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リヒト⑮

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 哺乳瓶?
 哺乳瓶って、ユーリ様が欲しがってた哺乳瓶のことかしら。

「哺乳瓶を吸ってたリヒトの愛らしいこと! それを記憶と一緒に残しておきたいと思うのは当然のことじゃないか! 奪われたのは哺乳瓶だけじゃないよ、リヒト。リヒトの使ったおむつだって、そんなものを残してたら不衛生ですとか言ってグレタに捨てられたんだ! ひどいと思わない?」

 ねぇリヒト、と話を振られて、僕はつい頷いてしまった。

「グレタに捨てられたものはまだまだあるんだ。王城で保管してた、きみが初めて食べたパンとか半分齧った林檎とかも、ちゃんと防腐加工してたのに、あんなもの置いておいたらネズミが来ますとか言ってグレタは平気な顔で捨てたんだよ? 信じられる? しかもスプーンやフォークもきれいに洗われたんだ! これはもはや暴挙だよ。せっかく僕がリヒトの匂いのついたものを大事に大事に保管してたのに! 汚れたものをそのまま仕舞ってはいけませんとか言って、グレタが! だから僕は保管室には鍵をかけるようにして、この屋敷を改装したときには真っ先にこの部屋を作ったんだ。もうグレタに強奪されないように! 僕にしかわからない鍵をつけてね」

 ユーリ様が興奮されたように早口で話された。

 途中でテオさんが、
「俺の主人やべぇな」
 と呟いたけれど、それはユーリ様には聞こえなかったようだった。
 ロンバードさんが、顎をさすって頷いた。

「それはグレタさんが正しいっすわ」
「おまえはグレタの味方か、ロンバード。それならいまこの瞬間から僕の敵だ」

 ユーリ様が鋭い眼差しでロンバードさんを睨んだ。ロンバードさんはまったく怖がる様子もなく、ひょいと肩を竦めた。
 それから急に僕の方を見て、
「というわけみたいですよ」
 そう言って、片頬で笑った。

「……え?」
「殿下の頭の中は、あなたでいっぱいのようですが、まだ心配事がありますかね?」

 そう問われて僕は、ユーリ様を見上げた。
 ユーリ様の新緑色の瞳も、僕を映している。

 この部屋に、僕以外のオメガは居なかった。

 ユーリ様にくっついてた匂いは、僕自身の匂いだった。

 ユーリ様やロンバードさんたちの会話を聞いていたら、それが嘘じゃないことはわかった。

 でも、そしたら……。

「ゆぅりさま」
「ん?」
「そうしたらユーリ様はこの部屋で、なにをしてたのでしょう?」

 夜中にベッドを抜け出して、僕に内緒で、この部屋でなにをされてたのだろう。
 なにをすれば、こんなに濃く、ユーリ様の匂いが残るのだろうか。

 首を傾げながら問いかけたら、突然ユーリ様が咳込んで、ロンバードさんが大声で笑いだした。
 テオさんは……と思い見てみれば、テオさんは頭を抱えてなにごとかを呟いた。「この不思議ちゃんめ」と唇が動いた気がしたけど、僕の見間違いかもしれない。
 
 んんっと咳払いをしたユーリ様が、困ったように眉を寄せた。
 それからロンバードさんたちの方を見て、手をひと振りした。

 ロンバードさんが笑いながら、
「了解しました、退散します」
 と言って頭を下げた。

 テオさんが口の中で、
「面白いトコなのに~」
 とぼやいた。今度はちゃんと声に出ていたので、ユーリ様の耳にもしっかり届いたみたい。ユーリ様が突然僕の目をてのひらで塞いできた。
 急に暗くなった視界にびっくりしていると、テオさんの「ひぇっ!」という悲鳴が聞こえてきた。

「ユリウス様、その目をやめてくださいよ~。怖いんですってその冷たい眼差しは」
「僕を怒らせるようなことを言うおまえが悪い」
「まぁまぁ。せがれには俺が言って聞かせるんで」
「おまえの説教が一番信用ならない。どうせこの僕の醜態を酒の肴にでもするつもりだろう」
「くははっ! そりゃあしない手はないでしょう。テオ、行くぞ」

 ロンバードさんがテオさんを促す声がして、そこで僕の目隠しも外れた。
 テオさんが、ユーリ様のお顔が怖いって言ったから、どんなお顔をしているのか気になったけど、ユーリ様はいつものきれいなお顔で僕を見て、やわらかく微笑まれた。

「それじゃ、失礼しますよ。あ、リヒト様」
「は、はいっ」
「あなた以外のオメガなんぞ居なかった。これで大丈夫ですね?」

 ロンバードさんの茶色い瞳が真っ直ぐに僕に向けられた。テオさんに似てるのに、テオさんよりも迫力がある。
 その目に押されて、僕はこくりと頷いた。

「そりゃ良かった」

 ロンバードさんが顔全体で笑って、テオさんの腕を掴んで部屋を出て行こうとする。そこにユーリ様のお声がかかった。

「待て」
「へいへい」
「地下の貯蔵庫から好きな葡萄酒を持って行っていい。夜に呼び出したお詫びだ」
「さすが。気前がいいっすね」
「僕を肴に、好きなだけ飲むがいいさ」

 ふん、と鼻を鳴らしたユーリ様に、ロンバードさんがまた豪快な笑い声を聞かせた。
 そのままテオさんと一緒に二人が部屋を出て行ったので、僕はユーリ様と二人きりになる。

 ユーリ様はしばらく決まり悪そうに視線をうろうろさせていた。
 僕はなにかいけないことを聞いてしまったのだろうか。

「あ~。えっとね、リヒト」
「はい」
「さっきのこと、覚えてる?」
「さっき?」
「寝室でのこと。僕がリヒトのここを触って、大人の男になった証の話をしただろう?」

 それは、ユーリ様がベッドで教えてくれたことだ。
 おしっこじゃなくて、精液が出ることだと言われた。

「えっと……しゃせい、です。覚えてます」
「うっ」

 ユーリ様が両手で顔を覆った。なんだろう。なにかおかしかったかな。

「違いましたか?」

 不安になってそう尋ねれば、ユーリ様が合ってるよと言ってくれた。

「合ってるけど……そういう言葉をリヒトの口から聞くとちょっと……」

 ちょっと、なんだろう?
 よくわからなくて首を傾げたら、ユーリ様の両腕が伸びてきて、僕をひょいと抱っこしてくれた。
 目線がユーリ様のお顔と近くなる。
 新緑色の瞳がゆっくりとまばたきをして、ユーリ様がほろりとした苦笑いをこぼした。

「リヒト、僕はね」
「はい」
「リヒトの匂いを嗅ぐたびに、きみの言う……性的欲求を覚えていてね」
「せいてきよっきゅう」
「そう。アマル殿に聞いたんだろう? あのひとはなんて言ってた?」

 ユーリ様は僕を抱っこしたまま、カウチソファに座った。
 僕はユーリ様の膝の上で、ぴったりとユーリ様にくっついたまま答えた。

「アマル様は、誰にでもある欲求だと言ってました」
「うん、そうだね。誰もが持つ生理的な欲求だ。でも僕はアルファでリヒトはオメガだから、僕はきみの匂いで……なんていうのかなぁ、どうしようもない状態になっちゃうんだ」

 どうしようもない状態。
 それはどんなものだろうか。僕が首を傾げたら、ユーリ様が、
「自分ではぜんぜん我慢ができない状態だよ」
 と教えてくれた。

 僕は前に聞いたシモンさんの言葉を思い出していた。

(発情期というのは生理現象です。お腹が空いたらぐぅと腹が鳴る、それと同じですなぁ。鳴るな鳴るなと思っても、鳴る。自分の意思でどうこうできるものではないのですよ)

 ユーリ様が仰っているのはたぶん、そういうことなのだろう。

「ユーリ様は僕の匂いで、お腹が空いたときみたいになるってことですか?」

 僕がそう尋ねたら、ユーリ様の目が丸くなって、それから僕の頭に軽く頬ずりをしてきた。

「う~ん、そうかなぁ。そうかもね。僕はお腹がペコペコで、リヒトを食べたいって思ってる」
「食べてもいいです」

 反射的に、僕はそう答えていた。

「ユーリ様は僕を、食べていいです」

 だって、僕のすべてはユーリ様のものだから。

「ありがとう、リヒト。でも食べるって言っても、頭からきみをむしゃむしゃ齧るわけじゃないんだよ。僕はきみを抱きたいんだ」
「抱っこですか?」
「ううん。抱っこじゃなくて……きみの言葉を借りるなら、僕はリヒトとひとつになりたい。でもきみにひどいことをしたくない」
「ひとつになるのは、ひどいことですか?」

 僕とユーリ様がひとつになる、なんて。すごくすてきなことのように思えるのに、ユーリ様はすこし苦しそうに笑った。

「ひどいことじゃないよ。愛の行為だ。でもきみの体はまだ、僕を受け入れる準備ができてない」
「準備はどうやりますか? 僕、準備します」
「リヒト~」

 ユーリ様がぐりぐりとひたいを押し付けてきた。金色の髪が鼻先で揺れてくすぐったい。

「可愛いきみに、無理をさせたくない。でも僕はきみの匂いでいつも理性が切れそうになるんだ。だからこの部屋で、自分で自分を慰めてたんだよ」

 自分で自分を慰める。それはどうするんだろうか?
 僕が泣いたとき、ユーリ様はいつも頭をよしよしと撫でてくれて、顔中にキスをしてくれるのだけど。

「さっき、ベッドで僕は、きみのここに触っただろう?」

 ここ、とユーリ様が僕の股間を軽く抑えた。
 その仕草で僕のおちんちんは、さっきのユーリ様の口の中の熱さを思い出して、じんと痺れたみたいになった。

「気持ちよかった?」

 問われて、曖昧に頷く。

「たぶん、気持ちよかったです」
「たぶんかぁ」

 ユーリ様が笑って、僕の目元にキスをくれた。

「リヒトが射精したみたいにね、僕も自分のこれをこすって精液を出してたんだ。この部屋はきみの匂いで溢れてるから、きみのことを考えながら、きみの匂いに包まれて、自慰をしてたんだよ」

 耳元で響くユーリ様のお声。
 それが僕のお腹の奥に満ちて、じわりと広がった。

 告げられた言葉の意味は、正直ぜんぶわかったわけではなかった。
 でもユーリ様がこの部屋で、僕のことを考えてくれていたことは伝わってきた。

 他のオメガじゃなくて。
 僕のことだけを。

 どうしよう。
 嬉しい。

 ユーリ様が僕の匂いでお腹が空いたみたいになって、僕とひとつになりたいと思ってくれていて、でも僕の準備ができていないから、おひとりでここで射精をしていたって。
 僕の匂いに包まれて、僕のことを考えながら!

 嬉しさに頬がぽっぽと火照ってきた。
 僕はユーリ様にぎゅうっと抱きついて、ユーリ様の匂いを嗅いだ。
 抑制剤っていうもののせいで、匂いが薄くなってしまっている。それがさびしくて、鼻をユーリ様の首筋に押し付けた。

「ゆぅりさま」
「ん?」
「僕、これからはユーリ様のおちんちん舐めます」

 ぎゅっと握りこぶしを作って僕がそう宣言すると、ユーリ様がゴホっとむせた。
 あんまり派手に咳込まれたから僕はびっくりしてユーリ様の背中を叩いた。

「大丈夫ですかっ?」
「だ、だい、じょうぶ、だけど……なんでそんな話にっ?」
「だって、しゃせいは、舐めてするんですよね? 自分で舐めるのは難しいです。体が痛くなります」
「違う違う違うっ! ええ~、どうしようかこの子は」

 ユーリ様がう~んと頭を抱えてしまった。
 僕、またなにか間違えたみたい。
 でもユーリ様は僕のおちんちんを舐めて射精させてくれたから、僕もユーリ様のを舐めたらいいんじゃなかと思ったのだけど。

 ユーリ様がすごく難しいお顔になってしまったから、きっと的外れなことを言ってしまったのだろう。

 僕にできることはないって突き付けられた気分になって、僕はすこししょんぼりしてしまった。





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