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リヒト⑫

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「……リヒト、僕の匂いがわかるの?」

 ユーリ様が震える声で仰った。
 僕は、まだなんだか動きにくい両腕を伸ばして、ユーリ様の体にしがみついた。

 鼻先に、たとえようもないほどの香りが漂っていた。

 僕の鼻は、これまでほとんど仕事をしていなかったのだと改めて思う。
 だって、こんな香りを、こんなにもいい香りを感じることができていなかったのだから。

「僕、僕、もう間違えません。ユーリ様と、他のひとを、間違えたりしません」

 前に温室で、金髪のひとをユーリ様と間違えてしまったことがあった。
 あのときは五感が弱くて、僕が間違えたことをユーリ様は怒ったりしなかったけれど。
 あれから僕は目が見えて、耳がしっかりと聞こえるようになって、ユーリ様のお顔や声が他のひとと見分けがつくようになって。
 でもそのとき以上に、いま、匂いがわかるようになって、ユーリ様の存在が僕の中でますますくっきりと刻まれたから。

「目隠しされても、ちゃんとわかります。僕、ユーリ様がわかります。もう絶対に間違えません」

 僕はべそべそと泣きながら、ユーリ様に力いっぱい抱きついた。

「リヒト! 僕のオメガ」

 ユーリ様がぎゅうっと僕を抱きしめ返してくれて、僕はまたユーリ様の匂いにくらりとした。

 ああ、目が回る。
 ユーリ様の匂いが僕を包んでる。
 それがしあわせで、しあわせすぎて、目眩がしている。

「まだそのことを気にしていたの。リヒト、いいんだよ。間違えたっていいんだ。僕が、僕の方がちゃんときみを見つけるから」
「いやです。ゆぅりさまを、まちがえたくないです」

 お顔が見たい。
 お声が聞きたい。
 ユーリ様の温もりがわかるようになりたい。
 ユーリ様の匂いを嗅ぎたい。

 どうしよう。
 気づいてみれば僕の願いは、もうぜんぶ叶っている。

 ユーリ様の魔法が、僕をこんなにも満たしてくれている。

 うぇぇ、と僕は声を上げて泣いた。
 泣きすぎて、息が苦しかった。僕がはふはふと呼吸をしていたら、ユーリ様の手が背中をゆっくり撫でてくれた。

「殿下、リヒト様」

 横から、おっとりとした声が掛かった。頬を押し付けていたユーリ様の首筋から顔を上げてそちらを見ると、シモンさんがニコニコと笑っていた。

「嗅覚が治って、ようございましたなぁ」

 やわらかにそう告げられて、僕は鼻を啜りながらお礼を言った。

「シモンさん、ありがとうございました」
「いいえ。私はなにも。リヒト様が頑張って秘密ごとを打ち明けた結果にございます」

 シモンさんは首を横に振ってそう言ってくれたけど、でもやっぱりシモンさんのお陰だと思う。
 シモンさんに背中を押されなければ、僕は、ハーゼのことをユーリ様に告げることはできなかっただろうから。

 泣き続ける僕に、シモンさんが「ほっほ」と笑い、
「殿下。嗅覚と味覚は、互いに密接に結びついております」
 と続けた。

 ユーリ様がハッとしたようにシモンさんを見て、それから壁際に立つロンバードさんの方へ視線を向けた。

「ロンバード」
「はいはい了解しましたっと」

 ユーリ様はまだなにも言ってないのに、ロンバードさんはささっと部屋から出て行った。
 その隣に居たテオさんが、僕の方へ白いハンカチを差しだしてくる。

 なんだろう。どうしたらいいのかな。
 まごついた僕に、テオさんが、
「お顔を」
 と小さく囁いた。

 僕はあっと思っててのひらで顔を押さえた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。慌ててユーリ様の肩を見たら、そこもびしょびしょに濡れていて、僕は急いでテオさんからハンカチを受け取り、ユーリ様の服を拭いた。

「ご、ごめんなさい」
「リヒト。僕の服はいくら濡らしてもいいから、自分の顔を拭いて。こすっちゃダメだよ……ああいいや。僕がする」

 ユーリ様が僕の手からハンカチを取り上げて、膝の上に僕を抱きなおした。
 ハンカチがやさしく目元に押し当てられた。
 五感が弱かった頃のように顔を拭われて、嬉しいような気恥しいような気持ちになる。

「リヒト、鼻をかんで」

 促されて、ユーリ様が鼻に当ててくれたハンカチでチンと鼻をかんだ。

「上手だね、僕のオメガ」

 ひたいにキスが落ちてきたのと同時に、ロンバードさんが戻ってきた。その大きな手に持っているのは、水差しとグラスだ。いつも僕が飲んでいる、料理長さんが作ってくれる、特製ドリンクだろう。

 今日は薄桃色をしているそれを、グラスに注いで。ロンバードさんがユーリ様に差し出した。

「リヒト、飲める?」

 ユーリ様に問われて、僕はこくりと頷いた。泣きすぎて喉が渇いていた。
 僕の口元に、ユーリ様がグラスを運んでくれる。
 僕はそれを、ひと口、ふた口と飲んだ。

 朝食の時にはいつものように味はほとんどなかったそれが。
 いまは。
 驚くほどに、甘くてからい味がした。

 僕は目を真ん丸に見開いて、グラスとユーリ様を交互に見てしまう。
 僕のそんな仕草を、ユーリ様がひたと見つめて、問いかけてきた。

「どう? リヒト」
「……味がします」
「ははっ!」

 ユーリ様が弾けるように笑った。
 その眩しいような笑顔と一緒に、ユーリ様の匂いが香ってくる。とっても華やかな香りだ。僕は匂いの種類をよく知らないから、どう表現していいかわからないけれど、この薄桃色の飲み物とはまた違うほのかな甘いさもある匂いだった。

 ユーリ様が僕の飲みかけの特性ドリンクに、口をつけた。

「リヒト、どんな味がする?」
「……えっと、たぶん、甘くて、すこしからいです」
「からい? ああ……リヒト、それは塩辛いんだ。この飲み物はイチゴの甘さだから、塩辛いのはきみの涙の味だね」

 そう話したユーリ様が僕の目元にちゅっとキスをして、
「うん、しょっぱい」
 とまた笑った。新緑色の瞳が、僕を映してキラキラ光っている。

 前に馬車でお出かけをしたとき、揺れで酔ってしまったことがあるけれど、いまも僕の脳はなんだかくらくらと揺れていて、まるでユーリ様に酔ってしまったかのよう。

 しあわせすぎて目が回る……と思っていたら、横からシモンさんが、
「ちょっと失礼いたしますよ」
 と言って僕のひたいと首筋に手を当ててきた。

「あれま」
 シモンさんが呟いて。
「殿下。リヒト様はお熱がありますなぁ」
 のんびりとそう続けた。

「ええっ?」

 ユーリ様が慌てたように僕のおでこにコツンとひたいを合わせてくる。

「本当だ。リヒト、いつから具合が悪かったの? さっき気を失ったのも気になるな。シモン、検査を」
「殿下。恐らくリヒト様は初めて嗅ぐ殿下の匂いに酔ってしまわれたのでしょう」
「ひとをアルコールみたいに言うな。そんな話聞いたことがない」

 アルファの匂いに酔うオメガなんて、と言われて僕は恥ずかしくなったけど、ユーリ様は、
「なにか重篤な病じゃないのか」
 匂いに酔ったのじゃなくて、僕が病気なんじゃないかと気にかけてくださったようだった。

 シモンさんが詰め寄ってくるユーリ様を宥めている。
 その声を聞きながら僕は、ぐるぐる回る視界に耐え切れずに目を閉じた。

「殿下、通常はバース性に関わりなく、様々な匂いの中で育ちます。食事の匂い、自然の匂い、ひとの生活臭や体臭、そういったものの中のひとつに、アルファの誘発香やオメガの誘惑香がございます。リヒト様はその土台がひどく乏しい。そんな中、突然殿下の……王族であるアルファの香りを、間近で味わったのです。それは熱も出ましょうし、目眩だって起こりましょうなぁ」

 シモンさんの話し方は、ゆっくりと、ゆったりとしていて。
 僕は次第に眠くなってきた。

 ロンバードさんの笑い声が響いた。

「さすがです、ユリウス殿下。あんたの愛はどこまで濃いんでしょうね」
「ロンバード。いい口の利き方だな」
「だって……くっ、くははっ」
「テオ。そこの男を不敬罪で捕らえておけ」

 ユーリ様のご指示に、テオさんが。
「え? え? ええっ?」
 とうろたえきった声をあげたところで、僕の意識は途切れた。

 鼻先にはずっと、ユーリ様の香りが漂っていて。
 ああ、しあわせだなぁと僕は思った。
 
 
 
 
 
 
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