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光あれ

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「治らなくてもいい、とはどういうことでしょうか」

 困惑も顕わに、エミールが眉をひそめた。
 ユリウスは軽く笑って、立ち上がった。
 そのままカウチソファで寝ているリヒトの傍へと歩み寄り、銀色のやわらかな髪を撫でる。

「僕がこの子の五感を治したいと思うのは、この子がそう望んでいるからです。正直僕は、どちらでもいい。リヒトの目が悪いままでも、耳が聞こえにくくても、嗅覚に乏しく……僕の匂いがわからないままでも、それはそれでいいのです」

 リヒトがおのれの腕の中に居るのならば、他のことはすべて、ユリウスにとっては些細なことだ。

 ユリウスが出会って、ユリウスが愛したのは、このままのリヒトで。
 彼が彼であるのならば、もうそれだけで充分なのだった。

「ですが……」

 なにかを言おうとして、エミールが口を開いたが、しかし彼は言葉を濁して唇を噛んだ。
 ユリウスにはエミールが言いたいだろうことがわかった。

 アルファの匂いを感じることのできないリヒトには、発情期が来ない。
 発情期がなければたとえうなじを噛んだとしても、つがいにはなれない。
 唯一無二の繋がりを持つことができないのだ。

些事さじです」

 ユリウスはリヒトの体に掛かっていた大判の膝掛で彼を包み直すと、そのまましずかな動作でおのれのオメガを抱き上げた。

「ん……」

 小さく鼻にかかった可愛らしい声が、リヒトの口から漏れる。
 それを微笑ましく聞きながら、ユリウスはソファへと腰を下ろした。
 横抱きにしたリヒトは腿に座らせ、赤子をあやすようにゆっくりと体を左右に揺らす。

 たとえこの先、リヒトの五感が治らなくても。
 発情期が来なくても。
 体を繋げることができなくても。
 つがい関係を結べなくても。

「僕にとっては些事なのですよ」

 ユリウスは揺るぎない声で、そう繰り返した。

 マリウスもエミールもロンバードもテオバルドも、なにも言わなかった。彼等はただ一対のようなユリウスとリヒトを見つめていた。

 クラウスだけは、
「抑制剤は引き続き控えるように」
 といつもの固い話し方で告げてきた。
 次兄の過保護にユリウスは思わずふきだしてしまう。

「了解しました、兄上。まぁそういうわけで、僕はリヒトを治しますが、この子が不安やプレッシャーを感じすぎないように、テオやエミール殿には、治らなくてもいいんだよと言ってあげてほしいのです」

 ユリウスの考える催眠術の上書き。それをリヒトに施したとき、その効果を実感できなければ……五感が戻らなければ、リヒトは気に病んでしまうだろう。
 だから彼らには、いまのままのリヒトでもいいのだと、リヒトにわからせてあげてほしい。
 リヒトにもエミールたちにも、五感は治るという過度な期待を持つことなく、ただあるがままを受け入れてほしいのだ、とユリウスは語った。

 エミールとテオバルドが同時に頷いた。
 彼らの同意を得て、ユリウスは微笑を浮かべながら、リヒトの髪をひと撫でした。

 マリウスがリヒトの寝顔に視線を注ぎながら、
「それで具体的にはどうするんだ」
 と上書きの方法を問うてくる。

「シモン」

 ユリウスは説明役を医師のシモンへとバトンタッチした。
 はいな、と応じたシモンは、白衣のポケットから小瓶を取り出した。

「ユリウス殿下がメルドルフにて五感の弱い少年に対し行った治療は、偽薬プラセボを使ったものでした」

 シモンは小瓶の蓋を開け、丸薬を隣のマリウスへと差し出す。
 マリウスは白い薬を指でつまみ上げ、ポイと口へ放り込み、がりっと噛み砕いた。

「うむ。苦いな」
「兄上。仮にも国王が得体の知れないものを簡単に口に入れないでください」

 すかさずクラウスの苦言が飛んだが、マリウスは意に介さずに、これはなんだ? と嚥下してから医師に問うた。

「単なる栄養剤でございます、陛下」
「もうすこし旨くはできないのか。うぇぇ。あとからの方が苦みが強いな」
「薬は苦いほどよく効きますからなぁ」

 ほっほ、とシモンが笑った。

「迷信だろうがそれは」

 舌の上に残る苦みに顔をしかめながら、マリウスが反論する。
 それをシモンがいいえと否定した。

苦い方が効きます・・・・・・・・」 

 医師に明快に断言され、マリウスが少し肩を引く。
 そうなのですか? とテオバルドがシモンに尋ねた。
 シモンがまた、ほっほと笑い、
「どうです。医師に言われるとそのような気持ちになるでしょう」
 と続けた。

 きょとんとした表情で目を丸くしたテオバルドが、一拍ののち「あっ」と声を上げた。

「あぶねっ。これが催眠術!」
「テオおまえ……単純すぎだろうが」

 息子の言動にロンバードが頭を抱えた。

「催眠術というのは誰もがかかり得る可能性があるものです。自分は絶対にかからないぞと警戒している者ですら、かかるときはコロっといくとも聞きますなぁ。ただ、私ら医師の偽薬プラセボは、どれだけ患者を信じさせられるか、それに尽きます。信頼している医師から、これは効きますぞ、と言われた薬は、患者にとって実際以上の効果を発揮するものなのです」

 シモンの説明に、マリウスが大袈裟に天井を仰いだ。

「そういう話を聞くと、これからはおまえたちの出す薬を疑ってしまいそうだ」
「このシモンめが陛下に効果のない薬を処方するとお思いですかな」
「ほらみろ、そういうところが胡散臭く見える」

 凛々しい眉をひそめて、胡乱げな表情を見せるマリウスに、ユリウスは苦笑を浮かべた。

「おやこれはいけない。マリウス兄上に医師団に対する不信感を植え付けてしまった」
「思わぬ弊害ですな。困りましたなぁ」

 言葉ほど困っていない様子で笑いながら呟いたシモンが、
「これはユリウス殿下に」
 と言って、小瓶をユリウスの前に置いた。

 リヒトを抱っこしているため両手が塞がっているユリウスは、テオバルドへ目配せをする。
 リヒトの侍従はハッと察して、機敏な動作でユリウスの傍へ来ると、恭しい仕草で小瓶を手に取った。

「リヒト様の治療には、この丸薬を使います。ユリウス殿下が遥か異国の地で見つけてきた、五感を治す特効薬です。これを飲めば治る、と、リヒト様の脳にそう思い込ませます。医師団の長であるこの私と、リヒト様が誰よりも信頼なさっているユリウス殿下が、治る、と断言して服用させるのです。これが催眠術の上書きです」

 言葉にしてみれば、それだけか、と拍子抜けするほどに簡単な話ではあったが、リヒトの五感は治るものなのだという暗示を、ユリウスとシモンの二人がかりでかけてゆく、というわけである。

 リヒトにそれを信じ込ませるためには、誰がどのタイミングで行動を起こすかが肝要になる。
 シモンの言う通り、医師の肩書きのあるシモン、そしてリヒトが最も信頼を寄せているユリウスが、配役としては適任であった。
 そしてユリウスは遠征から戻って来たばかり。
 ユリウス自身が遥か異国で薬を入手した、という設定を最大限に活かせる場面は、いまを置いて他になかった。

 しかしこの催眠術の上書きは、成功するとは限らない。
 せっかくユリウス自らが異国へ赴き手に入れてくれた薬が、おのれに効かないとなると、リヒトは気に病むだろう。薬ではなく、治らない自分が悪いのかもしれないと思ってしまうかもしれない。
 それを見越しての、テオバルドとエミールだ。
 ユリウス自身ももちろん全力でリヒトを慰めるが、自分よりも第三者である彼らに肯定してもらう方が、リヒトにとっては聞き入れやすいかもしれないと考えた上で、ユリウスはそれを二人に依頼したのだった。 

 この治療方が上手くいくかどうかは、それこそ神のみぞ知ることだ。

 全知全能の神が居るならばすがりたいところだが、ユリウスには神の声を聞く力などないから。

 おのれの手で、おのれのオメガをしあわせにする。
 ユリウスにできることは、ただそれだけなのである。

 う~ん、とリヒト小さな声を漏らして、リヒトの眉が寄せられた。
 もぞりと持ち上げた手で、目をこする。
 お寝坊さんなユリウスのオメガが、ようやくお目覚めだ。

 ユリウスはとろけるほどの微笑を浮かべ、大きな金色の瞳が開くのを待った。

「今日がおまえのオメガの、新たなる一日となるな」

 マリウスが円卓の向こうからこちらを眺めて、ゆるく笑いながらそう言った。

 新たなる一日。
 新たなる人生。
 そうなればいいと願ったユリウスへと、クラウスとエミールからの声が掛けられる。

「リヒトの新たなる日の始まりに」
「リヒトとユーリ様の新たなる日に」

 兄たちからの祝福だ。
 ユリウスはそう思い、明るい未来を想像して、最愛のオメガのひたいに口づけた。

「リヒト。これからきみが歩む道に、光あれ」

 どうかこの先、リヒトが歩いてゆく道が、光あふれたものになるように。
 彼の目が、明るいものを映せるように。
 耳が、肌が、匂いが、舌が、しあわせと希望を感じられるように。

 ありったけの願いを込めてキスをしたユリウスに応えるように、リヒトのまぶたが、いまゆっくりと開かれた……。

   
 
 
 
 
 
 
 
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