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狼と名もなき墓標

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 エミールの懐妊を告げられたクラウスの喜びようは、エミールの想像以上だった。
 卒倒こそしなかったが、普段は無表情な男が喜色満面となり、エミールにキスの雨を降らせてきた。
 彼は歓喜に瞳を潤ませ、幾度も幾度もエミールの腹を撫でていた。てのひらの感触がひどくやさしかった。

 元々過保護な気質のあったクラウスだが、輪をかけてエミールの体調を気にするようにもなった。暑くはないか寒くはないかつらいところはないか、毎日のように問いかけてきては、エミールの世話を焼く。
 転ぶと危ないという理由で屋敷内を抱っこで運ぶと言い出したときは、エミールは本気で呆れたものだ。

「オレは大丈夫だから、今日も怪我をしないように気をつけて行ってきてくださいね」

 王城へ行きたくないとごねるアルファを抱き寄せて、宥めながら仕事へと送り出す。そんな日々が続いた。

 二か月後には騎士団長のつがいの懐妊が、王城より正式に国民へ向け布告された。
 しかし平穏な生活はそう長くは続かなかった。

 冬の初めのことだった。オシュトローク帝国に不穏な動きあり、とする報告が議会にもたらされた。
 これを受けてクラウスの出立が速やかに決まった。

 いつものように騎士団の黒い制服に身を包んだクラウスが、エミールへとそのことを告げるために一度屋敷へと戻ってきた。
 妊娠がわかってからは、これが初めての遠征だった。

「エル、留守を頼んだ」

 エミールを両腕に閉じ込めて、抱擁しながらクラウスが囁いた。エミールはこくりと頷いたが、どうしようもなくこころ細い気持ちになってしまう。

 彼を任務に送り出すときは、いつも不安だ。
 出立の挨拶もなく伝言だけを残して急行することもあったので、今回はこうして別れを惜しむ時間があるだけマシだった。そのことは嬉しい。それでも、不安だしさびしい。
 けれど、行かないでほしいとは言えない。エミールの騎士は、エミールだけのものではないのだから。

「ラス……気をつけて」
「ああ。おまえも、無理はするな。体を大切にして、つらければすぐにベルンハルトを呼ぶんだ」
「オレは大丈夫ですよ」

 エミールは無理やりに笑ってみせた。でも、唇が変に引きつって、おかしな笑い方になったのだろう。

「……ファルケンを、呼んでもいい」

 苦い声音で、クラウスがこれまで言ったことのないセリフを口にした。エミールは驚いて目を丸くした。

「ルーを? ここに?」

 エミールの家族も同然のファルケンのことを、クラウスはなぜかずっと警戒していて、エミールが娼館に出入りすることもあまりよく思っていなかったのに。

「呼んでいいんですか?」

 半信半疑で尋ねると、眉間にしわを寄せたクラウスが葛藤していることがわかるような仕草で頷いた。

「おまえの気が、休まるなら」

 背に腹は代えられないとばかりに、本当に不承不承の承諾だった。エミールは思わずふきだした。

「ふっ……あははっ! そんな、嫌そうに言わなくても……でも、ありがとうございます。あなたが居ない間は、ファルケンに気分転換に付き合ってもらいますね」
「毎日はダメだ。二日……いや、三日……五日に一度なら」
「ラスが早く帰ってくれば、その分ファルケンがここに来る回数も減るよ」
「うむ……そうだな。そうだな」

 クラウスが真剣な表情で繰り返し、エミールの頬にキスを落とした。

「早く戻れるよう努める」
「……やっぱり急がなくていい」
「エル」
「無事に戻ってきてくれたら、それでいいです。だから、怪我はしないで」
「充分気をつける」
「うん。あなたの帰りを待ってます。……この子と、一緒に」

 エミールがおのれの下腹部に手を置くと、その上からクラウスの大きなてのひらが重なった。
 時間が止まればいいのに、とエミールは思った。
 このまま時間が止まれば、クラウスはどこへも行かなくてすむのに。

 しかし控えめなノックの音が、エミールの願いを打ち砕いた。
 クラウスがもう一度深い抱擁をしてくる。男の背に、エミールもしっかりと腕を回した。

「行ってくる」

 別れの言葉とともに、唇が合わさった。泣いてしまいそうだ。エミールは奥歯を噛みしめて、嗚咽を堪えた。
 クラウスの方から、キスがほどかれた。
 片マントペリースが揺れる。
 蒼い瞳が、エミールを映して苦渋に細まった。行かないで、と言いたがる口をエミールは強引に別の形に変えた。

「行ってらっしゃい、オレの騎士」

 小さく手を振ったら、クラウスも振り返してくれた。
 絶対に泣いてしまうから、外まで見送りには出なかった。  
  





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