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狼と名もなき墓標

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 体が燃えるように熱かった。
 呼吸が苦しくて、なんどもなんども「苦しい!」と叫んだように思う。
 喉もひりついていた。
 冷たい水が欲しかった。

 唇になにかが触れた。やわらかな感触だった。そこから水が落ちてきて、夢中で飲んだ。水は繰り返し与えられた。

 匂いがしていた。
 この世で一番好きな匂いが。

 ああ、とエミールは安堵の息を吐く。
 クラウスが居る。エミールのアルファが。エミールの騎士が。
 そこに居てくれている……。

 顔が見たいと思ったのに、まぶたが開かない。
 まだ寝ていた方がいい、と誰かが言った。
 なぜ、寝ていなければならないのだろう。
 早くクラウスの顔が見たいのに。

 鼻先に、雨の日のようなどこか水っぽい香りが漂ってきた。それはクラウスの匂いと混ざり合い、ひとつに溶け合って強くなったり弱くなったりしていた。
 かなしみの匂いだ。不思議とそう感じた。
 クラウスの、かなしみの匂いだ。

 エル、と吐息のように名を呼ばれる。
 エル。
 私のエル。
 目覚めたらおまえが、すべてを忘れていたらいいのに……。

 なんてことを言うのだろう。
 忘れるわけがないのに。
 クラウスの匂いも。彼を愛しいと思う感情も。
 そしてここに……彼に愛された証を身籠ったという、あの喜びも……。

 忘れるわけが、ないのに。



「…………え?」

 目を開いたら、見慣れた天蓋があった。
 薄紗越しに、蒼いカーテンの掛かった窓も見える。
 枕も、毛布も、寝台の寝心地も、いつものものだった。
 クラウスと住んでいる、屋敷のものだ。

「あれ……? オレ、なんで……」

 掠れた声でつぶやいて、体を起こそうとする。でも全身がひどく重く、指先がすこし動いた程度だった。
 ノックの音がして、扉が開いた。いつものように入ってきたスヴェンが、こちらを見て大きく目を見開いた。

「エミール様! お目覚めですか!」
「す、スヴェン、あの、オレ……」
「ちょっとお待ちください。すぐにクラウス様を!」

 スヴェンが慌ただしく出て行き、すぐにクラウスを伴って戻ってきた。

「エルっ!」

 飛び込んできたクラウスが、寝台まで走ってきて、エミールに触れる直前でハッとしたように両手を止めた。

「大丈夫か? 具合は?」
「えっと……」
「触ってもいいか?」
「はぁ。それは、べつに」

 いまさらなにを聞くのだろうか。ふだんは許可など得ずにぎゅうぎゅう抱きしめてくるくせに。
 不思議に思って首を傾げると、エミールの返事を聞いたクラウスがまるで壊れ物でも扱うかのように、そうっとエミールの手を握ってきた。

「まだ体を起こすなよ。すぐにベルンハルトが来る」
「……? オレ、どうしたんですか?」
「おまえはずっと寝込んでいたんだ」
「……ずっと? なんで? だからこんなに喉が渇いてるんですか?」
「すぐにお持ちします」

 横からスヴェンがそう言って、踵を返した。彼にしては慌ただしい動きだ。いつもはあんなにしずかなのに……。あれ、と引っ掛かりを覚えてエミールはスヴェンの後ろ姿を見つめた。
 スヴェン。スヴェンだ。
 スヴェンが居る!

「スヴェンっ!!」

 侍従の名を、エミールは声を振り絞るようにして呼んだ。スヴェンがぎょっとしたように振り返った。

「スヴェンっ! スヴェン! 待って、行かないで!」
「エル、落ち着け。動くな」

 クラウスに両肩を押さえられ、寝台に縫い留められる。それでもエミールは身を捩って叫んだ。

「スヴェン! オレの身代わりなんてしないでっ!」

 そう言ってから、自分で自分の言葉にハッとする。
 あれ? 自分はいま、なにを言ったのだろう……。

 すこし大声を出しただけで息が切れている。はぁはぁと胸を喘がせながら、エミールは自分を見下ろしてくるクラウスと、呆然としたように立ち尽くすスヴェンに目を向けた。
 クラウスの蒼い瞳が、ひくりと歪んだ。

「エル。動かないでくれ。頼む」

 低い声音が、懇願めいてささやいた。
 エミールは男の方へ寝返りを打とうとして……下腹部の痛みに呻いた。咄嗟に毛布の下でもがくように手を動かし、おのれのお腹を押さえた。
 てのひらに違和感があった。寝間着の下だ。そこがゴワゴワとしている。

 包帯が、巻かれている。
 エミールの腹部に、包帯が。

 あっ、と悲鳴が漏れた。

 記憶が奔流のように流れ込んでくる。
 地下通路。スヴェン。『狼』。夜の森。矢羽根の音。それから…………。
 斜面を滑落する直前に聞いた、クラウスの悲痛な声……。

「エルっ!」

 上に覆いかぶさるようにして、クラウスがエミールを両腕で抱きしめてきた。

「エル、エミール! 落ち着け! 深呼吸をしろ!」

 立て続けに言葉を掛けられる。深呼吸をしなければ。頭のどこかでそう思ったが、息を吐き出すことができない。
 ひっ、ひっ、と喉が詰まった。苦しい。

 突然唇が塞がれた。驚いてクラウスを突き飛ばそうとしたが、男はわずかも離れなかった。クラウスの唇が、エミールのそれをぴたりと塞いでいる。
 息ができない。苦しい。死んでしまう。

「……っふ、はぁっ、はっ、はっ……」
「そうだ。ゆっくり吐け。吐いてから、吸う。エミール。大丈夫だ」

 不自由な呼吸の合間で、クラウスの声が聞こえた。大丈夫だ。大丈夫だ。

 なにも大丈夫なことなどない。
 両目から涙が溢れた。

「……はっ、あ、……ラス、ラス、オレの、赤ちゃん……」

 クラウスの腕の力が強まった。後頭部に差し込まれたてのひらが、震えていた。
 顔に押し当てられているクラウスの首元。そこからかなしみの匂いが漂ってくる。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
 これは夢だ。悪い夢だ。
 現実のエミールはたぶん、まだ、『狼』とあの洞窟に居るのだ。
 寝たら体温が下がります。そう注意を受けていたのに寝てしまったのだ。

 だからこれは……夢の世界で……。

 ズキリ、と下腹部が疼くように痛んだ。

 ザァーと耳の奥で音がしている。これは……血が引いてゆく音だろうか。
 目の前が暗くなった。
 もうダメだ、と思った瞬間、意識が遠くなった。

 次に目を覚ましたら、きっと、あの洞窟に居るはずだ。
 エミールは襲い掛かってくる暗闇に抗うことなくまぶたを閉じた。

「エミール……私のオメガ」

 クラウスの声が鼓膜で滲んだ。
 泣いているような声だなと思った。   
 
    


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