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(番外編)ともに、歩く。

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 聞こえてくる女の声は幻聴だ。
 かつて、ほんの子どもの頃に聞いた言葉。
 あれはリヒトの母親だったのだろうか。
 よくわからない。

 目が見えにくい。
 耳だって遠い。
 だからわからない。
 
 リヒトは胸をわななかせるようにして息を吸った。
 呼吸がうまくできていない。
 はふ、はふ、と浅く乱れている。

 違う、違う、と首を振った。

 目は見える。
 耳は聞こえる。
 匂いだってわかるし、味も、皮膚感覚だってちゃんとわかるようになった。
 ユリウスやシモンが、治してくれたから。
 だからリヒトはもう『ハーゼ』じゃない。
 過去の部屋を歩いたからと言って、『ハーゼ』に戻るわけじゃない。
 
 きみは被害者だ。

 力強い声が落ちてきた。
 リヒトは顔を上げた。

 暗い部屋に、ランプの炎。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 仄かな橙に照らされた向こうの壁に、扉が見えている。

 そこから、その向こうから、匂いがする。
 唯一無二の。他の誰とも違う。この世で一番好きな匂いが。

「……ゆぅりさまぁ」

 うぇぇ、と泣き声を漏らして、リヒトはユリウスの名を喉奥から絞り出した。

 あの扉を開けたら、ユリウスが居る。それがわかる。
 だからリヒトは、立ち上がらなければならなかった。

 両手を床につき、萎えた足を動かす。
 足底に体重を乗せ、腰を浮かせる。
 それだけの動作が上手くできなくて、焦れば焦るほど息が吸えなくなる。

 気づけば耳の横にあった花飾りが落ちていた。
 テオバルドがきちんと着せてくれた服も、きっとしわが寄ってしまっている。
 この日のために、きれいにしてくれたのに。

 どうしよう。どうすればいいのだろう。
 過去の部屋から出て、ユリウスの元へ行きたいのに。

「……う、うごいて、あし」

 震えて仕方ない手で、太ももを撫でて、自分に話しかける。

 息が苦しい。
 それでも立ち上がって、早くユリウスのところへ行かなければ。

 大粒の涙をこぼしながら、頑張って息を吸い込んだときだった。

 バタン! と奥の扉が向こう側から開かれた。
 眩しい光があっという間に部屋を飲み込んだ。

「リヒトっ!」

 真っ白な衣装を着たユリウスが、靴音を響かせて一足飛びに走り寄ってくる。

「リヒト、どうしたの。転んだ? 大丈夫?」

 両膝をついたまま茫然とするリヒトの前に、ユリウスも片膝をついてしゃがみ込んだ。
 あたたかな両手がリヒトの頬を包み、涙がやさしく拭われた。

 金色の髪が、背後からの光を受けて輝いている。

「急にきみの匂いが変わったから驚いて、我慢できずに来ちゃった」

 ユリウスがきれいな笑みを浮かべて、ひたいをコツンと合わせてきた。
 その首筋から、華やかに甘い、ユリウスの誘発香が香ってくる。そのいつもの匂いに、すこしひりりとしたものが混じっていた。
 それは、リヒトを案じるユリウスの、心配の匂いだ。

「……ゆぅりさま」
「うん、僕だよ。僕のオメガ」

 ちゅ、と唇を啄まれた。
 ユリウスは落ちていた青と白の花の髪飾りを拾い上げ、軽く払ってからリヒトの髪をさらりと掻き分けて、そこに刺し込んだ。
 
「そうか。石造りで暗い部屋は、怖かったね」

 なんでわかるのだろう。
 リヒトの不安が。恐れが。
 なぜ、このひとにはぜんぶわかってしまうのだろう。

 ひとりみじめにうずくまり、動けなくなっていたリヒトを、ユリウスが宝物のように抱きしめて。

「それでも頑張って歩いてくれたんだね、僕のオメガ」

 三十三歩をまともに歩ききることのできなかったリヒトを怒るでもなく、やさしい声で囁いて。
 新緑色の瞳にリヒトの視線をしっかりと捉えて、もう一度唇を重ねてきた。

「リヒト。僕を見ていて。他は見なくていいよ」

 言われるまでもなく、リヒトの目にはユリウスしか映っていなかった。
 あんなに暗かった部屋に、光が満ちている。

 ユリウスは両腕で揺らぎなくリヒトを抱き上げた。
 そのまま、コツコツと靴音を響かせて、ユリウスは二の扉まで歩数を数えることはせずに歩いた。
 開け放たれていた扉の向こうは、やはり明るかった。

「リヒト、二の扉からは現在だよ」

 ユリウスに教えられ、リヒトはこくりと頷きながら、まだ震えている手をユリウスの背に回して首筋に鼻先を埋めた。

 ユリウスの存在をなによりも鮮烈に教えてくる、アルファの香り。
 その匂いを吸い込んで、ようやく呼吸が楽になってきた。

 ユリウスの背後で、過去の扉が閉じる。
 ユリウスの双眸は、しっかりと前を向いていた。
 部屋の奥には、三の扉がある。

 ユリウスが右足を出した。そこに左足を並べる。
 次は左足を前に。そして右足を並べる。
 先ほどリヒトもした歩き方で、靴音ですら優雅に響かせながら、リヒトを抱っこしたままでユリウスが歩く。

 一歩歩くごとに、視線が合う。
 その度に新緑色の瞳はやわらかく細まり、リヒトの内側からは恐怖がなくなっていった。

 すごい……とリヒトは思う。

 ユーリ様はすごい。
 過去の世界に飛び込んできて、僕をたすけてくれた。
 歩けなくなった僕を抱っこして、『現在』の世界に連れてきてくれた。

「また……」
「ん?」
「また、ユーリ様が魔法を使いました」

 ポツリと呟いたら、ユリウスが「ええ?」と首を傾げて笑った。
 その笑顔が好きで好きで、どうしようもなくて、リヒトはユリウスの頬にキスをした。
 そうしてから、ユリウスはいま歩数を数えているところだったと思い出す。

「ご、ごめんさいっ。僕、ユーリ様の邪魔を、」
「なにも邪魔じゃないよ、リヒト。一歩歩くごとにきみがキスをしてくれたら、僕にはそれがご褒美になる」

 そう答えたユリウスが、次の一歩を進んでから本当にリヒトのキスを待つ仕草をしたから、リヒトは思わずうふふと笑ってしまった。
  






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