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アルファは神を殺す

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 そういうもの……と口の中で呟いたユリウスは、ヨハネスをめつけた。

「貴様の手で施した秘術だろう。治し方もわかるはずだ」
「いかにも私が行ったことだ。だが、我々に伝わっているのは五感を奪うすべのみだ。かつて術の解けたハーゼ様が居たとは聞いた覚えもないし記録にも残っていない」

 ヨハネスがやわらかな口調で答えた。
 ユリウスは顔をうつむけた。金の髪がさらりと流れ、表情を隠した。その肩が、小刻みに震えている。

「殿下」

 ロンバードが気遣わしげにユリウスの背を撫でた。

「そう気を落とすな、異教徒よ。神に祈ってはみてはどうだ。そなたがこれまでの無礼を膝をついて詫びるなら、私はそなたをゆるそう。ハーゼ様の五感が再び正しく働くよう、デァモント様に祈りを捧げ…………なんだ?」

 ヨハネスは口説くぜつを途中で止め、怪訝にユリウスを窺った。
 ユリウスは体を揺すりながら、堪えきれずに笑い声を漏らした。

「なにが可笑しい!」

 一転して声を荒げた教皇へと、ユリウスは顔を上げて華やかな笑顔を見せた。

「いやなに、少し安心して気が抜けただけだよ。ハーゼの五感を奪ったのは神の奇跡だと言われたなら、いかに僕でも太刀打ちできなかっただろうからね。だが貴様は、おのれで行ったことを認めた。ひとの手で起きたことならば、解明のしようもあるだろう。ああ良かった。神の御業じゃなくて」

 わざとらしく安堵したユリウスの言葉に、ヨハネスの顔色が怒りの色で染まった。

 あまり挑発してやるな、とクラウスが肘でユリウスをつついて眉をひそめたが、その目元には隠しきれない笑みが浮かんでいて、それを見たユリウスの笑いもますます大きくなってしまう。
 くっくっ、と喉を鳴らしながら、ユリウスは改めてハーゼの五感を奪った手法の開示を迫った。

 ヨハネスは屈辱に打ち震えていたが、やがて観念したように目を閉じ、隠し戸棚に仕舞ってあったそれを大人しくユリウスへと開放した。

 必要な聴取だけを終えると、ヨハネスは捕縛されたまま騎士団の三人に先に連行されていった。連盟国国際司法裁判所の編成部隊が到着するまでは、サーリーク王国騎士団が彼を拘束しておく手筈となっている。

 後ろ手に縛られたヨハネスは、しかし背筋を伸ばして闊歩した。教皇としての意地なのだろう。
 来たときと違い、正面から連れ出される教皇の姿に、信者らは悲愴な視線を送り続けていた。


 ユリウスは教皇の執政室に残り、代々の教皇が受け継いできたという古い革張りの本をパラパラと読んだ。
 目当ての箇所にざっと目を通してから、もう一度読み直す。

「どうだ」

 肩越しにクラウスが手元を覗き込んでくる。ユリウスは次兄へと教皇の手記を預け、眉間にしわを寄せた。

「詳しく調べないことには、なんとも言えませんね」
「ふむ……ユーリ、取り敢えず我々も外へ出よう。襲われる心配はなさそうだが、いつまでもここには居られまい」

 クラウスはそう言ってユリウスを促してきた。
 室内に居るのは、次兄とユリウス、ロンバード、エーリッヒにハッシュ、そしてゲルトの五人だ。

 教皇を捕らえたことで、信者たちが暴動でも起こすかもしれないと警戒していたロンバードたちは、いつでも戦闘態勢になれるよう神経を研ぎ澄ませていたが、予想に反して教会内はしずまり返っていた。
 夜明けはまだ遠く、月や星ですら眠っていそうな深夜だ。この騒ぎに気づかず、寝ている信者たちも居るのだろう。

 ユリウスたちは周囲に気を配りながら、石造りの廊下を歩いた。

「あの子どもの部屋へ寄ります」

 ユリウスは前を行く次兄の背へとそう告げた。
 クラウスが顔を振り向け、
「連れて行くつもりか?」
 と尋ねてきた。

「こんなところに置いてはいけません。それに、あの子には協力してほしいことがあります」
「……五感の治療か」
「はい」

 リヒトに似た銀髪の子ども。食事も碌にもらえず、祈ることを強要されてきたかわいそうなハーゼ。

 次兄がなにかを言いたげに口をもごりと動かしたが、結局はなにも言わずに足先を子どもの部屋へと向けた。
 目的地が近づくにつれて、廊下に黒い塊があるのが見えた。
 ハーゼの眠る部屋の前だ。そこに、黒装束の信者たちがひと塊になってうずくまっている。
 ユリウスたちはぎょっとして足を止めた。

 信者たちは深くうつむき、両手を祈りの形に組み合わせて、
「ハーゼ様、お祈りください」
「ハーゼ様、お願いします」
「ハーゼ様、我々をお救いください」
 と口々に祈っている。

 恐ろしく、おぞましい光景だった。
 ユリウスは怖気おぞけに粟立った腕をひと撫でして、黒い塊の中へと足を踏み入れた。

「どけっ! 道を開けろっ!」

 ユリウスの一喝に、黒衣がさざ波のように動いたが、反応はそれだけだった。
 誰も、祈りをやめようとしない。
 ユリウスはひとびとの間を縫うように歩き、部屋の中へと入った。室内も信者で溢れていた。

 黒装束を掻き分け、ユリウスは寝台で眠る子どもを抱き上げた。

「ハーゼ様っ!」
「ハーゼ様になにをするっ」
「お待ちくださいハーゼ様!」

 幾本もの腕が伸びてきた。ユリウスはそれを躱しながら扉へと向かう。ロンバードやハッシュたちが盾となり、クラウスが道をこじ開けた。

 信者たちは追ってきた。
 お待ちくださいお待ちください。
 床を這いずり、頭を下げて、祈りの姿勢のままで追ってきた。

 外套を掴まれ、バランスが崩れる。ロンバードがすかさず体を割り込ませ、信者の手をほどいた。
 危害を加えようとしてくるわけではないから、こちらも剣は抜けない。

 信者たちは、ただひたすらに縋ってくる。
 ハーゼ様、ハーゼ様、ハーゼ様。
 我らをお救いください。
 次の教皇をお選びください。
 デァモント様の声を届けてください。
 そろいもそろって子どもにすべてを委ね、縋ってくる。

 ユリウスは扉の外、廊下で立ち尽くしていたゲルトを見つけた。

「ゲルト! 連れて行け!」

 次兄が開いた隙間を走り抜け、腕の中の子どもをゲルトへと預ける。
 ゲルトは反射の仕草で子どもを受け取った。
 それから呆然としたように立ち尽くした。

 ユリウスは男の肩をドンと押した。

「行け! この建物から出るんだ!」

 ゲルトへと命じたユリウスは、黒衣の信者たちを振り返り、凛とした声を発した。

「ここに神は居ないっ!」

 石造りの壁に反響した言葉は、廊下の奥にまで響き渡った。

「僕に何度そう言わせるっ! ここに神は居ない! おまえたちの祈る神が、おまえたちになにをしてくれたっ! おまえたちが飢えているのはなぜだ! 誰のせいでこうなった! 神のせいか? 違うっ! おまえたち自身がこれまでの慣習に支配され、考えることを放棄し、なにも行動を起こさなかった結果だ! その曇った目をよく見開いて外を見てみろ! 山中に転がっていた死体を埋葬しているのは誰だ! 飢えたおまえたちに小麦を運んでくるのは誰だ! ここに神は居ない。居るのは人間だけだ。ハーゼも人間だ。ただの子どもだ。ただの子どもに、おまえたちはいったいなにを背負わせようとする。なにを期待している。ただの、人間の子どもに!」
 
 語尾が空気を震わせて、しずかに消えた。

 信者のひとりと目が合った。彼の黒い瞳は苦しげに歪み、忙しない仕草で周囲を見渡した。

「ここに神が居ないと言うならば、それは、あなたが我々から神を奪ったからだ」

 誰かのしわがれた声が、低く、放たれた。それをきっかけに、あちこちで呪詛のような囁きが漏れ始める。

「そうだ」
「教皇様を奪い、ハーゼ様を奪った」
「異教徒が我らからデァモント様まで奪おうとしている」
「ハーゼ様。ハーゼ様さえ居られれば」
「大丈夫。ハーゼ様はすぐにまた我らの元へとおいでくださる」

 その昔、ハーゼが異教徒に奪われた際、数年を経て新たなハーゼが教団へ来たように。

「ハーゼ様が、我らを見捨てることなどない」
「そうだ。ハーゼ様はまたお出でくださる」
「祈ろう」
「祈ろう」
「新たなハーゼ様に」
「新たなハーゼ様に」
「我らのデァモント様に」
「祈ろう」

 白い廊下に、黒い波が広がった。
 信者たちが跪き、黒衣を広げて祈り始めた。

 ユリウスは絶句した。

「ユーリ。行くぞ」
「兄上」
「おまえの声は、あの者たちには届かない」

 言葉を尽くすだけ無駄だ、とクラウスがユリウスの腕を引く。
 兄に先導され、ユリウスはよろめくように足を踏み出した。

 デァモントをどうにかしようとは思うなよ。
 長兄マリウスからの言葉が耳の奥で響いた。

 このことか、とユリウスは身を以って理解した。

 これが宗教か。
 ユリウスは一度振り返り、廊下で揺れている黒い波を見た。
 衣擦れの音を立てながら、信者たちが祈っている。

 ハーゼ様、ハーゼ様、ハーゼ様。

 リヒトはこの狂気の渦に巻き込まれ、ボロボロになるまで酷使されてきたのだ。

 これが宗教か。
 苦く、噛み締めるようにしてユリウスは思った。

 信仰が悪いとは思わない。
 神に縋ることが悪いとは思わない。
 ユリウスだって、神に祈ったことはある。

 リヒトが二年間眠りっぱなしだったとき、何度か体調を崩し、高熱を出した。
 元々弱り切っていた子どもだ。いのちの保障は誰もできなかった。
 ユリウスはできる限りの看病を行い、最後は神に祈った。神様どうか僕のオメガをたすけてください。ふだん神を祀ってなどいないのに、随分と都合の良い祈りだったと、我ながら笑ってしまう。

 だから祈りたい気持ちはわかる。それを否定はしない。
 しかし、デァモント教はいびつで、異常だ。
 数百年の歴史を重ね、他国との交流を断ち、唯一神を信仰し、独自の文化を築いていった教団の、なれの果てがいまなのだ。

 デァモント自体をどうにかしようとは思うなよ。
 マリウスの声がまた聞こえた。

 なるほど、これはどうにもならない。
 ユリウスの手に負えるものではない。

 本来であれば全員を捕らえて、リヒトの前で謝罪させ、リヒトの味わった苦痛を与えてやりたいところだったが、そもそもハーゼに対して罪悪感のひとつもないのだからどうしようもない。

 ユリウスは胸に重いしこりを抱えた気分で、信者たちから顔を背け、前を向いた。





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