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テオバルドの奮闘

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 耳の遠いリヒトの尾行は簡単だ。
 足音を忍ばせる必要もないし、大声でなければ会話をしても聞こえない。

 意識がこちらに向いていないとき、彼の耳はほとんど仕事をしていないようだった。現に、ハイマンの騎乗した馬が通りの反対側を駆けぬけていったときも、まるで反応しなかった。
 逆を言うと、ふだんユリウスやエミールと会話をしているときのリヒトは、声を聞こうとものすごく集中している、ということだ。
 寝つきが良く、睡眠時間も長いリヒトだったが、それは日常生活を送る上で彼が常に気を張っており、それによってとても消耗しているからなのかもしれなかった。
 それを痛ましく思いながらも、テオバルドは今だけはこの尾行のしやすさに感謝した。

 しかし、いつこちらを振り返るか、そしていつバランスを崩して転ぶかわからないので、そこだけは警戒が必要だ。

「それで、どこに向かってるんだ?」

 先ほどのやりとりを知らないザックに問われて、テオバルドはリヒトから目を逸らさずに、
「山だってさ」
 と答えた。
 ザックが微妙は表情になった。口にせずとも、なぜ山? と思ったことが伝わってくる。

「とりあえずハイマンには、エミール様を呼びに行ってもらった」
「大丈夫なのか?」

 エミールは王弟殿下の配偶者。つまりユリウスと遜色のない身分である。そのような御方をこんな深夜に呼びに向ったハイマンに、お咎めはないのかとザックは懸念したのだ。

「多分」

 テオバルドの曖昧な返答に、ザックの眉間にしわが寄った。
 そうこう言い合っている内に、リヒトがついに門まで辿りついてしまった。

 ザックの視線がテオバルドの横顔に突き刺さっている。

 折るのか。ユリウスのステッキを。
 この、芸術品ともいえる細かな細工がちりばめられた、ステッキを。

 その判断を委ねられたテオバルドは、しかし決断に迷い、中々返事ができない。

 無情にも、手すりが下方向へくるりとカーブを描いて、途切れた。
 途端、リヒトの手が空を切った。
 と思ったら膝がカクンと折れて、リヒトがバランスを崩した。

 テオバルドは反射的に両手を伸ばし、その背を支えていた。

 しまった。つい手が出てしまった。
 これでリヒトにバレてしまう。テオバルドが彼を尾行していたことが。

 どう誤魔化すか……と焦りつつ、テオバルドはザックに合図して、態勢を立て直したリヒトが後ろを振り返る直前、飛び退って距離をとり、身を低く屈めた。  

 リヒトが暗闇を見つめ、
「どなたか、いらっしゃいますか?」
 と小さな声を放つ。
 テオバルドたちは息を殺して、夜の闇に感謝しながら隠れ続けた。

 リヒトはしばらく小首を傾げ、キョロキョロとしていたが、
「気のせいかな」
 そう結論づけて両手を前に出して障害物がないかを確認しながら、また歩きだした。
 
 リヒトの前には、ハイマンが出て行ったまま中途半端に開いた門扉がある。
 このままいけばぶつかってしまう。テオバルドがザックに視線をやると、頷いたザックが中腰の姿勢で素早く門扉まで駆け寄り、大きな音が鳴らないよう慎重にそれを開いた。

 テオバルドはリヒトのすぐ後ろに立ち、左右から彼の外套の腰の辺りを掴んだ。
 先ほどのリヒトの様子から、多少彼に触れても触覚の弱いリヒトは気づかないことがわかったからだ。

 テオバルドのこの作戦は大成功だった。
 ユリウスのステッキを折ることなく、ステッキよりも安全にリヒトを支えることができたのだ。

 テオバルドはリヒトがふらつく度に掴んだ外套を引っ張り、重心の位置を調整した。

 これでひとまずのリヒトの安全が確保できたのはいいが、まさかこのまま本当にどこかの山にまで行くわけにはいかない。どこかで諦めてもらわなければ。

 エミール様、早く来てください! 
 こころの中でエミールへと泣きついたとき、脳裏に妙案がひらめく。

 一刻も早くリヒトを保護してもらうため、こちらからもクラウス邸へ近づけばいいのだ。
 テオバルドは「おいっ」と吐息ほどの音でザックを呼んだ。

「エミール様のお屋敷の方へリヒト様を誘導してくれ」
「……どうやって?」
「方法は任せる! 俺はリヒト様を支えるのに忙しい」
「じゃあ代わる」
「バカ。アルファのおまえがリヒト様に触っていいのか」

 ぐっ……と言葉に詰まったザックは、ユリウスのステッキを握り締め、渋々と了承した。

 ザックはリヒトを追い越して走り、次の角で待機する。
 リヒトは頼りない足取りでゆっくりと、それでも順調に歩を進めた。
 リヒトが角へ差し掛かったとき、ザックが動いた。

「あら、あっちが山よ」

 いかつい男が発した裏声に、テオバルドは思わず吹き出しそうになる。

「どっちだって?」
「こっちよ。ほら、こっちだってば」
「もう少しゆっくり歩けよ」
「でも早く山に行かないと」

 おまけに、まさかの一人二役である。
 声を段々と遠ざけるという演出つきだ。

 リヒトは山という単語に反応して、ザックの居る方角へと足先を向けた。

「あ、あのっ、誰か居ますか? 山は、そっちにありますか?」

 暗闇に向かって、リヒトが問いかける。ザックは両手で口を押えて、素知らぬ振りで巧みにリヒトの視界に入らないように立ち位置を変えていた。さすがの身のこなしである。
 衛士として雇われているアルファの能力の片鱗を、テオバルドはこんな場面で実感した。

「……こっちなのかなぁ」

 リヒトが小さく呟き、まんまと行ってほしい方向へと歩を進めてゆく。

 自分で仕組んでおきながら、テオバルドは思わず胸の中で突っ込んだ。
 それでいいのか不思議ちゃん!
 簡単すぎないか!
 本当に誘拐されてしまわないか心配である。

 その後はザックと協力しながら、リヒトの歩く先の障害物を除去し、声色を変え、あの手この手でリヒトを誘導し続けた。

 やがて道の向こうから馬車の音が聞こえてきた。
 エミールだ。エミールが来てくれたのだ!

 オイルランプの灯りを掲げた馬車に、ミュラー王家の紋章を見てとり、そして停車とともにワゴンから飛び降りてきたエミールの姿を見て、テオバルドは安堵のあまり、へなへなとその場にへたり込んでしまったのだった。
 
 
  
 
 
 

 
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