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リヒト⑨

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 いまの話はユーリ様にどうぞ、とテオバルドさんに言われたものの、僕は結局、そのことをユーリ様には話さなかった。

 ユーリ様のお声を聞いたらお腹の辺りがなんだかおかしくなる、だなんて話は、ユーリ様を喜ばせるどころか僕が病気なのではと心配させてしまうんじゃないかなと、思えたからだ。
 ただでさえ色々ご迷惑をおかけしてるのに、これ以上ユーリ様に余計な心配をかけたくはなかった。

 それに、僕の耳が聞こえることに慣れたら、その内にこのおかしな感覚もなくなってゆくだろう。
 いまはユーリ様のお声に慣れていないだけなのだ。
 僕はそう結論づけて、この件についてはあまり気にしないことにした。

 けれど、気にするまいと思っても、仕事からお戻りになったユーリ様に抱っこされて、耳元で、
「ただいま、僕のオメガ」
 となめからな声で言われると、ついつい体がぶるりと震えそうになってしまう。

 ユーリ様のお声はものすごく良いお声だ、とテオバルドさんも言っていたから、たぶん、ユーリ様のお声は特別なのだ。
 ずっと聞いていたくなるような、それでいてなんだか恥ずかしくなって逃げたくなるような、不思議なお声。

 僕の耳が、早くそのお声に慣れればいいのに、と。このときの僕は思っていた。

 そんな自分がものすごく浅薄だったと思い知ったのは、耳が聞こえるようになってから、十日後のことだった。



 その日、目を開けると僕の視界は、キラキラと光を弾くきれいな金色で溢れていた。
 僕はあまりに眩しいそれにびっくりして、なんどもまばたきをした。

 僕の目がおかしい。
 ごしごしと、てのひらで目をこする。
 その動作をしてから、ふと気がついて、自分の手を見てみた。

 指が見えた。指先にある、爪も見えた。ひっくり返してみると、手のしわまでもが見える。

 ……え?
 どういうことなのだろう。

 僕は呆然としながら、金色の方へと視線を動かした。

 金色は、髪の毛だった。
 キラキラと輝きながら枕へと流れる、金髪……。

 ユーリ様の、髪だ。

 僕はほとんど息を止めるようにして、ゆっくりと、ゆっくりと毛先の流れを追った。

 ゆるやかなカーブを描くおでこが見えた。その下には、すらりと通った鼻筋があって。
 その横には、金色の睫毛がふさりと生えている。

 右側を下にして、僕の方を向いて眠っている、ユーリ様。

 ユーリ様の、お顔だ。
 ずっとずっと見たかったユーリ様のお顔が、いま、僕の目の前にあった。

 どうしよう。どうしたらいいのだろう。
 緊張で息が上手くできなくなる。

 目が、見えている。
 いつもあんなにぼやけていた視界が、いまはものすごくクリアだ。
 ユーリ様の睫毛の数まで数えられそうで、僕は、ユーリ様の方へそうっと顔を寄せた。

 きれい。
 とてもきれいなお顔だった。
 これまでろくに物を見ることができなかったから、美醜を見分けることなど到底できない僕の目だけれど、ユーリ様のお顔は純粋にすごくきれいだと感じた。

 ずっと見つめていると、視界がぐにゃりと歪んだ。
 また目が悪くなったのかと焦ったけれど、いつのまにか浮かんでいた涙が原因でぼやけたのだとわかった。

 僕は急いで目をこすった。
 もっとしっかり、ユーリ様のお顔を見ていたい。
 きれいなきれいな、ユーリ様のお顔を。
 でも次々に浮かんでくる涙がそれを邪魔してくる。

 僕がまた目をこすったら、その動作を察知されたのだろうか、前触れもなくユーリ様のまぶたが持ち上がった。

 長い睫毛の下から、新緑色の瞳が覗く。
 そのあまりにうつくしい色に、僕は吸い込まれてしまいそうになった。

 息を飲んだ僕に、ユーリ様が。

「リヒト……起きたの? いま何時……ああ、まだもう少し眠れるよ」

 顔を巡らせて壁の時計を確認してから、僕に視線を戻してゆるやかに微笑まれて、それからぎょっとしたように切れ長の目を真ん丸に見開いた。

「リヒトっ? えっ? なんで泣いてるの?」

 問いかけながらユーリ様の両手が、僕の頬を包んで、指の腹で目の周りをそっと拭ってくださった。

「どうしたの? リヒト?」

 僕を覗き込んでくる、鮮やかでやさしい緑色。
 中心の部分が深く濃い色になっていて、カーテンの隙間から入る朝陽を受けてユーリ様の瞳もきらりと光っていた。

 ユーリ様が僕の首輪の嵌まった首筋に顔を寄せて、くんと鼻を鳴らした。

「……かなしい匂いはしないけれど……」

 ひとりごとのように呟いて、ユーリ様が僕と視線を合わせてくる。

 眼差しが、ひたりと注がれた。

 目が合っている。
 ユーリ様の目と、僕の目が。
 しっかりと、合っている。

「リヒト?」

 ユーリ様が僕の様子を探るように、軽く目を細めた。
 そのまま、しばらく静止して。
 ユーリ様がもう一度僕を呼んだ。

「リヒト?」

「ゆぅりさま」

 小声で、僕もユーリ様の名前を呼んだ。

 夢かもしれない、とふと思う。
 これは夢かもしれない。
 それでも良かった。
 だって、これまでは夢の中ですらユーリ様のお顔を思い描くことができなかったから。
 こんなにもはっきり見ることができて、しあわせだった。

 ユーリ様の指が、僕の方へと伸ばされた。
 目の前まで迫ってきた指先に、僕は反射的にまぶたを閉じた。その僕の反応を見たユーリ様が、じわじわと目を見開いて。

「リヒト、きみ……目が……」

 囁いたユーリ様の声が、細くかすれた。

「リヒト、目が、見えるの?」

 問われて、頷く。

「僕の顔、わかる?」
「……ふぁい」

 泣きながら返事をしたら、おかしな声になった。
 また込み上げてきた涙に、視界がぐにゃりとなったけれど、僕はもう焦らなかった。
 目は見えている。聴覚に続いて、視覚も治ったのだ! ユーリ様のお薬のおかげで!

「ユーリ様、ユーリ様、ありがとうございます」

 僕はユーリ様にしがみつきながら、なんどもお礼を言った。

「ユーリ様のお顔が見えます。僕、ちゃんと見えてます」

 ぐすぐすと泣く僕を、ユーリ様がしっかりと抱きしめてくださる。

「リヒト。僕のオメガ……良かった……良かったね」

 鼓膜に、低く甘い囁きが注ぎ込まれた。

 僕のお腹の奥が、いつものようにもぞりとしだした。
 その途端になんだか、ひとつのベッドの上でユーリ様と抱き合っている、という状況が居たたまれないような気分になってくる。

 どうしよう……なんだか……なんだか……。

「リヒト。僕のオメガ」

 ひとりもじもじとしている僕の頬を、ユーリ様の手が包んで、顎が上に向けられる。
 え、と思って見てみると、ユーリ様のきれいなお顔が近づいてくるところだった。

 ユーリ様の唇が、ゆっくりと、僕の唇に……。

「わぁっ!」

 僕は咄嗟にユーリ様の胸を押し返して、飛び起きた。
 ぐらり、と体が傾いたけれど、視界がしっかりとしているので腕をマットレスについて自分で体勢を整えることができた。

「リヒト? どうしたの?」

 ユーリ様も起き上がって、
「あんまり端っこに行くと落ちるよ」
 と、これ以上僕が下がらないようにと肘の辺りを掴んで止めてくれる。

 僕は顔をうつむけて、ぼそぼそと答えた。

「ゆ、ユーリ様があんまりきれいなので、僕、僕……恥ずかしくて……」

 少し前の僕ならユーリ様と会話をするときに、こんなふうに下を向くことはなかった。だって集中していないと、話すことも聞くこともままならなかったから。
 でもいまは僕の耳も僕の目も、ちゃんと仕事を果たしてくれて。
 くすり、と吐息のようにユーリ様が笑うのが聞こえて。

「リヒト、顔を上げてごらん」

 甘くやさしい声で促されて、もぞりとしたお腹を抑えながら、そうっと目線を上げたら。
 ユーリ様が。

「この顔が、きみの嫌いな顔じゃなくて良かった。母上に感謝だね」

 そう言って、ものすごく格好いいお顔でじわりと滲むように微笑まれたから。
 僕はきらきらしいその微笑に耐えられず、
「わぁっ」
 と叫んで両手で顔を覆ってしまった。
 そうしたらユーリ様が、僕の両方の手首を掴んで、その隙間から、ちゅっとキスをしてきた。

「リヒト。あとで鏡を見てごらん。きみの顔もものすごくきれいで、可愛いから」

 恥ずかしさに悶える僕にさらに追い打ちをかけるように、ユーリ様が囁いて、びっくりするほど整ったそのお顔をまた近づけてこようとされたので、僕は今度こそユーリ様を突き飛ばして、その反動でベッドからころりと転がり落ちてしまったのだった。
 
     
  
  
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