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リヒト⑦
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エミール様は僕の頬を撫でながら、
「オレもすみません。あなたに頼ってもらえなかった悔しさで、八つ当たりをしてしまいました。すみません」
と逆に謝ってきて。
それからくすりと笑われた。
「オレたち、お互いに謝り合いをしてますね。それではこれで仲直り、ということで」
「……はい」
「これからどこかへ行きたいときは、オレを呼んでください。一緒に行きますから」
やさしい言葉が、僕の中にじわりと溶ける。
ハーゼのことは相談できない。
まだ、隠しておきたい。
ユーリ様にもエミール様にも、ハーゼとしてもできそこないだった僕のことは、隠しておきたい。
だけど、僕は「はい」と頷いた。
いまはエミール様のお言葉に甘えたかった。
約束ですよ、とエミール様が念を押してきた。それから明るい口調で、
「ああでもユーリ様が戻って来られたら、絶対にオレの出番は回ってきませんよね」
と続けられた。
冗談めかしていたけれど、まるきりの冗談というわけでもなさそうだったので、僕は、思い切って尋ねてみた。
「……戻ってこられるでしょうか?」
「リヒト?」
「ユーリ様はちゃんと、戻ってきてくれるでしょうか?」
「当たり前じゃないですか!」
なぜそんな当然のことを訊くのだ、とエミール様が驚かれる。
「でも、まだ戻ってきてません。僕の飾緒の願掛けが……失敗したんじゃないでしょうか」
小さな声でぼそぼそとそう言うと、エミール様が僕を覗き込んで、リヒト、と口を開いた。
「リヒト。願掛けに失敗したと思ったから、神様の声を聞きに行こうとしたのですか?」
「……はい」
「リヒト。願掛けというのは、単なる……おまじないみたいなものです。上手くいけば喜べばいいし、上手くいかなければそういうものだよなと流せばいいのです。リヒト。飾緒に願掛けをしたことと、ユーリ様たちのお仕事が長引いていることは、まったく、なんの関係もないのですよ」
エミール様はきっぱりとそう言われた。
本当だろうか?
中央教会に居たときは、お祈りは現実と直結していた。
僕がお祈りすることで、信者のひとたちの魂は救われるのだと、教えられていた。
飾緒に願掛けをしましょうとエミール様に言われたとき、僕はそれが、お祈りと同じ意味を持つものだと理解したのだけれど。
願掛けはおまじない……お祈りとはまた全然べつのものなのだろうか。
混乱に、視界がくらりと回る。
姿勢を保っていられずに、右側へバランスを崩した。
「リヒト」
エミール様にもたれかかる形になった僕の肩を受け止めて、エミール様が僕のひたいにてのひらを当てた。
「しんどいですか? 息苦しい? 寒気はありますか?」
立て続けに問われて、僕は首を横に振った。
その途端にぼやけた視界がぐるりと回る。
ぐるり、ぐるり。
喉がなんだか熱くなって、口を開いたら、ごぽっとなにかが出た感覚があった。
「リヒト! テオ! テオバルド! 入りなさい!」
エミール様がテオバルドさんを呼んでいる。
やっぱりついてきていたのだ。僕がお屋敷を出た後から。
五感の弱い僕よりも、目が見えて触覚もちゃんとあるテオバルドさんたちの方が動きが早いことなんて、すこし考えればわかったことなのに。
なぜ僕は、ひとりで山に行けるなんて思い込んだのだろうか……。
そうだ、テオバルドさんにも謝らなければ。
ご迷惑をおかけしてごめんなさいと、言わなければならない。
茶色の髪のひとが走ってくる。テオバルドさんだ。僕はそちらの方へ向けて、
「ごめんなさい」
と言った。
でも出てきたのはまたなんだかおかしな、熱いものだった。
ごぽ、ごぽ、と断続的に口からなにかが出ている。
たぶん、きたないものだ。直感的にそれはわかった。
きたないものが、エミール様のお洋服を汚している。
僕は慌ててそれを拭こうとして、手を伸ばした。カップを持っていたことをすっかり忘れていたので、カップが落ちて、その中身が絨毯に広がった。
「嘔吐しました。熱はないようですがいまから出てくるのかもしれません。リヒトを見ていてください。オレは医者の手配を」
「は、はいっ」
「かかりつけは?」
「医師団の……」
「……した。……の部屋……」
「……さま………………ます」
音がどんどん遠くなってゆく。
なにを話しているんだろう。
僕の隣からエミール様が立ち上がる。代わりのように伸びてきたテオバルドさんの腕に支えられて、僕はソファに寝かされた。
「…………すよ」
テオバルドさんがなにかを言った。聞き取れずに首を傾げたら、
「横を向けますよ」
と言い直してくれた。
背中にクッションがたくさん置かれて、僕の体は左を下にした横向きになった。
「リヒト様。口を開けてください」
くっきりと、ゆっくりと指示をされてその言葉に従う。
開いた僕の口に、ハンカチだろうか? なにかを巻き付けたテオバルドさんの指が入ってくる。
「吐いたものが喉に詰まると大変ですから、口の中をきれいにしてます」
教えられて、そうなのかと思う。
そういえば昔も、似たようなことがあった。
子どもの頃に、ユーリ様がいまと同じように、僕の口の中をきれいにしてくれた。
あのときもこんなふうに、熱いものが口からごぽっと出た気がする。
よしよし、しんどかったね僕のオメガ。ぜんぶ吐いていいんだよ。
僕の背をさすりながら、ユーリ様がやさしい声でそう言ってくれて…………。
昔のことを思い出してぼうっとしていたら、気づけば誰かが僕の横に居て、僕の手首を握っていた。
「お風邪を召されたんでしょうなぁ。吐き気はどうですか? 大丈夫そうなら水分をしっかり摂って、ゆっくり寝ていれば直に良くなりますよ」
やわらかなその話し方は、子どもの頃によく診察に来てくれていた医師にそっくりだった。
あのひとは、なんという名前だったろう。
ユーリ様は、確か……。
「……ベンさん」
そう、ベン、とそのひとを呼んでいた。
グレタと違ってベンは口うるさいことは言わないし、リヒトの五感が弱いことにも一番に気づいてくれた名医なんだよ。きみの体のことはベンに任せているから、なにかあれば相談するんだよ。
栄養状態がすごく悪くていまよりも頻繁に体調を崩していた僕を膝に抱っこして、ユーリ様はそう言っていた。
「オレもすみません。あなたに頼ってもらえなかった悔しさで、八つ当たりをしてしまいました。すみません」
と逆に謝ってきて。
それからくすりと笑われた。
「オレたち、お互いに謝り合いをしてますね。それではこれで仲直り、ということで」
「……はい」
「これからどこかへ行きたいときは、オレを呼んでください。一緒に行きますから」
やさしい言葉が、僕の中にじわりと溶ける。
ハーゼのことは相談できない。
まだ、隠しておきたい。
ユーリ様にもエミール様にも、ハーゼとしてもできそこないだった僕のことは、隠しておきたい。
だけど、僕は「はい」と頷いた。
いまはエミール様のお言葉に甘えたかった。
約束ですよ、とエミール様が念を押してきた。それから明るい口調で、
「ああでもユーリ様が戻って来られたら、絶対にオレの出番は回ってきませんよね」
と続けられた。
冗談めかしていたけれど、まるきりの冗談というわけでもなさそうだったので、僕は、思い切って尋ねてみた。
「……戻ってこられるでしょうか?」
「リヒト?」
「ユーリ様はちゃんと、戻ってきてくれるでしょうか?」
「当たり前じゃないですか!」
なぜそんな当然のことを訊くのだ、とエミール様が驚かれる。
「でも、まだ戻ってきてません。僕の飾緒の願掛けが……失敗したんじゃないでしょうか」
小さな声でぼそぼそとそう言うと、エミール様が僕を覗き込んで、リヒト、と口を開いた。
「リヒト。願掛けに失敗したと思ったから、神様の声を聞きに行こうとしたのですか?」
「……はい」
「リヒト。願掛けというのは、単なる……おまじないみたいなものです。上手くいけば喜べばいいし、上手くいかなければそういうものだよなと流せばいいのです。リヒト。飾緒に願掛けをしたことと、ユーリ様たちのお仕事が長引いていることは、まったく、なんの関係もないのですよ」
エミール様はきっぱりとそう言われた。
本当だろうか?
中央教会に居たときは、お祈りは現実と直結していた。
僕がお祈りすることで、信者のひとたちの魂は救われるのだと、教えられていた。
飾緒に願掛けをしましょうとエミール様に言われたとき、僕はそれが、お祈りと同じ意味を持つものだと理解したのだけれど。
願掛けはおまじない……お祈りとはまた全然べつのものなのだろうか。
混乱に、視界がくらりと回る。
姿勢を保っていられずに、右側へバランスを崩した。
「リヒト」
エミール様にもたれかかる形になった僕の肩を受け止めて、エミール様が僕のひたいにてのひらを当てた。
「しんどいですか? 息苦しい? 寒気はありますか?」
立て続けに問われて、僕は首を横に振った。
その途端にぼやけた視界がぐるりと回る。
ぐるり、ぐるり。
喉がなんだか熱くなって、口を開いたら、ごぽっとなにかが出た感覚があった。
「リヒト! テオ! テオバルド! 入りなさい!」
エミール様がテオバルドさんを呼んでいる。
やっぱりついてきていたのだ。僕がお屋敷を出た後から。
五感の弱い僕よりも、目が見えて触覚もちゃんとあるテオバルドさんたちの方が動きが早いことなんて、すこし考えればわかったことなのに。
なぜ僕は、ひとりで山に行けるなんて思い込んだのだろうか……。
そうだ、テオバルドさんにも謝らなければ。
ご迷惑をおかけしてごめんなさいと、言わなければならない。
茶色の髪のひとが走ってくる。テオバルドさんだ。僕はそちらの方へ向けて、
「ごめんなさい」
と言った。
でも出てきたのはまたなんだかおかしな、熱いものだった。
ごぽ、ごぽ、と断続的に口からなにかが出ている。
たぶん、きたないものだ。直感的にそれはわかった。
きたないものが、エミール様のお洋服を汚している。
僕は慌ててそれを拭こうとして、手を伸ばした。カップを持っていたことをすっかり忘れていたので、カップが落ちて、その中身が絨毯に広がった。
「嘔吐しました。熱はないようですがいまから出てくるのかもしれません。リヒトを見ていてください。オレは医者の手配を」
「は、はいっ」
「かかりつけは?」
「医師団の……」
「……した。……の部屋……」
「……さま………………ます」
音がどんどん遠くなってゆく。
なにを話しているんだろう。
僕の隣からエミール様が立ち上がる。代わりのように伸びてきたテオバルドさんの腕に支えられて、僕はソファに寝かされた。
「…………すよ」
テオバルドさんがなにかを言った。聞き取れずに首を傾げたら、
「横を向けますよ」
と言い直してくれた。
背中にクッションがたくさん置かれて、僕の体は左を下にした横向きになった。
「リヒト様。口を開けてください」
くっきりと、ゆっくりと指示をされてその言葉に従う。
開いた僕の口に、ハンカチだろうか? なにかを巻き付けたテオバルドさんの指が入ってくる。
「吐いたものが喉に詰まると大変ですから、口の中をきれいにしてます」
教えられて、そうなのかと思う。
そういえば昔も、似たようなことがあった。
子どもの頃に、ユーリ様がいまと同じように、僕の口の中をきれいにしてくれた。
あのときもこんなふうに、熱いものが口からごぽっと出た気がする。
よしよし、しんどかったね僕のオメガ。ぜんぶ吐いていいんだよ。
僕の背をさすりながら、ユーリ様がやさしい声でそう言ってくれて…………。
昔のことを思い出してぼうっとしていたら、気づけば誰かが僕の横に居て、僕の手首を握っていた。
「お風邪を召されたんでしょうなぁ。吐き気はどうですか? 大丈夫そうなら水分をしっかり摂って、ゆっくり寝ていれば直に良くなりますよ」
やわらかなその話し方は、子どもの頃によく診察に来てくれていた医師にそっくりだった。
あのひとは、なんという名前だったろう。
ユーリ様は、確か……。
「……ベンさん」
そう、ベン、とそのひとを呼んでいた。
グレタと違ってベンは口うるさいことは言わないし、リヒトの五感が弱いことにも一番に気づいてくれた名医なんだよ。きみの体のことはベンに任せているから、なにかあれば相談するんだよ。
栄養状態がすごく悪くていまよりも頻繁に体調を崩していた僕を膝に抱っこして、ユーリ様はそう言っていた。
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