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狼と名もなき墓標

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 エミールがおのれの妊娠に気づいたのは、国民への布告がなされるふた月前のことである。つまり、アマーリエの懐妊が世に報された時期だ。

「マリウスときたら、毎日毎日他のアルファの匂いをつけて帰ってきますのよ! すこしは私に気を遣ってくれてもいいのに!」

 ふくれっ面でマリウスに対する愚痴を垂れ流すアマーリエに、エミールはうんざりと溜め息をついた。

「アマル……毎日毎日同じことを言いにわざわざうちに来るのをやめろよ」
「まぁ! なんて友達甲斐のないエルなの!」
「エルって呼ぶなってば。クラウス様に怒られますよ」
「あら、いまここには私とあなたしか居ないじゃない。つまりわたくしを怒る人間は居りませんのよ」

 つん、とそっぽを向いたアマーリエは、次の瞬間口元を押さえ、「気持ち悪いですわ……」と嘆いた。
 つわり症状で吐き気を覚える友人の背を、エミールはそっと撫でながら、昨日も言ったことを口にする。

「だからしんどいにわざわざこっちに来なくても、オレがそっちに行くってば」

 妊娠がわかってからもアマーリエは毎日のようにクラウスの屋敷に遊びに来ていて、そのたびにエミールはハラハラしてしまう。しかし当のアマーリエは、エドゥルフに続く二度目の妊娠で勝手がわかっているのか、
「あなたのところが、散歩がてらに遊びに来るのにちょうどいいんですのよ」
 と言って明るい笑みを見せた。
 たぶん、王城ではあまり気が休まらないのだ。
 彼女のつがいであるマリウスは次期国王として、各国の要人と会談をする機会が多い。どこの国でもそうだが、国の中枢に近いほどアルファが多くなる。それはアルファがあらゆる能力に秀でたバース性だからだ。
 だからマリウスが対面する首脳陣はアルファが多く、それはサーリークも同じで、宰相や大臣らにもアルファが幾人か登用されている。

 エミールは知らなかったのだが、妊娠中のオメガはつがい以外のアルファの匂いを受け付けなくなることもあるそうだ。アマーリエはそれが覿面てきめんに現われ、マリウスが他のアルファの匂いをつけて部屋に戻ってくるたびに吐き気を覚えて、それで喧嘩になるのだという。

 マリウス以外のアルファの匂いがダメだというなら、この屋敷なんてクラウスの匂いがべったりくっついているだろうに、それに関してアマーリエは、
「兄弟だからかしら。クラウスの匂いはまだマシだわ」
 と言っていた。

 クラウスとマリウス。二人の匂いが似ているとはエミールは思わないのだが、嗅覚が敏感になったアマーリエには、どことなく似たように感じるのかもしれなかった。

「でもさぁ、来るたびにそんだけしんどそうにされたら……見てるオレまでしんどくなってくる」

 嘔気に背を震わせるアマーリエ。病気ではないと知っていてもつらそうで、それを間近で見ているとエミールまで調子が悪くなってきそうだった。
 改めて、子どもを身籠るということの偉大さを感じる。

 アマーリエの華奢な背をよしよしと撫でていたら、ふと、彼女からマリウスの匂いが漂ってきた。たぶん、ここに来る直前にハグでもしてもらったのだろう。
 クラウスの匂いと似てるかなぁ? と首を傾げながらもっとよく嗅ごうとしたら、なぜか急に胸がむかむかしてきた。
 あれ? と困惑しながら口元を押さえる。

「エミール?」

 アマーリエが不思議そうにこちらを窺ってくる。紅茶の支度をしていたスヴェンも手を止めて、エミールの方へ視線を向けてきた。
 なんでもない、と首を横に振ったら、途端に目が回るような感覚がした。
 ぐ、と喉元にせりあがってくるものがある。それを慌てて飲み下し、
「ちょっとごめん」
 エミールは立ち上がった。

 気持ち悪い。吐きそうだ。
 なんとか洗面所へと駆け込んで、うぇ、と肩を喘がせる。
 アマーリエのつわりを見て、本当に気分が悪くなってしまったのだろうか。自分にそんな繊細な神経があるとは思えなかったが、こみ上げる吐き気は本物で、エミールはしばらく洗面所から動くことができなかった。

 やがてようやく嘔気の波がおさまり、エミールはうがいをして顔を洗ってから居間へと戻ろうとした……ところで洗面所の前でスヴェンとアマーリエが待機しているのを見て足を止めた。

「なに?」
「エミール、あなた……」
「エミール様、すぐに医師を」
「もう治まったから大丈夫。なんだろ、急に吐き気がして。アマル、もしも風邪だったら移ったら悪いから、今日は帰っ、」
「エミール! まぁ! まぁ! スヴェン、早く!」
「直ちに」
「いやだからもうだいじょうぶ、」

 エミールの言葉が終わらない内に二人がなぜか興奮したように顔を見合わせ、スヴェンが風のようにどこかへ走って行ってしまった。
 エミールはアマーリエに腕を引かれて、ソファへと戻される。

「アマル、だから今日はもう帰ってって」
「大丈夫ですわ。いいからほら、お座りなさい」
「大丈夫はオレのセリフだって。アマル、ほんとに移ったら危ないから」

 自分が風邪をひいていたとしたら、妊婦のアマーリエに移っては大変だ。だから早く帰るようにと再三促したのに、未来の王妃は平然とした態度で居座り続けた。

 やがて戻ってきたスヴェンは、ベルンハルトという老医師を伴っていた。
 片眼鏡モノクルが特徴的な医師は、どうやら無理やりスヴェンの馬の後ろに乗せられたようで、よろよろとした足取りになっていた。

「だ、大丈夫ですか?」

 どちらが病人かわからない様子のベルンハルトに恐る恐る問いかけると、彼は「ほっほ」と小さく笑ってエミールの手を取った。
 脈拍を確かめ、口腔内や喉の腫れなども確認し、体温も計って、足にむくみが出ていないかや食事はなにを食べたかなどの問診が始まった。
 一通りの診察を受け、最後に採血と採尿をされた。

 ベルンハルトが簡易の試薬を使い、その場でできる検査を粛々と行った。
 やがて片眼鏡モノクルの奥の瞳をやわらかく細めた老医師は、エミールとアマーリエに向かってひとつ、頷いた。

「詳細な検査は王城へ戻ってからとなりますが、ひとまずは、この私めの所見を」

 アマーリエがエミールの手をぎゅうっと握ってきた。
 なにか悪い診断なのかとエミールは一瞬疑ったが、アマーリエの顔には喜色が浮かんでいて、余計に困惑した。
 自分はなにを言われるのだろうか。

 身構えるエミールへと、ベルンハルトがおっとり切り出した。

「おめでとうございます、ご懐妊です」
「はぁ……」

 なにを言われたかよくわからなかった。
 懐妊? アマーリエが妊娠していることはとっくに知っているのに、なぜいま改めて告げられたのだろう?
 首を傾げるエミールのひたいを、アマーリエが小突いた。

「もう! 鈍いエルですこと! ベンはあなたのことを言ってますのよ!」
「え?」

 エミールはぎょっとして肩を引いた。

「オレ?」

 まさか。

「オレ、男だけど」
「もう! あなたはオメガでしょう!」

 そうだ。エミールはオメガだ。
 オメガは男女問わず子を成すことができる生き物だ。
 壊れた糸車のように、思考がカタカタとぎこちなく回る。
 オメガは、男でも、妊娠が可能なのだ。

「えっ? オレっ?」
「そうですわ」
「懐妊って、オレの話?」
「だから、そうですわよ!」

 おめでとうございます、とスヴェンが頭を下げている。ベルンハルトは「ほっほ」と笑って、
「それでは詳細な検査をしてきましょうかなぁ」
 と採取したエミールの血液と尿をケースに仕舞って腰を上げた。
 スヴェンがすかさずドアを開き、送ります、と老医師へ声をかける。ベルンハルトは帰りは馬車にしてくれとスヴェンへ訴えながら、部屋を出ていった。

 残されたエミールは呆然と、アマーリエを見つめていた。
 アマーリエはにこりと微笑すると、エミールのひたいに自身のそれをコツンと当てた。

「おめでとう、エミール。わたくしの親友」
「アマル……まさか、オレ……」
「クラウスが聞いたら歓喜のあまり卒倒するんじゃないかしら」

 うふふ、と鈴のように笑う彼女が、エミールの髪をやさしく撫でた。

「わたくしの子が、あなたよりもすこし早くに生まれますわね。楽しみですわ」
「アマル……」
「いつまでぼうっとしてますの。エミール。わたくしと一緒に頑張りましょうね」
  
 アマーリエの言葉に、エミールは夢心地で頷いた。
 両手は、無意識に下腹部の上に置かれていた。
 
 ここに。
 ここに、クラウスとの子どもが入っている。
 
 オメガの特性などは知識として得ていたが、自分に赤ちゃんができるとはなぜか一度も想像したことがなかった。
 ご懐妊です、と告げられたいまも、まだ現実とは思えない。
 クラウスはなんと言うだろうか。
 喜んでくれるだろうか。
 ここに子どもがいると告げたときのつがいの反応を思い浮かべてみると、そこには笑顔しかなくて、エミールは早くクラウスに会いたくなって、胸を熱くした。



 
 
    
  
 
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