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サーリーク王国のアルファたる者

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 ユリウスは、繋いだリヒトの手をほどく回数が最小限になるよう頭をフル回転させながら、旅の装いへと更衣を済ませた。

 必要な荷物は騎士団の者たちが準備してくれている。
 前線に出ることの多い騎士団員たちは、旅支度を手早く行う術に長けているから、ユリウス自身があれこれ動くよりも彼らに任せてしまった方が早かった。だからおのれの身支度さえ整えておけば、あとのことはなんとかなる。

 残りの時間でユリウスがしておくことは……と考えて、ユリウスは部屋の隅で控えていたテオバルドへ視線をやり、こっちへ来いと眼差しだけで彼を招いた。
 テオバルドは素早く近寄って来ると、ユリウスへ頭を下げた。

「この度は急なご出立で」
「テオ、よく聞け」

 近侍の挨拶を途中で遮り、ユリウスは低く囁く。

「僕が居ない間、リヒトのことは任せた」
「え、ええ~」
「なんだその返事は」
「いやだって、そりゃ素直にハイとは言えないですよ。殿下、いままでの自分の言動わかってます?」 

 眉尻を下げた情けない表情で、ボソボソとテオバルドが言い返してくる。

「おまえは年々、父親に話し方が似てくるな」

 ユリウスが小さく鼻を鳴らして嫌味を口にしたら、ロンバードを尊敬している息子は「ありがとうございます!」と嬉々として礼を述べた。

「そういえばその父はどうしました」

 ユリウスの片腕ともいえる側近の姿がないことにいまさら気づいて、テオバルドが首を傾げる。

「ロンバードなら、久々に騎士団長殿と任務につけるって小躍りしながら、走り回ってたよ。今頃は大方、馬の世話でもしてるんじゃない?」
「ああ。父はユーリ様の御守おもりで騎士団を外されたことを、未だに酔っ払うと愚痴ってますからね」

 ユリウスが肩を竦めてロンバードの動向を教えると、テオバルドはしたり顔で頷いた。
 その彼の胸倉を左手で(右手はリヒトの手をしっかりと握ることに忙しい)むんずと掴んで、ユリウスは緑色の瞳をぎらりと光らせた。

「テオ。返事」
「は、はいっ」
「リヒトのことは、生まれたての赤子の如く丁重に扱え」
「了解しましたっ! ……って、赤子ってなんですか赤子って」
「赤ん坊だと思えば、おまえも妙な気は起こさないだろう」

 冷ややかにそう言い放つと、テオバルドがぶるりと震えて両手をバタつかせた。

「殿下のオメガに、妙な気なんて起こしませんよっ!」

 近侍は必死に否定するが、ユリウスはそれを頭から信用していない。
 だって、リヒトはこんなにも可愛いのだ。

 金の目も、銀の髪も、長い睫毛も、小さな口も、愛らしい鼻も、小柄な体躯も、どこもかしこもがこんなに可愛いのだから、この子を目にした者すべてがユリウスにとっては敵だった。

 だから行きたくない。
 この子を残して、任務になど行きたくはない。
 しかし行かねばならぬ。

 ユリウスはリヒトのアルファだから。
 ユリウス自身が、行かなければならない。

 リヒトが丸い瞳でこちらを見上げている。
 ユリウスとテオバルドの会話は小声で、早口に交わされたから、リヒトには聞き取れなかっただろう。

 テオバルドの胸倉を解放した左手で、銀色のやわらかな髪を撫でてやったら、リヒトがそっと瞼を閉じた。
 銀色の睫毛が光を弾いて、神々しいほどに可愛い。

 リヒトの視覚と、聴覚と、嗅覚と、味覚と、触覚を取り戻す。

 僕が治してあげる。
 ユリウスは胸の中で、リヒトへとそう囁いた。

 僕が、きみの五感を取り戻してあげる。

 けれど声に出しては誓えない。
 必ず治せるとは言い切れないからだ。

 どこに行くのか、なにをしに行くのか、詳しい説明もなく離れなければならないことがこころ苦しかった。

 ふと、繋いでいる手をリヒトが揺らした。
 なんだろうと思って見ていると、リヒトはユリウスの手を持ち上げ、そのてのひらにおのれの頬をそっと押し付けた。
 そして、すり……と控えめな頬ずりをしてくる。

 うわぁ! とユリウスの脳内で歓喜の悲鳴が轟いだ。

 なんだこれ! めちゃくちゃ可愛い! もう可愛いの暴力だ! 

 まずい。せっかく落ち着けたはずのアルファの本能が、また暴れ出してしまう。

 思い切りリヒトを抱きしめてめちゃくちゃにキスをして、うなじを噛みたいという衝動を、ユリウスはからくも抑え込み、大きく息をはくと、親指の腹でリヒトの頬を撫でてから、手をそっと引き剥がした。

「ユーリ、時間だ」

 兄の声が聞こえた。どうやらエミールとのラブシーンは終わったらしい。
 エミールの端正な美貌の、その目元がほんのり上気していた。ディープキスでも交わしていたのだろう。
 ユリウスはエミールの撒き散らす色香に気づかぬふりで(迂闊に触れようものなら独占欲の塊の次兄になにをされるかわからない)、クラウスへと頷いた。

 室内の会話を聞いていたかのようなタイミングでノックの音が響き、ロンバードが姿を見せた。

「準備はすべて整いましたよ、ユーリ様、クラウス団長」

 ついに刻限だ、とユリウスは表情を引き締め、最後におのれのオメガを見つめた。

 リヒトが泣き出しそうになっている。
 それでも彼は唇を引き結び、両手を握りしめてこらえていた。

「リヒト。僕が言ったこと、覚えた?」
「は、はい。ちゃんと食べて、ちゃんと寝ます」
「うん」
「ユーリ様も……」
「うん。僕も元気でちゃんとリヒトのところに帰ってくるよ。だからリヒト、待っていて」
「はい」

 こくり、と頷いた拍子にリヒトの目から涙がぼろりとこぼれた。
 リヒト自身はそれに気づいていないようだった。
 涙が落ちる感触も、この子にはわからないのだ。
 それが切なくて、いとおしい。

 可愛い可愛いリヒト。

「リヒト。僕のオメガ。それじゃあ、行ってくるよ」

 ユリウスはリヒトへそう告げて、背を向けた。

「エミール殿、リヒトをお願いしますね」

 兄のつがいへそう託すと、どこかの近侍と違ってエミールは即座に頷いてくれた。

「はい。リヒト様がさびしくないように、なにか、気が紛れることを一緒にしますね」
「ありがとうございます」

 礼を言って、ロンバードが開けてくれた扉を潜る。
 途中、後ろ髪を引かれて一度振り向いた。

 リヒトはエミールと並んで、見送ってくれていた。

 ふわり、と漂ってきたリヒトの香りを、ユリウスの鼻が嗅ぎ分ける。

 かなしみの匂いだ。
 どこか水を連想させるような、かなしみの匂いがしている。
 声に出せない感情をこらえているリヒトが、かわいそうで、可愛かった。

 やっぱり行くのはやめた、と言って駆け戻って抱きしめてあげたかった。

 そうできない代わりにユリウスは、リヒトへ向かい片膝をついた。見えないことは承知で、左胸に右手を当て頭を下げる騎士の礼をとった。

 エミールがリヒトの耳元で、ユリウスの行動を説明してくれている。
 それに目礼をして、ユリウスは今度こそ部屋を後にした。    

 
   

  

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