを取り出し、そこに包んでいた骨の欠片をひとつ、埋めた。名もなき墓標の下から持ってきた、子どもの骨のひとつだった。
 エミールのお腹の赤ちゃん。この子の魂もまた、『狼』たちと一緒にこの木に宿り、来年の春には赤い実をつけるだろう。

「来年は、一緒にこの実を食べよう」

 エミールの肩を抱いて、クラウスがささやいた。
 エミールはつがいの顔を見つめて、その唇にキスをした。
 どこからともなく飛んできた山鳥が、低木に留まった。可愛らしい声で囀った鳥は、赤い実をつつこうともしなかった。

「本当に誰もこの実を食べないんだ」
「ものすごく酸っぱいですからね」

 エミールの言葉に、スヴェンが淡々とした口調でそう返した。

「ラスは食べたことあるの?」
「ある。昔、兄上が生の実を私の口に放り込んだんだ」
「生って……」
「この世のものではないぐらい酸っぱかった。それ以来私はこの実を口にしていない」

 当時のことを思い出したかのように、クラウスが身震いをした。

「それなのに、来年一緒に食べようって?」
「おまえと食べるなら」
「ラスはバカだよね」
「む……」
「オレのこと、好きすぎるよね」
「無論だ。おまえは私のすべてだからな」

 当然のように言いきったクラウスに、エミールの胸は苦しくなった。        
 なにをどう言葉にしていいかわからない。
 でも、エミールにとってもこの男が自分のすべてだと思えた。

 持ってきた骨の欠片の代わりに赤い実をひとつ握りしめ、低木の陰から出たところで、それを待っていたかのように狼面の男が姿を表わした。

「傷は?」

 エミールは真っ先に男へそれを尋ねた。『狼』は驚いたようにすこしたじろいだ。

「あのとき、矢が当たったよね」
「かすり傷です。もうどこもなんともありません」
「本当?」
「傷の心配をするのはこちらの方です。エミール様、今回の件は、」
「謝らないで」

 エミールは『狼』の声を遮って首を横に振った。

「もう誰も、オレに謝らないで」

 謝罪の言葉は、もう充分すぎるほどに聞いてきた。これ以上はお互いに苦しくなるだけだ。  

「それよりもお礼を言わせて。あのとき、オレを背負ってくれてありがとう。オレを励ましてくれて、ありがとう」
「……エミール様」
「オレが里に着いたら、お面の下を見せてくれる約束だったよね。オレ、来たよ」

 『狼』がふはっと吹きだした。片手で面の上から目元を覆い、くつくつと肩を揺らして笑う。

「あなたは、本当に……」
 おもしろい、と声に出さずに呟いた『狼』が、エミールへと一礼をした。

「あなたがご所望なら、いつでも面は外します。ですがいまは、我が君マイン・ヘルに威嚇されていますので、また今度、我が君マイン・ヘルがご不在のときにでも」

 威嚇、と言われてエミールは咄嗟に背後のつがいを振り向いた。
 クラウスが眉間にしわを寄せ、両手を硬く握りしめてこちらを凝視していた。

「もう! なんでそんな怖い顔してるんですか!」
「む……これでもものすごく我慢している」

 クラウスの弁明に、『狼』が笑った。この『狼』はけっこう笑い上戸だとエミールは思った。
 亡霊なんかじゃない。彼らは人間だ。クラウスが彼らをそう扱ってきたから、たぶん、『狼』は徐々にひととしての道を歩んでいるのかもしれない。

 春の風が吹いた。
 赤い木の実が揺れている。
 名前のない『狼』と、エミールの赤ちゃん。彼らのいのちが、揺れている。

 エミールは来年のことに思いを馳せながら、しずかに目を閉じた。

 傍らにはクラウスの匂いがあった。
 水に似たかなしみの匂いは、空気に溶けて薄くなっていた。
     
 

   


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