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狼と名もなき墓標

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 エミールは窓際に座り、見るともなく中庭を眺めていた。
 季節はいつの間にか春になっていた。花壇では色とりどりの花が咲き誇り、それを喜ぶように蝶が舞っている。

「窓を開けましょうか」

 横から声を掛けられ、反射のように頷く。
 鍵を開けて、ガラス窓を押し開く手。そこから腕を辿って、顔を見上げる。

「スヴェン……」

 侍従の名を呼び、エミールは夢から覚めた気分でまばたきをした。

 途切れ途切れになっていた記憶は、最近ようやくつながり出している。まともになってきたのだろうか? 自分ではその判断が難しい。
 あまりに一度に色んなことが起こりすぎたので、頭と気持ちが疲弊しているんです。医師のベルンハルトにはそう言われた。
 受け入れがたい現実に直面して、こころをまもるために一時的に逃避をしているのです、と。

 でも逃げたところで現実が変わるわけもない。
 エミールの腹部には子宮を摘出した手術の痕が残っているし、お腹に居たはずの赤ちゃんは消えたままだ。

 体の痛みや痣は現れたり無くなったりしていたが、それだって頻度は間遠になってきた。
 暴れてクラウスを噛んだり、物を壊したりすることも少なくなった。

 エミール自身はなにもしていない。ただ、時間が経っただけだ。傷を癒すには時間が一番です。ベルンハルトはそうも言っていた。時間というものは、すごい。

「今日はすこし顔色が良いですね」 

 スヴェンがエミールの腿に膝掛けを広げながら、そう言った。
 おかしくなっていたときは、彼の顔を見るたびにエミールは泣き出したり怯えたりと、随分と不安定になったようだった。だからエミールの調子の良いときにしかスヴェンは寝室に立ち入らなかった。
 そのスヴェンも、最近は毎日エミールの世話をしてくれている。昨日も彼は、こうしてエミールに膝掛けを掛けてくれた。
 そう考えて、不安になる。

「スヴェン……昨日も、オレに膝掛けをくれたよね?」
「はい」

 言葉にして確かめてようやく、ああオレはまともだ、と思えた。

「エミール様、天気が良いので庭をすこし歩きませんか?」

 スヴェンに誘われて、エミールは頷いた。
 怪我を負って以降、ずっと屋敷に閉じこもっている。 
 気持ちが不安定で、ふとしたきっかけで錯乱したり気鬱に襲われたりするので、屋敷の外でもいつおかしい自分になるかわからない。だから外出するのが怖かった。
 そんなエミールを、せめて庭だけでもと、クラウスやスヴェンが辛抱強く誘い続けてくれていた。

 今日は、大丈夫な気がする。
 エミールは久しぶりに庭に出ることを決めた。

 部屋着の上に薄手の上着を羽織る。スヴェンの用意した服からも、季節の移り変わりを感じた。
 手を繋いで、スヴェンと中庭に降りる。エミールがいつ暴れるかわからないので、移動のときは必ずクラウスかスヴェンが手を握ってくれるようになっていた。

 春の陽光が、エミールを包んでいた。
 花壇の横を歩きながら、空を見上げた。青空が広がっている。

「……明るい」
「そうですね」
「前に、スヴェンと歩いたときは、真っ暗だったね」
「……エミール様」

 スヴェンがそっとこちらを窺ってくる。
 『あの日』のことを声に出して話すのは、回復訓練リハビリの一環だ。でもいつも途中でエミールが取り乱して泣き出すので、クラウスやスヴェンはあまりエミールに話をさせたくないような素振りを見せる。

 だけどエミールは、いつまでもこのままじゃダメだという思いがあった。
 怪我を負って、手術を受けて。最初のふた月は寝たり起きたりの生活で、ほとんど記憶がなかった。
 そして、子宮を摘出したこと、子どもは想像妊娠で居なかったこと、その話をしてからすでにひと月が経過している。

 死にたい死にたいと泣くエミールを、クラウスはずっと抱きしめて、愛をささやいてくれた。エミールがどれだけ暴れても、そのせいで傷を負っても、一度もエミールを責めなかった。

 クラウスは、たぶん、嘘をついている。
 エミールのために、嘘をついている。
 エミールから、赤ちゃんを殺してしまったという罪悪感をなくすために、子どもは最初から居なかったと言ったのだ。

 エミールにはわかる。このお腹の中で、生まれたいのちがあった。赤ちゃんは居た。確かに居た。
 そう思うのが想像妊娠なんだ、とクラウスは言う。
 おまえは誰も殺していないのだ、と。

 本当のところは、どっちなんだろう。
 エミールのお腹に。赤ちゃんは居たのか、居なかったのか。

 本当のことを教えて、とクラウスに縋っても、エミールのアルファは想像妊娠が事実だと言って譲らない。
 どっちなんだろう。そんなことを考えながら、無意識に下腹部を撫でていたら、スヴェンに名前を呼ばれた。

「エミール様」
「……大丈夫。オレ、今日、たぶん、調子がいいから」
「しんどくなったら、すぐに教えてくださいね」
「そうする。……ありがとう」

 お礼を言ったら、スヴェンの顔がわずかに歪んだ。

「スヴェンの方が、しんどそうな顔してる」

 エミールがそう言うと、スヴェンが足を止めて体をこちらへ向けた。
 それからおもむろに口を開いた。

「…………あなたにずっと、謝りたかった……」

 ひどく苦しそうな声が、スヴェンの口から漏れた。エミールは驚いて繋いでいた手を強く握った。

「スヴェン」
「私の判断ミスで……あなたに、ひどい傷を……」
「スヴェンのせいじゃない」
「いいえ。あなたの護衛が私の仕事でした。それなのに、あなたを危険に追い込み……任務を全うできなかった上、おめおめとあなたの侍従を続けている」

 スヴェンが項垂れた。薄い肩が震えていた。

「本来であれば、任務に失敗した時点で私は退くべきでした。侍従を辞して、里に戻るべきでした。でも、傷ついたあなたを置いてはいけなかった。私の存在が、あなたの負担になっているとわかっているのに……!」

 手は、つないだままで、スヴェンはエミールへ向かって深く頭を下げた。

「私の顔を見る度に、あなたはひどく取り乱し、錯乱状態に陥っていた。私の姿が、あの日のことを思い出させるからです。私はあなたから離れたほうがいい。それはわかってます。わかってます。ただ先に、きちんと謝罪させてください。本当に申し訳ございませんでした」

 重力で、下へと垂れる白金髪。
 髪の色が違うからか、それともふだんのセットの仕方が違うからか。エミールは、スヴェンが自分と髪型が似ていることに、まったく気づいていなかった。
 体型が同じであることも。
 それが、自分の影武者となるためだったなんて、すこしも、微塵も考えたことがなかった。

 あの日。あの夜。地下通路で腕を組んで隣を歩いてくれた。
 山に入って、別行動をすると突然言い出して驚いた。彼から離れることがこころ細かった。
 ひとり残ったスヴェンは、エミールの脱いだ服に身を包み、敵を攪乱するためにあの険しい山道を走り回ったのだろう。

 エミールがスヴェンの顔を見る度に取り乱したのは、あの日を思い出すからという理由だけじゃない。
 スヴェンに危険な真似をさせておいて、自分だけが『狼』に連れられて逃げたという罪悪感が、どうしようもなくおのれの内側で膨らむからだ。

 エミールだけが逃げて、結果、胎の子どもを喪った。

 スヴェンが、『狼』が、いのち懸けでまもろうとしてくれていたのに。
 クラウスとの子どもを、失くしてしまった。
 エミールが、エミールの方こそが、スヴェンに謝りたかった。謝らなければならなかった。

「……スヴェン、スヴェン、頭を上げて」
「……はい」

 なにかを覚悟したような目を、スヴェンがこちらに向けてきた。スヴェンが離れてしまう。そう感じた。
 エミールは握った手を手繰り寄せ、スヴェンを抱きしめた。

「オレ、ちゃんと、ずっと聞いてたよ。オレがおかしくなってるとき、スヴェンが……スヴェンと、クラウス様が、ずっとオレに謝ってる声。耳の奥に、残ってるよ」
「……エミール様」
「スヴェンたちがまもろうとしたもの、オレ、ちゃんとまもれなくてごめんね」
「エミール様! 私がおまもりしたかったのは、あなたです!」
「……うん。うん、だから、ほら、オレ、大丈夫でしょ。スヴェンがまもってくれたから、オレ、こうしていま、散歩もできてる」
「…………」
「スヴェンは、負担なんかじゃないよ。オレの支えだ」
「しかし」
「うん。オレ、いま、正気だと思うけど、もしかしたらまた忘れちゃうかもしれないから、スヴェンが覚えてて。オレ、スヴェンが大好きだよ。まもってくれてありがとう。オレ、頑張るから。ちゃんと頑張って、元気になるから。もうすこし時間はかかるかもしれないけど……でも、頑張るから。だからスヴェン、オレの横で、オレを支えてよ。オレはスヴェンがいいよ。……居なくならないで」

 肩の上に、すこしの重みがあった。
 スヴェンがそこにひたいをこすりつけるようにして、はい、と頷いた。
 はい、と繰り返したスヴェンの背を抱きしめたまま、エミールは震えるような息を吐いた。

 頑張るから。
 おのれの言葉に、胸の奥が熱くなったような気がした。

 頑張るから。

 そうだ、頑張らなければならない。
 傷ついたのはエミールだけではない。スヴェンのこころにもまた、傷は残ったのだ。
 それに……エミールを支え続けてくれている、クラウスのこころにも。

 自分のことだけで精一杯だったエミールは、ようやく、そのことに思い至った。
 
   
 
 

 
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