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狼と名もなき墓標

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「オレ……どれぐらいの間、おかしくなってたの?」

 エミールはクラウスの胸に顔を埋めながら、ぽつりと尋ねた。
 このセリフもおかしいな、と自分で思う。
 だって、いまの自分が正気だと、自分で判断ができないのだから。

「おまえはおかしくない」

 クラウスの声が、密着した体を伝って聞こえてきた。

「だが、おまえが怪我を負ってから、もうすぐ二月ふたつきになる」
「怪我……? ああ、そっか」

 あの日、エミールは山の斜面から転がり落ちたのだ。それからもう二か月も経つというのか。

「オレが落ちたせいで、赤ちゃんが……?」
「エル、違う。そうじゃない」
「でも、」
「エミール!」

 強い声で名を呼ばれた。クラスの両手が、エミールの頬を包んで顔を上げさせてくる。
 視線が合った。疲れ果てた表情の騎士は、それでも凛とした眼差しでエミールを見つめていた。

「エミール。ベルンハルトが来ている。おまえの体のことで話がしたいと」
「オレ……オレの、体のこと?」
「おまえが嫌なら日を改める」

 クラウスと言葉を交わしながら、ああこの会話も初めてではないなとエミールは感じた。おかしくなってるときに、なんどかこの話もしているのだ。

「……大丈夫。聞くよ」

 エミールが頷くと、クラウスが両目を細めた。正気かどうかを探っているのかもしれない。
 ちゅ、と唇を啄まれた。反射的に目を閉じて、開く。蒼い瞳が揺らいでいる。

「ラス、大丈夫」

 もう一度そう言うと、クラウスがかすかに顎を動かした。

「すこし離れる」
「……ん」
「すぐに戻る」
「うん」

 ひどく慎重な動きで、クラウスが身を起こした。エミールも起き上がろうとしたが、それはクラウスの手によって止められた。

「寝ていてくれ」
「……わかった」

 エミールが暴れることを心配しているのだろうか。クラウスは寝台を降り、部屋を出ていく直前までエミールから目を離さなかった。
 どれだけ心労をかけてしまったのだろう。エミールは苦しくなって、泣きたくなった。クラウスの居ない毛布の中は、寒かった。

 ひとりだ、と不意に思った。
 部屋の中に、ひとりきりだ。
 恐ろしくなって、闇雲に手足を動かした。

「エミール! 待て、動くな!」

 扉が開いて、クラウスが飛び込んできた。手になにかを持っている。エミールはつがいの顔を見てホッと息を吐いた。

「……ラス」
「湯を持ってきた。顔を拭こう」

 クラウスが寝台の端に腰を下ろし、サイドテーブルを引き寄せてそこに湯の入ったたらいを置いた。

「起こすぞ」

 声とともに、やさしく、そろりとした動作で背に腕が回ってくる。ゆっくり、ゆっくりと上体を起こされた。途中で目が回って、エミールはぐったりとクラウスにもたれかかった。

「大丈夫か」
「うん……。まだ、平気」

 たぶん、まだ、正気だ。おかしくはなってないはずだ。そう思う側から不安になる。  

「オレ、おかしい?」
「いや。かわいい」

 真面目な顔でクラウスがそんな返事を寄越してきたから、エミールはすこしだけ笑ってしまった。
 ちゅ、とひたいにキスをした後、クラウスが湯に浸したタオルを硬く絞っての顔を拭いてくれた。
 歯磨きまで手伝ってこようとしたから、それは自分できるよと言って歯ブラシをクラウスの手から奪った。けれどすぐに力尽きてしまい、結局はつがいの手を借りる羽目になった。

「オレ、お風呂も入ってない……」

 それなのにクラウスに添い寝をさせていたのかと思うと居たたまれない気分になったが、蒼い瞳がなんとも言えぬ様子でまばたきをしたから、エミールは、ああお風呂には入ったのかもしれない、と悟った。
 それも忘れてしまっている。たぶん、クラウスに抱えられるようにして湯舟に入れてもらったのだろう。
 そう考えてから、ぞくりと震えた。
 クラウスはお腹を見ただろうか。
 エミールの。もうなにも入っていない、空っぽのお腹を。

「エル、エル……大丈夫だ。泣くな」

 言われて初めて、涙がボロボロ落ちていることを自覚した。せっかく顔を拭いてもらったのに。

「エミール、やはりベルンハルトは、」
「だ、大丈夫。オレ、まだ、たぶん、正気だから」

 感情の制御はできないが、頭はクリアだった。自分ではそう思えた。だからいまのうちに、ベルンハルトとも話しておきたかった。
 クラウスは苦悶するように顔を歪めていたが、「わかった」と言ってクッションや枕をエミールの背にたくさん挟んでから、エミールを支えていた腕をそっと外した。

「ベルンハルトを呼んでくる。体勢はつらくないか?」
「大丈夫」
「無理に動こうとはしないでくれ」
「……わかった」

 念を押されて、エミールは頷いた。たぶん、おかしくなってたときの自分は彼の言うことを聞かずに、無理に動いたのだ。

 盥を自らの手に持って部屋を出てゆくクラウスを見送りながら、あれ? とエミールは怪訝に思った。
 いつもならああいうものは、使用人が用意してくれて、下げてくれるはずなのに。
 そう考えて、スヴェンのことを思い出す。スヴェン。エミールの侍従。なぜいまここに、彼の姿がないのだろう。

 クラウスはすぐにベルンハルトを伴って戻ってきた。隣の部屋で待機してくれていたのだろうか。片眼鏡の老医師は、エミールへと一礼をして寝台の傍へとゆっくり歩み寄ってくる。
 クラウスがベルンハルトのための椅子を持ってきた。それもまた、ふだんであればスヴェンや他の使用人が行うことだ。

「ラス、スヴェンは……」

 落ち着かない気分でそう問えば、
「スヴェンは隣の部屋に居る」
 と返ってくる。

「オレ、スヴェンに、」
「エミール様」

 そわそわと視線を彷徨わせたエミールは、ベルンハルトに名を呼ばれてハッと医師の方を見た。そうだ、ベルンハルトの話を聞かなければならなかった。なぜ一瞬で気が逸れてしまうのだろう。
 クラウスがベッドに腰を掛け、半身をこちらへ向けてエミールの肩を抱き寄せてきた。エミールは抗わずにつがいの胸にもたれた。

「エミール様。すこし失礼いたします」

 ベルンハルトがエミールの右手を取り、手首に指を二本当てた。脈拍を確認される。その後は、聴診器で胸の音を聞かれた。喉を触られ、下の瞼の裏も見られた。その後もひと通りの診察を受けた。
 老医師は最後に、革のカバンから茶色の瓶と綿球やガーゼを取り出した。

「傷の具合を診せてくださいますかな」

 ゆっくりとした口調で促され、エミールは思わずクラウスの方を仰いだ。つがいの蒼い瞳が、大丈夫だというようにまばたきを返してくる。
 男の大きなてのひらが、毛布の上からエミールの腹部に被さってきた。

「おまえの、ここの、傷だ」

 恐ろしくなって、エミールはクラウスの右腕に縋った。
 ベルンハルトがエミールの顔を見ながら、毛布をそうっと下げてゆく。クラウスの左手が、エミールの部屋着の前をそろりとたくし上げた。
 包帯の巻かれているそこが目に入った。

「……ひっ…………」

 エミールは小さな悲鳴を漏らした。おのれのそこから背けた顔を、クラウスの肩に押し付けた。
 包帯がはがされてゆく気配がした。

「ようやく塞がってきましたなぁ」

 ベルンハルトの声にすこしの安堵が滲んでいた。消毒液だろうか、ひやりとした感触が広がった。

「最近は安静にできている」
「ようございました。抜糸まで、あとひと息というところですなぁ」
「気をつける」

 エミール越しに、クラウスとベルンハルトが言葉を交わしている。
 無理には動くな、とこの短時間でなんどもクラウスに注意をされた意味が、ようやくわかった。
 正気じゃないときの自分は、たぶん、彼らの言うことを聞かずに暴れて……それで傷が治癒が進まなかったのだ。






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