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変化

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 ユリウスは不機嫌だった。

 崇めたくなるほど整ったその顔で冷たく見下ろされ、テオバルドが怯えながら地面にぬかづいた。
 憐れな息子の姿を見ていられず、ロンバードがあるじを諫めにかかる。

「殿下、あんたそりゃあんまり理不尽でしょうよ。うちのせがれがわざわざ飛んできたのはあんたに報告をするためであって、あんたの氷の眼差しを浴びにきたわけじゃないんですから」

 父の援護を受けて、テオバルドがなんども頷いた。ユリウスは小さく鼻を鳴らし、ひたいにかかる髪を軽く掻きあげる。

「当たり前だ。僕に睨まれにきたのだとしたら、テオの性癖を疑う」
「俺にそんな被虐趣味はないですよぉぉぉ」

 悲壮感を語尾に漂わせ、テオバルドがもう一度頭を下げた。

「リヒト様に触覚が戻る瞬間を、俺なんかが見てしまいすいませんでした!!」

 そう、ユリウスのしずかなる怒りはその一点に向けられている。

 テオバルドがわざわざ王城まで馬を飛ばして、リヒトに触覚が戻ったと報告に来たのはつい先ほどのことだ。

 ユリウスは愕然とした。
 リヒトに触覚が戻ったことに驚いたのではない。
 なぜ自分がその瞬間に立ち会えなかったのかと思ったのだ。

 耳が聞こえるようになったときも、目が見えるようになったときも、ユリウスはリヒトの隣に居た。
 夜眠って、朝起きてもたら突然聞こえるようになっていたし、見えるようになっていた。
 だから当然、残りの感覚が戻るときも同じ過程を踏むだろうと予想していたのに……。

 なぜよりによってユリウスの執務中に……屋敷に居ないときに、触覚が戻ったのか。
 それに、その場に立ち会っていたのが自分以外の男だということも気に入らない。

「殿下。顔がめちゃくちゃ怖いです。その顔でリヒト様に会うんですか」

 側近の言葉をユリウスは「まさか」と切り捨てる。
 おのれのオメガを怯えさせるアルファが、この国サーリークのどこに居るというのだ。

 ユリウスは両手で顔を覆い、腹の奥から息を吐き出すと、気持ちを切り替えた。

「テオ、もう一度聞かせてくれ。リヒトの触覚が戻ったときのことを」

 ユリウスの声に落ち着きが戻ったのを確認して、テオバルドは立ち上がり、子細な報告を始めた。


 リヒトの視覚が正常に働きだして、ちょうどひと月後の今日のことだ。

 リヒトはいつものように、温室でのひと仕事を終えてからエミールとの勉強の時間を迎えた。
 昼食前の一時間、そして昼食後二時間、計三時間がリヒトのために設けられた、文字の練習をするため時間だった。

 リヒトがなにより悪戦苦闘したのが、文字を書く、という動作だ。
 触覚の弱い彼はペンを持つ力加減の調節が自分で上手くできない。そのため彼の描く線はふにゃふにゃと歪み、ひとつの文字を書くのにも常人の倍以上の時間を要するのだった。

 それでもリヒトは、テオバルドが自作した補助具を使い、日々努力をしていた。

 彼のお手本となっているのが、ユリウスの書いた手紙の文字だ。
 王族であるユリウスは、幼少の頃より英才教育を受けている。そのためユリウスの筆致は流麗で、手本としてふさわしくはあったが、同じように書こうとするには中々にハードルが高かった。
 テオバルドですらユリウス並みに整った文字は書けない。ましてやペンもろくに持てないリヒトには至難の業だろう。

 リヒトは度々手を止めては手紙の文字を見つめ、ほぅっと吐息する。

「ユーリ様ってすごいですね。こんなにもきれいな線が書けるんですから」

 最近のリヒトの口癖はそれだ。
 生まれてこの方賛辞など浴びるほどに耳にしてきたであろうユリウスは、テオバルドから勉強中のリヒトがそう言っているという報告を受けると、途端に相好を崩して甘ったるい笑みを浮かべるのだった。

 それはともかく、リヒトはこの日も勉学に励んでいた。
 彼の隣に座るエミールの教え方は丁寧でやさしい。
 その穏やかな声音を聞いていると、眠気がテオバルドを襲ってくる。それを振り払うためにテオバルドは不必要に部屋の空気を入れ替えたり、乱れてもいない本棚を整理したりと体を動かすのが常だった。

 昼食後の休憩を挟んで(テオバルドにとって非常にありがたいことに、エミールが居るときはリヒトの食事の世話はエミールが担当してくれる)、午後からの勉強を再開したときのことである。

 テオバルドが開けていた窓から、風が吹き込んできた。
 エミールは咄嗟に手元の用紙を押さえた。
 しかし触覚の弱いリヒトは風が吹いたことに気づかず、対応が遅れた。
 文字の練習用にと卓上に置かれていた白紙の用紙が、風にあおられてバサバサバサっと宙を舞う。
 リヒトはポカンとそれを見て、慌てて立ち上がろうとした。

「リヒト様! 俺が拾いますのでそのままで!」

 リヒトが動作は危うい。
 目が見えて耳が聞こえることに徐々に慣れてきてはいるが、触覚が弱いせいで重心のバランスを取ることが下手くそなのだ。迂闊に動いて転ばれては困る。

 テオバルドはリヒトを椅子に座らせたままにして、窓を閉めてから絨毯の上に散った紙をかき集めた。それをトントンと束ねて、リヒトへ差し出す。
 リヒトの手が紙の束を受け取った。

 彼が紙のふちをなぞるように手を滑らせ、もとの通りデスクへと置いた、そのときだった。

「いた……」

 小さな声が、リヒトの口から漏れた。
 リヒトは不思議そうにおのれの指を見て、軽く首をかしげると、何事もなかったかのように文字の練習の続きに戻った。

 テオバルドは思わずエミールと顔を見合わせた。

 いま、リヒトは「痛い」と言ったのではないか。

 先程の動作を考えるに、紙の端で指の表面を切ったのかもしれない。
 そのピリッとした痛みを彼が、感じたのだとしたら……。

 まさか。

 テオバルドはごくりと喉を鳴らした。
 エミールがぎこちない動きで視線をリヒトへと向ける。
 たおやかな印象の手が、そっと持ち上がった。

 エミールのてのひらが、しずかに、そうっとリヒトの肩へ触れた。

「わぁっ!」

 リヒトが驚いたように叫んで、エミールを振り仰ぐ。
 そうしてから彼は、ようやくおのれに訪れている異変に気づいたようで、あんぐりと口を開けた。
 エミールもリヒトと同じような表情になった。それを見ているテオバルドもつられて口を開けてしまった。

 リヒトの目が忙しないまばたきをする。

「ぼ、僕……あの、僕……」

 なにを言っていいかわからない、という様子でエミールとテオバルドを交互に見たリヒトは、ペンを握ったままの自分の手元を凝視した。
 自分の指に装着していた補助具を外し、リヒトは改めてペンを握った。そのまま彼は、紙に真っ直ぐな線を書き……。

「ぼ、僕、ペンが、握れました……」

 茫然と、そう呟いた。

「リヒト」

 エミールがまたリヒトの肩に触れた。その刺激にびくりと体を跳ねさせたリヒトが、エミールと視線を合わせ、泣きそうな顔で笑った。

「エミール様……僕、いま、ちゃんとわかりました。エミール様が僕の肩に触れてくださったのが、わかりました」
「リヒト! ああ!」

 エミールが感極まったように立ち上がり、瞳を潤ませた。
 リヒトも立ち上がった。恐る恐る、足で絨毯を踏みしめ、そこに体重がしっかりかかっていることを確認して、ゆっくりと立ち上がった。
 その場で二度足踏みをしたけれど、その体はふらつかなかった。

「え、エミール様! 僕、僕、どうしたらいいですか」

 突然触覚を取り戻したリヒトは狼狽し、エミールにしがみついたが、その感触にすら驚いてパッと離れた。

「ゆ、ユーリ様です! テオバルド! ユーリ様を呼んできなさい!」

 エミールも常になくうろたえ、上擦った声でテオバルドに指示をした。
 テオバルドはようやく、いま自分の目の前で重大な奇跡が起こったことを理解して、ユリウスを呼びに王城へと馬を走らせたのだった。





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