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狼と名もなき墓標
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クラウスと手を繋いで屋敷に帰り、スヴェンの手を借りて着替えをした。土で汚れた服を脱ぎ、ゆったりとした部屋着を着せられる。
その間にクラウスがたっぷりの湯を持ってきて、それでエミールの手を洗ってくれた。
互いの爪には、土の汚れが残っていた。それをブラシで丁寧に落とし、小石かなにかが当たったのだろう、いつのまにかできていた傷には軟膏を塗りこんでくれた。
エミールの世話を焼くだけ焼いてから、クラウスは自身も着替えるために席を外した。
スヴェンが紅茶を淹れてくれている。
「大丈夫ですか?」
控えめな声で問われた。エミールはこくりと頷いた。
「いっぱい泣いて、疲れた」
まだ目の奥が熱い。そう言って笑うと、スヴェンも仄かな笑みを浮かべた。
「ひと眠りされますか?」
「うん……」
眠たいような、眠たくないような、曖昧な感覚だった。
子どものお墓を確認して、骨を実際に見て、気持ちの区切りはついただろうか。自問してもよくわからない。
エミールはカップに紅茶を注ぐ侍従の顔を見つめながら、ふと思いついたことを尋ねた。
「『狼』は、名前がないって言ってたね」
「……はい」
「死ぬときも、名前はないままなの?」
スヴェンがエミールの前にカップを置き、「はい」と返事をした。
「我々『狼』は、里の全員でひとりの『狼』です。だから個人の墓はありません。……すこし、お待ちください」
なにを思ったのか、スヴェンが一度退室し、すぐに小瓶を片手に戻ってきた。
コルクで栓がしてある透明な瓶を、彼はエミールの目の前に掲げた。
赤い実が幾粒も入っている。爪の大きさほどの実だ。
「我々『狼』の里には、魂寄りの木というものがあります。『狼』の遺灰はその木の根元に撒かれます。春になると、魂寄りの木にはこの赤い実が成ります。同胞の魂が宿ったこの実を食べると、厄災が逃げてゆくと言い伝えられています」
エミールは興味深く、『狼』の葬送の話を聞いた。
「死んだ『狼』が、いまの『狼』をまもってくれてるんだ?」
「言い伝えですけどね。……食べてみますか?」
「いいの?」
「はい」
スヴェンがコルクを引き抜き、赤い実をひと粒エミールのてのひらに乗せた。
実は、水分が抜けて表面にしわが寄っていた。乾燥してあるのだ。
小さな粒を口に放り込み、咀嚼する。
「……んぅっ!」
なんとも言えぬ酸味が舌に広がり、エミールは思わず手で口を押さえた。
「す、酸っぱい!!」
スヴェンが何食わぬ顔で頷いた。
「干してあるのでまだマシな方です。生の実は食べられたものじゃありませんから」
「……そうなんだ」
口直しにどうぞと差し出された紅茶は、ジャムの甘みが溶けていて美味しかった。
「実が美味しかったら、我々が摘む前に鳥や獣がぜんぶ食べてしまうでしょう。この実は、我々しか食べないんですよ」
「そっか……」
『狼』の里の魂寄りの木。
遺灰を撒いた木に、『狼』の魂が宿り、その実を食べることで『狼』は受け継がれてゆくのだ。
「この実は、『狼』そのものなんだね……魂が宿って、まもってくれる……素敵な考えだね」
「あなたの体にもいま、『狼』が入りました。この先、あなたに災厄は起きません」
スヴェンが感情を見せぬ話し方で、そう言った。
そのために食べさせてくれたのか、とエミールはまた泣きそうになった。
「……オレも見たいな。その、魂寄りの木を」
「クラウス様が良いとおっしゃれば、いつでも」
「エルのしたいことなら、私は否とは言わない」
不意にクラウスの声が割り込んできた。彼はエミールの目元を親指の腹でやさしくこすり、ひたいにキスをひとつ落としてきた。
「だが、『狼』の里に行くには、あの山に入らなければならない」
王城の裏手に位置する『狼』の山。
あそこでエミールは足を滑らせ、滑落して腹部を強打したのだ。
その記憶の残る場所に行っても大丈夫か、と蒼い瞳が気遣わしげに細まった。
エミールはつがいの心配を感じ取り、すこし迷った後で頷いた。
ちょうど赤い実がなっている時期だということで、翌日には『狼』の山へ行くことになった。
地下通路は使わずに、地上を馬で移動する。エミールを抱き込む形でクラウスが手綱を握り、馬で行けるギリギリのところまで進んだ。
「ここからは徒歩だ」
馬を木に繋いだクラウスが、そう言ってエミールに背を向けて屈んだ。
「……?」
「……? 抱っこの方がいいか?」
「えっ、まさかオレを負ぶっていくつもりですか?」
「そのつもりだが?」
「さすがに、無理でしょ」
「おまえひとりぐらい、私にはどうということもない」
エミールは思わず同行していたスヴェンへ顔を向けた。しかしスヴェンは驚きもせずに、
「クラウス様にとってはそうでしょうね」
と口にした。
「山道だよ!?」
「あの夜とは道が違います。今回は舗装した道が使えますから」
前回エミールがこの山に入ったときは、追っ手を撒くために獣道を使ったのだという。今回は『狼』がふだん通っている道が使えるとのことで、それならばエミールも自分も足で行けるのではないかと思ったが、この三か月で筋力が落ちてしまっているため無理はさせられないと、クラウスに押し切られる形で結局は彼の背に負われる形となった。
「重くないんですか?」
「まったく」
おずおずと問えば、淡々と否定される。本当だろうか?
舗装されているとスヴェンは言ったが、確かに階段状になっていたりロープが張られていたりとひとの手は入っていたが、道が険しいことに変わりはない。
しかしクラウスはゆるぎなく踏破してゆく。
エミールはつがいの背から、山の風景を見渡した。新緑を広げた木々の間から春の陽光が漏れている。足元には冬に落ちた枯れ葉の隙間から草花が芽吹いていた。きれいだなと思った。
あの冬の夜とは全然違う景色だ。
「大丈夫か」
クラウスに問われて、エミールは苦笑する。
「こっちのセリフですよ。ラス、いつでも下ろしていいからね」
エミールがそう返すと、チラと顔を振り向けたクラウスが真面目くさった声で、
「私がこんな役得を手放すと思うか?」
と言った。
このひとはバカだなぁ、とエミールは泣きたいような気持になった。
山道を登る途中、幾度か、どこからか「代わりましょうか」という声が聞こえてきた。里の『狼』が来たのだろう。エミールはきょろきょろと周囲を見たが、相変わらず姿を見ることはできなかった。
クラウスも、後ろをついてきているスヴェンも『狼』が来ていることに気づいていたようで、突然の声に驚く素振りも見せずに淡々と対応している。
クラウスは結局、里に着くまで一度もエミールを背から下ろすことはなかった。
その間にクラウスがたっぷりの湯を持ってきて、それでエミールの手を洗ってくれた。
互いの爪には、土の汚れが残っていた。それをブラシで丁寧に落とし、小石かなにかが当たったのだろう、いつのまにかできていた傷には軟膏を塗りこんでくれた。
エミールの世話を焼くだけ焼いてから、クラウスは自身も着替えるために席を外した。
スヴェンが紅茶を淹れてくれている。
「大丈夫ですか?」
控えめな声で問われた。エミールはこくりと頷いた。
「いっぱい泣いて、疲れた」
まだ目の奥が熱い。そう言って笑うと、スヴェンも仄かな笑みを浮かべた。
「ひと眠りされますか?」
「うん……」
眠たいような、眠たくないような、曖昧な感覚だった。
子どものお墓を確認して、骨を実際に見て、気持ちの区切りはついただろうか。自問してもよくわからない。
エミールはカップに紅茶を注ぐ侍従の顔を見つめながら、ふと思いついたことを尋ねた。
「『狼』は、名前がないって言ってたね」
「……はい」
「死ぬときも、名前はないままなの?」
スヴェンがエミールの前にカップを置き、「はい」と返事をした。
「我々『狼』は、里の全員でひとりの『狼』です。だから個人の墓はありません。……すこし、お待ちください」
なにを思ったのか、スヴェンが一度退室し、すぐに小瓶を片手に戻ってきた。
コルクで栓がしてある透明な瓶を、彼はエミールの目の前に掲げた。
赤い実が幾粒も入っている。爪の大きさほどの実だ。
「我々『狼』の里には、魂寄りの木というものがあります。『狼』の遺灰はその木の根元に撒かれます。春になると、魂寄りの木にはこの赤い実が成ります。同胞の魂が宿ったこの実を食べると、厄災が逃げてゆくと言い伝えられています」
エミールは興味深く、『狼』の葬送の話を聞いた。
「死んだ『狼』が、いまの『狼』をまもってくれてるんだ?」
「言い伝えですけどね。……食べてみますか?」
「いいの?」
「はい」
スヴェンがコルクを引き抜き、赤い実をひと粒エミールのてのひらに乗せた。
実は、水分が抜けて表面にしわが寄っていた。乾燥してあるのだ。
小さな粒を口に放り込み、咀嚼する。
「……んぅっ!」
なんとも言えぬ酸味が舌に広がり、エミールは思わず手で口を押さえた。
「す、酸っぱい!!」
スヴェンが何食わぬ顔で頷いた。
「干してあるのでまだマシな方です。生の実は食べられたものじゃありませんから」
「……そうなんだ」
口直しにどうぞと差し出された紅茶は、ジャムの甘みが溶けていて美味しかった。
「実が美味しかったら、我々が摘む前に鳥や獣がぜんぶ食べてしまうでしょう。この実は、我々しか食べないんですよ」
「そっか……」
『狼』の里の魂寄りの木。
遺灰を撒いた木に、『狼』の魂が宿り、その実を食べることで『狼』は受け継がれてゆくのだ。
「この実は、『狼』そのものなんだね……魂が宿って、まもってくれる……素敵な考えだね」
「あなたの体にもいま、『狼』が入りました。この先、あなたに災厄は起きません」
スヴェンが感情を見せぬ話し方で、そう言った。
そのために食べさせてくれたのか、とエミールはまた泣きそうになった。
「……オレも見たいな。その、魂寄りの木を」
「クラウス様が良いとおっしゃれば、いつでも」
「エルのしたいことなら、私は否とは言わない」
不意にクラウスの声が割り込んできた。彼はエミールの目元を親指の腹でやさしくこすり、ひたいにキスをひとつ落としてきた。
「だが、『狼』の里に行くには、あの山に入らなければならない」
王城の裏手に位置する『狼』の山。
あそこでエミールは足を滑らせ、滑落して腹部を強打したのだ。
その記憶の残る場所に行っても大丈夫か、と蒼い瞳が気遣わしげに細まった。
エミールはつがいの心配を感じ取り、すこし迷った後で頷いた。
ちょうど赤い実がなっている時期だということで、翌日には『狼』の山へ行くことになった。
地下通路は使わずに、地上を馬で移動する。エミールを抱き込む形でクラウスが手綱を握り、馬で行けるギリギリのところまで進んだ。
「ここからは徒歩だ」
馬を木に繋いだクラウスが、そう言ってエミールに背を向けて屈んだ。
「……?」
「……? 抱っこの方がいいか?」
「えっ、まさかオレを負ぶっていくつもりですか?」
「そのつもりだが?」
「さすがに、無理でしょ」
「おまえひとりぐらい、私にはどうということもない」
エミールは思わず同行していたスヴェンへ顔を向けた。しかしスヴェンは驚きもせずに、
「クラウス様にとってはそうでしょうね」
と口にした。
「山道だよ!?」
「あの夜とは道が違います。今回は舗装した道が使えますから」
前回エミールがこの山に入ったときは、追っ手を撒くために獣道を使ったのだという。今回は『狼』がふだん通っている道が使えるとのことで、それならばエミールも自分も足で行けるのではないかと思ったが、この三か月で筋力が落ちてしまっているため無理はさせられないと、クラウスに押し切られる形で結局は彼の背に負われる形となった。
「重くないんですか?」
「まったく」
おずおずと問えば、淡々と否定される。本当だろうか?
舗装されているとスヴェンは言ったが、確かに階段状になっていたりロープが張られていたりとひとの手は入っていたが、道が険しいことに変わりはない。
しかしクラウスはゆるぎなく踏破してゆく。
エミールはつがいの背から、山の風景を見渡した。新緑を広げた木々の間から春の陽光が漏れている。足元には冬に落ちた枯れ葉の隙間から草花が芽吹いていた。きれいだなと思った。
あの冬の夜とは全然違う景色だ。
「大丈夫か」
クラウスに問われて、エミールは苦笑する。
「こっちのセリフですよ。ラス、いつでも下ろしていいからね」
エミールがそう返すと、チラと顔を振り向けたクラウスが真面目くさった声で、
「私がこんな役得を手放すと思うか?」
と言った。
このひとはバカだなぁ、とエミールは泣きたいような気持になった。
山道を登る途中、幾度か、どこからか「代わりましょうか」という声が聞こえてきた。里の『狼』が来たのだろう。エミールはきょろきょろと周囲を見たが、相変わらず姿を見ることはできなかった。
クラウスも、後ろをついてきているスヴェンも『狼』が来ていることに気づいていたようで、突然の声に驚く素振りも見せずに淡々と対応している。
クラウスは結局、里に着くまで一度もエミールを背から下ろすことはなかった。
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